2007年3月27日火曜日

希望という衣を着た絶望的子供たち

2006.11.01 00:14

希望という名のあなたをもとめて…

希望とはなんだろう。
希望とは人をどこへ導くものなのか。

自殺者が続出するいまの子供たちの姿に心痛むが、
そこからぼくはあらぬことを考えてしまう。

一人一人の子供達は、いつの間にか
「自分一人の目標」という名の、
奇妙な希望を持たされているのではないか。

自分の成功、自分の願いの成就することを、
希望と呼んでいいとしても、
そしてその目標が仮に、
「人類に役立つ発明」などであったとしても、
その希望は他者に依存しない孤立した希望ではないか?

人と人は相互に依存し合うもの。それが救いでさえあるほどに。

人は人に出会い、場を共にし、
時には傷つけあうほどに、
縺れあい、関わり合い、
共に過ごす時間を生きる。

希望の本当の姿はそういう場にあるものではないか。

本当の希望は他者を前提にし、他者に依存するものでないか?

希望が他者へ、人から人へ、向かって
広がり伸びるもの、であれば、
いまの大人も子供も、
過剰で孤立した個としての希望によって
浮き上がってはいまいか?

まわりに誰もいないときも成り立つ夢は
本当の夢といえるのか?

手に触れるすべてが黄金になる腕を手に入れた
ミダス王のように、
愛娘まで黄金に変わるまで気付かない、
個的希望の膨らみ。

自然からの離反で始まった人間の自立は、
最後にはお互いからの離反へ
自分からの離反へと行き着く。

果てしない人生の途上で出会うのは
たぶんどれもこれも
自分に似たまがい物の対象、
決して他者という豊かさではない。

時間を埋めているのは
「目標は達成された」という確認だけ。

手に入るものは皆、金で買えるものか、
人との比較で価値の決まるものしかない世界。

希望という名の絶望
と、ぼくはそれに名をつける。

希望という色を身にまとっていても
それは絶望と呼ぶ方がふさわしい
そんな本性のものだから。

子供達を追い詰めている本当の不幸は
絶望を未来と取り違える錯誤にあるし

実態は今の社会の落ち込んでいる
人間の共同性の欠如、連帯性の稀薄、
コラボレーションの解体にある。

「可愛かったら得するよ、ママがいってた…」

こどもという自然に近い存在を
このように利得至上主義に押しやって
反自然の存在に変えてしまう、

こんな社会はどうにかして
変えなければならないと思う。

人が人といることの豊かさが

すべての価値の源泉なのだから。

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