2007年5月25日金曜日

今年もはや6月10日が近づいてきた 9条の会の日だ

主権者の国民が、国の形を決め、政治を行う国家と為政者に、
守らせるべき政治の基本を定めるのが憲法だ。

国民に政府が守れと押し付ける条文ではない。
だから就任する首相は憲法遵守を誓うが、
あれは憲法に向かって誓約しているが、
本質は国民にむかってしている誓約だ。

国民の中からは9条を変えよという声は上がってこない。
自民党は結党以来憲法を変えると掲げてきた。
眼目は9条の骨抜き、除去にあった。


皮肉なことだが、今の急流のような改憲の動きは
しかし外来のものだ。
「ブッシュの百年戦争」ぼくは勝手にそう名づけたが
アメリカの先制攻撃型世界戦略の補完部隊として
日本から戦場で血を流す若者を供給
して欲しいのだ。
アーミテージはあからさまな男だから、
遠まわしでもそうはっきり示唆している。

憲法に手を付けるのは「愛国主義」から、とは限らないのが、ややこしい。
政権を握るためにはアメリカの認知が要る国では
雨後の筍のように改憲派が国会に増え続けている。
民主党だって基本は改憲派だ。


議会だけ見て国民・市民を見ないともう暗いだけの時代だが。
草の根に目をやれば事態は違って見えてくる。

安保条約でも憲法でも、大きな国政の課題は運動にはなりにくい。
60年安保でも岸首相の傲慢で強引な政治が国民に危機感を増幅したからあれだけの大きな事件に発展した。
反対運動の初めのころは運動する人々は動きが鈍い国民の反応にあせっていたそうだ。

ところが、ここ数年日本の大衆運動に変化が起こっているみたいだ。
憲法の改悪にストップをかけようという草の根の運動が元気なのだ。

ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎氏などが呼びかけた会
『9条の会』が全国にどんどん広がっている。
9条を変えないほうがいいという気持ちが広がってきているようにも見える。


『9条の会』は今年でまだ三年目、3周年を迎える『9条の会』だが、
昨年の2周年目で5000を超えた全国各地域の9条の会は
いま、6000を超えている。
全国に文字通り津々浦々に作られてきている。
すでにいわゆる「60年安保」闘争が進められた当時の
地域共闘組織の数を2000も超えてしまっている。

つまり戦後史の記録を軽々と塗り変えたわけだ。
これが意味するものは何か。
良く考えたいが、そのひとつは自由で柔らかな草の根の運動が主体となっていることにある。

呼びかけ人は有名人、知識人だが、参加者は無名の市民たちだ。
平和と人間の人権をしっかり守っていきたい思いであつまった力がこんなに大きくなってきている。相手は金も組織も権力機構ももった手ごわい相手だけれど、運動は寄せて来る潮のようにいつか彼らの足元までとどきたい。戦争する国家にならないぞという声が大きな潮流になってこの国の政治を洗い清める日がくることを夢見て、自分に出来ることをしていこうと思う。


2006年6月10日9条の会2周年 全国交流集会 その1

2006年6月10日9条の会2周年 全国交流集会 その2

2007年5月9日水曜日


日記ソフトを使ってブログに投稿するのです。







文字です。



2007年5月7日月曜日

イミテーション・パークの報道に考えてしまったことがある。










戦後直後を知る世代から言うと、他人のこと言えないんだよな…中国のこういう状況は困りもので、非難していくべきなんだけれど。

物まね泥棒はジャップどもといわれ続けてたのだ、戦前から。

そうして基礎を作り、朝鮮戦争、インドシナ戦争、
ベトナム戦争と戦争景気で近代化と富裕化を成し遂げたんだからね。

謂わば他人の血で儲けてきた歴史がある。

それを教わらずに来た世代が、簡単に相手の非を見て熱くなるのは、少し心配ですね。
上に言ったような面にも目配りしてくれると安心なんだけど…。

今のTVは国内に満ちてきている不協和音や不安のガス抜きをするために、
中国や韓国の欠点や誤りをバランスを欠いて取り上げてるな~って思える。
そんな節を感じるので書いておきたくなった。

亮さんのところで見せてもらった、YouTubeに載せられたTV録画ですが、同じ内容は他のチャンネルでも流れていたので、ぼくもTVでは既に見ていました。

(こういうTV録画だという著作権がらみのものを出すのもどうか、という別の問題もありますが、後に言うようにオリジナリティの問題が不明なので、一応ここに引用するのはいいだろうと、勝手に判断します。したがって責任はぼくにあります。)

どの局もほぼ同じ映像であること、同じ日にどの局もおなじものを流していること。そして、このことに対する批評が全く出てこないことには、ちょっと衝撃を受けたのです。

常態化している「垂れ流し報道」の実例である訳だが、それにしても少し酷い状況じゃないか。

誰もそれを変だと思わないことを、ぼくは心配する。
これは、事件ではない。取材報道なのだ。
例えば911のような事件発生なら、限られた同一ビデオや写真が現場を知らせる情報として何度も使われたり、いっせいに各種メディアから流れるのは自然だ。これは批評以前にまず情報を確保する意味で当然の事態だ。
しかし、やがてさまざまな視点や論点や周辺的事情などがごちゃ混ぜに出始め、論説や批判やさらには世論調査などが続いていく。それがメディアなのだ。

こんどの中国の「イミテーション・パーク」の報道は、なぜどの局も飛びついたのか。ぼくには「飛びついた」ように見える。

取材報道だから、その内容は何時流してもいいし、鮮度よりその社会的意味、政治的、経済的意味が重要な、そういう性質のニュース素材である。
今までも知る人ぞ知るの中国の実情がある。マスコミ人なら一定の知識はあったはずだ。なかったなら報道人の資格はない。ぼくでも知っていることを知らないはずはないのだ。
ではなぜ、同じ日に同じ素材を無批判に流しているのだろう。

繰り返すが、これは事件報道ではない。
スポーツの試合結果でもない。
商習慣に関わる倫理の問題や国民的な価値観念の問題を背後に持つ社会的事実の報道だ。

取り上げる価値は確かにある。
それも他人事ではなく、重要な問題だ。

ネット上の違法な「商品や権利の損壊」の形で我々にも身近な問題だ。情報流出で知られたWinnyなどによる著作権侵害などは、日本でも深刻だから。

それゆえに、単純には「笑う」「非難する」だけのニュースではない。
ところが、この日、本格的な突っ込んだ批評は、ついに聞かなかった。
民主主義とか自由を量るひとつのバロメーターが、こんな思考停止になっている国は、北朝鮮を笑えない、と心配になる。

時あたかもアメリカが著作権問題で中国を提訴した時機。

こんどの報道のネタになった取材と構成は
何時何処で誰が何のために誰の資金で行ったのか?

ぼくならそれを知らされない、確かめられない以上は
政策的な「宣伝戦略」かもしれないという判断を担保しておく。

今、日本のマスコミは、
「アメリカ議会による従軍慰安婦問題での対日非難決議案」の陰に、中国ロビーの画策が有ることを言って、それが根拠のない非難や、アメリカ人の本来の対日感情からはずれたもの、のように報道しているが、危ない危ないと、ぼくは思う。

日米戦争の歴史的事実は、感情や民族的自負心を理由にして、変えられるものと、我々が信じ始めたら、とんでもない錯誤の道へ、ハンドルを切ることになるだろう。

安倍さんたちの論理は「強くなれば言う者はいなくなる」だから、危険度は高いと見ている。

カナダでは、中学校だったか高校だったかになると、マスコミの利用法をみんなで報道番組などを材料にして討論を通じて身につけるようにカリキュラムがあると聞く。

報道は社会的な制約の中で営まれていて、どんなときに間違うか、歪められるかを、実例と歴史で学び、一人一人が自主的で批判力のある自分の考えかたを持たせるのを目標にしているらしい。
学ぶべきだと思う。

報道は確かに、「事実を伝える」
しかし、多くの場合、その事実はさらに大きな複雑な事実の一部なのだ。
そしてその大きな複雑な事実の意味、客観的な意味や真実は、簡単にぱっと、解るものではない。
もし簡単に報道を見て、ぱっと真実が解るなら、およそ学問や科学や、総じて整理された経験知は、要らないし、成立しなかったはずだ。

今そのことを何度も自分に言い聞かせ、良く考え、調べ、
疑えないものだけで

(それが世間に流布される大量の情報に比べ呆れるほど少ないみすぼらしい真実であっても)

物を考え行動していく覚悟をしないといけないと、いささか、臍を噛みながら思うのだ。

若くて頭の軟らかいとき、もっと考える力、分析する力、集まった事実から見通しを立てる力を、培うことに努力すべきだったと。

単純に考えれば
昨年亡くなった「経営学の神様」ガルブレイスも晩年に言い切ったように、中国とインドが世界の動向の中心に座るのは趨勢だし、法則的なものだ。
そのことへの感情や反発はいろいろ有ってもいいが、事実や歴史に背を向けて思いたい思いへと自分から傾いていく国民にはなってほしくない。
冷徹な判断力と粘り強く自分の立脚点に不動の信念を持って大胆で柔軟な外交や協力を作り出し、ヨーロッパ以上の規模の共同体を生み出すことに積極的役割を果たす国になる。

これが長期的な展望で唯一平和的発展をもたらす方向だと信じている。

難しいのは、沸き立つような愛国的、民族主義的、強硬派の
煽情的言論に、相変わらず各国の民衆が乗せられやすい事情を
未だに抱えているからだ。

この間簡単な経済学のシミュレーションの例を見ていたら、
今の格差を踏まえて計算すると
格差が拡大して所得の平均が上がっても
大半の人々は絶対的にも所得が減ると出た。

高額所得者の数がほんのわずか増え、その人々を含めた
上位の少数者に富が集中するする結果、全体の富が増え
平均が上がっても、大多数は生活が貧しくなる社会。

いままっしぐらに進んでいく構造改革後の経済とは
簡単に言えばそういう極度の格差社会なのだ。

かってアメリカでも起こったことだ。
豊かな社会がもっと豊かな社会になった、と言われた。

だがニューオリンズの台風が暴露したのは
救いようのない規模にに達した貧困の蓄積と富の偏りだった。
イラクで戦争やってるひまなど本当はないのだ。
蓄積された貧困が個人責任だというのは、科学ではない。

だから大臣だった時から竹中平蔵は政治家で
経済学者じゃなかったんだ(笑)
経済学用語でしゃべるのが上手いだけの政治家。
―これは学問的批判だよ(笑)

もとから経済人が集う「大阪倶楽部」に出入りする
「交際」好きだったのをぼくは知っている。

個人は成功したり失敗したりする。
何十万人何百万人が失敗するのは本人の所為か?
バカいってはいけない。いうヤツの方が馬鹿だね。
物を考える力がないのだ。

限度を超えた貧困は個人的原因ではない。
これは現行憲法の魂でもある。
最低限度の社会的文化的生活を保障するのは
国家の責任だと、科学と合致することを
憲法には書いてあるのだ。
言い換えると個人が人間らしく暮していれば
国家は責任を果たしている事になる。
どこの国家がそう出来ているか、否かは
法ではなく政治の問題だが。

繁栄は目に付き目を眩ませ易いが、心しよう。
大貧民社会はもうすぐだ。もう始まっているのだから。

この変化が生み出す緊張と絶望は内向する間は
個々人の不幸の堆積だが、やがて、外に向かう惧れがある。

そうした急流が存在する社会にしないように
マスコミにはバランス感のある報道と日本人の自己批評能力の涵養が
使命としてあると、ぼくは考える。
そういうマスコミ、メディアに批判を加える市民的能力は
これはぼくら市民自体の責任なのだ。

もっともっと自分たち自身を直視して
遠くまで見える視界と見張り台をもたなくちゃいかんなぁ…

曲折や波乱はあっても人類社会は大局的には進歩している、
はずなんだがなぁ、
と最後はちょっと溜息もつく、ぼくである。

押熊童子熊童子。童子は何故に怪力か?

 Rinaちゃんはもう中学三年生かい。
 そうか、ぼくが初めて聊斎志異を読んだのが
 二年生だった。三年生では山海経を読んだな。
 どちらも不思議な話のマーケットだがな。

 RinaちゃんはHP、ハリー・ポッターのファンだったね。
 空を飛ぶ少年は日本にもいたな…すぐ近くさ。

 君の住んでいる後ろのお山、信貴山の話やよ。
 絵巻物は朝護尊寺で見学したろう?
 鉄の鉢が米を載せて空を飛ぶんだよな。

 あの信貴山縁起絵巻に少年の「みさき神」が出て来たね。
 『剣の護法』という名の護法童子だ。


 まぁ少年の妖精だが、どういう正体の者なのか、

 訊ねた事はあるかい?

 もともと護法で有る無いに関わらず、童子という存在が
 謎めいているのだな、絵巻などでみると。

 例えば、昔噺だ。
 鬼が出てくると、鬼のことを「何々童子」と呼んでいるだろう。

 それは知っているだろう。

 なぜに鬼は「童子」と呼ばれるんだろうね。

 童子はみんな鬼だと思うかい?

 たまたま鬼は童子の格好を好むのだろうか?

 事情がありそうな感じだろう?

 この話、退屈?もう眠いんだよな、ははは。

 続きを明日してもいい…?











ケイタイでバンドしてる…

携帯でバンド。
[携帯電話][バンド][ライブ]
携帯でバンド。
by suda


携帯電話5台でライブをしています。
それぞれドラムだったりベースパートだったりギターパートだったり。
新しいよなー。これなら誰でも出来そうだし、かといって簡単じゃなくてちゃんと練習も必要だし。(By SUDA)

2007年5月6日日曜日

富山市って凄いですネェ…

日経新聞の連載の記事ですが。
日本一の豊かな家計は富山市の市民なんだって…
日本の真ん中の都市富山市。

平均以上の統計数字が多い都市だっていうのだ。
平均月収71万円、日本一。
消費支出40万円、全国2位。
小遣い月額4万5千円、日本一.

産業都市で女性の進出が抜群だということ。
家計に占める夫の収入の比率が非常に低い。
昔からの大家族的な家庭が多い。

それらが今分厚い需要と底力になって内発的発展の軸になっている…そんな感じの記事だ。続きが読みたくなった。

高岡もそうなんだろうか? 同じ県民性だし…


2007年5月5日土曜日

ちょっとシンクロ…万葉ロマン

連休は何処へも行かず。 行きたい所が多すぎて、先に気疲れしてしまった (^^;)会期の長いのは返って行こうと思っているころに忙しくなったりするものな。ぜひとも行こうと思っているのは大阪中之島東洋陶磁美術館で「安宅コレクション」
それに天王寺のギメ東洋美術館浮世絵名品展、北斎の二幅一対の竜虎図が里帰りで揃って見られる…
個展や企画展の案内も…でもなぁ、身も心もちょっと重い…
あれやこれやが…いっぱい。そして街の人込みが…
「連休明けの平日の午前中の開館後三時間」を
ねらって行くことにするかな…。

ぼくにとっては名品の前に立てることは常に試練、面接試験。
そして何時も落第、追試、再試験…。
人込みで押し流されながらでは、合格には行き着けませんな。

ちょっと嬉しいこともすこし。

昨日、村から下りていって南加茂台団地の一軒だけの書店に買い物のついでに立ち寄ったら、隅の棚で「おいでおいで」しているような本があった。目の隅にひっかかりがあったのだ。

「--万葉集に詠まれた--南山城の古代景観」乾幸次

あれれ、こんな店に(失礼)硬い本があるなぁ…
奥付でみるに地元の井出町の方で、立命館史学の流れのようだ。
藤岡謙二郎先生などの弟子筋にあたるのだな。

藤岡氏の著書は接したことがある。
「聖徳太子の旁示石」という論文が面白かった。脚で書くタイプの方だ。
宮本常一先生タイプだが、史料批判も確りしたアカデミシャンでもあった。

その弟子だからとの期待は、違わず、良い本だ…嬉し。
ぼくの座右の一冊に加わるだろう。

この本は地元の古代の問題集みたいなものだもの。読み応えあり。
地名や古道が大好きなものだから、目次に心躍る項目が並んでる。



妻を亡くして打ちのめされていた日々、
夜更けに眠れずに紐解いていたのは万葉集だった。

作家の五木寛之さんが言うように、悲哀しいときは悲哀しい歌や文に触れるのが良い、というのは真実だった。
断腸の想いの最中にも悲しい歌や恋の歌は、
ぼくを支えてくれ揺さぶり励まし続けてくれた。

そんな万葉集の中で、毎夜ぼくが開いた挽歌があった。
絶唱がぼくを貫いて行く度に、納得も諦観もまだなくても、
ある確かさが戻ってくるのを、ぼくは感じていた。
「相楽山」(さがらかのやま)に若妻を葬った男の歌。
死せし妻をかなしびて高橋朝臣が作る歌1首併せて短歌。



白栲の袖差し交へて靡びき寝し 
我が黒髪の真白髪になりなむ極み 
新らた世に共にあらむと 玉の緒の絶えじい妹と結びてし、ことは果たさず、思へりし心は遂げず、 白栲の袂を別れ にきびにし家ゆも出でて、みどり子の泣くをも置きて 朝霧のおほになりつつ
山代の相楽山の山の際(ま)に行きすぎぬれば 言はむすべ、せむすべ知らに、我妹子とさ寝し妻屋に朝(あした)には 出で立ち偲ひ夕には入りゐ嘆かひ 脇ばさむ子の泣くごとに、男じもの、負ひみ抱きみ 朝鳥の哭(ね)のみを泣きつ、恋ふれども験(しるし)を無みと、言問はぬものにはあれど 我妹子が入りにし山をよすかとぞ思ふ


白たえの袖さし交え寝た わが妻
黒髪が白髪になるまで いつまでも
初々しい気持ちでいようと誓い合った わが妻
神の結びたもうた縁をふりきって
愛しい妻は誓いをはたさず白たえの袖口をふりほどいて
和やかに暮らしていた家を去って 泣くみどり子も置いて
朝霧のなかへ おぼろげになって 山背(やましろ)の 相楽山(さがらかやま)の山際(やまのま)へ 隠れてしまった
何と言って よいやら
何をしてよいやら すべも知らず
わが妻と 睦み寝た妻屋にいて 朝には 門に立って偲び
夕べには 部屋に籠もって嘆き 脇に抱えた 子の泣くごとに
男なれど 背に負い抱き 朝鳥が とどみ啼くように
ちぢに哭きつつ 妻を恋い焦がれるも かい(効)もなく
ものも言ってくれない 山ではあるが
わが妻の霊が 隠れ籠もった山を
せめてもの 形見として 懐かしがるばかり
わが妻なる やましろの相楽山(さがらかやま)よ
ああ こもり隠れし わが妻よ


「朝影に我が身はなりぬ、玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに」

 朝の地面に長く延びる影のように私はやせ細ってしまった、
 澄んだ玉飾りが光るよう瞬く間に逝ってしまったきみだったから

乾先生は地元の史料を使って調べていき、
「相楽山」が小さな丘のような山で、場所はここと、
ほぼ特定できた様子だ。そうなのか。
古街道に沿う小さな小山があの若妻の墓所だったんだ。

長い時間が過ぎ去り
この歌の歌われた木津川のほとりを、
今では悲しみを忘れたぼくが、
奈良コープへの買出しの行き帰りに通っているのだ…

千年の時を超えて歌が残ったので、
その悲哀しい歌がぼくを支えてくれた。、
はるかに遠い時間を隔て、高橋朝臣の嘆きは、
今も激しく響いているが、
今はそれを「哀れ」と思うぼくがいる。
万物は流転し心も移ろう、芸術は永遠を湛えていても。


昨夜、万葉集の中の挽歌で一番身近なものはやはり…
相聞で一番好きなのは…
と、別のところでチャットしていたので、

なんというシンクロだ、と不思議感を満喫。

家持くんがぼくを呼んでいるのかな、
濁り酒注いでくれたら、行くけど (^^;)~♪

  団地のロータリの真ん中に花壇。
  ひとつの音符みたいにポピー咲いてました。




          

2007年5月4日金曜日

堅香子の花と娘女と春の水

物部(もののふ)の八十娘女(やそをとめ)らが汲みまがふ寺井の上の堅香子(かたかご)の花 (万葉集 四一四三・大伴家持)

物部と書いて「もののふ」と読み八十(やそ)に掛かるのですね。

もののふと云う「ものものしい」イメージが、数の多さを形容する八十(やそ)という言葉を呼び起こし、もののふ(男のイメージ)がするりと娘女(をとめ)らの、水汲みに行き来する賑やかさに転じたかと思うと、その情景に寺井(てらゐ)が見える様子が浮かんでくる。

多分寺井とは当時の先進施設の寺院に設えられた清水(井戸)で、堤で囲った貯水式の給水施設なのだと思う。

その井戸は丘の端にあり、見上げてすぐのあたりに、片栗の花が咲いていることに、作者は気づいたのだ。
春の日差しが花を引き立てて、その可憐さが、忙しく水汲みに立ち働く女たちの様子と、二重写しに見えているのだ。

家持くんの弾む気持ちが伝わってくる歌だ。
一時は目だっても、忽ち見えなくなるのが堅香子(かたくり)の花。
それは春の足どりのあわただしさでもあるのだけれど。


2007年5月3日木曜日

どうして山里になんか棲むのだい?


                 
 山中問答      李白

 問余何意棲碧山

 笑而不答心自閑

 桃花流水杳然去

 別有天地非人間




 山中問答         李白

 余に問う何の意ありて碧山(へきざん)にか棲むと

 笑って答えず心自から閑なり

 桃花流水杳然として去ぬ

 別して天地の人間(じんかん)に非ざる有り


   問うものがいる、どうして草深い山中に棲むかと。

   無理もないかと答えずに笑っている、長閑な心で。

   桃の花びらが水に落ち何処へやら遠く流れていく。

   ここはそれ、世間様とはかけ離れているのさ。



 これは自分の愛唱詩だ。

 黛まどかさんから届いた「俳句でエール」には
 蓬もちの句が入っていた。

 嫁姑声の似て来し蓬餅
            渡部トヨ

  よめしゅうとめ こえのにてきし よもぎもち

                     季語/蓬餅
 田舎の嫁と姑は、農作業の共同作業で同じ経験を
 分かちあうから、いつしか女同士認め合うことになり
 次第に共通するしぐさも持つようになったりする。
 この句では、声まで似てきているのだ。
 働くものの伸びやかな声のさざめき。
 仕事上がりのお茶と蓬餅が和やかな場にある…
 田舎暮らしにも好いことはあるのだ。

室内でダイヤモンドダストを人工的につくりだす



東近江市にある西堀榮三郎記念探検の殿堂でダイヤモンドダストを人工的につくりだす実験をやっている。

この記事はLazyCameraというブログに出たもの。出かけて写真を撮ってきたのだそうで、きれいな写真。撮影は難しかったそう。

東近江市に記念館があるのは知らなかった。
南極越冬隊隊長だったから、小学生のころ憬れの人だった。
品質管理の理論と実践の草分けでもある。

過冷却の水にショックを与えると一瞬に氷になるのと同じ原理で
ダイヤモンドダストができるのに衝撃が必要なんだって、知らなかった。それに樹氷も同じらしいと…へぇ山中の衝撃ってなんだろう。
天狗のくしゃみだったりして(笑)

北海道では自然現象としてみることが出来るらしい。
これは北海道で撮られたもの。

これは信州松本で、マイナス15度以下になった証拠。
すこしわかりにくいが、上の方にに見えている。

ぼくは京都の北山山中で
川が流れている狭い渓谷であること、無風だったこと
湿度が一定で急激に気温が下がったこと、朝日が差し込んだ
という条件で2度ほど見ることが出来た。



西堀榮三郎
1903年京都府に生まれ。1928年京都大学理学部卒業後、京大講師、助教授を経て民間企業(東芝)に移り真空管を発明した天才技術者。統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込んだ人物として知られる。後のQCサークルである。今西錦司、桑原武夫ら京都グループ主要メンバーの一人。日本山岳協会会長も務め、日本初の8000m級登山である「マナスル登山」の際、ネパール政府との交渉役も務めた。昭和55年チョモランマ登山隊総隊長を努める。「雪山賛歌」の作詞者でもある。探検家のカリスマ的存在であった。京大の教授となった翌年の1957年2月15日から翌年2月24日にかけて行われた、第一次南極越冬隊の隊長を務めた。その後、原研理事などを務めたが1990年に死去。主な著書に『品質管理実践法』 『南極越冬記』 『西堀流新製品開発』 『品質管理心得帳』 『想像力』 『五分の虫にも一寸の魂』などがある。

2007年5月2日水曜日

茶摘み籠にならぬ茶摘ポケット

今日は八十八夜だそうだ。
新茶の季節。

最近、新聞を新聞受けへ取りに出るときポケットに一掴み分の茶の新芽と若葉をちぎって詰めてもどる。
それを手揉みにして暫らく置くと蒸れて黒ずみ、少し乾いてきたらティーパックに入れて湯を注ぐ

『生茶』…でもないか。
あまり香りはない。

でも「青汁」に慣れた舌には青臭さも感じない。
旨みがあって、かなりイケルと思っている。
今の季節だけの遊び。
葉酸、ビタミン、テアニン、少しはカフェインとカテキン。
ぼくなりに更けゆく春の味わい。

焙じると香ばしくなってお茶らしいが、いまはこちらが気にいってるのだ。