2010年11月28日日曜日

去る者来る者あり我が行くは冬日射す道



村の清っさんが逝かれた。
老いてなお働きづめに働いていた。
この一年病に倒れ二度目の入院で
ついに帰らなかった。
その姿に静かな追悼の懐いを抱いた。

思えば芝田くん、森岡くん、と
続いて旧知の友を失った一年余。

年年歳歳華相似たり、歳歳年年人同じからず。

ネット上の友人がドイツから帰国していて
会えるかもしれない。
初対面だが旧知ともいえる不思議な感じで
再会のような感じが伴う。

ここのところ膝の調子が良くて痛みが引いてきて
回数もへっているので
試しに団地のある丘へ歩いてみた。
ざっと一万歩の距離だが、無事に往復できた。
リュックに折り畳みの傘を入れたぐらいで荷物なしだった。
タオルを忘れて出かけたので、
出る汗が拭えず帰り道少し寒かったが風邪をひきはしなかった。
週に2回くらいの日程で晴れた日を選んで続けようかと思う。
目標を持たないとやらない口実はいくらでも見つかるものだ。

頼まれてしたことは上手くいったのに
同じことを
自分のためにやると上手くいかない、
何だこれは、と自問中。
ドメインを買って、
GoogleのAppsサービスとBlogger(Blog)を登録し
独自ドメインでBlogをアクセスするようにセットすることが
他人のは上手く動いているのに自分のが動かない。
2つを比較しても同じようにセットアップしているはずなんだが。

自分用の勉強ノートをと考えて作ろうとしているのに
出鼻が挫けた感じで面白くないことになった。
日をおいて再度頭を整理してみよう、いやはや。

一海先生たちの論語講座には行けない事情があるので
自前で論語読みをして気を紛らわす?ことにしている。

色々な論語という名のついた本から選んで比較しながら読むと面白かろうと。

岩波文庫、ちくま文庫、中公文庫などを岩波文庫と比べ読みしている。

貝塚茂樹の中公文庫と宮崎市定の岩波現代文庫が面白い。

要は孔子とその時代への想像力の働かせ方で違いが出てくる。

道徳手本的、教訓的な読み方は寧ろ邪道と思って読めば面白いところも
たくさんあるのが論語という本の値打ちらしい。

有朋自遠方来、不亦楽乎。
誰でも知っていそうなこの一文でも
いくつかの読み方があるらしい。

確かに漢文の勉強にはなるのだと実感。
でも疑問も持つし、その解決がなかなか自力だけでは心もとない。
例えば上の有朋…でも
有朋を朋有りと読むか「有朋(とも)」と読むかという問題がある。
何故「有朋(とも)」と読めるかの説明がない。
まだ自分では見つからないので、自分の判断ができない。

中国語として眺めれば
有…来。 来る有り。と思う。
何が?の答えになる部分が「朋自遠方」で
有朋来。 朋来る有り。
漢文としては
朋来。朋来る。と 有朋来。朋来る有り。
どう違うか?有が付くのは思いがけずとか新たなる出現の感じがあるという。
意外性というべきか。
で、
自遠方。遠方より。
朋遠方より来る有り。 思いがけず朋が遠くからやって来た。
朋有り。と読んでもいいが、
その有りには現前の感じがあることを意識しなくてはいけない。
朋が有(い)る、(目の前に)、遠くから来てくれたんだ!
だから不亦楽乎。また楽しからずや。なのだ。
思いがけずの朋と過ごす楽しさは一入だろうという意味なのだ。

とまあ自分ではこう読めるのだが、
自遠方来を貝塚茂樹氏は遠きより方(ならび)来ると読む。
遠方という使い方、自遠方という使い方が当時のものではないというのだ。
いまは判断できずにそういうものか、と思うばかりだ。

最小の簡明な表現の漢文という形式の難しさと
意外な分かりやすさとを体験している。

道遠く日は暮れかかっていてもまだ足は動く。
何処へと聞かれても答えられない一人旅。
ゆっくり行こうと自分に言い聞かせながら
道に延びる自分の影を踏んで行く。



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2010年11月4日木曜日

為有 李商隠   漢詩ノォト 

為有     李商隠

為 有 雲 屏 無 限 嬌

鳳 城 寒 尽 怕 春 宵

無 端 嫁 得 金 龜 婿

辜 負 香 衾 事 早 朝


wèi yǒu yún bǐng wú xiàn jiāo

fēng chéng hán jǐn pà chūn xiāo

wú duān jià dé jīn guī xù

gū fù xiāng qīn shì zǎo cháo



雲屏(うんぺい) 

雲母を散らしたあでやかな屏風。

実は美人をいう間接の表現。

嬌(きょう)     

女性のコケットリー。愛嬌。

鳳城(ほうじょう) 

鳳凰の来る城(まち)=都、京城。

具体的には長安。九重ともいう。

寒尽きて      

冬がおわっって。

春宵を怕る     

夜の短いことを怕(おそ)る。困るなぁという気分。

端なくも       

思いがけなく。

金亀         

高官にのみ与えられた金の亀形の帯留め。

香衾(こうきん)   

香を焚き込めたいい匂いのする掛布団。

辜負(こふ)     

そむくこと。背にして。

事(こと)とする   

もっぱらにすること。


  雲屏に無限の嬌あるが為に

  鳳城に寒尽きて、春宵を怕る。

  端なくも金亀の婿に 嫁するを得たるも

  香衾を辜負して、早朝を事とせんとは。



女の器量が十分に備わっているせいで

花の都に春が来たのに夜の短さを憂えねばならぬ。

思いもかけず金亀を帯びる身分の高官の妻となったが

なんということか

夫は香しいベッドを顧みず早朝に出仕してしまうなんて



閨怨詩の一種といえようか。

うら若い女性の孤独と哀怨の風情を詠う。

当て外れな状況として孤独な閨(ねや)を描写する。

道具立ては貴重な装身具の金亀や香衾。

季節は春情の季節、春の夜。

宵は夕方でなく夜をいう字。

春宵の交歓と早朝の出仕の対比が趣向としてあるか。

鳳城は典故がある。杜甫の詩などにもでてくる。

春の長安の悩ましい夜の風情を詠っているのだが

李商隠は一筋縄ではいかない詩人で

この詩も政治的暗喩をもっているというひともあるらしい。

晩唐の詩は繊細華麗あるいは優艶。退廃と散逸に近づいているようだ。すこし難解な詩風。

本を並べて参照しながら作詞したことから李商隠は獺祭魚と綽名された。獺(カワウソ)がとった魚を岩に並べ神祭りしてから食べるように見える習性を獺祭魚と言い、書物に埋没する人士を獺祭の人というようになった。最初の獺祭魚が李商隠である。子規が獺祭書屋主人と号したところから9月19日の正岡子規の命日を獺祭忌という。日本の獺祭魚詩人は正岡子規だ。