巻 歌番号訓読
1 1篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
1 2大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
1 3やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
1 4たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
1 5霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば 大夫と 思へる我れも
1 6山越しの風を時じみ寝る夜おちず家なる妹を懸けて偲ひつ
1 7秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
1 8熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
1 9莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
1 10君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな
1 11我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね
1 12我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ [或頭云 我が欲りし子島は見しを]
1 13香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
1 14香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原
1 15海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ
1 16冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山吾は
1 17味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
1 18三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
1 19綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背
1 20あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
1 21紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
1 22川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて
1 23打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります
1 24うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む
1 25み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
1 26み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
1 27淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見
1 28春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
1 29玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ [或云 宮ゆ] 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを [或云 めしける] そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え [或云 そらみつ 大和を
1 30楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ
1 31楽浪の志賀の [一云 比良の] 大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも [一云 逢はむと思へや]
1 32古の人に我れあれや楽浪の古き都を見れば悲しき
1 33楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも
1 34白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ [一云 年は経にけむ]
1 35これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山
1 36やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶
1 37見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む
1 38やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一云 黄葉かざし] 行き沿ふ
1 39山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも
1 40嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
1 41釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
1 42潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を
1 43我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
1 44我妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
1 45やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき
1 46安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
1 47ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
1 48東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
1 49日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
1 50やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もの
1 51采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
1 52やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門
1 53藤原の大宮仕へ生れ付くや娘子がともは羨しきろかも
1 54巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を
1 55あさもよし紀人羨しも真土山行き来と見らむ紀人羨しも
1 56川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
1 57引間野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
1 58いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
1 59流らふる妻吹く風の寒き夜に我が背の君はひとりか寝らむ
1 60宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
1 61大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし
1 62在り嶺よし対馬の渡り海中に幣取り向けて早帰り来ね
1 63いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
1 64葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ
1 65霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘女と見れど飽かぬかも
1 66大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
1 67旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし
1 68大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
1 69草枕旅行く君と知らませば岸の埴生ににほはさましを
1 70大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
1 71大和恋ひ寐の寝らえぬに心なくこの洲崎廻に鶴鳴くべしや
1 72玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも
1 73我妹子を早見浜風大和なる我を松椿吹かざるなゆめ
1 74み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我が独り寝む
1 75宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
1 76ますらをの鞆の音すなり物部の大臣盾立つらしも
1 77吾が大君ものな思ほし皇神の継ぎて賜へる我なけなくに
1 78飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ [一云 君があたりを見ずてかもあらむ]
1 79大君の 命畏み 柔びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜
1 80あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな
1 81山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも
1 82うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流らふ見れば
1 83海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
1 84秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上
2 85君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
2 86かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを
2 87ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに
2 88秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ
2 89居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
2 90君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
2 91妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを [一云 妹があたり継ぎても見むに] [一云 家居らましを]
2 92秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは
2 93玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも
2 94玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ [玉くしげ三室戸山の]
2 95我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり
2 96み薦刈る信濃の真弓我が引かば貴人さびていなと言はむかも [禅師]
2 97み薦刈る信濃の真弓引かずして強ひさるわざを知ると言はなくに [郎女]
2 98梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも [郎女]
2 99梓弓弦緒取りはけ引く人は後の心を知る人ぞ引く [禅師]
2 100東人の荷前の箱の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも [禅師]
2 101玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
2 102玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋にあらめ我れ恋ひ思ふを
2 103我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
2 104我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ
2 105我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし
2 106ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
2 107あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに
2 108我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを
2 109大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し
2 110大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや
2 111いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く
2 112いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと
2 113み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく
2 114秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
2 115後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背
2 116人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る
2 117ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり
2 118嘆きつつますらをのこの恋ふれこそ我が髪結ひの漬ちてぬれけれ
2 119吉野川行く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも
2 120我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを
2 121夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻刈りてな
2 122大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の子故に
2 123たけばぬれたかねば長き妹が髪このころ見ぬに掻き入れつらむか [三方沙弥]
2 124人皆は今は長しとたけと言へど君が見し髪乱れたりとも [娘子]
2 125橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして [三方沙弥]
2 126風流士と我れは聞けるをやど貸さず我れを帰せりおその風流士
2 127風流士に我れはありけりやど貸さず帰しし我れぞ風流士にはある
2 128我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし
2 129古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと [恋をだに忍びかねてむ手童のごと]
2 130丹生の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛し我が背いで通ひ来ね
2 131石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと [一云 礒なしと] 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は [一云 礒は] なくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽
2 132石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
2 133笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば
2 134石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも
2 135つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見
2 136青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける [一云 あたりは隠り来にける]
2 137秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む [一云 散りな乱ひそ]
2 138石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば
2 139石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
2 140な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ
2 141磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む
2 142家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
2 143磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも
2 144磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ
2 145鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
2 146後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまたも見むかも
2 147天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり
2 148青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも
2 149人はよし思ひやむとも玉葛影に見えつつ忘らえぬかも
2 150うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 放り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君ぞ昨夜の夜 夢に見えつる
2 151かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを [額田王]
2 152やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎 [舎人吉年]
2 153鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ
2 154楽浪の大山守は誰がためか山に標結ふ君もあらなくに
2 155やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ
2 156みもろの神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き
2 157三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき
2 158山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
2 159やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮ら
2 160燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲
2 161北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて
2 162明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子
2 163神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
2 164見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
2 165うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む
2 166磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
2 167天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす
2 168ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
2 169あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
2 170嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
2 171高照らす我が日の御子の万代に国知らさまし嶋の宮はも
2 172嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも
2 173高照らす我が日の御子のいましせば島の御門は荒れずあらましを
2 174外に見し真弓の岡も君座せば常つ御門と侍宿するかも
2 175夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を
2 176天地とともに終へむと思ひつつ仕へまつりし心違ひぬ
2 177朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ我が泣く涙やむ時もなし
2 178み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる
2 179橘の嶋の宮には飽かぬかも佐田の岡辺に侍宿しに行く
2 180み立たしの島をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで
2 181み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
2 182鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね
2 183我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも
2 184東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし
2 185水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
2 186一日には千たび参りし東の大き御門を入りかてぬかも
2 187つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば島の御階に誰れか住まはむ
2 188朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの島に下り居て嘆きつるかも
2 189朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも
2 190真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも
2 191けころもを時かたまけて出でましし宇陀の大野は思ほえむかも
2 192朝日照る佐田の岡辺に泣く鳥の夜哭きかへらふこの年ころを
2 193畑子らが夜昼といはず行く道を我れはことごと宮道にぞする
2 194飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 嬬の命の たたなづく 柔肌すらを 剣太刀 身に添へ寝ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ [一云 荒れなむ] そこ故に 慰めか
2 195敷栲の袖交へし君玉垂の越智野過ぎ行くまたも逢はめやも [一云 越智野に過ぎぬ]
2 196飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し [一云 石なみ] 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に [一云 石なみに] 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉
2 197明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし [一云 水の淀にかあらまし]
2 198明日香川明日だに [一云 さへ] 見むと思へやも [一云 思へかも] 我が大君の御名忘れせぬ [一云 御名忘らえぬ]
2 199かけまくも ゆゆしきかも [一云 ゆゆしけれども] 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山
2 200ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひわたるかも
2 201埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ
2 202哭沢の神社に三輪据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ
2 203降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに
2 204やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神といませば そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 伏し居嘆けど 飽き足らぬかも
2 205大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
2 206楽浪の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける
2 207天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ
2 208秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも [一云 道知らずして]
2 209黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
2 210うつせみと 思ひし時に [一云 うつそみと 思ひし] 取り持ちて 我がふたり見し 走出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間を 背きしえねば かぎる
2 211去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離る
2 212衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし
2 213うつそみと 思ひし時に たづさはり 我がふたり見し 出立の 百枝槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 妹にはあれど 世間を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天
2 214去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る
2 215衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし
2 216家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕
2 217秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄の 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕は 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すといへ 梓弓 音聞く我れも おほに見し こと悔しきを 敷栲の 手枕ま
2 218楽浪の志賀津の子らが [一云 志賀の津の子が] 罷り道の川瀬の道を見れば寂しも
2 219そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき
2 220玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨
2 221妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや
2 222沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも
2 223鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
2 224今日今日と我が待つ君は石川の峽に [一云 谷に] 交りてありといはずやも
2 225直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
2 226荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ
2 227天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし
2 228妹が名は千代に流れむ姫島の小松がうれに蘿生すまでに
2 229難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも
2 230梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟み 立ち向ふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば 玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 我れに語らく なにしかも もとな
2 231高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに
2 232御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
2 233高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ
2 234御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに
3 235大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
30235S 大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
3 236いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり
3 237いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る
3 238大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声
3 239やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並めて 御狩り立たせる 若薦を 狩路の小野に 獣こそば い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく
3 240ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
3 241大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
3 242滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに
3 243大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
3 244み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
3 245聞きしごとまこと尊くくすしくも神さびをるかこれの水島
3 246芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
3 247沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊り波立ためやも
3 248隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我れは今日見つるかも
3 249御津の崎波を畏み隠江の舟公宣奴嶋尓
3 250玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
3 251淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
3 252荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我れを
3 253稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ [一云 水門見ゆ]
3 254燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
3 255天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ [一本云 家のあたり見ゆ]
3 256笥飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船
3 257天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木の暗茂に 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ辺に あぢ群騒き ももしきの 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には 楫棹も なくて寂しも 漕ぐ人なしに
3 258人漕がずあらくもしるし潜きする鴛鴦とたかべと船の上に棲む
3 259いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔生すまでに
3 260天降りつく 神の香具山 うち靡く 春さり来れば 桜花 木の暗茂に 松風に 池波立ち 辺つ辺には あぢ群騒き 沖辺には 鴨妻呼ばひ ももしきの 大宮人の 退り出て 漕ぎける船は 棹楫も なくて寂しも 漕がむと思へど
3 261やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世まで
3 262矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも
3 263馬ないたく打ちてな行きそ日ならべて見ても我が行く志賀にあらなくに
3 264もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
3 265苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに
3 266近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
3 267むささびは木末求むとあしひきの山のさつ男にあひにけるかも
3 268我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて
3 269人見ずは我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて来にけり
3 270旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ
3 271桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
3 272四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚なし小舟
3 273磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く [未詳]
3 274我が舟は比良の港に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
3 275いづくにか我は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば
3 276妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
3 277早来ても見てましものを山背の高の槻群散りにけるかも
3 278志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに
3 279我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ
3 280いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ
3 281白菅の真野の榛原行くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原
3 282つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
3 283住吉の得名津に立ちて見わたせば武庫の泊りゆ出づる船人
3 284焼津辺に我が行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし子らはも
3 285栲領巾の懸けまく欲しき妹が名をこの背の山に懸けばいかにあらむ [一云 替へばいかにあらむ]
3 286よろしなへ我が背の君が負ひ来にしこの背の山を妹とは呼ばじ
3 287ここにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて来にけり
3 288我が命のま幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
3 289天の原振り放け見れば白真弓張りて懸けたり夜道はよけむ
3 290倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき
3 291真木の葉のしなふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ
3 292ひさかたの天の探女が岩船の泊てし高津はあせにけるかも
3 293潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む
3 294風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣舟浜に帰りぬ
3 295住吉の岸の松原遠つ神我が大君の幸しところ
3 296廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
3 297昼見れど飽かぬ田子の浦大君の命畏み夜見つるかも
3 298真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む
3 299奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
3 300佐保過ぎて奈良の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
3 301岩が根のこごしき山を越えかねて音には泣くとも色に出でめやも
3 302子らが家道やや間遠きをぬばたまの夜渡る月に競ひあへむかも
3 303名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
3 304大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
3 305かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
3 306伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ
3 307はだ薄久米の若子がいましける [一云 けむ] 三穂の石室は見れど飽かぬかも [一云 荒れにけるかも]
3 308常磐なす石室は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける
3 309石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし
3 310東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
3 311梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも
3 312昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
3 313み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ
3 314さざれ波礒越道なる能登瀬川音のさやけさたぎつ瀬ごとに
3 315み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変はらずあらむ 幸しの宮
3 316昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも
3 317天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
3 318田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
3 319なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすし
3 320富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり
3 321富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを
3 322すめろきの 神の命の 敷きませる 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声
3 323ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく
3 324みもろの 神なび山に 五百枝さし しじに生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱
3 325明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
3 326見わたせば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく
3 327海神の沖に持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ
3 328あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
3 329やすみしし我が大君の敷きませる国の中には都し思ほゆ
3 330藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
3 331我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
3 332我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
3 333浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
3 334忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
3 335我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ
3 336しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ
3 337憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ
3 338験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし
3 339酒の名を聖と負ほせしいにしへの大き聖の言の宣しさ
3 340いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし
3 341賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
3 342言はむすべ為むすべ知らず極まりて貴きものは酒にしあるらし
3 343なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ
3 344あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
3 345価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも
3 346夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも
3 347世間の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし
3 348この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我れはなりなむ
3 349生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな
3 350黙居りて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり
3 351世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし
3 352葦辺には鶴がね鳴きて港風寒く吹くらむ津乎の崎はも
3 353み吉野の高城の山に白雲は行きはばかりてたなびけり見ゆ
3 354縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山にたなびく
3 355大汝少彦名のいましけむ志都の石屋は幾代経にけむ
3 356今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ [或本歌發句云 明日香川今もかもとな]
3 357縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣りしすらしも
3 358武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ羨しき小舟
3 359阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ
3 360潮干なば玉藻刈りつめ家の妹が浜づと乞はば何を示さむ
3 361秋風の寒き朝明を佐農の岡越ゆらむ君に衣貸さましを
3 362みさご居る磯廻に生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも
3 363みさご居る荒磯に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも
3 364ますらをの弓末振り起し射つる矢を後見む人は語り継ぐがね
3 365塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも
3 366越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真楫貫き下ろし 鯨魚取り 海道に出でて 喘きつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海女娘子 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験なみ 海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひ
3 367越の海の手結が浦を旅にして見れば羨しみ大和偲ひつ
3 368大船に真楫しじ貫き大君の命畏み磯廻するかも
3 369物部の臣の壮士は大君の任けのまにまに聞くといふものぞ
3 370雨降らずとの曇る夜のぬるぬると恋ひつつ居りき君待ちがてり
3 371意宇の海の河原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに
3 372春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 貌鳥の 間なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ我がする 逢はぬ子故に
3 373高座の御笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも
3 374雨降らば着むと思へる笠の山人にな着せそ濡れは漬つとも
3 375吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして
3 376あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥奥に思ふを見たまへ我が君
3 377青山の嶺の白雲朝に日に常に見れどもめづらし我が君
3 378いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
3 379ひさかたの 天の原より 生れ来る 神の命 奥山の 賢木の枝に しらか付け 木綿取り付けて 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 繁に貫き垂れ 獣じもの 膝折り伏して たわや女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも
3 380木綿畳手に取り持ちてかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも
3 381家思ふと心進むな風まもり好くしていませ荒しその道
3 382鶏が鳴く 東の国に 高山は さはにあれども 二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神世より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ我が来る
3 383筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも
3 384我がやどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずてまたも蒔かむとぞ思ふ
3 385霰降り吉志美が岳をさがしみと草取りかなわ妹が手を取る
3 386この夕柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ
3 387いにしへに梁打つ人のなかりせばここにもあらまし柘の枝はも
3 388海神は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻らし 居待月 明石の門ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮騒の 波を畏み 淡路島 礒隠り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに 寐の寝か
3 389島伝ひ敏馬の崎を漕ぎ廻れば大和恋しく鶴さはに鳴く
3 390軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに
3 391鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつあたら船木を
3 392ぬばたまのその夜の梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを
3 393見えずとも誰れ恋ひざらめ山の端にいさよふ月を外に見てしか
3 394標結ひて我が定めてし住吉の浜の小松は後も我が松
3 395託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり
3 396陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを
3 397奥山の岩本菅を根深めて結びし心忘れかねつも
3 398妹が家に咲きたる梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ
3 399妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ
3 400梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝にあらめやも
3 401山守のありける知らにその山に標結ひ立てて結ひの恥しつ
3 402山守はけだしありとも我妹子が結ひけむ標を人解かめやも
3 403朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ
3 404ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
3 405春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
3 406我が祭る神にはあらず大夫に憑きたる神ぞよく祭るべし
3 407春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ
3 408なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
3 409一日には千重波しきに思へどもなぞその玉の手に巻きかたき
3 410橘を宿に植ゑ生ほし立ちて居て後に悔ゆとも験あらめやも
3 411我妹子がやどの橘いと近く植ゑてし故にならずはやまじ
3 412いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに
3 413須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず
3 414あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かばかたみと標のみぞ結ふ
3 415家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
3 416百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
3 417大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
3 418豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず
3 419岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく
3 420なゆ竹の とをよる御子 さ丹つらふ 我が大君は こもりくの 初瀬の山に 神さびに 斎きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる およづれか 我が聞きつる たはことか 我が聞きつるも 天地に 悔しきことの 世間の 悔しきことは 天雲の そく
3 421およづれのたはこととかも高山の巌の上に君が臥やせる
3 422石上布留の山なる杉群の思ひ過ぐべき君にあらなくに
3 423つのさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月には あやめぐさ 花橘を 玉に貫き [一云 貫き交へ] かづらにせむと 九月の しぐれの時は 黄葉を 折りかざさむと 延ふ葛の いや遠長く [一
3 424こもりくの泊瀬娘子が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
3 425川風の寒き泊瀬を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
3 426草枕旅の宿りに誰が嬬か国忘れたる家待たまくに
3 427百足らず八十隈坂に手向けせば過ぎにし人にけだし逢はむかも
3 428こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
3 429山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
3 430八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
3 431いにしへに ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ
3 432我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ
3 433葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
3 434風早の美穂の浦廻の白つつじ見れども寂しなき人思へば [或云 見れば悲しもなき人思ふに]
3 435みつみつし久米の若子がい触れけむ礒の草根の枯れまく惜しも
3 436人言の繁きこのころ玉ならば手に巻き持ちて恋ひずあらましを
3 437妹も我れも清みの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ
3 438愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや
3 439帰るべく時はなりけり都にて誰が手本をか我が枕かむ
3 440都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし
3 441大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります
3 442世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける
3 443天雲の 向伏す国の ますらをと 言はれし人は 天皇の 神の御門に 外の重に 立ち侍ひ 内の重に 仕へ奉りて 玉葛 いや遠長く 祖の名も 継ぎ行くものと 母父に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮を
3 444昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく
3 445いつしかと待つらむ妹に玉梓の言だに告げず去にし君かも
3 446我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき
3 447鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
3 448礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
3 449妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも
3 450行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも [一云 見も放かず来ぬ]
3 451人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
3 452妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも
3 453我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
3 454はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを
3 455かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも
3 456君に恋ひいたもすべなみ葦鶴の哭のみし泣かゆ朝夕にして
3 457遠長く仕へむものと思へりし君しまさねば心どもなし
3 458みどり子の匍ひたもとほり朝夕に哭のみぞ我が泣く君なしにして
3 459見れど飽かずいましし君が黄葉のうつりい行けば悲しくもあるか
3 460栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り来まして 大君の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕
3 461留めえぬ命にしあれば敷栲の家ゆは出でて雲隠りにき
3 462今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む
3 463長き夜をひとりや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに
3 464秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも
3 465うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも
3 466我がやどに 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず はしきやし 妹がありせば 水鴨なす ふたり並び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば 露霜の 消ぬるがごとく あしひきの 山道をさして 入日なす 隠りにしかば
3 467時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて
3 468出でて行く道知らませばあらかじめ妹を留めむ関も置かましを
3 469妹が見しやどに花咲き時は経ぬ我が泣く涙いまだ干なくに
3 470かくのみにありけるものを妹も我れも千年のごとく頼みたりけり
3 471家離りいます我妹を留めかね山隠しつれ心どもなし
3 472世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍びかねつも
3 473佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし
3 474昔こそ外にも見しか我妹子が奥つ城と思へばはしき佐保山
3 475かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子の命 万代に 見したまはまし 大日本 久迩の都は うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異に 栄ゆる時に およづれの たはこと
3 476我が大君天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山
3 477あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも
3 478かけまくも あやに畏し 我が大君 皇子の命の もののふの 八十伴の男を 召し集へ 率ひたまひ 朝狩に 鹿猪踏み起し 夕狩に 鶉雉踏み立て 大御馬の 口抑へとめ 御心を 見し明らめし 活道山 木立の茂に 咲く花も うつろひにけり
3 479はしきかも皇子の命のあり通ひ見しし活道の道は荒れにけり
3 480大伴の名に負ふ靫帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ
3 481白栲の 袖さし交へて 靡き寝し 我が黒髪の ま白髪に なりなむ極み 新世に ともにあらむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし ことは果たさず 思へりし 心は遂げず 白栲の 手本を別れ にきびにし 家ゆも出でて みどり子の 泣くを
3 482うつせみの世のことにあれば外に見し山をや今はよすかと思はむ
3 483朝鳥の哭のみし泣かむ我妹子に今またさらに逢ふよしをなみ
4 484一日こそ人も待ちよき長き日をかくのみ待たば有りかつましじ
4 485神代より 生れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて あぢ群の 通ひは行けど 我が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み 思ひつつ 寐も寝かてにと 明かしつらくも 長きこの夜を
4 486山の端にあぢ群騒き行くなれど我れは寂しゑ君にしあらねば
4 487近江道の鳥篭の山なる不知哉川日のころごろは恋ひつつもあらむ
4 488君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
4 489風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
4 490真野の浦の淀の継橋心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる
4 491川上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
4 492衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ [舎人吉年]
4 493置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を <[田部忌寸櫟子]>
4 494我妹子を相知らしめし人をこそ恋のまされば恨めしみ思へ
4 495朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて
4 496み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも
4 497いにしへにありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ
4 498今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音にさへ泣きし
4 499百重にも来及かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かずあらむ
4 500神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に
4 501娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは
4 502夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
4 503玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
4 504君が家に我が住坂の家道をも我れは忘れじ命死なずは
4 505今さらに何をか思はむうち靡き心は君に寄りにしものを
4 506我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にも我れなけなくに
4 507敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに
4 508衣手の別かる今夜ゆ妹も我れもいたく恋ひむな逢ふよしをなみ
4 509臣の女の 櫛笥に乗れる 鏡なす 御津の浜辺に さ丹つらふ 紐解き放けず 我妹子に 恋ひつつ居れば 明け暮れの 朝霧隠り 鳴く鶴の 音のみし泣かゆ 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 家のあたり 我が立ち見れば 青旗の
4 510白栲の袖解き交へて帰り来む月日を数みて行きて来ましを
4 511我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
4 512秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我を言成さむ
4 513大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも
4 514我が背子が着せる衣の針目おちず入りにけらしも我が心さへ
4 515ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと為むすべ知らに音のみしぞ泣く
4 516我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき
4 517神木にも手は触るといふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも
4 518春日野の山辺の道をよそりなく通ひし君が見えぬころかも
4 519雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも
4 520ひさかたの雨も降らぬか雨障み君にたぐひてこの日暮らさむ
4 521庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな
4 522娘子らが玉櫛笥なる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば
4 523よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
4 524むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも
4 525佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか
4 526千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは
4 527来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを
4 528千鳥鳴く佐保の川門の瀬を広み打橋渡す汝が来と思へば
4 529佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね
4 530赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし
4 531梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも
4 532うちひさす宮に行く子をま悲しみ留むれば苦し遣ればすべなし
4 533難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見る子を我れし羨しも
4 534遠妻の ここにしあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言どひ 我がために 妹も事なく 妹がため 我れも事なく 今も見るごと たぐひて
4 535敷栲の手枕まかず間置きて年ぞ経にける逢はなく思へば
4 536意宇の海の潮干の潟の片思に思ひや行かむ道の長手を
4 537言清くいたもな言ひそ一日だに君いしなくはあへかたきかも
4 538人言を繁み言痛み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子
4 539我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを
4 540我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる
4 541この世には人言繁し来む世にも逢はむ我が背子今ならずとも
4 542常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじとたゆたひぬらし
4 543大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉たすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀路に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我れは思はず 草枕 旅をよ
4 544後れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを
4 545我が背子が跡踏み求め追ひ行かば紀の関守い留めてむかも
4 546三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ よしのなければ 心のみ 咽せつつあるに 天地の 神言寄せて 敷栲の 衣手交へて 己妻と 頼める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも
4 547天雲の外に見しより我妹子に心も身さへ寄りにしものを
4 548今夜の早く明けなばすべをなみ秋の百夜を願ひつるかも
4 549天地の神も助けよ草枕旅行く君が家にいたるまで
4 550大船の思ひ頼みし君が去なば我れは恋ひむな直に逢ふまでに
4 551大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくは
4 552我が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二走るらむ
4 553天雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも
4 554古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ
4 555君がため醸みし待酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして
4 556筑紫船いまだも来ねばあらかじめ荒ぶる君を見るが悲しさ
4 557大船を漕ぎの進みに岩に触れ覆らば覆れ妹によりては
4 558ちはやぶる神の社に我が懸けし幣は賜らむ妹に逢はなくに
4 559事もなく生き来しものを老いなみにかかる恋にも我れは逢へるかも
4 560恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ
4 561思はぬを思ふと言はば大野なる御笠の杜の神し知らさむ
4 562暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも
4 563黒髪に白髪交り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに
4 564山菅の実ならぬことを我れに寄せ言はれし君は誰れとか寝らむ
4 565大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも
4 566草枕旅行く君を愛しみたぐひてぞ来し志賀の浜辺を
4 567周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道
4 568み崎廻の荒磯に寄する五百重波立ちても居ても我が思へる君
4 569韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも
4 570大和へに君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く
4 571月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ
4 572まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ
4 573ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり
4 574ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし
4 575草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして
4 576今よりは城の山道は寂しけむ我が通はむと思ひしものを
4 577我が衣人にな着せそ網引する難波壮士の手には触るとも
4 578天地とともに久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも
4 579見まつりていまだ時だに変らねば年月のごと思ほゆる君
4 580あしひきの山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも
4 581生きてあらば見まくも知らず何しかも死なむよ妹と夢に見えつる
4 582ますらをもかく恋ひけるをたわやめの恋ふる心にたぐひあらめやも
4 583月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ
4 584春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも
4 585出でていなむ時しはあらむをことさらに妻恋しつつ立ちていぬべしや
4 586相見ずは恋ひずあらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ
4 587我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ
4 588白鳥の飛羽山松の待ちつつぞ我が恋ひわたるこの月ごろを
4 589衣手を打廻の里にある我れを知らにぞ人は待てど来ずける
4 590あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな
4 591我が思ひを人に知るれか玉櫛笥開きあけつと夢にし見ゆる
4 592闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
4 593君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも
4 594我がやどの夕蔭草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも
4 595我が命の全けむ限り忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
4 596八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守
4 597うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも
4 598恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に
4 599朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも
4 600伊勢の海の礒もとどろに寄する波畏き人に恋ひわたるかも
4 601心ゆも我は思はずき山川も隔たらなくにかく恋ひむとは
4 602夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして
4 603思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我れは死にかへらまし
4 604剣大刀身に取り添ふと夢に見つ何のさがぞも君に逢はむため
4 605天地の神の理なくはこそ我が思ふ君に逢はず死にせめ
4 606我れも思ふ人もな忘れおほなわに浦吹く風のやむ時もなし
4 607皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寐ねかてぬかも
4 608相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方に額つくごとし
4 609心ゆも我は思はずきまたさらに我が故郷に帰り来むとは
4 610近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ
4 611今さらに妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらむ
4 612なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに
4 613もの思ふと人に見えじとなまじひに常に思へりありぞかねつる
4 614相思はぬ人をやもとな白栲の袖漬つまでに音のみし泣くも
4 615我が背子は相思はずとも敷栲の君が枕は夢に見えこそ
4 616剣太刀名の惜しけくも我れはなし君に逢はずて年の経ぬれば
4 617葦辺より満ち来る潮のいや増しに思へか君が忘れかねつる
4 618さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわびをる時に鳴きつつもとな
4 619おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の 頼める時に ちはやぶる 神か離くらむ うつせみの 人か障ふら
4 620初めより長く言ひつつ頼めずはかかる思ひに逢はましものか
4 621間なく恋ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢にし見ゆる
4 622草枕旅に久しくなりぬれば汝をこそ思へな恋ひそ我妹
4 623松の葉に月はゆつりぬ黄葉の過ぐれや君が逢はぬ夜ぞ多き
4 624道に逢ひて笑まししからに降る雪の消なば消ぬがに恋ふといふ我妹
4 625沖辺行き辺を行き今や妹がため我が漁れる藻臥束鮒
4 626君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く [一尾云龍田越え御津の浜辺にみそぎしに行く]
4 627我がたもとまかむと思はむ大夫は変若水求め白髪生ひにけり
4 628白髪生ふることは思はず変若水はかにもかくにも求めて行かむ
4 629何すとか使の来つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ
4 630初花の散るべきものを人言の繁きによりてよどむころかも
4 631うはへなきものかも人はしかばかり遠き家路を帰さく思へば
4 632目には見て手には取らえぬ月の内の楓のごとき妹をいかにせむ
4 633ここだくも思ひけめかも敷栲の枕片さる夢に見え来し
4 634家にして見れど飽かぬを草枕旅にも妻とあるが羨しさ
4 635草枕旅には妻は率たれども櫛笥のうちの玉をこそ思へ
4 636我が衣形見に奉る敷栲の枕を放けずまきてさ寝ませ
4 637我が背子が形見の衣妻どひに我が身は離けじ言とはずとも
4 638ただ一夜隔てしからにあらたまの月か経ぬると心惑ひぬ
4 639我が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寐ねらえずけれ
4 640はしけやし間近き里を雲居にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
4 641絶ゆと言はばわびしみせむと焼大刀のへつかふことは幸くや我が君
4 642我妹子に恋ひて乱ればくるべきに懸けて寄せむと我が恋ひそめし
4 643世の中の女にしあらば我が渡る痛背の川を渡りかねめや
4 644今は我はわびぞしにける息の緒に思ひし君をゆるさく思へば
4 645白栲の袖別るべき日を近み心にむせひ音のみし泣かゆ
4 646ますらをの思ひわびつつたびまねく嘆く嘆きを負はぬものかも
4 647心には忘るる日なく思へども人の言こそ繁き君にあれ
4 648相見ずて日長くなりぬこの頃はいかに幸くやいふかし我妹
4 649夏葛の絶えぬ使のよどめれば事しもあるごと思ひつるかも
4 650我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若ましにけり
4 651ひさかたの天の露霜置きにけり家なる人も待ち恋ひぬらむ
4 652玉守に玉は授けてかつがつも枕と我れはいざふたり寝む
4 653心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経にける
4 654相見ては月も経なくに恋ふと言はばをそろと我れを思ほさむかも
4 655思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑礼左変
4 656我れのみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふといふことは言のなぐさぞ
4 657思はじと言ひてしものをはねず色のうつろひやすき我が心かも
4 658思へども験もなしと知るものを何かここだく我が恋ひわたる
4 659あらかじめ人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥もいかにあらめ
4 660汝をと我を人ぞ離くなるいで我が君人の中言聞きこすなゆめ
4 661恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば
4 662網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる
4 663佐保渡り我家の上に鳴く鳥の声なつかしきはしき妻の子
4 664石上降るとも雨につつまめや妹に逢はむと言ひてしものを
4 665向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れ行かむたづき知らずも
4 666相見ぬは幾久さにもあらなくにここだく我れは恋ひつつもあるか
4 667恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠るらむしましはあり待て
4 668朝に日に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに
4 669あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ
4 670月読の光りに来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに
4 671月読の光りは清く照らせれど惑へる心思ひあへなくに
4 672しつたまき数にもあらぬ命もて何かここだく我が恋ひわたる
4 673まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも
4 674真玉つくをちこち兼ねて言は言へど逢ひて後こそ悔にはありといへ
4 675をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも
4 676海の底奥を深めて我が思へる君には逢はむ年は経ぬとも
4 677春日山朝居る雲のおほほしく知らぬ人にも恋ふるものかも
4 678直に逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向ふ我が恋やまめ
4 679いなと言はば強ひめや我が背菅の根の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ
4 680けだしくも人の中言聞かせかもここだく待てど君が来まさぬ
4 681なかなかに絶ゆとし言はばかくばかり息の緒にして我れ恋ひめやも
4 682思ふらむ人にあらなくにねもころに心尽して恋ふる我れかも
4 683言ふ言の畏き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも
4 684今は我は死なむよ我が背生けりとも我れに依るべしと言ふといはなくに
4 685人言を繁みか君が二鞘の家を隔てて恋ひつつまさむ
4 686このころは千年や行きも過ぎぬると我れやしか思ふ見まく欲りかも
4 687うるはしと我が思ふ心速川の塞きに塞くともなほや崩えなむ
4 688青山を横ぎる雲のいちしろく我れと笑まして人に知らゆな
4 689海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき
4 690照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに
4 691ももしきの大宮人は多かれど心に乗りて思ほゆる妹
4 692うはへなき妹にもあるかもかくばかり人の心を尽さく思へば
4 693かくのみし恋ひやわたらむ秋津野にたなびく雲の過ぐとはなしに
4 694恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
4 695恋は今はあらじと我れは思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる
4 696家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば
4 697我が聞きに懸けてな言ひそ刈り薦の乱れて思ふ君が直香ぞ
4 698春日野に朝居る雲のしくしくに我れは恋ひ増す月に日に異に
4 699一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも
4 700かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て
4 701はつはつに人を相見ていかにあらむいづれの日にかまた外に見む
4 702ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば
4 703我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は干る時もなし
4 704栲縄の長き命を欲りしくは絶えずて人を見まく欲りこそ
4 705はねかづら今する妹を夢に見て心のうちに恋ひわたるかも
4 706はねかづら今する妹はなかりしをいづれの妹ぞここだ恋ひたる
4 707思ひ遣るすべの知らねば片もひの底にぞ我れは恋ひ成りにける <[注土h之中]>
4 708またも逢はむよしもあらぬか白栲の我が衣手にいはひ留めむ
4 709夕闇は道たづたづし月待ちて行ませ我が背子その間にも見む
4 710み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる
4 711鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに
4 712味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき
4 713垣ほなす人言聞きて我が背子が心たゆたひ逢はぬこのころ
4 714心には思ひわたれどよしをなみ外のみにして嘆きぞ我がする
4 715千鳥鳴く佐保の川門の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ
4 716夜昼とい別き知らず我が恋ふる心はけだし夢に見えきや
4 717つれもなくあるらむ人を片思に我れは思へばわびしくもあるか
4 718思はぬに妹が笑ひを夢に見て心のうちに燃えつつぞ居る
4 719ますらをと思へる我れをかくばかりみつれにみつれ片思をせむ
4 720むらきもの心砕けてかくばかり我が恋ふらくを知らずかあるらむ
4 721あしひきの山にしをれば風流なみ我がするわざをとがめたまふな
4 722かくばかり恋ひつつあらずは石木にもならましものを物思はずして
4 723常世にと 我が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷に この月ごろも 有りかつましじ
4 724朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉が恋ふれぞ夢に見えける
4 725にほ鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね
4 726外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを
4 727忘れ草我が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり
4 728人もなき国もあらぬか我妹子とたづさはり行きて副ひて居らむ
4 729玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻きかたし
4 730逢はむ夜はいつもあらむを何すとかその宵逢ひて言の繁きも
4 731我が名はも千名の五百名に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け
4 732今しはし名の惜しけくも我れはなし妹によりては千たび立つとも
4 733うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む
4 734我が思ひかくてあらずは玉にもがまことも妹が手に巻かれなむ
4 735春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜にひとりかも寝む
4 736月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り
4 737かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山の後も逢はむ君
4 738世の中の苦しきものにありけらし恋にあへずて死ぬべき思へば
4 739後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ
4 740言のみを後も逢はむとねもころに我れを頼めて逢はざらむかも
4 741夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば
4 742一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく我が身はなりぬ
4 743我が恋は千引の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに
4 744夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を
4 745朝夕に見む時さへや我妹子が見れど見ぬごとなほ恋しけむ
4 746生ける世に我はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は
4 747我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまでは我れ脱かめやも
4 748恋ひ死なむそこも同じぞ何せむに人目人言言痛み我がせむ
4 749夢にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか
4 750思ひ絶えわびにしものを中々に何か苦しく相見そめけむ
4 751相見ては幾日も経ぬをここだくもくるひにくるひ思ほゆるかも
4 752かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかもせむ人目繁くて
4 753相見てはしましも恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひまさりけり
4 754夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ
4 755夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし
4 756外に居て恋ふれば苦し我妹子を継ぎて相見む事計りせよ
4 757遠くあらばわびてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ
4 758白雲のたなびく山の高々に我が思ふ妹を見むよしもがも
4 759いかならむ時にか妹を葎生の汚なきやどに入りいませてむ
4 760うち渡す武田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは
4 761早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ
4 762神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも
4 763玉の緒を沫緒に搓りて結べらばありて後にも逢はざらめやも
4 764百年に老舌出でてよよむとも我れはいとはじ恋ひは増すとも
4 765一重山へなれるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ
4 766道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り
4 767都路を遠みか妹がこのころはうけひて寝れど夢に見え来ぬ
4 768今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きて早見な
4 769ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいぶせかりけり
4 770人目多み逢はなくのみぞ心さへ妹を忘れて我が思はなくに
4 771偽りも似つきてぞするうつしくもまこと我妹子我れに恋ひめや
4 772夢にだに見えむと我れはほどけども相し思はねばうべ見えずあらむ
4 773言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり
4 774百千たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りのことばは我れは頼まじ
4 775鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何ぞも妹に逢ふよしもなき
4 776言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして
4 777我妹子がやどの籬を見に行かばけだし門より帰してむかも
4 778うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ
4 779板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む
4 780黒木取り草も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず [一云仕ふとも]
4 781ぬばたまの昨夜は帰しつ今夜さへ我れを帰すな道の長手を
4 782風高く辺には吹けども妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻ぞ
4 783をととしの先つ年より今年まで恋ふれどなぞも妹に逢ひかたき
4 784うつつにはさらにもえ言はず夢にだに妹が手本を卷き寝とし見ば
4 785我がやどの草の上白く置く露の身も惜しからず妹に逢はずあれば
4 786春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
4 787夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使の数多く通へば
4 788うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言繁み思ひぞ我がする
4 789心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば
4 790春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに
4 791奥山の岩蔭に生ふる菅の根のねもころ我れも相思はざれや
4 792春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだふふめり
5 793世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
5 794大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあ
5 795家に行きていかにか我がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも
5 796はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべなさ
5 797悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを
5 798妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに
5 799大野山霧立ちわたる我が嘆くおきその風に霧立ちわたる
5 800父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地
5 801ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに
5 802瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝なさぬ
5 803銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
5 804世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来る 娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし [白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き] よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを
5 805常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
5 806龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため
5 807うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
5 808龍の馬を我れは求めむあをによし奈良の都に来む人のたに
5 809直に逢はずあらくも多く敷栲の枕去らずて夢にし見えむ
5 810いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ
5 811言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし
5 812言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも
5 813かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐかねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づか
5 814天地のともに久しく言ひ継げとこの奇し御魂敷かしけらしも
5 815正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
5 816梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも[少貳小野大夫]
5 817梅の花咲きたる園の青柳は蘰にすべくなりにけらずや[少貳粟田大夫]
5 818春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ[筑前守山上大夫]
5 819世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを[豊後守大伴大夫]
5 820梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり[筑後守葛井大夫]
5 821青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし[笠沙弥]
5 822我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも[主人]
5 823梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ[大監伴氏百代]
5 824梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも[小監阿氏奥嶋]
5 825梅の花咲きたる園の青柳を蘰にしつつ遊び暮らさな[小監土氏百村]
5 826うち靡く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分かむ[大典史氏大原]
5 827春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に[小典山氏若麻呂]
5 828人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも[大判事<丹>氏麻呂]
5 829梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや[藥師張氏福子]
5 830万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし[筑前介佐氏子首]
5 831春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに[壹岐守板氏安麻呂]
5 832梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし[神司荒氏稲布]
5 833年のはに春の来らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ[大令史野氏宿奈麻呂]
5 834梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来るらし[小令史田氏肥人]
5 835春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも[藥師高氏義通]
5 836梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり[陰陽師礒氏法麻呂]
5 837春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く[t師志氏大道]
5 838梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて[大隅目榎氏鉢麻呂]
5 839春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る[筑前目田氏真上]
5 840春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に[壹岐目村氏彼方]
5 841鴬の音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ[對馬目高氏老]
5 842我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ[薩摩目高氏海人]
5 843梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ[土師氏御<道>]
5 844妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも[小野氏國堅]
5 845鴬の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため[筑前拯門氏石足]
5 846霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも[小野氏淡理]
5 847我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも
5 848雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身また変若ぬべし
5 849残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも
5 850雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
5 851我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
5 852梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ [一云 いたづらに我れを散らすな酒に浮べこそ]
5 853あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
5 854玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき
5 855松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
5 856松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも
5 857遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我れこそ卷かめ
5 858若鮎釣る松浦の川の川なみの並にし思はば我れ恋ひめやも
5 859春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
5 860松浦川七瀬の淀は淀むとも我れは淀まず君をし待たむ
5 861松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
5 862人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我れは恋ひつつ居らむ
5 863松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
5 864後れ居て長恋せずは御園生の梅の花にもならましものを
5 865君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
5 866はろはろに思ほゆるかも白雲の千重に隔てる筑紫の国は
5 867君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり
5 868松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
5 869足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰れ見き [一云 鮎釣ると]
5 870百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる
5 871遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
5 872山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
5 873万世に語り継げとしこの丘に領巾振りけらし松浦佐用姫
5 874海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
5 875行く船を振り留みかねいかばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
5 876天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの
5 877ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
5 878言ひつつも後こそ知らめとのしくも寂しけめやも君いまさずして
5 879万世にいましたまひて天の下奏したまはね朝廷去らずて
5 880天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
5 881かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて
5 882我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね
5 883音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山
5 884国遠き道の長手をおほほしく今日や過ぎなむ言どひもなく
5 885朝露の消やすき我が身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り
5 886うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉桙の 道の隈廻に 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥
5 887たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我が別るらむ
5 888常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧はなしに [一云 干飯はなしに]
5 889家にありて母がとり見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも [一云 後は死ぬとも]
5 890出でて行きし日を数へつつ今日今日と我を待たすらむ父母らはも [一云 母が悲しさ]
5 891一世にはふたたび見えぬ父母を置きてや長く我が別れなむ [一云 相別れなむ]
5 892風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾
5 893世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
5 894神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高照らす 日の朝廷 神ながら 愛での盛
5 895大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ
5 896難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
50896k 竊(ひそか)に以(おもひみ)るに、朝夕山野に佃食(てんしょく)する者、猶ほあ害(さいがい)無く、世を度(わた)ることを得。[常に弓箭を執りて、六齋を避けず、値(あ)ふ所の禽獣、大小孕(はら)めると孕まざるを論ぜず、並に皆g(ころ)
5 897たまきはる うちの限りは [謂瞻州人<壽>一百二十年也] 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世間の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 辛塩を 注くちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのご
5 898慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ
5 899すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ
5 900富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも
5 901荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ
5 902水沫なすもろき命も栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ
5 903しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも [去る神龜二年之を作る。但し類を以ての故に更に茲に載す]
5 904世間の 貴び願ふ 七種の 宝も我れは 何せむに 我が中の 生れ出でたる 白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は 敷栲の 床の辺去らず 立てれども 居れども ともに戯れ 夕星の 夕になれば いざ寝よと 手を携はり 父母も うへは
5 905若ければ道行き知らじ賄はせむ黄泉の使負ひて通らせ
5 906布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ
6 907瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも
6 908年のはにかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
6 909山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも
6 910神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
6 911み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまたかへり見む
6 912泊瀬女の造る木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
6 913味凝り あやにともしく 鳴る神の 音のみ聞きし み吉野の 真木立つ山ゆ 見下ろせば 川の瀬ごとに 明け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば 我のみして 清き川原を 見らくし惜しも
6 914滝の上の三船の山は畏けど思ひ忘るる時も日もなし
6 915千鳥泣くみ吉野川の川音のやむ時なしに思ほゆる君
6 916あかねさす日並べなくに我が恋は吉野の川の霧に立ちつつ
6 917やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山
6 918沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも
6 919若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
6 920あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥しば鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆることなく 万代に か
6 921万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所
6 922皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも
6 923やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川なみの 清き河内ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ
6 924み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも
6 925ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
6 926やすみしし 我ご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝狩に 獣踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て 馬並めて 御狩ぞ立たす 春の茂野に
6 927あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手挾み騒きてあり見ゆ
6 928おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に 続麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の男は 廬りして 都成したり 旅に
6 929荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ
6 930海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ
6 931鯨魚取り 浜辺を清み うち靡き 生ふる玉藻に 朝なぎに 千重波寄せ 夕なぎに 五百重波寄す 辺つ波の いやしくしくに 月に異に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻れる 住吉の浜
6 932白波の千重に来寄する住吉の岸の埴生ににほひて行かな
6 933天地の 遠きがごとく 日月の 長きがごとく おしてる 難波の宮に 我ご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 沖つ海石に 鰒玉 さはに潜き出 舟並めて 仕へ奉るし 貴し見れば
6 934朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし
6 935名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫を
6 936玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟楫もがも波高くとも
6 937行き廻り見とも飽かめや名寸隅の舟瀬の浜にしきる白波
6 938やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の 大海の原の 荒栲の 藤井の浦に 鮪釣ると 海人舟騒き 塩焼くと 人ぞさはにある 浦をよみ うべも釣りはす 浜をよみ うべも塩焼く あり通ひ 見さくもしるし 清き白浜
6 939沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける
6 940印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くしあれば家し偲はゆ
6 941明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば
6 942あぢさはふ 妹が目離れて 敷栲の 枕もまかず 桜皮巻き 作れる船に 真楫貫き 我が漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬 辛荷の島の 島の際ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 漕ぎ廻むる 浦のことご
6 943玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ
6 944島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船
6 945風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り
6 946御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし
6 947須磨の海女の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
6 948ま葛延ふ 春日の山は うち靡く 春さりゆくと 山の上に 霞たなびく 高円に 鴬鳴きぬ もののふの 八十伴の男は 雁が音の 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友並めて 遊ばむものを 馬並めて 行かまし里を 待ちかてに 我がす
6 949梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに
6 950大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ
6 951見わたせば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らずはやまじ
6 952韓衣着奈良の里の嶋松に玉をし付けむよき人もがも
6 953さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ
6 954朝は海辺にあさりし夕されば大和へ越ゆる雁し羨しも
6 955さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君
6 956やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ
6 957いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
6 958時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな
6 959行き帰り常に我が見し香椎潟明日ゆ後には見むよしもなし
6 960隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり
6 961湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
6 962奥山の岩に苔生し畏くも問ひたまふかも思ひあへなくに
6 963大汝 少彦名の 神こそば 名付けそめけめ 名のみを 名児山と負ひて 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに
6 964我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝
6 965おほならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるかも
6 966大和道は雲隠りたりしかれども我が振る袖をなめしと思ふな
6 967大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
6 968ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ
6 969しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ
6 970指進の栗栖の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ
6 971白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて 冬こも
6 972千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とぞ思ふ
6 973食す国の 遠の朝廷に 汝らが かく罷りなば 平けく 我れは遊ばむ 手抱きて 我れはいまさむ 天皇我れ うづの御手もち かき撫でぞ ねぎたまふ うち撫でぞ ねぎたまふ 帰り来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は
6 974大夫の行くといふ道ぞおほろかに思ひて行くな大夫の伴
6 975かくしつつあらくをよみぞたまきはる短き命を長く欲りする
6 976難波潟潮干のなごりよく見てむ家なる妹が待ち問はむため
6 977直越のこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも
6 978士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして
6 979我が背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
6 980雨隠り御笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜はくたちつつ
6 981狩高の高円山を高みかも出で来る月の遅く照るらむ
6 982ぬばたまの夜霧の立ちておほほしく照れる月夜の見れば悲しさ
6 983山の端のささら愛壮士天の原門渡る光見らくしよしも
6 984雲隠り去方をなみと我が恋ふる月をや君が見まく欲りする
6 985天にます月読壮士賄はせむ今夜の長さ五百夜継ぎこそ
6 986はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる
6 987待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり
6 988春草は後はうつろふ巌なす常盤にいませ貴き我が君
6 989焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり
6 990茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく
6 991石走りたぎち流るる泊瀬川絶ゆることなくまたも来て見む
6 992故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも
6 993月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に逢へるかも
6 994振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも
6 995かくしつつ遊び飲みこそ草木すら春は咲きつつ秋は散りゆく
6 996御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
6 997住吉の粉浜のしじみ開けもみず隠りてのみや恋ひわたりなむ
6 998眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも
6 999茅渟廻より雨ぞ降り来る四極の海人綱手干したり濡れもあへむかも
6 1000子らしあらばふたり聞かむを沖つ洲に鳴くなる鶴の暁の声
6 1001大夫は御狩に立たし娘子らは赤裳裾引く清き浜びを
6 1002馬の歩み抑へ留めよ住吉の岸の埴生ににほひて行かむ
6 1003海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ
6 1004思ほえず来ましし君を佐保川のかはづ聞かせず帰しつるかも
6 1005やすみしし 我が大君の 見したまふ 吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川早み 瀬の音ぞ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 やむ時もあらめ
6 1006神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ
6 1007言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ
6 1008山の端にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくたちつつ
6 1009橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木
6 1010奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地に落ちめやも
6 1011我が宿の梅咲きたりと告げ遣らば来と言ふに似たり散りぬともよし
6 1012春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
6 1013あらかじめ君来まさむと知らませば門に宿にも玉敷かましを
6 1014一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも
6 1015玉敷きて待たましよりはたけそかに来る今夜し楽しく思ほゆ
6 1016海原の遠き渡りを風流士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し
6 1017木綿畳手向けの山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ
6 1018白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし
6 1019石上 布留の命は 手弱女の 惑ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣じもの 弓矢囲みて 大君の 命畏み 天離る 鄙辺に罷る 古衣 真土の山ゆ 帰り来ぬかも
6######大君の 命畏み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし畏し 住吉の 現人神 船舳に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず 障みなく 病あらせず 速けく
6 1022父君に 我れは愛子ぞ 母刀自に 我れは愛子ぞ 参ゐ上る 八十氏人の 手向けする 畏の坂に 幣奉り 我れはぞ追へる 遠き土佐道を
6 1023大崎の神の小浜は狭けども百舟人も過ぐと言はなくに
6 1024長門なる沖つ借島奥まへて我が思ふ君は千年にもがも
6 1025奥まへて我れを思へる我が背子は千年五百年ありこせぬかも
6 1026ももしきの大宮人は今日もかも暇をなみと里に出でずあらむ
6 1027橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず
6 1028ますらをの高円山に迫めたれば里に下り来るむざさびぞこれ
6 1029河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほゆるかも
6 1030妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
6 1031後れにし人を思はく思泥の崎木綿取り垂でて幸くとぞ思ふ
6 1032大君の行幸のまにま我妹子が手枕まかず月ぞ経にける
6 1033御食つ国志摩の海人ならしま熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ
6 1034いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬
6 1035田跡川の瀧を清みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸の野の上に
6 1036関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを
6 1037今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
6 1038故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ我がせし
6 1039我が背子とふたりし居らば山高み里には月は照らずともよし
6 1040ひさかたの雨は降りしけ思ふ子がやどに今夜は明かして行かむ
6 1041我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ
6 1042一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも
6 1043たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ
6 1044紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき
6 1045世間を常なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
6 1046岩綱のまた変若ちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
6 1047やすみしし 我が大君の 高敷かす 大和の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山
6 1048たち変り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
6 1049なつきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし増さる
6 1050現つ神 我が大君の 天の下 八島の内に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山なみの よろしき国と 川なみの たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山
6 1051三香の原布当の野辺を清みこそ大宮所 [一云 ここと標刺し] 定めけらしも
6 1052山高く川の瀬清し百代まで神しみゆかむ大宮所
6 1053吾が大君 神の命の 高知らす 布当の宮は 百木盛り 山は木高し 落ちたぎつ 瀬の音も清し 鴬の 来鳴く春へは 巌には 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧らふ しぐれをいたみ さ丹つらふ 黄葉散りつつ 八千
6 1054泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮所移ろひ行かめ
6 1055布当山山なみ見れば百代にも変るましじき大宮所
6 1056娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ
6 1057鹿背の山木立を茂み朝さらず来鳴き響もす鴬の声
6 1058狛山に鳴く霍公鳥泉川渡りを遠みここに通はず [一云 渡り遠みか通はずあるらむ]
6 1059三香の原 久迩の都は 山高み 川の瀬清み 住みよしと 人は言へども ありよしと 我れは思へど 古りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり はしけやし かくありけるか みもろつく 鹿背山の際に 咲く花の
6 1060三香の原久迩の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば
6 1061咲く花の色は変らずももしきの大宮人ぞたち変りける
6 1062やすみしし 我が大君の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を清み 朝羽振る 波の音騒き 夕なぎに 楫の音聞こゆ 暁の 寝覚に聞けば 海石の 潮干の共 浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響む 見る人の 語
6 1063あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる舟見ゆ
6 1064潮干れば葦辺に騒く白鶴の妻呼ぶ声は宮もとどろに
6 1065八千桙の 神の御代より 百舟の 泊つる泊りと 八島国 百舟人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白真砂 清き浜辺は 行き帰り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経
6 1066まそ鏡敏馬の浦は百舟の過ぎて行くべき浜ならなくに
6 1067浜清み浦うるはしみ神代より千舟の泊つる大和太の浜
7 1068天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ
7 1069常はさね思はぬものをこの月の過ぎ隠らまく惜しき宵かも
7 1070大夫の弓末振り起し狩高の野辺さへ清く照る月夜かも
7 1071山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける
7 1072明日の宵照らむ月夜は片寄りに今夜に寄りて夜長くあらなむ
7 1073玉垂の小簾の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも
7 1074春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけくありけり
7 1075海原の道遠みかも月読の光少き夜は更けにつつ
7 1076ももしきの大宮人の罷り出て遊ぶ今夜の月のさやけさ
7 1077ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも
7 1078この月のここに来たれば今とかも妹が出で立ち待ちつつあるらむ
7 1079まそ鏡照るべき月を白栲の雲か隠せる天つ霧かも
7 1080ひさかたの天照る月は神代にか出で反るらむ年は経につつ
7 1081ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ我が居る袖に露ぞ置きにける
7 1082水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜の更けゆけば
7 1083霜曇りすとにかあるらむ久方の夜渡る月の見えなく思へば
7 1084山の端にいさよふ月をいつとかも我は待ち居らむ夜は更けにつつ
7 1085妹があたり我が袖振らむ木の間より出で来る月に雲なたなびき
7 1086靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし
7 1087穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし
7 1088あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる
7 1089大海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲
7 1090我妹子が赤裳の裾のひづちなむ今日の小雨に我れさへ濡れな
7 1091通るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣我れ下に着り
7 1092鳴る神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも
7 1093三諸のその山なみに子らが手を巻向山は継ぎしよろしも
7 1094我が衣色取り染めむ味酒三室の山は黄葉しにけり
7 1095三諸つく三輪山見れば隠口の泊瀬の桧原思ほゆるかも
7 1096いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山
7 1097我が背子をこち巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし
7 1098紀道にこそ妹山ありといへ玉櫛笥二上山も妹こそありけれ
7 1099片岡のこの向つ峰に椎蒔かば今年の夏の蔭にならむか
7 1100巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む
7 1101ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き
7 1102大君の御笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ
7 1103今しくは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも
7 1104馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる
7 1105音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
7 1106かはづ鳴く清き川原を今日見てはいつか越え来て見つつ偲はむ
7 1107泊瀬川白木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し我れを
7 1108泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく
7 1109さ桧の隈桧隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも
7 1110ゆ種蒔くあらきの小田を求めむと足結ひ出で濡れぬこの川の瀬に
7 1111いにしへもかく聞きつつか偲ひけむこの布留川の清き瀬の音を
7 1112はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ
7 1113この小川霧ぞ結べるたぎちゆく走井の上に言挙げせねども
7 1114我が紐を妹が手もちて結八川またかへり見む万代までに
7 1115妹が紐結八河内をいにしへのみな人見きとここを誰れ知る
7 1116ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
7 1117島廻すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずはやまじ
7 1118いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ
7 1119行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は
7 1120み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに
7 1121妹らがり我が通ひ道の小竹すすき我れし通はば靡け小竹原
7 1122山の際に渡るあきさの行きて居むその川の瀬に波立つなゆめ
7 1123佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも
7 1124佐保川に騒ける千鳥さ夜更けて汝が声聞けば寐ねかてなくに
7 1125清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
7 1126年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
7 1127落ちたぎつ走井水の清くあれば置きては我れは行きかてぬかも
7 1128馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも
7 1129琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻や隠れる
7 1130神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見れば悲しも
7 1131皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み
7 1132夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば
7 1133すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む
7 1134吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代までに
7 1135宇治川は淀瀬なからし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
7 1136宇治川に生ふる菅藻を川早み採らず来にけりつとにせましを
7 1137宇治人の譬への網代我れならば今は寄らまし木屑来ずとも
7 1138宇治川を舟渡せをと呼ばへども聞こえざるらし楫の音もせず
7 1139ちはや人宇治川波を清みかも旅行く人の立ちかてにする
7 1140しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて [一本云 猪名の浦みを漕ぎ来れば]
7 1141武庫川の水脈を早みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも
7 1142命をし幸くよけむと石走る垂水の水をむすびて飲みつ
7 1143さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも
7 1144悔しくも満ちぬる潮か住吉の岸の浦廻ゆ行かましものを
7 1145妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず
7 1146めづらしき人を我家に住吉の岸の埴生を見むよしもがも
7 1147暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るといふ恋忘れ貝
7 1148馬並めて今日我が見つる住吉の岸の埴生を万代に見む
7 1149住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり
7 1150住吉の岸に家もが沖に辺に寄する白波見つつ偲はむ
7 1151大伴の御津の浜辺をうちさらし寄せ来る波のゆくへ知らずも
7 1152楫の音ぞほのかにすなる海人娘子沖つ藻刈りに舟出すらしも [一云 夕されば楫の音すなり]
7 1153住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず
7 1154雨は降る刈廬は作るいつの間に吾児の潮干に玉は拾はむ
7 1155名児の海の朝明のなごり今日もかも磯の浦廻に乱れてあるらむ
7 1156住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく
7 1157時つ風吹かまく知らず吾児の海の朝明の潮に玉藻刈りてな
7 1158住吉の沖つ白波風吹けば来寄する浜を見れば清しも
7 1159住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ
7 1160難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴渡る見ゆ
7 1161家離り旅にしあれば秋風の寒き夕に雁鳴き渡る
7 1162円方の港の洲鳥波立てや妻呼びたてて辺に近づくも
7 1163年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ
7 1164潮干ればともに潟に出で鳴く鶴の声遠ざかる磯廻すらしも
7 1165夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖波高み己妻呼ばふ
7 1166いにしへにありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原
7 1167あさりすと礒に我が見しなのりそをいづれの島の海人か刈りけむ
7 1168今日もかも沖つ玉藻は白波の八重をるが上に乱れてあるらむ
7 1169近江の海港は八十ちいづくにか君が舟泊て草結びけむ
7 1170楽浪の連庫山に雲居れば雨ぞ降るちふ帰り来我が背
7 1171大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
7 1172いづくにか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟
7 1173飛騨人の真木流すといふ丹生の川言は通へど舟ぞ通はぬ
7 1174霰降り鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋しきものを
7 1175足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ
7 1176夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず
7 1177若狭なる三方の海の浜清みい行き帰らひ見れど飽かぬかも
7 1178印南野は行き過ぎぬらし天伝ふ日笠の浦に波立てり見ゆ [一云 飾磨江は漕ぎ過ぎぬらし]
7 1179家にして我れは恋ひむな印南野の浅茅が上に照りし月夜を
7 1180荒磯越す波を畏み淡路島見ずか過ぎなむここだ近きを
7 1181朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
7 1182海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆の浦廻に波立てり見ゆ
7 1183ま幸くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆の浦廻を
7 1184鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも
7 1185朝なぎに真楫漕ぎ出て見つつ来し御津の松原波越しに見ゆ
7 1186あさりする海人娘子らが袖通り濡れにし衣干せど乾かず
7 1187網引する海人とか見らむ飽の浦の清き荒磯を見に来し我れを
7 1188山越えて遠津の浜の岩つつじ我が来るまでにふふみてあり待て
7 1189大海にあらしな吹きそしなが鳥猪名の港に舟泊つるまで
7 1190舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも
7 1191妹が門出入の川の瀬を早み我が馬つまづく家思ふらしも
7 1192白栲ににほふ真土の山川に我が馬なづむ家恋ふらしも
7 1193背の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す
7 1194紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
7 1195麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹
7 1196つともがと乞はば取らせむ貝拾ふ我れを濡らすな沖つ白波
7 1197手に取るがからに忘ると海人の言ひし恋忘れ貝言にしありけり
7 1198あさりすと礒に棲む鶴明けされば浜風寒み己妻呼ぶも
7 1199藻刈り舟沖漕ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ
7 1200我が舟は沖ゆな離り迎へ舟方待ちがてり浦ゆ漕ぎ逢はむ
7 1201大海の水底響み立つ波の寄らむと思へる礒のさやけさ
7 1202荒礒ゆもまして思へや玉の浦離れ小島の夢にし見ゆる
7 1203礒の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉
7 1204浜清み礒に我が居れば見む人は海人とか見らむ釣りもせなくに
7 1205沖つ楫やくやくしぶを見まく欲り我がする里の隠らく惜しも
7 1206沖つ波辺つ藻巻き持ち寄せ来とも君にまされる玉寄せめやも [一云 沖つ波辺波しくしく寄せ来とも]
7 1207粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり
7 1208妹に恋ひ我が越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるが羨しさ
7 1209人ならば母が愛子ぞあさもよし紀の川の辺の妹と背の山
7 1210我妹子に我が恋ひ行けば羨しくも並び居るかも妹と背の山
7 1211妹があたり今ぞ我が行く目のみだに我れに見えこそ言問はずとも
7 1212足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで
7 1213名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに
7 1214安太へ行く小為手の山の真木の葉も久しく見ねば蘿生しにけり
7 1215玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに
7 1216潮満たばいかにせむとか海神の神が手渡る海人娘子ども
7 1217玉津島見てしよけくも我れはなし都に行きて恋ひまく思へば
7 1218黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも
7 1219若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕は大和し思ほゆ
7 1220妹がため玉を拾ふと紀伊の国の由良の岬にこの日暮らしつ
7 1221我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに
7 1222玉津島見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため
7 1223海の底沖漕ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立てずして
7 1224大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
7 1225さ夜更けて夜中の方におほほしく呼びし舟人泊てにけむかも
7 1226三輪の崎荒磯も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避き道はなしに
7 1227礒に立ち沖辺を見れば藻刈り舟海人漕ぎ出らし鴨翔る見ゆ
7 1228風早の三穂の浦廻を漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも
7 1229我が舟は明石の水門に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
7 1230ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも我れは忘れじ志賀の皇神
7 1231天霧らひひかた吹くらし水茎の岡の港に波立ちわたる
7 1232大海の波は畏ししかれども神を斎ひて舟出せばいかに
7 1233娘子らが織る機の上を真櫛もち掻上げ栲島波の間ゆ見ゆ
7 1234潮早み磯廻に居れば潜きする海人とや見らむ旅行く我れを
7 1235波高しいかに楫取り水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき
7 1236夢のみに継ぎて見えつつ高島の礒越す波のしくしく思ほゆ
7 1237静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば
7 1238高島の安曇白波は騒けども我れは家思ふ廬り悲しみ
7 1239大海の礒もと揺り立つ波の寄せむと思へる浜の清けく
7 1240玉櫛笥みもろと山を行きしかばおもしろくしていにしへ思ほゆ
7 1241ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも
7 1242あしひきの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも
7 1243見わたせば近き里廻をた廻り今ぞ我が来る領巾振りし野に
7 1244娘子らが放りの髪を由布の山雲なたなびき家のあたり見む
7 1245志賀の海人の釣舟の綱堪へずして心に思ひて出でて来にけり
7 1246志賀の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山にたなびく
7 1247大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくしよしも
7 1248我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ
7 1249君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも
7 1250妹がため菅の実摘みに行きし我れ山道に惑ひこの日暮らしつ
7 1251佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る
7 1252人こそばおほにも言はめ我がここだ偲ふ川原を標結ふなゆめ
7 1253楽浪の志賀津の海人は我れなしに潜きはなせそ波立たずとも
7 1254大船に楫しもあらなむ君なしに潜きせめやも波立たずとも
7 1255月草に衣ぞ染むる君がため斑の衣摺らむと思ひて
7 1256春霞井の上ゆ直に道はあれど君に逢はむとた廻り来も
7 1257道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや
7 1258黙あらじと言のなぐさに言ふことを聞き知れらくは悪しくはありけり
7 1259佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも
7 1260時ならぬ斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども
7 1261山守の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも
7 1262あしひきの山椿咲く八つ峰越え鹿待つ君が斎ひ妻かも
7 1263暁と夜烏鳴けどこの岡の木末の上はいまだ静けし
7 1264西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも
7 1265今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む
7 1266大船を荒海に漕ぎ出でや船たけ我が見し子らがまみはしるしも
7 1267ももしきの大宮人の踏みし跡ところ沖つ波来寄らずありせば失せずあらましを
7 1268子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行きまかめやも
7 1269巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは
7 1270こもりくの泊瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常なき
7 1271遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒
7 1272大刀の後鞘に入野に葛引く我妹真袖もち着せてむとかも夏草刈るも
7 1273住吉の波豆麻の君が馬乗衣さひづらふ漢女を据ゑて縫へる衣ぞ
7 1274住吉の出見の浜の柴な刈りそね娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む
7 1275住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る
7 1276池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ
7 1277天なる日売菅原の草な刈りそね蜷の腸か黒き髪にあくたし付くも
7 1278夏蔭の妻屋の下に衣裁つ我妹うら設けて我がため裁たばやや大に裁て
7 1279梓弓引津の辺なるなのりその花摘むまでに逢はずあらめやもなのりその花
7 1280うちひさす宮道を行くに我が裳は破れぬ玉の緒の思ひ乱れて家にあらましを
7 1281君がため手力疲れ織れる衣ぞ春さらばいかなる色に摺りてばよけむ
7 1282はしたての倉橋山に立てる白雲見まく欲り我がするなへに立てる白雲
7 1283はしたての倉橋川の石の橋はも男盛りに我が渡りてし石の橋はも
7 1284はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅
7 1285春日すら田に立ち疲る君は悲しも若草の妻なき君が田に立ち疲る
7 1286山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ
7 1287青みづら依網の原に人も逢はぬかも石走る近江県の物語りせむ
7 1288港の葦の末葉を誰れか手折りし我が背子が振る手を見むと我れぞ手折りし
7 1289垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君
7 1290海の底沖つ玉藻のなのりその花妹と我れとここにしありとなのりその花
7 1291この岡に草刈るわらはなしか刈りそねありつつも君が来まさば御馬草にせむ
7 1292江林に臥せる獣やも求むるによき白栲の袖巻き上げて獣待つ我が背
7 1293霰降り遠つ淡海の吾跡川楊刈れどもまたも生ふといふ吾跡川楊
7 1294朝月の日向の山に月立てり見ゆ遠妻を待ちたる人し見つつ偲はむ
7 1295春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ
7 1296今作る斑の衣面影に我れに思ほゆいまだ着ねども
7 1297紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき
7 1298かにかくに人は言ふとも織り継がむ我が機物の白麻衣
7 1299あぢ群のとをよる海に舟浮けて白玉採ると人に知らゆな
7 1300をちこちの礒の中なる白玉を人に知らえず見むよしもがも
7 1301海神の手に巻き持てる玉故に礒の浦廻に潜きするかも
7 1302海神の持てる白玉見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人
7 1303潜きする海人は告れども海神の心し得ねば見ゆといはなくに
7 1304天雲のたなびく山の隠りたる我が下心木の葉知るらむ
7 1305見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ
7 1306この山の黄葉が下の花を我れはつはつに見てなほ恋ひにけり
7 1307この川ゆ舟は行くべくありといへど渡り瀬ごとに守る人のありて
7 1308大海をさもらふ港事しあらばいづへゆ君は我を率しのがむ
7 1309風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しくあるべし君がまにまに
7 1310雲隠る小島の神の畏けば目こそ隔てれ心隔てや
7 1311橡の衣は人皆事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ
7 1312おほろかに我れし思はば下に着てなれにし衣を取りて着めやも
7 1313紅の深染めの衣下に着て上に取り着ば言なさむかも
7 1314橡の解き洗ひ衣のあやしくもことに着欲しきこの夕かも
7 1315橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣
7 1316河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
7 1317海の底沈く白玉風吹きて海は荒るとも取らずはやまじ
7 1318底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人
7 1319大海の水底照らし沈く玉斎ひて採らむ風な吹きそね
7 1320水底に沈く白玉誰が故に心尽して我が思はなくに
7 1321世間は常かくのみか結びてし白玉の緒の絶ゆらく思へば
7 1322伊勢の海の海人の島津が鰒玉採りて後もか恋の繁けむ
7 1323海の底沖つ白玉よしをなみ常かくのみや恋ひわたりなむ
7 1324葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
7 1325白玉を手には巻かずに箱のみに置けりし人ぞ玉嘆かする
7 1326照左豆が手に巻き古す玉もがもその緒は替へて我が玉にせむ
7 1327秋風は継ぎてな吹きそ海の底沖なる玉を手に巻くまでに
7 1328膝に伏す玉の小琴の事なくはいたくここだく我れ恋ひめやも
7 1329陸奥の安達太良真弓弦はけて引かばか人の我を言なさむ
7 1330南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
7 1331岩畳畏き山と知りつつも我れは恋ふるか並にあらなくに
7 1332岩が根のこごしき山に入りそめて山なつかしみ出でかてぬかも
7 1333佐保山をおほに見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ
7 1334奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心をいかにかもせむ
7 1335思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ
7 1336冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く
7 1337葛城の高間の草野早知りて標刺さましを今ぞ悔しき
7 1338我がやどに生ふるつちはり心ゆも思はぬ人の衣に摺らゆな
7 1339月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ
7 1340紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
7 1341真玉つく越智の菅原我れ刈らず人の刈らまく惜しき菅原
7 1342山高み夕日隠りぬ浅茅原後見むために標結はましを
7 1343言痛くはかもかもせむを岩代の野辺の下草我れし刈りてば [一云 紅の現し心や妹に逢はずあらむ]
7 1344真鳥棲む雲梯の杜の菅の根を衣にかき付け着せむ子もがも
7 1345常ならぬ人国山の秋津野のかきつはたをし夢に見しかも
7 1346をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む
7 1347君に似る草と見しより我が標めし野山の浅茅人な刈りそね
7 1348三島江の玉江の薦を標めしより己がとぞ思ふいまだ刈らねど
7 1349かくしてやなほや老いなむみ雪降る大荒木野の小竹にあらなくに
7 1350近江のや八橋の小竹を矢はがずてまことありえむや恋しきものを
7 1351月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも
7 1352我が心ゆたにたゆたに浮蓴辺にも沖にも寄りかつましじ
7 1353石上布留の早稲田を秀でずとも縄だに延へよ守りつつ居らむ
7 1354白菅の真野の榛原心ゆも思はぬ我れし衣に摺りつ
7 1355真木柱作る杣人いささめに仮廬のためと作りけめやも
7 1356向つ峰に立てる桃の木ならむやと人ぞささやく汝が心ゆめ
7 1357たらちねの母がそのなる桑すらに願へば衣に着るといふものを
7 1358はしきやし我家の毛桃本茂く花のみ咲きてならずあらめやも
7 1359向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも
7 1360息の緒に思へる我れを山ぢさの花にか君がうつろひぬらむ
7 1361住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも
7 1362秋さらば移しもせむと我が蒔きし韓藍の花を誰れか摘みけむ
7 1363春日野に咲きたる萩は片枝はいまだふふめり言な絶えそね
7 1364見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きてならずかもあらむ
7 1365我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ
7 1366明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
7 1367三国山木末に住まふむささびの鳥待つごとく我れ待ち痩せむ
7 1368岩倉の小野ゆ秋津に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ
7 1369天雲に近く光りて鳴る神の見れば畏し見ねば悲しも
7 1370はなはだも降らぬ雨故にはたづみいたくな行きそ人の知るべく
7 1371ひさかたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干る時なきか
7 1372み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
7 1373春日山山高くあらし岩の上の菅の根見むに月待ちかたし
7 1374闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月も早も照らぬか
7 1375朝霜の消やすき命誰がために千年もがもと我が思はなくに
7 1376大和の宇陀の真埴のさ丹付かばそこもか人の我を言なさむ
7 1377木綿懸けて祭る三諸の神さびて斎むにはあらず人目多みこそ
7 1378木綿懸けて斎ふこの社越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに
7 1379絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに
7 1380明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
7 1381広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ
7 1382泊瀬川流るる水沫の絶えばこそ我が思ふ心遂げじと思はめ
7 1383嘆きせば人知りぬべみ山川のたぎつ心を塞かへてあるかも
7 1384水隠りに息づきあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも
7 1385真鉋持ち弓削の川原の埋れ木のあらはるましじきことにあらなくに
7 1386大船に真楫しじ貫き漕ぎ出なば沖は深けむ潮は干ぬとも
7 1387伏越ゆ行かましものをまもらふにうち濡らさえぬ波数まずして
7 1388石そそき岸の浦廻に寄する波辺に来寄らばか言の繁けむ
7 1389礒の浦に来寄る白波返りつつ過ぎかてなくは誰れにたゆたへ
7 1390近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに
7 1391朝なぎに来寄る白波見まく欲り我れはすれども風こそ寄せね
7 1392紫の名高の浦の真砂土袖のみ触れて寝ずかなりなむ
7 1393豊国の企救の浜辺の真砂土真直にしあらば何か嘆かむ
7 1394潮満てば入りぬる礒の草なれや見らく少く恋ふらくの多き
7 1395沖つ波寄する荒礒のなのりそは心のうちに障みとなれり
7 1396紫の名高の浦のなのりその礒に靡かむ時待つ我れを
7 1397荒礒越す波は畏ししかすがに海の玉藻の憎くはあらずて
7 1398楽浪の志賀津の浦の舟乗りに乗りにし心常忘らえず
7 1399百伝ふ八十の島廻を漕ぐ舟に乗りにし心忘れかねつも
7 1400島伝ふ足早の小舟風まもり年はや経なむ逢ふとはなしに
7 1401水霧らふ沖つ小島に風をいたみ舟寄せかねつ心は思へど
7 1402こと放けば沖ゆ放けなむ港より辺著かふ時に放くべきものか
7 1403御幣取り三輪の祝が斎ふ杉原薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ
7 1404鏡なす我が見し君を阿婆の野の花橘の玉に拾ひつ
7 1405秋津野を人の懸くれば朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず
7 1406秋津野に朝居る雲の失せゆけば昨日も今日もなき人思ほゆ
7 1407隠口の泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ
7 1408たはことかおよづれことかこもりくの泊瀬の山に廬りせりといふ
7 1409秋山の黄葉あはれとうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
7 1410世間はまこと二代はゆかざらし過ぎにし妹に逢はなく思へば
7 1411幸はひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く
7 1412我が背子をいづち行かめとさき竹のそがひに寝しく今し悔しも
7 1413庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
7 1414薦枕相枕きし子もあらばこそ夜の更くらくも我が惜しみせめ
7 1415玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる
7 1416玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる
7 1417名児の海を朝漕ぎ来れば海中に鹿子ぞ鳴くなるあはれその鹿子
8 1418石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
8 1419神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる
8 1420沫雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花ぞも
8 1421春山の咲きのををりに春菜摘む妹が白紐見らくしよしも
8 1422うち靡く春来るらし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
8 1423去年の春いこじて植ゑし我がやどの若木の梅は花咲きにけり
8 1424春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける
8 1425あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも
8 1426我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
8 1427明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
8 1428おしてる 難波を過ぎて うち靡く 草香の山を 夕暮れに 我が越え来れば 山も狭に 咲ける馬酔木の 悪しからぬ 君をいつしか 行きて早見む
8 1429娘子らが かざしのために 風流士の かづらのためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
8 1430去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも
8 1431百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも
8 1432我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも
8 1433うち上る佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも
8 1434霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ
8 1435かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花
8 1436含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも
8 1437霞立つ春日の里の梅の花山のあらしに散りこすなゆめ
8 1438霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと我が思はなくに
8 1439時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺に霞たなびく
8 1440春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ
8 1441うち霧らひ雪は降りつつしかすがに我家の苑に鴬鳴くも
8 1442難波辺に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ
8 1443霞立つ野の上の方に行きしかば鴬鳴きつ春になるらし
8 1444山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり
8 1445風交り雪は降るとも実にならぬ我家の梅を花に散らすな
8 1446春の野にあさる雉の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ
8 1447世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ
8 1448我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む
8 1449茅花抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり我が恋ふらくは
8 1450心ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは
8 1451水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも
8 1452闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや
8 1453玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思ふ君は うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より 大船に 真楫しじ貫き 白波の 高き荒海を 島伝ひ い別れ行かば 留まれる 我れは幣引き 斎ひつ
8 1454波の上ゆ見ゆる小島の雲隠りあな息づかし相別れなば
8 1455たまきはる命に向ひ恋ひむゆは君が御船の楫柄にもが
8 1456この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな
8 1457この花の一節のうちは百種の言待ちかねて折らえけらずや
8 1458やどにある桜の花は今もかも松風早み地に散るらむ
8 1459世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも
8 1460戯奴 [變云 わけ] がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ
8 1461昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ
8 1462我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食めどいや痩せに痩す
8 1463我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも
8 1464春霞たなびく山のへなれれば妹に逢はずて月ぞ経にける
8 1465霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに
8 1466神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ
8 1467霍公鳥なかる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも
8 1468霍公鳥声聞く小野の秋風に萩咲きぬれや声の乏しき
8 1469あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に偲はゆ
8 1470もののふの石瀬の社の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭に
8 1471恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり
8 1472霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを
8 1473橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き
8 1474今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ我れなけれども
8 1475何しかもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ
8 1476ひとり居て物思ふ宵に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし
8 1477卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす
8 1478我が宿の花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりなむ
8 1479隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし
8 1480我が宿に月おし照れり霍公鳥心あれ今夜来鳴き響もせ
8 1481我が宿の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時
8 1482皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや
8 1483我が背子が宿の橘花をよみ鳴く霍公鳥見にぞ我が来し
8 1484霍公鳥いたくな鳴きそひとり居て寐の寝らえぬに聞けば苦しも
8 1485夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らば移ろひなむか
8 1486我が宿の花橘を霍公鳥来鳴かず地に散らしてむとか
8 1487霍公鳥思はずありき木の暗のかくなるまでに何か来鳴かぬ
8 1488いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥我家の里に今日のみぞ鳴く
8 1489我が宿の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり
8 1490霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか
8 1491卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る
8 1492君が家の花橘はなりにけり花のある時に逢はましものを
8 1493我が宿の花橘を霍公鳥来鳴き響めて本に散らしつ
8 1494夏山の木末の茂に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ
8 1495あしひきの木の間立ち潜く霍公鳥かく聞きそめて後恋ひむかも
8 1496我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも
8 1497筑波嶺に我が行けりせば霍公鳥山彦響め鳴かましやそれ
8 1498暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ
8 1499言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ
8 1500夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ
8 1501霍公鳥鳴く峰の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
8 1502五月の花橘を君がため玉にこそ貫け散らまく惜しみ
8 1503我妹子が家の垣内のさ百合花ゆりと言へるはいなと言ふに似る
8 1504暇なみ五月をすらに我妹子が花橘を見ずか過ぎなむ
8 1505霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも
8 1506故郷の奈良思の岡の霍公鳥言告げ遣りしいかに告げきや
8 1507いかといかと ある我が宿に 百枝さし 生ふる橘 玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝に日に 出で見るごとに 息の緒に 我が思ふ妹に まそ鏡 清き月夜に ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだく
8 1508望ぐたち清き月夜に我妹子に見せむと思ひしやどの橘
8 1509妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を地に散らしつ
8 1510なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも
8 1511夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも
8 1512経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね
8 1513今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し
8 1514秋萩は咲くべくあらし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば
8 1515言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを [一云 国にあらずは]
8 1516秋山にもみつ木の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲りせむ
8 1517味酒三輪のはふりの山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも
8 1518天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな [一云 川に向ひて]
8 1519久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ
8 1520彦星は 織女と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 川に向き立ち 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波に 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ かくのみや 恋ひつつあらむ さ丹塗りの 小舟もがも 玉
8 1521風雲は二つの岸に通へども我が遠妻の [一云 愛し妻の] 言ぞ通はぬ
8 1522たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき
8 1523秋風の吹きにし日よりいつしかと我が待ち恋ひし君ぞ来ませる
8 1524天の川いと川波は立たねどもさもらひかたし近きこの瀬を
8 1525袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば
8 1526玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは
8 1527彦星の妻迎へ舟漕ぎ出らし天の川原に霧の立てるは
8 1528霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳の裾濡れぬ
8 1529天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも
8 1530をみなへし秋萩交る蘆城の野今日を始めて万世に見む
8 1531玉櫛笥蘆城の川を今日見ては万代までに忘らえめやも
8 1532草枕旅行く人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも
8 1533伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花し思ほゆ
8 1534をみなへし秋萩折れれ玉桙の道行きづとと乞はむ子がため
8 1535我が背子をいつぞ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く
8 1536宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ
8 1537秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 [其一]
8 1538萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 [其二]
8 1539秋の田の穂田を雁がね暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも
8 1540今朝の朝明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける
8 1541我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿
8 1542我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
8 1543秋の露は移しにありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば
8 1544彦星の思ひますらむ心より見る我れ苦し夜の更けゆけば
8 1545織女の袖継ぐ宵の暁は川瀬の鶴は鳴かずともよし
8 1546妹がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける
8 1547さを鹿の萩に貫き置ける露の白玉あふさわに誰れの人かも手に巻かむちふ
8 1548咲く花もをそろはいとはしおくてなる長き心になほしかずけり
8 1549射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため
8 1550秋萩の散りの乱ひに呼びたてて鳴くなる鹿の声の遥けさ
8 1551時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ
8 1552夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも
8 1553時雨の雨間なくし降れば御笠山木末あまねく色づきにけり
8 1554大君の御笠の山の黄葉は今日の時雨に散りか過ぎなむ
8 1555秋立ちて幾日もあらねばこの寝ぬる朝明の風は手本寒しも
8 1556秋田刈る刈廬もいまだ壊たねば雁が音寒し霜も置きぬがに
8 1557明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
8 1558鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
8 1559秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや
8 1560妹が目を始見の崎の秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ
8 1561吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨しさ
8 1562誰れ聞きつこゆ鳴き渡る雁がねの妻呼ぶ声の羨しくもあるか
8 1563聞きつやと妹が問はせる雁が音はまことも遠く雲隠るなり
8 1564秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも
8 1565我が宿の一群萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
8 1566久方の雨間も置かず雲隠り鳴きぞ行くなる早稲田雁がね
8 1567雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ
8 1568雨隠り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり
8 1569雨晴れて清く照りたるこの月夜またさらにして雲なたなびき
8 1570ここにありて春日やいづち雨障み出でて行かねば恋ひつつぞ居る
8 1571春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高円の山
8 1572我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが
8 1573秋の雨に濡れつつ居ればいやしけど我妹が宿し思ほゆるかも
8 1574雲の上に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむとた廻り来つ
8 1575雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも
8 1576この岡に小鹿踏み起しうかねらひかもかもすらく君故にこそ
8 1577秋の野の尾花が末を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも
8 1578今朝鳴きて行きし雁が音寒みかもこの野の浅茅色づきにける
8 1579朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな
8 1580さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを
8 1581手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも
8 1582めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに
8 1583黄葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも
8 1584めづらしと我が思ふ君は秋山の初黄葉に似てこそありけれ
8 1585奈良山の嶺の黄葉取れば散る時雨の雨し間なく降るらし
8 1586黄葉を散らまく惜しみ手折り来て今夜かざしつ何か思はむ
8 1587あしひきの山の黄葉今夜もか浮かび行くらむ山川の瀬に
8 1588奈良山をにほはす黄葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも
8 1589露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも
8 1590十月時雨にあへる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに
8 1591黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか
8 1592しかとあらぬ五百代小田を刈り乱り田廬に居れば都し思ほゆ
8 1593隠口の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
8 1594時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも
8 1595秋萩の枝もとををに置く露の消なば消ぬとも色に出でめやも
8 1596妹が家の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも
8 1597秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり
8 1598さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露
8 1599さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる
8 1600妻恋ひに鹿鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく
8 1601めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも
8 1602山彦の相響むまで妻恋ひに鹿鳴く山辺に独りのみして
8 1603このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも
8 1604秋されば春日の山の黄葉見る奈良の都の荒るらく惜しも
8 1605高円の野辺の秋萩このころの暁露に咲きにけむかも
8 1606君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く
8 1607風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
8 1608秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
8 1609宇陀の野の秋萩しのぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく我れにはまさじ
8 1610高円の秋野の上のなでしこの花うら若み人のかざししなでしこの花
8 1611あしひきの山下響め鳴く鹿の言ともしかも我が心夫
8 1612神さぶといなにはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも
8 1613秋の野を朝行く鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今夜か
8 1614九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも
8 1615大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ [大浦者遠江國之海濱名也]
8 1616朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも
8 1617秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙は留めかねつも
8 1618玉に貫き消たず賜らむ秋萩の末わくらばに置ける白露
8 1619玉桙の道は遠けどはしきやし妹を相見に出でてぞ我が来し
8 1620あらたまの月立つまでに来まさねば夢にし見つつ思ひぞ我がせし
8 1621我が宿の萩花咲けり見に来ませいま二日だみあらば散りなむ
8 1622我が宿の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を
8 1623我が宿にもみつ蝦手見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし
8 1624我が蒔ける早稲田の穂立作りたるかづらぞ見つつ偲はせ我が背
8 1625我妹子が業と作れる秋の田の早稲穂のかづら見れど飽かぬかも
8 1626秋風の寒きこのころ下に着む妹が形見とかつも偲はむ
8 1627我が宿の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを
8 1628我が宿の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる
8 1629ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし 妹と我れと 手携さはりて 朝には 庭に出で立ち 夕には 床うち掃ひ 白栲の 袖さし交へて さ寝し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峰向ひに 妻問ひすといへ うつせみの
8 1630高円の野辺のかほ花面影に見えつつ妹は忘れかねつも
8 1631今造る久迩の都に秋の夜の長きにひとり寝るが苦しさ
8 1632あしひきの山辺に居りて秋風の日に異に吹けば妹をしぞ思ふ
8 1633手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ
8 1634衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し
8 1635佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を [尼作] 刈れる初飯はひとりなるべし [家持續]
8 1636大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
8 1637はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに
8 1638あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも
8 1639沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも
8 1640我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
8 1641淡雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも
8 1642たな霧らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代にそへてだに見む
8 1643天霧らし雪も降らぬかいちしろくこのいつ柴に降らまくを見む
8 1644引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも
8 1645我が宿の冬木の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも
8 1646ぬばたまの今夜の雪にいざ濡れな明けむ朝に消なば惜しけむ
8 1647梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る
8 1648十二月には淡雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして
8 1649今日降りし雪に競ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり
8 1650池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む
8 1651淡雪のこのころ継ぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ
8 1652梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり
8 1653今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の地に落ちめやも
8 1654松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむことはかもなき
8 1655高山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬと言ふべくも恋の繁けく
8 1656酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし
8 1657官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
8 1658我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし
8 1659真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背
8 1660梅の花散らすあらしの音のみに聞きし我妹を見らくしよしも
8 1661久方の月夜を清み梅の花心開けて我が思へる君
8 1662淡雪の消ぬべきものを今までに流らへぬるは妹に逢はむとぞ
8 1663淡雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕まかずひとりかも寝む
9 1664夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも
9 1665妹がため我れ玉拾ふ沖辺なる玉寄せ持ち来沖つ白波
9 1666朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山道越ゆらむ
9 1667妹がため我れ玉求む沖辺なる白玉寄せ来沖つ白波
9 1668白崎は幸くあり待て大船に真梶しじ貫きまたかへり見む
9 1669南部の浦潮な満ちそね鹿島なる釣りする海人を見て帰り来む
9 1670朝開き漕ぎ出て我れは由良の崎釣りする海人を見て帰り来む
9 1671由良の崎潮干にけらし白神の礒の浦廻をあへて漕ぐなり
9 1672黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻
9 1673風莫の浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに [一云 ここに寄せ来も]
9 1674我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ
9 1675藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも
9 1676背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ
9 1677大和には聞こえも行くか大我野の竹葉刈り敷き廬りせりとは
9 1678紀の国の昔弓雄の鳴り矢もち鹿取り靡けし坂の上にぞある
9 1679紀の国にやまず通はむ妻の杜妻寄しこせに妻といひながら [一云 妻賜はにも妻といひながら]
9 1680あさもよし紀へ行く君が真土山越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね
9 1681後れ居て我が恋ひ居れば白雲のたなびく山を今日か越ゆらむ
9 1682とこしへに夏冬行けや裘扇放たぬ山に住む人
9 1683妹が手を取りて引き攀ぢふさ手折り我がかざすべく花咲けるかも
9 1684春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだふふめり君待ちかてに
9 1685川の瀬のたぎつを見れば玉藻かも散り乱れたる川の常かも
9 1686彦星のかざしの玉は妻恋ひに乱れにけらしこの川の瀬に
9 1687白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も更けゆくを
9 1688あぶり干す人もあれやも濡れ衣を家には遣らな旅のしるしに
9 1689あり衣辺につきて漕がさね杏人の浜を過ぐれば恋しくありなり
9 1690高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ
9 1691旅なれば夜中をさして照る月の高島山に隠らく惜しも
9 1692我が恋ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷き独りかも寝む
9 1693玉櫛笥明けまく惜しきあたら夜を衣手離れて独りかも寝む
9 1694栲領巾の鷺坂山の白つつじ我れににほはに妹に示さむ
9 1695妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも
9 1696衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか
9 1697家人の使ひにあらし春雨の避くれど我れを濡らさく思へば
9 1698あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを真使ひにする
9 1699巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田居に雁渡るらし
9 1700秋風に山吹の瀬の鳴るなへに天雲翔る雁に逢へるかも
9 1701さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空を月渡る見ゆ
9 1702妹があたり繁き雁が音夕霧に来鳴きて過ぎぬすべなきまでに
9 1703雲隠り雁鳴く時は秋山の黄葉片待つ時は過ぐれど
9 1704ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
9 1705冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ我れぞ
9 1706ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手を高屋の上にたなびくまでに
9 1707山背の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり
9 1708春草を馬咋山ゆ越え来なる雁の使は宿り過ぐなり
9 1709御食向ふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる
9 1710我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜
9 1711百伝ふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島は見れど飽かぬかも
9 1712天の原雲なき宵にぬばたまの夜渡る月の入らまく惜しも
9 1713滝の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴き渡るは誰れ呼子鳥
9 1714落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ
9 1715楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ
9 1716白波の浜松の木の手向けくさ幾代までにか年は経ぬらむ
9 1717三川の淵瀬もおちず小網さすに衣手濡れぬ干す子はなしに
9 1718率ひて漕ぎ去にし舟は高島の安曇の港に泊てにけむかも
9 1719照る月を雲な隠しそ島蔭に我が舟泊てむ泊り知らずも
9 1720馬並めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む
9 1721苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに
9 1722吉野川川波高み滝の浦を見ずかなりなむ恋しけまくに
9 1723かわづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
9 1724見まく欲り来しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく
9 1725いにしへの賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
9 1726難波潟潮干に出でて玉藻刈る海人娘子ども汝が名告らさね
9 1727あさりする人とを見ませ草枕旅行く人に我が名は告らじ
9 1728慰めて今夜は寝なむ明日よりは恋ひかも行かむこゆ別れなば
9 1729暁の夢に見えつつ梶島の礒越す波のしきてし思ほゆ
9 1730山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ
9 1731山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも
9 1732大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
9 1733思ひつつ来れど来かねて三尾の崎真長の浦をまたかへり見つ
9 1734高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
9 1735我が畳三重の川原の礒の裏にかくしもがもと鳴くかはづかも
9 1736山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも
9 1737大滝を過ぎて夏身に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ
9 1738しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は
9 1739金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
9 1740春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ
9 1741常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心からおそやこの君
9 1742しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく
9 1743大橋の頭に家あらばま悲しく独り行く子に宿貸さましを
9 1744埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽霧るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし
9 1745三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが
9 1746遠妻し多賀にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし
9 1747白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで
9 1748我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし
9 1749白雲の 龍田の山を 夕暮れに うち越え行けば 瀧の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見さずとも 君がみ行きは 今にしあるべし
9 1750暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを
9 1751島山を い行き廻れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ 昨日こそ 我が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに 峰の上の 桜の花は 瀧の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜に 風祭せな
9 1752い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも
9 1753衣手 常陸の国の 二並ぶ 筑波の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆げ 木の根取り うそぶき登り 峰の上を 君に見すれば 男神も 許したまひ 女神も ちはひたまひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺を さやに照らして い
9 1754今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も
9 1755鴬の 卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛び翔り 来鳴き響もし 橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし 賄はせむ 遠くな行きそ 我が宿の 花橘に 住みわた
9 1756かき霧らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥
9 1757草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ
9 1758筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな
9 1759鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな [の歌
9 1760男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや
9 1761三諸の 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしひきの 山彦響め 呼びたて鳴くも
9 1762明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼びたて鳴くも
9 1763倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の片待ちかたき
9 1764久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 舟浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
9 1765天の川霧立ちわたる今日今日と我が待つ君し舟出すらしも
9 1766我妹子は釧にあらなむ左手の我が奥の手に巻きて去なましを
9 1767豊国の香春は我家紐児にいつがり居れば香春は我家
9 1768石上布留の早稲田の穂には出でず心のうちに恋ふるこのころ
9 1769かくのみし恋ひしわたればたまきはる命も我れは惜しけくもなし
9 1770みもろの神の帯ばせる泊瀬川水脈し絶えずは我れ忘れめや
9 1771後れ居て我れはや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去なば
9 1772後れ居て我れはや恋ひむ印南野の秋萩見つつ去なむ子故に
9 1773神なびの神寄せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
9 1774たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや
9 1775泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門に近づきにけり
9 1776絶等寸の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ
9 1777君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず
9 1778明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば
9 1779命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む
9 1780ことひ牛の 三宅の潟に さし向ふ 鹿島の崎に さ丹塗りの 小舟を設け 玉巻きの 小楫繁貫き 夕潮の 満ちのとどみに 御船子を 率ひたてて 呼びたてて 御船出でなば 浜も狭に 後れ並み居て こいまろび 恋ひかも居らむ 足すりし 音の
9 1781海つ道のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
9 1782雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
9 1783松返りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴
9 1784海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
9 1785人となる ことはかたきを わくらばに なれる我が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間に うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋
9 1786み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる我れを懸けて偲はせ
9 1787うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 敷島の 大和の国の 石上 布留の里に 紐解かず 丸寝をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐も寝ずに 我れはぞ恋ふ
9 1788布留山ゆ直に見わたす都にぞ寐も寝ず恋ふる遠くあらなくに
9 1789我妹子が結ひてし紐を解かめやも絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに
9 1790秋萩を 妻どふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を 繁に貫き垂れ 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我子 ま幸くありこそ
9 1791旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
9 1792白玉の 人のその名を なかなかに 言を下延へ 逢はぬ日の 数多く過ぐれば 恋ふる日の 重なりゆけば 思ひ遣る たどきを知らに 肝向ふ 心砕けて 玉たすき 懸けぬ時なく 口やまず 我が恋ふる子を 玉釧 手に取り持ちて まそ鏡 直目に
9 1793垣ほなす人の横言繁みかも逢はぬ日数多く月の経ぬらむ
9 1794たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして
9 1795妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ
9 1796黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも
9 1797潮気立つ荒礒にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
9 1798いにしへに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見れば寂しも
9 1799玉津島礒の浦廻の真砂にもにほひて行かな妹も触れけむ
9 1800小垣内の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ 白栲の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 国に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏が鳴く 東の国の 畏きや 神の御坂に 和妙の
9 1801古への ますら壮士の 相競ひ 妻問ひしけむ 葦屋の 菟原娘子の 奥城を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと 玉桙の 道の辺近く 岩構へ 造れる塚を 天雲の そくへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて
9 1802古への信太壮士の妻問ひし菟原娘子の奥城ぞこれ
9 1803語り継ぐからにもここだ恋しきを直目に見けむ古へ壮士
9 1804父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家なみか また帰り来ぬ 遠つ国 黄泉の境に 延ふ蔦の おのが向き向き 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ惑はひ 射ゆ鹿の 心を
9 1805別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我れ恋ひめやも [一云 心尽して]
9 1806あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば心苦しも
9 1807鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめ
9 1808勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
9 1809葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は
9 1810芦屋の菟原娘子の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
9 1811墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
10 1812ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
10 1813巻向の桧原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
10 1814いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
10 1815子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
10 1816玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく
10 1817今朝行きて明日には来なむと云子鹿丹朝妻山に霞たなびく
10 1818子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖に霞たなびく
10 1819うち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末に鴬鳴きつ
10 1820梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらず鴬の声
10 1821春霞流るるなへに青柳の枝くひ持ちて鴬鳴くも
10 1822我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに
10 1823朝ゐでに来鳴く貌鳥汝れだにも君に恋ふれや時終へず鳴く
10 1824冬こもり春さり来ればあしひきの山にも野にも鴬鳴くも
10 1825紫草の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも
10 1826春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな
10 1827春日なる羽がひの山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子鳥
10 1828答へぬにな呼び響めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに
10 1829梓弓春山近く家居れば継ぎて聞くらむ鴬の声
10 1830うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽打ち触れて鴬鳴くも
10 1831朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ
10 1832うち靡く春さり来ればしかすがに天雲霧らひ雪は降りつつ
10 1833梅の花降り覆ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消につつ
10 1834梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ
10 1835今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春へとなりにしものを
10 1836風交り雪は降りつつしかすがに霞たなびき春さりにけり
10 1837山の際に鴬鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ
10 1838峰の上に降り置ける雪し風の共ここに散るらし春にはあれども
10 1839君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ
10 1840梅が枝に鳴きて移ろふ鴬の羽白妙に沫雪ぞ降る
10 1841山高み降り来る雪を梅の花散りかも来ると思ひつるかも [一云 梅の花咲きかも散ると]
10 1842雪をおきて梅をな恋ひそあしひきの山片付きて家居せる君
10 1843昨日こそ年は果てしか春霞春日の山に早立ちにけり
10 1844冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく
10 1845鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
10 1846霜枯れの冬の柳は見る人のかづらにすべく萌えにけるかも
10 1847浅緑染め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも
10 1848山の際に雪は降りつつしかすがにこの川楊は萌えにけるかも
10 1849山の際の雪は消ずあるをみなぎらふ川の沿ひには萌えにけるかも
10 1850朝な朝な我が見る柳鴬の来居て鳴くべく森に早なれ
10 1851青柳の糸のくはしさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも
10 1852ももしきの大宮人のかづらけるしだり柳は見れど飽かぬかも
10 1853梅の花取り持ち見れば我が宿の柳の眉し思ほゆるかも
10 1854鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ
10 1855桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ
10 1856我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
10 1857年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人我れし春なかりけり
10 1858うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも
10 1859馬並めて多賀の山辺を白栲ににほはしたるは梅の花かも
10 1860花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花
10 1861能登川の水底さへに照るまでに御笠の山は咲きにけるかも
10 1862雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ
10 1863去年咲きし久木今咲くいたづらに地にか落ちむ見る人なしに
10 1864あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも
10 1865うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
10 1866雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも
10 1867阿保山の桜の花は今日もかも散り乱ふらむ見る人なしに
10 1868かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ
10 1869春雨に争ひかねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり
10 1870春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
10 1871春されば散らまく惜しき梅の花しましは咲かずふふみてもがも
10 1872見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも
10 1873いつしかもこの夜の明けむ鴬の木伝ひ散らす梅の花見む
10 1874春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に
10 1875春されば木の暗多み夕月夜おほつかなしも山蔭にして [一云 春されば木蔭を多み夕月夜]
10 1876朝霞春日の暮は木の間より移ろふ月をいつとか待たむ
10 1877春の雨にありけるものを立ち隠り妹が家道にこの日暮らしつ
10 1878今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を
10 1879春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも
10 1880春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえめやも
10 1881春霞立つ春日野を行き返り我れは相見むいや年のはに
10 1882春の野に心延べむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか
10 1883ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる
10 1884冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく
10 1885物皆は新たしきよしただしくも人は古りにしよろしかるべし
10 1886住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君に逢へるかも
10 1887春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
10 1888白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺の鴬鳴くも
10 1889我が宿の毛桃の下に月夜さし下心よしうたてこのころ
10 1890春山の友鴬の泣き別れ帰ります間も思ほせ我れを
10 1891冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひわたるかも
10 1892春山の霧に惑へる鴬も我れにまさりて物思はめやも
10 1893出でて見る向ひの岡に本茂く咲きたる花のならずはやまじ
10 1894霞立つ春の長日を恋ひ暮らし夜も更けゆくに妹も逢はぬかも
10 1895春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹
10 1896春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも
10 1897春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば
10 1898貌鳥の間なくしば鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも
10 1899春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも
10 1900梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてり
10 1901藤波の咲く春の野に延ふ葛の下よし恋ひば久しくもあらむ
10 1902春の野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも
10 1903我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり
10 1904梅の花しだり柳に折り交へ花に供へば君に逢はむかも
10 1905をみなへし佐紀野に生ふる白つつじ知らぬこともち言はえし我が背
10 1906梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね
10 1907かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば
10 1908春されば水草の上に置く霜の消につつも我れは恋ひわたるかも
10 1909春霞山にたなびきおほほしく妹を相見て後恋ひむかも
10 1910春霞立ちにし日より今日までに我が恋やまず本の繁けば [一云 片思にして]
10 1911さ丹つらふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひわたるかも
10 1912たまきはる我が山の上に立つ霞立つとも居とも君がまにまに
10 1913見わたせば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か
10 1914恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかに暮らさむ
10 1915我が背子に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らず出でて来しかも
10 1916今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らずあらなくに
10 1917春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや
10 1918梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ
10 1919国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ
10 1920春草の繁き我が恋大海の辺に行く波の千重に積もりぬ
10 1921おほほしく君を相見て菅の根の長き春日を恋ひわたるかも
10 1922梅の花咲きて散りなば我妹子を来むか来じかと我が松の木ぞ
10 1923白真弓今春山に行く雲の行きや別れむ恋しきものを
10 1924大夫の伏し居嘆きて作りたるしだり柳のかづらせ我妹
10 1925朝戸出の君が姿をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ
10 1926春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄そるともよし
10 1927石上布留の神杉神びにし我れやさらさら恋にあひにける
10 1928さのかたは実にならずとも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに
10 1929さのかたは実になりにしを今さらに春雨降りて花咲かめやも
10 1930梓弓引津の辺なるなのりその花咲くまでに逢はぬ君かも
10 1931川の上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
10 1932春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに
10 1933我妹子に恋ひつつ居れば春雨のそれも知るごとやまず降りつつ
10 1934相思はぬ妹をやもとな菅の根の長き春日を思ひ暮らさむ
10 1935春さればまづ鳴く鳥の鴬の言先立ちし君をし待たむ
10 1936相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく
10 1937大夫の 出で立ち向ふ 故郷の 神なび山に 明けくれば 柘のさ枝に 夕されば 小松が末に 里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響むまで 霍公鳥 妻恋ひすらし さ夜中に鳴く
10 1938旅にして妻恋すらし霍公鳥神なび山にさ夜更けて鳴く
10 1939霍公鳥汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ
10 1940朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ
10 1941朝霧の八重山越えて呼子鳥鳴きや汝が来る宿もあらなくに
10 1942霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女
10 1943月夜よみ鳴く霍公鳥見まく欲り我れ草取れり見む人もがも
10 1944藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城の岡を鳴きて越ゆなり
10 1945朝霧の八重山越えて霍公鳥卯の花辺から鳴きて越え来ぬ
10 1946木高くはかつて木植ゑじ霍公鳥来鳴き響めて恋まさらしむ
10 1947逢ひかたき君に逢へる夜霍公鳥他時よりは今こそ鳴かめ
10 1948木の暗の夕闇なるに [一云 なれば] 霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ
10 1949霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは君聞きけむか朝寐か寝けむ
10 1950霍公鳥花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ
10 1951うれたきや醜霍公鳥今こそば声の嗄るがに来鳴き響めめ
10 1952今夜のおほつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ
10 1953五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも
10 1954霍公鳥来居も鳴かぬか我がやどの花橘の地に落ちむ見む
10 1955霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
10 1956大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとになき人思ほゆ
10 1957卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥野に出で山に入り来鳴き響もす
10 1958橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで棲みわたるがね
10 1959雨晴れの雲にたぐひて霍公鳥春日をさしてこゆ鳴き渡る
10 1960物思ふと寐ねぬ朝明に霍公鳥鳴きてさ渡るすべなきまでに
10 1961我が衣を君に着せよと霍公鳥我れをうながす袖に来居つつ
10 1962本つ人霍公鳥をやめづらしく今か汝が来る恋ひつつ居れば
10 1963かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ
10 1964黙もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな
10 1965思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも
10 1966風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも
10 1967かぐはしき花橘を玉に貫き贈らむ妹はみつれてもあるか
10 1968霍公鳥来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰れ
10 1969我が宿の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも
10 1970見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね
10 1971雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも
10 1972野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも
10 1973我妹子に楝の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも
10 1974春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざさむ
10 1975時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ
10 1976卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや
10 1977聞きつやと君が問はせる霍公鳥しののに濡れてこゆ鳴き渡る
10 1978橘の花散る里に通ひなば山霍公鳥響もさむかも
10 1979春さればすがるなす野の霍公鳥ほとほと妹に逢はず来にけり
10 1980五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも
10 1981霍公鳥来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも
10 1982ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く
10 1983人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば
10 1984このころの恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひしくごとし
10 1985ま葛延ふ夏野の繁くかく恋ひばまこと我が命常ならめやも
10 1986我れのみやかく恋すらむかきつはた丹つらふ妹はいかにかあるらむ
10 1987片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
10 1988鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
10 1989卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思にして
10 1990我れこそば憎くもあらめ我がやどの花橘を見には来じとや
10 1991霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや
10 1992隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む
10 1993外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも
10 1994夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき
10 1995六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして
10 1996天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや
10 1997久方の天の川原にぬえ鳥のうら歎げましつすべなきまでに
10 1998我が恋を嬬は知れるを行く舟の過ぎて来べしや言も告げなむ
10 1999赤らひく色ぐはし子をしば見れば人妻ゆゑに我れ恋ひぬべし
10 2000天の川安の渡りに舟浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ
10 2001大空ゆ通ふ我れすら汝がゆゑに天の川道をなづみてぞ来し
10 2002八千桙の神の御代よりともし妻人知りにけり継ぎてし思へば
10 2003我が恋ふる丹のほの面わこよひもか天の川原に石枕まかむ
10 2004己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに
10 2005天地と別れし時ゆ己が妻しかぞ年にある秋待つ我れは
10 2006彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ
10 2007ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代し恨めし
10 2008ぬばたまの夜霧に隠り遠くとも妹が伝へは早く告げこそ
10 2009汝が恋ふる妹の命は飽き足らに袖振る見えつ雲隠るまで
10 2010夕星も通ふ天道をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士
10 2011天の川い向ひ立ちて恋しらに言だに告げむ妻と言ふまでは
10 2012白玉の五百つ集ひを解きもみず我は干しかてぬ逢はむ日待つに
10 2013天の川水蔭草の秋風に靡かふ見れば時は来にけり
10 2014我が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人に
10 2015我が背子にうら恋ひ居れば天の川夜舟漕ぐなる楫の音聞こゆ
10 2016ま日長く恋ふる心ゆ秋風に妹が音聞こゆ紐解き行かな
10 2017恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに
10 2018天の川去年の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞ更けにける
10 2019いにしへゆあげてし服も顧みず天の川津に年ぞ経にける
10 2020天の川夜船を漕ぎて明けぬとも逢はむと思ふ夜袖交へずあらむ
10 2021遠妻と手枕交へて寝たる夜は鶏がねな鳴き明けば明けぬとも
10 2022相見らく飽き足らねどもいなのめの明けさりにけり舟出せむ妻
10 2023さ寝そめていくだもあらねば白栲の帯乞ふべしや恋も過ぎねば
10 2024万代にたづさはり居て相見とも思ひ過ぐべき恋にあらなくに
10 2025万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど
10 2026白雲の五百重に隠り遠くとも宵さらず見む妹があたりは
10 2027我がためと織女のそのやどに織る白栲は織りてけむかも
10 2028君に逢はず久しき時ゆ織る服の白栲衣垢付くまでに
10 2029天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも
10 2030秋されば川霧立てる天の川川に向き居て恋ふる夜ぞ多き
10 2031よしゑやし直ならずともぬえ鳥のうら嘆げ居りと告げむ子もがも
10 2032一年に七日の夜のみ逢ふ人の恋も過ぎねば夜は更けゆくも [一云 尽きねばさ夜ぞ明けにける]
10 2033天の川安の川原定而神競者磨待無
10 2034織女の五百機立てて織る布の秋さり衣誰れか取り見む
10 2035年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠れる遠妻の手を
10 2036我が待ちし秋は来りぬ妹と我れと何事あれぞ紐解かずあらむ
10 2037年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ
10 2038逢はなくは日長きものを天の川隔ててまたや我が恋ひ居らむ
10 2039恋しけく日長きものを逢ふべくある宵だに君が来まさずあるらむ
10 2040彦星と織女と今夜逢ふ天の川門に波立つなゆめ
10 2041秋風の吹きただよはす白雲は織女の天つ領巾かも
10 2042しばしばも相見ぬ君を天の川舟出早せよ夜の更けぬ間に
10 2043秋風の清き夕に天の川舟漕ぎ渡る月人壮士
10 2044天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば
10 2045君が舟今漕ぎ来らし天の川霧立ちわたるこの川の瀬に
10 2046秋風に川波立ちぬしましくは八十の舟津にみ舟留めよ
10 2047天の川川の音清し彦星の秋漕ぐ舟の波のさわきか
10 2048天の川川門に立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ [一云 天の川川に向き立ち]
10 2049天の川川門に居りて年月を恋ひ来し君に今夜逢へるかも
10 2050明日よりは我が玉床をうち掃ひ君と寐ねずてひとりかも寝む
10 2051天の原行きて射てむと白真弓引きて隠れる月人壮士
10 2052この夕降りくる雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも
10 2053天の川八十瀬霧らへり彦星の時待つ舟は今し漕ぐらし
10 2054風吹きて川波立ちぬ引き船に渡りも来ませ夜の更けぬ間に
10 2055天の川遠き渡りはなけれども君が舟出は年にこそ待て
10 2056天の川打橋渡せ妹が家道やまず通はむ時待たずとも
10 2057月重ね我が思ふ妹に逢へる夜は今し七夜を継ぎこせぬかも
10 2058年に装る我が舟漕がむ天の川風は吹くとも波立つなゆめ
10 2059天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に
10 2060ただ今夜逢ひたる子らに言どひもいまだせずしてさ夜ぞ明けにける
10 2061天の川白波高し我が恋ふる君が舟出は今しすらしも
10 2062機物のまね木持ち行きて天の川打橋渡す君が来むため
10 2063天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも
10 2064いにしへゆ織りてし服をこの夕衣に縫ひて君待つ我れを
10 2065足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも
10 2066月日おき逢ひてしあれば別れまく惜しくある君は明日さへもがも
10 2067天の川渡り瀬深み舟浮けて漕ぎ来る君が楫の音聞こゆ
10 2068天の原降り放け見れば天の川霧立ちわたる君は来ぬらし
10 2069天の川瀬ごとに幣をたてまつる心は君を幸く来ませと
10 2070久方の天の川津に舟浮けて君待つ夜らは明けずもあらぬか
10 2071天の川なづさひ渡る君が手もいまだまかねば夜の更けぬらく
10 2072渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ
10 2073ま日長く川に向き立ちありし袖今夜巻かむと思はくがよさ
10 2074天の川渡り瀬ごとに思ひつつ来しくもしるし逢へらく思へば
10 2075人さへや見継がずあらむ彦星の妻呼ぶ舟の近づき行くを [一云 見つつあるらむ]
10 2076天の川瀬を早みかもぬばたまの夜は更けにつつ逢はぬ彦星
10 2077渡り守舟早渡せ一年にふたたび通ふ君にあらなくに
10 2078玉葛絶えぬものからさ寝らくは年の渡りにただ一夜のみ
10 2079恋ふる日は日長きものを今夜だにともしむべしや逢ふべきものを
10 2080織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ
10 2081天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ
10 2082天の川川門八十ありいづくにか君がみ舟を我が待ち居らむ
10 2083秋風の吹きにし日より天の川瀬に出で立ちて待つと告げこそ
10 2084天の川去年の渡り瀬荒れにけり君が来まさむ道の知らなく
10 2085天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ
10 2086彦星の妻呼ぶ舟の引き綱の絶えむと君を我が思はなくに
10 2087渡り守舟出し出でむ今夜のみ相見て後は逢はじものかも
10 2088我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て
10 2089天地の 初めの時ゆ 天の川 い向ひ居りて 一年に ふたたび逢はぬ 妻恋ひに 物思ふ人 天の川 安の川原の あり通ふ 出の渡りに そほ舟の 艫にも舳にも 舟装ひ ま楫しじ貫き 旗すすき 本葉もそよに 秋風の 吹きくる宵に 天の川 白
10 2090高麗錦紐解きかはし天人の妻問ふ宵ぞ我れも偲はむ
10 2091彦星の川瀬を渡るさ小舟のい行きて泊てむ川津し思ほゆ
10 2092天地と 別れし時ゆ 久方の 天つしるしと 定めてし 天の川原に あらたまの 月重なりて 妹に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 我が衣手に 秋風の 吹きかへらへば 立ちて居て たどきを知らに むらきもの 心いさよひ 解き衣の 思ひ乱れ
10 2093妹に逢ふ時片待つとひさかたの天の川原に月ぞ経にける
10 2094さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも
10 2095夕されば野辺の秋萩うら若み露にぞ枯るる秋待ちかてに
10 2096真葛原靡く秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る
10 2097雁がねの来鳴かむ日まで見つつあらむこの萩原に雨な降りそね
10 2098奥山に棲むといふ鹿の夕さらず妻どふ萩の散らまく惜しも
10 2099白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折りて置きや枯らさむ
10 2100秋田刈る刈廬の宿りにほふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも
10 2101我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ
10 2102この夕秋風吹きぬ白露に争ふ萩の明日咲かむ見む
10 2103秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見に
10 2104朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけり
10 2105春されば霞隠りて見えずありし秋萩咲きぬ折りてかざさむ
10 2106沙額田の野辺の秋萩時なれば今盛りなり折りてかざさむ
10 2107ことさらに衣は摺らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ
10 2108秋風は疾く疾く吹き来萩の花散らまく惜しみ競ひ立たむ見む
10 2109我が宿の萩の末長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて
10 2110人皆は萩を秋と言ふよし我れは尾花が末を秋とは言はむ
10 2111玉梓の君が使の手折り来るこの秋萩は見れど飽かぬかも
10 2112我がやどに咲ける秋萩常ならば我が待つ人に見せましものを
10 2113手寸十名相植ゑしなしるく出で見れば宿の初萩咲きにけるかも
10 2114我が宿に植ゑ生ほしたる秋萩を誰れか標刺す我れに知らえず
10 2115手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
10 2116白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね
10 2117娘女らに行相の早稲を刈る時になりにけらしも萩の花咲く
10 2118朝霧のたなびく小野の萩の花今か散るらむいまだ飽かなくに
10 2119恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
10 2120秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも
10 2121秋風は日に異に吹きぬ高円の野辺の秋萩散らまく惜しも
10 2122大夫の心はなしに秋萩の恋のみにやもなづみてありなむ
10 2123我が待ちし秋は来たりぬしかれども萩の花ぞもいまだ咲かずける
10 2124見まく欲り我が待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり
10 2125春日野の萩し散りなば朝東風の風にたぐひてここに散り来ね
10 2126秋萩は雁に逢はじと言へればか [一云 言へれかも] 声を聞きては花に散りぬる
10 2127秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも
10 2128秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲隠りつつ
10 2129明け暮れの朝霧隠り鳴きて行く雁は我が恋妹に告げこそ
10 2130我が宿に鳴きし雁がね雲の上に今夜鳴くなり国へかも行く
10 2131さを鹿の妻どふ時に月をよみ雁が音聞こゆ今し来らしも
10 2132天雲の外に雁が音聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は [一云 いやますますに恋こそまされ]
10 2133秋の田の我が刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞こゆ冬かたまけて
10 2134葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る [一云 秋風に雁が音聞こゆ今し来らしも]
10 2135おしてる難波堀江の葦辺には雁寝たるかも霜の降らくに
10 2136秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし
10 2137朝に行く雁の鳴く音は我がごとく物思へれかも声の悲しき
10 2138鶴がねの今朝鳴くなへに雁がねはいづくさしてか雲隠るらむ
10 2139ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てかおのが名を告る
10 2140あらたまの年の経ゆけばあどもふと夜渡る我れを問ふ人や誰れ
10 2141このころの秋の朝明に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
10 2142さを鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原
10 2143君に恋ひうらぶれ居れば敷の野の秋萩しのぎさを鹿鳴くも
10 2144雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり
10 2145秋萩の恋も尽きねばさを鹿の声い継ぎい継ぎ恋こそまされ
10 2146山近く家や居るべきさを鹿の声を聞きつつ寐ねかてぬかも
10 2147山の辺にい行くさつ男は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも
10 2148あしひきの山より来せばさを鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを
10 2149山辺にはさつ男のねらひ畏けどを鹿鳴くなり妻が目を欲り
10 2150秋萩の散りゆく見ればおほほしみ妻恋すらしさを鹿鳴くも
10 2151山遠き都にしあればさを鹿の妻呼ぶ声は乏しくもあるか
10 2152秋萩の散り過ぎゆかばさを鹿はわび鳴きせむな見ずはともしみ
10 2153秋萩の咲きたる野辺はさを鹿ぞ露を別けつつ妻どひしける
10 2154なぞ鹿のわび鳴きすなるけだしくも秋野の萩や繁く散るらむ
10 2155秋萩の咲たる野辺にさを鹿は散らまく惜しみ鳴き行くものを
10 2156あしひきの山の常蔭に鳴く鹿の声聞かすやも山田守らす子
10 2157夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも
10 2158秋風の寒く吹くなへ我が宿の浅茅が本にこほろぎ鳴くも
10 2159蔭草の生ひたる宿の夕影に鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも
10 2160庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり
10 2161み吉野の岩もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ
10 2162神なびの山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや
10 2163草枕旅に物思ひ我が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも
10 2164背を早み落ちたぎちたる白波にかはづ鳴くなり朝夕ごとに
10 2165上つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕されば衣手寒み妻まかむとか
10 2166妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし
10 2167秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹
10 2168秋萩に置ける白露朝な朝な玉としぞ見る置ける白露
10 2169夕立ちの雨降るごとに [一云 うち降れば] 春日野の尾花が上の白露思ほゆ
10 2170秋萩の枝もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも
10 2171白露と秋萩とには恋ひ乱れ別くことかたき我が心かも
10 2172我が宿の尾花押しなべ置く露に手触れ我妹子散らまくも見む
10 2173白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競ひて萩の遊びせむ
10 2174秋田刈る刈廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
10 2175このころの秋風寒し萩の花散らす白露置きにけらしも
10 2176秋田刈る苫手動くなり白露し置く穂田なしと告げに来ぬらし [一云 告げに来らしも]
10 2177春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも
10 2178妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも
10 2179朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね
10 2180九月のしぐれの雨に濡れ通り春日の山は色づきにけり
10 2181雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは
10 2182このころの暁露に我がやどの萩の下葉は色づきにけり
10 2183雁がねは今は来鳴きぬ我が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも
10 2184秋山をゆめ人懸くな忘れにしその黄葉の思ほゆらくに
10 2185大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ
10 2186秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉色づきにけり
10 2187妹が袖巻来の山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも
10 2188黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ
10 2189露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は
10 2190我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし
10 2191雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける
10 2192我が背子が白栲衣行き触ればにほひぬべくももみつ山かも
10 2193秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり
10 2194雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
10 2195雁がねの声聞くなへに明日よりは春日の山はもみちそめなむ
10 2196しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり
10 2197いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり [謂大城山者 在筑前<國>御笠郡之大野山頂 号曰大城者也]
10 2198風吹けば黄葉散りつつすくなくも吾の松原清くあらなくに
10 2199物思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり
10 2200九月の白露負ひてあしひきの山のもみたむ見まくしもよし
10 2201妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
10 2202黄葉する時になるらし月人の桂の枝の色づく見れば
10 2203里ゆ異に霜は置くらし高松の野山づかさの色づく見れば
10 2204秋風の日に異に吹けば露を重み萩の下葉は色づきにけり
10 2205秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも
10 2206まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ
10 2207我がやどの浅茅色づく吉隠の夏身の上にしぐれ降るらし
10 2208雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり
10 2209秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも
10 2210明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
10 2211妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
10 2212雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる御笠の山は色づきにけり
10 2213このころの暁露に我が宿の秋の萩原色づきにけり
10 2214夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
10 2215さ夜更けてしぐれな降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも
10 2216故郷の初黄葉を手折り持ち今日ぞ我が来し見ぬ人のため
10 2217君が家の黄葉は早く散りにけりしぐれの雨に濡れにけらしも
10 2218一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも
10 2219あしひきの山田作る子秀でずとも縄だに延へよ守ると知るがね
10 2220さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも
10 2221我が門に守る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも
10 2222夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも
10 2223天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士
10 2224この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月立ち渡る
10 2225我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
10 2226心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな
10 2227思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし
10 2228萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに
10 2229白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも
10 2230恋ひつつも稲葉かき別け家居れば乏しくもあらず秋の夕風
10 2231萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
10 2232秋山の木の葉もいまだもみたねば今朝吹く風は霜も置きぬべく
10 2233高松のこの峰も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ
10 2234一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む
10 2235秋田刈る旅の廬りにしぐれ降り我が袖濡れぬ干す人なしに
10 2236玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ
10 2237黄葉を散らすしぐれの降るなへに夜さへぞ寒きひとりし寝れば
10 2238天飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
10 2239秋山のしたひが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ
10 2240誰ぞかれと我れをな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我れを
10 2241秋の夜の霧立ちわたりおほほしく夢にぞ見つる妹が姿を
10 2242秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも
10 2243秋山に霜降り覆ひ木の葉散り年は行くとも我れ忘れめや
10 2244住吉の岸を田に墾り蒔きし稲かくて刈るまで逢はぬ君かも
10 2245太刀の後玉纒田居にいつまでか妹を相見ず家恋ひ居らむ
10 2246秋の田の穂の上に置ける白露の消ぬべくも我は思ほゆるかも
10 2247秋の田の穂向きの寄れる片寄りに我れは物思ふつれなきものを
10 2248秋田刈る刈廬を作り廬りしてあるらむ君を見むよしもがも
10 2249鶴が音の聞こゆる田居に廬りして我れ旅なりと妹に告げこそ
10 2250春霞たなびく田居に廬つきて秋田刈るまで思はしむらく
10 2251橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも
10 2252秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
10 2253色づかふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今夜は
10 2254秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
10 2255我が宿の秋萩の上に置く露のいちしろくしも我れ恋ひめやも
10 2256秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
10 2257露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも
10 2258秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
10 2259秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を
10 2260我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこのころ下に着ましを
10 2261泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む
10 2262秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
10 2263九月のしぐれの雨の山霧のいぶせき我が胸誰を見ばやまむ [一云 十月しぐれの雨降り]
10 2264こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは
10 2265朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも
10 2266出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける
10 2267さを鹿の朝伏す小野の草若み隠らひかねて人に知らゆな
10 2268さを鹿の小野の草伏いちしろく我がとはなくに人の知れらく
10 2269今夜の暁ぐたち鳴く鶴の思ひは過ぎず恋こそまされ
10 2270道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ
10 2271草深みこほろぎさはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ
10 2272秋づけば水草の花のあえぬがに思へど知らじ直に逢はざれば
10 2273何すとか君をいとはむ秋萩のその初花の嬉しきものを
10 2274臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花
10 2275言に出でて云はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも
10 2276雁がねの初声聞きて咲き出たる宿の秋萩見に来我が背子
10 2277さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ
10 2278恋ふる日の日長くしあれば我が園の韓藍の花の色に出でにけり
10 2279我が里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり
10 2280萩の花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも
10 2281朝露に咲きすさびたる月草の日くたつなへに消ぬべく思ほゆ
10 2282長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを
10 2283我妹子に逢坂山のはだすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも
10 2284いささめに今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を
10 2285秋萩の花野のすすき穂には出でず我が恋ひわたる隠り妻はも
10 2286我が宿に咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも
10 2287我が宿の萩咲きにけり散らぬ間に早来て見べし奈良の里人
10 2288石橋の間々に生ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば
10 2289藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて
10 2290秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば
10 2291朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも
10 2292秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に
10 2293咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの秋萩を見せつつもとな
10 2294秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
10 2295我が宿の葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも
10 2296あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ
10 2297黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを
10 2298君に恋ひ萎えうらぶれ我が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ
10 2299秋の夜の月かも君は雲隠りしましく見ねばここだ恋しき
10 2300九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも
10 2301よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思ふ
10 2302ある人のあな心なと思ふらむ秋の長夜を寝覚め臥すのみ
10 2303秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短くありけり
10 2304秋つ葉ににほへる衣我れは着じ君に奉らば夜も着るがね
10 2305旅にすら紐解くものを言繁みまろ寝ぞ我がする長きこの夜を
10 2306しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君と居らましものを
10 2307黄葉に置く白露の色端にも出でじと思へば言の繁けく
10 2308雨降ればたぎつ山川岩に触れ君が砕かむ心は持たじ
10 2309祝らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを
10 2310こほろぎの我が床の辺に鳴きつつもとな置き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに
10 2311はだすすき穂には咲き出ぬ恋をぞ我がする玉かぎるただ一目のみ見し人ゆゑに
10 2312我が袖に霰た走る巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため
10 2313あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りくる
10 2314巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る
10 2315あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば [或云 枝もたわたわ]
10 2316奈良山の嶺なほ霧らふうべしこそ籬が下の雪は消ずけれ
10 2317こと降らば袖さへ濡れて通るべく降りなむ雪の空に消につつ
10 2318夜を寒み朝門を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり [一云 庭もほどろに 雪ぞ降りたる]
10 2319夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる
10 2320我が袖に降りつる雪も流れ行きて妹が手本にい行き触れぬか
10 2321淡雪は今日はな降りそ白栲の袖まき干さむ人もあらなくに
10 2322はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は雲らひにつつ
10 2323我が背子を今か今かと出で見れば淡雪降れり庭もほどろに
10 2324あしひきの山に白きは我が宿に昨日の夕降りし雪かも
10 2325誰が園の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる
10 2326梅の花まづ咲く枝を手折りてばつとと名付けてよそへてむかも
10 2327誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに
10 2328来て見べき人もあらなくに我家なる梅の初花散りぬともよし
10 2329雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね
10 2330妹がためほつ枝の梅を手折るとは下枝の露に濡れにけるかも
10 2331八田の野の浅茅色づく有乳山嶺の淡雪寒く散るらし
10 2332さ夜更けば出で来む月を高山の嶺の白雲隠すらむかも
10 2333降る雪の空に消ぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経にける
10 2334沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ
10 2335咲き出照る梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこのころ
10 2336はなはだも夜更けてな行き道の辺の斎笹の上に霜の降る夜を
10 2337笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
10 2338霰降りいたく風吹き寒き夜や旗野に今夜我が独り寝む
10 2339吉隠の野木に降り覆ふ白雪のいちしろくしも恋ひむ我れかも
10 2340一目見し人に恋ふらく天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
10 2341思ひ出づる時はすべなみ豊国の由布山雪の消ぬべく思ほゆ
10 2342夢のごと君を相見て天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
10 2343我が背子が言うるはしみ出でて行かば裳引きしるけむ雪な降りそね
10 2344梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使遣らば [一云 降る雪に間使遣らばそれと知らなむ]
10 2345天霧らひ降りくる雪の消なめども君に逢はむとながらへわたる
10 2346うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも
10 2347海人小舟泊瀬の山に降る雪の日長く恋ひし君が音ぞする
10 2348和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に
10 2349我が宿に咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て
10 2350あしひきの山のあらしは吹かねども君なき宵はかねて寒しも
11 2351新室の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ娘子は君がまにまに
11 2352新室を踏み鎮む子が手玉鳴らすも玉のごと照らせる君を内にと申せ
11 2353泊瀬の斎槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる月夜に人見てむかも [一云 人見つらむか]
11 2354ますらをの思ひ乱れて隠せるその妻天地に通り照るともあらはれめやも [一云 ますらをの思ひたけびて]
11 2355愛しと我が思ふ妹は早も死なぬか生けりとも我れに寄るべしと人の言はなくに
11 2356高麗錦紐の片方ぞ床に落ちにける明日の夜し来なむと言はば取り置きて待たむ
11 2357朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな
11 2358何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに
11 2359息の緒に我れは思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを
11 2360人の親処女児据ゑて守山辺から朝な朝な通ひし君が来ねば悲しも
11 2361天なる一つ棚橋いかにか行かむ若草の妻がりと言はば足飾りせむ
11 2362山背の久背の若子が欲しと言ふ我れあふさわに我れを欲しと言ふ山背の久世
11 2363岡の崎廻みたる道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避き道にせむ
11 2364玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ
11 2365うちひさす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
11 2366まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ
11 2367海原の道に乗りてや我が恋ひ居らむ大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに
11 2368たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに
11 2369人の寝る味寐は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りし嘆かむ [或本歌云 君を思ふに明けにけるかも]
11 2370恋ひしなば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく
11 2371心には千重に思へど人に言はぬ我が恋妻を見むよしもがも
11 2372かくばかり恋ひむものぞと知らませば遠くも見べくあらましものを
11 2373いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ひはすべなし
11 2374かくのみし恋ひやわたらむたまきはる命も知らず年は経につつ
11 2375我れゆ後生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ
11 2376ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば
11 2377何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひぬ前にも死なましものを
11 2378よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず我れは恋ひつつ居らむ
11 2379見わたせば近き渡りをた廻り今か来ますと恋ひつつぞ居る
11 2380はしきやし誰が障ふれかも玉桙の道見忘れて君が来まさぬ
11 2381君が目を見まく欲りしてこの二夜千年のごとも我は恋ふるかも
11 2382うち日さす宮道を人は満ち行けど我が思ふ君はただひとりのみ
11 2383世の中は常かくのみと思へどもはたた忘れずなほ恋ひにけり
11 2384我が背子は幸くいますと帰り来と我れに告げ来む人も来ぬかも
11 2385あらたまの五年経れど我が恋の跡なき恋のやまなくあやし
11 2386巌すら行き通るべきますらをも恋といふことは後悔いにけり
11 2387日並べば人知りぬべし今日の日は千年のごともありこせぬかも
11 2388立ちて居てたづきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず
11 2389ぬばたまのこの夜な明けそ赤らひく朝行く君を待たば苦しも
11 2390恋するに死するものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし
11 2391玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか
11 2392なかなかに見ずあらましを相見てゆ恋ほしき心まして思ほゆ
11 2393玉桙の道行かずあらばねもころのかかる恋には逢はざらましを
11 2394朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに
11 2395行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも
11 2396たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む
11 2397しましくも見ぬば恋ほしき我妹子を日に日に来れば言の繁けく
11 2398たまきはる世までと定め頼みたる君によりてし言の繁けく
11 2399赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに
11 2400いで何かここだはなはだ利心の失するまで思ふ恋ゆゑにこそ
11 2401恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ
11 2402妹があたり遠くも見ればあやしくも我れは恋ふるか逢ふよしなしに
11 2403玉くせの清き川原にみそぎして斎ふ命は妹がためこそ
11 2404思ひ寄り見ては寄りにしものにあれば一日の間も忘れて思へや
11 2405垣ほなす人は言へども高麗錦紐解き開けし君ならなくに
11 2406高麗錦紐解き開けて夕だに知らずある命恋ひつつかあらむ
11 2407百積の船隠り入る八占さし母は問ふともその名は告らじ
11 2408眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむかいつかも見むと思へる我れを
11 2409君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに
11 2410あらたまの年は果つれど敷栲の袖交へし子を忘れて思へや
11 2411白栲の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも我れはするかも
11 2412我妹子に恋ひすべながり夢に見むと我れは思へど寐ねらえなくに
11 2413故もなく我が下紐を解けしめて人にな知らせ直に逢ふまでに
11 2414恋ふること慰めかねて出でて行けば山を川をも知らず来にけり
11 2415娘子らを袖振る山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけり我れは
11 2416ちはやぶる神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲りせむ
11 2417石上布留の神杉神さぶる恋をも我れはさらにするかも
11 2418いかならむ名負ふ神に手向けせば我が思ふ妹を夢にだに見む
11 2419天地といふ名の絶えてあらばこそ汝と我れと逢ふことやまめ
11 2420月見れば国は同じぞ山へなり愛し妹はへなりたるかも
11 2421来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに
11 2422岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも
11 2423道の後深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり
11 2424紐鏡能登香の山も誰がゆゑか君来ませるに紐解かず寝む
11 2425山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて
11 2426遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねば我れ恋ひにけり
11 2427宇治川の瀬々のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも
11 2428ちはや人宇治の渡りの瀬を早み逢はずこそあれ後も我が妻
11 2429はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらに宇治川の瀬に裳裾濡らしつ
11 2430宇治川の水泡さかまき行く水の事かへらずぞ思ひ染めてし
11 2431鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我れは今ならずとも
11 2432言に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞かへたりけり
11 2433水の上に数書くごとき我が命妹に逢はむとうけひつるかも
11 2434荒礒越し外行く波の外心我れは思はじ恋ひて死ぬとも
11 2435近江の海沖つ白波知らずとも妹がりといはば七日越え来む
11 2436大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ
11 2437沖つ裳を隠さふ波の五百重波千重しくしくに恋ひわたるかも
11 2438人言はしましぞ我妹綱手引く海ゆまさりて深くしぞ思ふ
11 2439近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
11 2440近江の海沖漕ぐ舟のいかり下ろし隠りて君が言待つ我れぞ
11 2441隠り沼の下ゆ恋ふればすべをなみ妹が名告りつ忌むべきものを
11 2442大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり
11 2443隠りどの沢泉なる岩が根も通してぞ思ふ我が恋ふらくは
11 2444白真弓石辺の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ
11 2445近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ
11 2446白玉を巻きてぞ持てる今よりは我が玉にせむ知れる時だに
11 2447白玉を手に巻きしより忘れじと思ひけらくは何か終らむ
11 2448白玉の間開けつつ貫ける緒もくくり寄すれば後もあふものを
11 2449香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも
11 2450雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも
11 2451天雲の寄り合ひ遠み逢はずとも異し手枕我れまかめやも
11 2452雲だにもしるくし立たば慰めて見つつも居らむ直に逢ふまでに
11 2453春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ
11 2454春日山雲居隠りて遠けども家は思はず君をしぞ思ふ
11 2455我がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも
11 2456ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ
11 2457大野らに小雨降りしく木の下に時と寄り来ね我が思ふ人
11 2458朝霜の消なば消ぬべく思ひつついかにこの夜を明かしてむかも
11 2459我が背子が浜行く風のいや早に言を早みかいや逢はずあらむ
11 2460遠き妹が振り放け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき
11 2461山の端を追ふ三日月のはつはつに妹をぞ見つる恋ほしきまでに
11 2462我妹子し我れを思はばまそ鏡照り出づる月の影に見え来ね
11 2463久方の天照る月の隠りなば何になそへて妹を偲はむ
11 2464三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこのころ
11 2465我が背子に我が恋ひ居れば我が宿の草さへ思ひうらぶれにけり
11 2466浅茅原小野に標結ふ空言をいかなりと言ひて君をし待たむ
11 2467道の辺の草深百合の後もと言ふ妹が命を我れ知らめやも
11 2468港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは
11 2469山ぢさの白露重みうらぶれて心も深く我が恋やまず
11 2470港にさ根延ふ小菅ぬすまはず君に恋ひつつありかてぬかも
11 2471山背の泉の小菅なみなみに妹が心を我が思はなくに
11 2472見わたしの三室の山の巌菅ねもころ我れは片思ぞする [一云 みもろの山の岩小菅]
11 2473菅の根のねもころ君が結びてし我が紐の緒を解く人もなし
11 2474山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ
11 2475我が宿の軒にしだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず
11 2476打つ田には稗はしあまたありといへど選えし我れぞ夜をひとり寝る
11 2477あしひきの名負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はずあらめやも
11 2478秋柏潤和川辺の小竹の芽の人には忍び君に堪へなくに
11 2479さね葛後も逢はむと夢のみにうけひわたりて年は経につつ
11 2480道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は [或本歌曰 いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば]
11 2481大野らにたどきも知らず標結ひてありかつましじ我が恋ふらくは
11 2482水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ
11 2483敷栲の衣手離れて玉藻なす靡きか寝らむ我を待ちかてに
11 2484君来ずは形見にせむと我がふたり植ゑし松の木君を待ち出でむ
11 2485袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり
11 2486茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
112486S 茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の子ゆゑに
11 2487奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ
11 2488礒の上に立てるむろの木ねもころに何しか深め思ひそめけむ
11 2489橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも
11 2490天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば
11 2491妹に恋ひ寐ねぬ朝明にをし鳥のこゆかく渡る妹が使か
11 2492思ひにしあまりにしかばにほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも
11 2493高山の嶺行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな
11 2494大船に真楫しじ貫き漕ぐほともここだ恋ふるを年にあらばいかに
11 2495たらつねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも
11 2496肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我れ忘れめや [一云 忘らえめやも]
11 2497隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ
11 2498剣大刀諸刃の利きに足踏みて死なば死なむよ君によりては
11 2499我妹子に恋ひしわたれば剣大刀名の惜しけくも思ひかねつも
11 2500朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ
11 2501里遠み恋ひうらぶれぬまそ鏡床の辺去らず夢に見えこそ
11 2502まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見れども君は飽くこともなし
11 2503夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき
11 2504解き衣の恋ひ乱れつつ浮き真砂生きても我れはありわたるかも
11 2505梓弓引きてゆるさずあらませばかかる恋にはあはざらましを
11 2506言霊の八十の街に夕占問ふ占まさに告る妹は相寄らむ
11 2507玉桙の道行き占に占なへば妹に逢はむと我れに告りつも
11 2508すめろぎの神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも
11 2509まそ鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵の隠りたる妻
11 2510赤駒が足掻速けば雲居にも隠り行かむぞ袖まけ我妹
11 2511こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ
11 2512味酒のみもろの山に立つ月の見が欲し君が馬の音ぞする
11 2513鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ
11 2514鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば
11 2515敷栲の枕響みて夜も寝ず思ふ人には後も逢ふものを
11 2516敷栲の枕は人に言とへやその枕には苔生しにたり
11 2517たらちねの母に障らばいたづらに汝も我れも事なるべしや
11 2518我妹子が我れを送ると白栲の袖漬つまでに泣きし思ほゆ
11 2519奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は何せむ
11 2520刈り薦の一重を敷きてさ寝れども君とし寝れば寒けくもなし
11 2521かきつはた丹つらふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも
11 2522恨めしと思ふさなはにありしかば外のみぞ見し心は思へど
11 2523さ丹つらふ色には出でず少なくも心のうちに我が思はなくに
11 2524我が背子に直に逢はばこそ名は立ため言の通ひに何かそこゆゑ
11 2525ねもころに片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき
11 2526待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む
11 2527誰れぞこの我が宿来呼ぶたらちねの母に嘖はえ物思ふ我れを
11 2528さ寝ぬ夜は千夜にありとも我が背子が思ひ悔ゆべき心は持たじ
11 2529家人は道もしみみに通へども我が待つ妹が使来ぬかも
11 2530あらたまの寸戸が竹垣網目ゆも妹し見えなば我れ恋ひめやも
11 2531我が背子がその名告らじとたまきはる命は捨てつ忘れたまふな
11 2532おほならば誰が見むとかもぬばたまの我が黒髪を靡けて居らむ
11 2533面忘れいかなる人のするものぞ我れはしかねつ継ぎてし思へば
11 2534相思はぬ人のゆゑにかあらたまの年の緒長く我が恋ひ居らむ
11 2535おほろかの心は思はじ我がゆゑに人に言痛く言はれしものを
11 2536息の緒に妹をし思へば年月の行くらむ別も思ほえぬかも
11 2537たらちねの母に知らえず我が持てる心はよしゑ君がまにまに
11 2538ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ
11 2539相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちかてに
11 2540振分けの髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ
11 2541た廻り行箕の里に妹を置きて心空にあり地は踏めども
11 2542若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに
11 2543我が恋ふることも語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ
11 2544うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋ひに死ぬべし
11 2545誰ぞかれと問はば答へむすべをなみ君が使を帰しやりつも
11 2546思はぬに至らば妹が嬉しみと笑まむ眉引き思ほゆるかも
11 2547かくばかり恋ひむものぞと思はねば妹が手本をまかぬ夜もありき
11 2548かくだにも我れは恋ひなむ玉梓の君が使を待ちやかねてむ
11 2549妹に恋ひ我が泣く涙敷栲の木枕通り袖さへ濡れぬ [或本歌曰 枕通りてまけば寒しも]
11 2550立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を
11 2551思ひにしあまりにしかばすべをなみ出でてぞ行きしその門を見に
11 2552心には千重しくしくに思へども使を遣らむすべの知らなく
11 2553夢のみに見てすらここだ恋ふる我はうつつに見てばましていかにあらむ
11 2554相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも
11 2555朝戸を早くな開けそあぢさはふ目が欲る君が今夜来ませる
11 2556玉垂の小簾の垂簾を行きかちに寐は寝さずとも君は通はせ
11 2557たらちねの母に申さば君も我れも逢ふとはなしに年ぞ経ぬべき
11 2558愛しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思へば
11 2559昨日見て今日こそ隔て我妹子がここだく継ぎて見まくし欲しも
11 2560人もなき古りにし里にある人をめぐくや君が恋に死なする
11 2561人言の繁き間守りて逢ふともやなほ我が上に言の繁けむ
11 2562里人の言寄せ妻を荒垣の外にや我が見む憎くあらなくに
11 2563人目守る君がまにまに我れさへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ
11 2564ぬばたまの妹が黒髪今夜もか我がなき床に靡けて寝らむ
11 2565花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ
11 2566色に出でて恋ひば人見て知りぬべし心のうちの隠り妻はも
11 2567相見ては恋慰むと人は言へど見て後にぞも恋まさりける
11 2568おほろかに我れし思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも
11 2569思ふらむその人なれやぬばたまの夜ごとに君が夢にし見ゆる [或本歌曰 夜昼と言はずあが恋ひわたる]
11 2570かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げずやまず通はせ
11 2571大夫は友の騒きに慰もる心もあらむ我れぞ苦しき
11 2572偽りも似つきてぞするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死せし
11 2573心さへ奉れる君に何をかも言はず言ひしと我がぬすまはむ
11 2574面忘れだにもえすやと手握りて打てども懲りず恋といふ奴
11 2575めづらしき君を見むとこそ左手の弓取る方の眉根掻きつれ
11 2576人間守り葦垣越しに我妹子を相見しからに言ぞさだ多き
11 2577今だにも目な乏しめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに
11 2578朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを
11 2579早行きていつしか君を相見むと思ひし心今ぞなぎぬる
11 2580面形の忘るとあらばあづきなく男じものや恋ひつつ居らむ
11 2581言に言へば耳にたやすし少なくも心のうちに我が思はなくに
11 2582あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして
11 2583相見ては幾久さにもあらなくに年月のごと思ほゆるかも
11 2584ますらをと思へる我れをかくばかり恋せしむるは悪しくはありけり
11 2585かくしつつ我が待つ験あらぬかも世の人皆の常にあらなくに
11 2586人言を繁みと君に玉梓の使も遣らず忘ると思ふな
11 2587大原の古りにし里に妹を置きて我れ寐ねかねつ夢に見えこそ
11 2588夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりぞ今も寐ねかてにする
11 2589相思はず君はあるらしぬばたまの夢にも見えずうけひて寝れど
11 2590岩根踏み夜道は行かじと思へれど妹によりては忍びかねつも
11 2591人言の繁き間守ると逢はずあらばつひにや子らが面忘れなむ
11 2592恋死なむ後は何せむ我が命生ける日にこそ見まく欲りすれ
11 2593敷栲の枕響みて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも
11 2594行かぬ我れを来むとか夜も門閉さずあはれ我妹子待ちつつあるらむ
11 2595夢にだに何かも見えぬ見ゆれども我れかも惑ふ恋の繁きに
11 2596慰もる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日に異に [或本歌曰 沖つ波しきてのみやも恋ひわたりなむ]
11 2597いかにして忘れむものぞ我妹子に恋はまされど忘らえなくに
11 2598遠くあれど君にぞ恋ふる玉桙の里人皆に我れ恋ひめやも
11 2599験なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝らむ子ゆゑに
11 2600百代しも千代しも生きてあらめやも我が思ふ妹を置きて嘆かむ
11 2601うつつにも夢にも我れは思はずき古りたる君にここに逢はむとは
11 2602黒髪の白髪までと結びてし心ひとつを今解かめやも
11 2603心をし君に奉ると思へればよしこのころは恋ひつつをあらむ
11 2604思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ
11 2605玉桙の道行きぶりに思はぬに妹を相見て恋ふるころかも
11 2606人目多み常かくのみしさもらはばいづれの時か我が恋ひずあらむ
11 2607敷栲の衣手離れて我を待つとあるらむ子らは面影に見ゆ
11 2608妹が袖別れし日より白栲の衣片敷き恋ひつつぞ寝る
11 2609白栲の袖はまゆひぬ我妹子が家のあたりをやまず振りしに
11 2610ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも
11 2611今さらに君が手枕まき寝めや我が紐の緒の解けつつもとな
11 2612白栲の袖触れてし夜我が背子に我が恋ふらくはやむ時もなし
11 2613夕占にも占にも告れる今夜だに来まさぬ君をいつとか待たむ
11 2614眉根掻き下いふかしみ思へるにいにしへ人を相見つるかも
112614S1眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも
112614S2眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも
11 2615敷栲の枕をまきて妹と我れと寝る夜はなくて年ぞ経にける
11 2616奥山の真木の板戸を音早み妹があたりの霜の上に寝ぬ
11 2617あしひきの山桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる
11 2618月夜よみ妹に逢はむと直道から我れは来つれど夜ぞ更けにける
11 2619朝影に我が身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば
11 2620解き衣の思ひ乱れて恋ふれどもなぞ汝がゆゑと問ふ人もなき
11 2621摺り衣着りと夢に見つうつつにはいづれの人の言か繁けむ
11 2622志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも
11 2623紅の八しほの衣朝な朝な馴れはすれどもいやめづらしも
11 2624紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる
11 2625逢はなくに夕占を問ふと幣に置くに我が衣手はまたぞ継ぐべき
11 2626古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ
11 2627はねかづら今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く
11 2628いにしへの倭文機帯を結び垂れ誰れといふ人も君にはまさじ
112628S いにしへの狭織の紐を結び垂れ誰れしの人も君にはまさじ
11 2629逢はずとも我れは恨みじこの枕我れと思ひてまきてさ寝ませ
11 2630結へる紐解かむ日遠み敷栲の我が木枕は苔生しにけり
11 2631ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか
11 2632まそ鏡直にし妹を相見ずは我が恋やまじ年は経ぬとも
11 2633まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ
11 2634里遠み恋わびにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ
11 2635剣大刀身に佩き添ふる大夫や恋といふものを忍びかねてむ
11 2636剣大刀諸刃の上に行き触れて死にかもしなむ恋ひつつあらずは
11 2637うち鼻ひ鼻をぞひつる剣大刀身に添ふ妹し思ひけらしも
11 2638梓弓末のはら野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや
11 2639葛城の襲津彦真弓新木にも頼めや君が我が名告りけむ
11 2640梓弓引きみ緩へみ来ずは来ず来ば来そをなぞ来ずは来ばそを
11 2641時守の打ち鳴す鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくもあやし
11 2642燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ
11 2643玉桙の道行き疲れ稲席しきても君を見むよしもがも
11 2644小治田の板田の橋の壊れなば桁より行かむな恋ひそ我妹
11 2645宮材引く泉の杣に立つ民のやむ時もなく恋ひわたるかも
11 2646住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは
11 2647手作りを空ゆ引き越し遠みこそ目言離るらめ絶ゆと隔てや
11 2648かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道に
11 2649あしひきの山田守る翁が置く鹿火の下焦れのみ我が恋ひ居らむ
11 2650そき板もち葺ける板目のあはざらばいかにせむとか我が寝そめけむ
11 2651難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき
11 2652妹が髪上げ竹葉野の放れ駒荒びにけらし逢はなく思へば
11 2653馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つるけだし君かと
11 2654君に恋ひ寐ねぬ朝明に誰が乗れる馬の足の音ぞ我れに聞かする
11 2655紅の裾引く道を中に置きて我れは通はむ君か来まさむ [一云 裾漬く川を 又曰 待ちにか待たむ]
11 2656天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾代まであらむ隠り妻ぞも
11 2657神なびにひもろき立てて斎へども人の心はまもりあへぬもの
11 2658天雲の八重雲隠り鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ
11 2659争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎くあらなくに
11 2660夜並べて君を来ませとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし
11 2661霊ぢはふ神も我れをば打棄てこそしゑや命の惜しけくもなし
11 2662我妹子にまたも逢はむとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし
11 2663ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし
11 2664夕月夜暁闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねに
11 2665月しあれば明くらむ別も知らずして寝て我が来しを人見けむかも
11 2666妹が目の見まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし
11 2667真袖持ち床うち掃ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ
11 2668二上に隠らふ月の惜しけども妹が手本を離るるこのころ
11 2669我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲なたなびき
11 2670まそ鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまず恋こそまさめ
11 2671今夜の有明月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし
11 2672この山の嶺に近しと我が見つる月の空なる恋もするかも
11 2673ぬばたまの夜渡る月のゆつりなばさらにや妹に我が恋ひ居らむ
11 2674朽網山夕居る雲の薄れゆかば我れは恋ひむな君が目を欲り
11 2675君が着る御笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも
11 2676ひさかたの天飛ぶ雲にありてしか君をば相見むおつる日なしに
11 2677佐保の内ゆあらしの風の吹きぬれば帰りは知らに嘆く夜ぞ多き
11 2678はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉櫛笥開けてさ寝にし我れぞ悔しき
11 2679窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしぞ思ふ
11 2680川千鳥棲む沢の上に立つ霧のいちしろけむな相言ひそめてば
11 2681我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに
11 2682韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を
11 2683彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹
11 2684笠なしと人には言ひて雨障み留まりし君が姿し思ほゆ
11 2685妹が門行き過ぎかねつひさかたの雨も降らぬかそをよしにせむ
11 2686夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば消につつ
11 2687桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも
11 2688待ちかねて内には入らじ白栲の我が衣手に露は置きぬとも
11 2689朝露の消やすき我が身老いぬともまたをちかへり君をし待たむ
11 2690白栲の我が衣手に露は置き妹は逢はさずたゆたひにして
11 2691かにかくに物は思はじ朝露の我が身ひとつは君がまにまに
11 2692夕凝りの霜置きにけり朝戸出にいたくし踏みて人に知らゆな
11 2693かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ地にあらましを
11 2694あしひきの山鳥の尾の一峰越え一目見し子に恋ふべきものか
11 2695我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ
11 2696荒熊のすむといふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ
11 2697妹が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ
112697S 君が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居れ
11 2698行きて見て来れば恋ほしき朝香潟山越しに置きて寐ねかてぬかも
11 2699阿太人の梁打ち渡す瀬を早み心は思へど直に逢はぬかも
11 2700玉かぎる岩垣淵の隠りには伏して死ぬとも汝が名は告らじ
11 2701明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも
11 2702明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ
11 2703ま薦刈る大野川原の水隠りに恋ひ来し妹が紐解く我れは
11 2704あしひきの山下響み行く水の時ともなくも恋ひわたるかも
11 2705はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳濡らしつ
11 2706泊瀬川早み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも
11 2707青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ
11 2708しなが鳥猪名山響に行く水の名のみ寄そりし隠り妻はも [一云 名のみ寄そりて恋ひつつやあらむ]
11 2709我妹子に我が恋ふらくは水ならばしがらみ越して行くべく思ほゆ [或本歌發句云 相思はぬ人を思はく]
11 2710犬上の鳥籠の山なる不知哉川いさとを聞こせ我が名告らすな
11 2711奥山の木の葉隠りて行く水の音聞きしより常忘らえず
11 2712言急くは中は淀ませ水無川絶ゆといふことをありこすなゆめ
11 2713明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ
11 2714もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも [一云 立ちても君は忘れかねつも]
11 2715神なびの打廻の崎の岩淵の隠りてのみや我が恋ひ居らむ
11 2716高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてぞ思ふ妹に逢はぬ夜は
11 2717朝東風にゐで越す波の外目にも逢はぬものゆゑ瀧もとどろに
11 2718高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも
11 2719隠り沼の下に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌むべきものを
11 2720水鳥の鴨の棲む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも
11 2721玉藻刈るゐでのしがらみ薄みかも恋の淀める我が心かも
11 2722我妹子が笠のかりての和射見野に我れは入りぬと妹に告げこそ
11 2723あまたあらぬ名をしも惜しみ埋れ木の下ゆぞ恋ふるゆくへ知らずて
11 2724秋風の千江の浦廻の木屑なす心は寄りぬ後は知らねど
11 2725白真砂御津の埴生の色に出でて言はなくのみぞ我が恋ふらくは
11 2726風吹かぬ浦に波立ちなき名をも我れは負へるか逢ふとはなしに [一云 女と思ひて]
11 2727酢蛾島の夏身の浦に寄する波間も置きて我が思はなくに
11 2728近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく
11 2729霰降り遠つ大浦に寄する波よしも寄すとも憎くあらなくに
11 2730紀の浦の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに
11 2731牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ
11 2732沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも
11 2733白波の来寄する島の荒礒にもあらましものを恋ひつつあらずは
11 2734潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて
11 2735住吉の岸の浦廻にしく波のしくしく妹を見むよしもがも
11 2736風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ妹は相思ふらむか
11 2737大伴の御津の白波間なく我が恋ふらくを人の知らなく
11 2738大船のたゆたふ海にいかり下ろしいかにせばかも我が恋やまむ
11 2739みさご居る沖つ荒礒に寄する波ゆくへも知らず我が恋ふらくは
11 2740大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに
11 2741大船に立つらむ波は間あらむ君に恋ふらくやむ時もなし
11 2742志賀の海人の煙焼き立て焼く塩の辛き恋をも我れはするかも
11 2743なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ
112743S なかなかに君に恋ひずは縄の浦の海人にあらましを玉藻刈る刈る
11 2744鱸取る海人の燈火外にだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこのころ
11 2745港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも
11 2746庭清み沖へ漕ぎ出る海人舟の楫取る間なき恋もするかも
11 2747あぢかまの塩津をさして漕ぐ船の名は告りてしを逢はざらめやも
11 2748大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも
11 2749駅路に引き舟渡し直乗りに妹は心に乗りにけるかも
11 2750我妹子に逢はず久しもうましもの安倍橘の苔生すまでに
11 2751あぢの住む渚沙の入江の荒礒松我を待つ子らはただ独りのみ
11 2752我妹子を聞き都賀野辺のしなひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば
11 2753波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして
11 2754朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり
11 2755浅茅原刈り標さして空言も寄そりし君が言をし待たむ
11 2756月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ
11 2757大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹
11 2758菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心思ほえぬかも
11 2759我が宿の穂蓼古幹摘み生し実になるまでに君をし待たむ
11 2760あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はせ母は責むとも
11 2761奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかも我が思ひ妻は
11 2762葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
11 2763紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も我を忘らすな
11 2764妹がため命残せり刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを
11 2765我妹子に恋つつあらずは刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを
11 2766三島江の入江の薦を刈りにこそ我れをば君は思ひたりけれ
11 2767あしひきの山橘の色に出でて我は恋なむを人目難みすな
11 2768葦鶴の騒く入江の白菅の知らせむためと言痛かるかも
11 2769我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし
11 2770道の辺のいつ柴原のいつもいつも人の許さむ言をし待たむ
11 2771我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり
11 2772真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか
11 2773さす竹の世隠りてあれ我が背子が我がりし来ずは我れ恋めやも
11 2774神奈備の浅小竹原のうるはしみ我が思ふ君が声のしるけく
11 2775山高み谷辺に延へる玉葛絶ゆる時なく見むよしもがも
11 2776道の辺の草を冬野に踏み枯らし我れ立ち待つと妹に告げこそ
11 2777畳薦へだて編む数通はさば道の芝草生ひずあらましを
11 2778水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこのころはかくて通はむ
11 2779海原の沖つ縄海苔うち靡き心もしのに思ほゆるかも
11 2780紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを
11 2781海の底奥を深めて生ふる藻のもとも今こそ恋はすべなき
11 2782さ寝がには誰れとも寝めど沖つ藻の靡きし君が言待つ我れを
11 2783我妹子が何とも我れを思はねばふふめる花の穂に咲きぬべし
11 2784隠りには恋ひて死ぬともみ園生の韓藍の花の色に出でめやも
11 2785咲く花は過ぐる時あれど我が恋ふる心のうちはやむ時もなし
11 2786山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ
11 2787天地の寄り合ひの極み玉の緒の絶えじと思ふ妹があたり見つ
11 2788息の緒に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも
11 2789玉の緒の絶えたる恋の乱れなば死なまくのみぞまたも逢はずして
11 2790玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れず同じ緒にあらむ
11 2791片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく
11 2792玉の緒の現し心や年月の行きかはるまで妹に逢はずあらむ
11 2793玉の緒の間も置かず見まく欲り我が思ふ妹は家遠くありて
11 2794隠り津の沢たつみなる岩根ゆも通してぞ思ふ君に逢はまくは
11 2795紀の国の飽等の浜の忘れ貝我れは忘れじ年は経ぬとも
11 2796水くくる玉に交じれる磯貝の片恋ひのみに年は経につつ
11 2797住吉の浜に寄るといふうつせ貝実なき言もち我れ恋ひめやも
11 2798伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして
11 2799人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家に語らひて遣りつ
11 2800暁と鶏は鳴くなりよしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも
11 2801大海の荒礒の洲鳥朝な朝な見まく欲しきを見えぬ君かも
11 2802思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を
112802S あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
11 2803里中に鳴くなる鶏の呼び立てていたくは泣かぬ隠り妻はも [一云 里響め鳴くなる鶏の]
11 2804高山にたかべさ渡り高々に我が待つ君を待ち出でむかも
11 2805伊勢の海ゆ鳴き来る鶴の音どろも君が聞こさば我れ恋ひめやも
11 2806我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし
11 2807明けぬべく千鳥しば鳴く白栲の君が手枕いまだ飽かなくに
11 2808眉根掻き鼻ひ紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ来し我れを
11 2809今日なれば鼻ひ鼻ひし眉かゆみ思ひしことは君にしありけり
11 2810音のみを聞きてや恋ひむまそ鏡直目に逢ひて恋ひまくもいたく
11 2811この言を聞かむとならしまそ鏡照れる月夜も闇のみに見つ
11 2812我妹子に恋ひてすべなみ白栲の袖返ししは夢に見えきや
11 2813我が背子が袖返す夜の夢ならしまことも君に逢ひたるごとし
11 2814我が恋は慰めかねつま日長く夢に見えずて年の経ぬれば
11 2815ま日長く夢にも見えず絶えぬとも我が片恋はやむ時もあらじ
11 2816うらぶれて物な思ひそ天雲のたゆたふ心我が思はなくに
11 2817うらぶれて物は思はじ水無瀬川ありても水は行くといふものを
11 2818かきつはた佐紀沼の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年ぞ経にける
11 2819おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに
11 2820かくだにも妹を待ちなむさ夜更けて出で来し月のかたぶくまでに
11 2821木の間より移ろふ月の影を惜しみ立ち廻るにさ夜更けにけり
11 2822栲領布の白浜波の寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつぞ居る [一云 恋ふるころかも]
11 2823かへらまに君こそ我れに栲領巾の白浜波の寄る時もなき
11 2824思ふ人来むと知りせば八重葎覆へる庭に玉敷かましを
11 2825玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば
11 2826かくしつつあり慰めて玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし
11 2827紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ
11 2828紅の深染めの衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも
11 2829衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる
11 2830梓弓弓束巻き替へ中見さしさらに引くとも君がまにまに
11 2831みさご居る洲に居る舟の夕潮を待つらむよりは我れこそまされ
11 2832山川に筌を伏せて守りもあへず年の八年を我がぬすまひし
11 2833葦鴨のすだく池水溢るともまけ溝の辺に我れ越えめやも
11 2834大和の室生の毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ
11 2835ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かめやも我がなけなくに
11 2836三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠
11 2837み吉野の水隈が菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りてむとや
11 2838川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ
11 2839かくしてやなほやまもらむ大荒木の浮田の社の標にあらなくに
11 2840いくばくも降らぬ雨ゆゑ我が背子が御名のここだく瀧もとどろに
12 2841我が背子が朝明の姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮らすかも
12 2842我が心ともしみ思ふ新夜の一夜もおちず夢に見えこそ
12 2843愛しと我が思ふ妹を人皆の行くごと見めや手にまかずして
12 2844このころの寐の寝らえぬは敷栲の手枕まきて寝まく欲りこそ
12 2845忘るやと物語りして心遣り過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり
12 2846夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに
12 2847後も逢はむ我にな恋ひそと妹は言へど恋ふる間に年は経につつ
12 2848直に会はずあるはうべなり夢にだに何しか人の言の繁けむ [或本歌曰 うつつにはうべも逢はなく夢にさへ]
12 2849ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを
12 2850うつつには直には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ我が恋ふらくに
12 2851人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き
12 2852人言の繁き時には我妹子し衣にありせば下に着ましを
12 2853真玉つくをちをし兼ねて思へこそ一重の衣ひとり着て寝れ
12 2854白栲の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに
12 2855新治の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹が上のことを
12 2856山背の石田の社に心おそく手向けしたれや妹に逢ひかたき
12 2857菅の根のねもころごろに照る日にも干めや我が袖妹に逢はずして
12 2858妹に恋ひ寐ねぬ朝明に吹く風は妹にし触れば我れさへに触れ
12 2859明日香川高川避かし越ゑ来しをまこと今夜は明けずも行かぬか
12 2860八釣川水底絶えず行く水の継ぎてぞ恋ふるこの年ころを [或本歌曰 水脈も絶えせず]
12 2861礒の上に生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひわたるかも
122861S 岩の上に立てる小松の名を惜しみ人には言はず恋ひわたるかも
12 2862山川の水陰に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも
12 2863浅葉野に立ち神さぶる菅の根のねもころ誰がゆゑ我が恋ひなくに [或本歌曰 誰が葉野に立ちしなひたる]
12 2864我が背子を今か今かと待ち居るに夜の更けゆけば嘆きつるかも
12 2865玉釧まき寝る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しくあるべき
12 2866人妻に言ふは誰が言さ衣のこの紐解けと言ふは誰が言
12 2867かくばかり恋ひむものぞと知らませばその夜はゆたにあらましものを
12 2868恋ひつつも後も逢はむと思へこそおのが命を長く欲りすれ
12 2869今は我は死なむよ我妹逢はずして思ひわたれば安けくもなし
12 2870我が背子が来むと語りし夜は過ぎぬしゑやさらさらしこり来めやも
12 2871人言の讒しを聞きて玉桙の道にも逢はじと言へりし我妹
12 2872逢はなくも憂しと思へばいや増しに人言繁く聞こえ来るかも
12 2873里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや
12 2874確かなる使をなみと心をぞ使に遣りし夢に見えきや
12 2875天地に少し至らぬ大夫と思ひし我れや雄心もなき
12 2876里近く家や居るべきこの我が目の人目をしつつ恋の繁けく
12 2877いつはなも恋ひずありとはあらねどもうたてこのころ恋し繁しも
12 2878ぬばたまの寐ねてし宵の物思ひに裂けにし胸はやむ時もなし
12 2879み空行く名の惜しけくも我れはなし逢はぬ日まねく年の経ぬれば
12 2880うつつにも今も見てしか夢のみに手本まき寝と見るは苦しも [或本歌發<句>曰 我妹子を]
12 2881立ちて居てすべのたどきも今はなし妹に逢はずて月の経ぬれば [或本歌曰 君が目見ずて月の経ぬれば]
12 2882逢はずして恋ひわたるとも忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
12 2883外目にも君が姿を見てばこそ我が恋やまめ命死なずは [一云 命に向ふ我が恋やまめ]
12 2884恋ひつつも今日はあらめど玉櫛笥明けなむ明日をいかに暮らさむ
12 2885さ夜更けて妹を思ひ出で敷栲の枕もそよに嘆きつるかも
12 2886人言はまこと言痛くなりぬともそこに障らむ我れにあらなくに
12 2887立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども
12 2888世の中の人のことばと思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多み
12 2889いで如何に我がここだ恋ふる我妹子が逢はじと言へることもあらなくに
12 2890ぬばたまの夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ
12 2891あらたまの年の緒長くかく恋ひばまこと我が命全くあらめやも
12 2892思ひ遣るすべのたどきも我れはなし逢はずてまねく月の経ぬれば
12 2893朝去にて夕は来ます君ゆゑにゆゆしくも我は嘆きつるかも
12 2894聞きしより物を思へば我が胸は破れて砕けて利心もなし
12 2895人言を繁み言痛み我妹子に去にし月よりいまだ逢はぬかも
12 2896うたがたも言ひつつもあるか我れならば地には落ちず空に消なまし
12 2897いかならむ日の時にかも我妹子が裳引きの姿朝に日に見む
12 2898ひとり居て恋ふるは苦し玉たすき懸けず忘れむ事計りもが
12 2899なかなかに黙もあらましをあづきなく相見そめても我れは恋ふるか
12 2900我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも
12 2901あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ千たび嘆きて恋ひつつぞ居る
12 2902我が恋は夜昼わかず百重なす心し思へばいたもすべなし
12 2903いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ人かも
12 2904恋ひ恋ひて後も逢はむと慰もる心しなくは生きてあらめやも
12 2905いくばくも生けらじ命を恋ひつつぞ我れは息づく人に知らえず
12 2906他国によばひに行きて大刀が緒もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける
12 2907ますらをの聡き心も今はなし恋の奴に我れは死ぬべし
12 2908常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ
12 2909おほろかに我れし思はば人妻にありといふ妹に恋ひつつあらめや
12 2910心には千重に百重に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも
12 2911人目多み目こそ忍ぶれすくなくも心のうちに我が思はなくに
12 2912人の見て言とがめせぬ夢に我れ今夜至らむ宿閉すなゆめ
12 2913いつまでに生かむ命ぞおほかたは恋ひつつあらずは死なましものを
12 2914愛しと思ふ我妹を夢に見て起きて探るになきが寂しさ
12 2915妹と言はばなめし畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも
12 2916玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする
12 2917うつつにか妹が来ませる夢にかも我れか惑へる恋の繁きに
12 2918おほかたは何かも恋ひむ言挙げせず妹に寄り寝む年は近きを
12 2919ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじ直に逢ふまでは
12 2920終へむ命ここは思はずただしくも妹に逢はざることをしぞ思ふ
12 2921たわや女は同じ心にしましくもやむ時もなく見てむとぞ思ふ
12 2922夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも嬉しくありけれ
12 2923ただ今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひわたるかも
12 2924世の中に恋繁けむと思はねば君が手本をまかぬ夜もありき
12 2925みどり子のためこそ乳母は求むと言へ乳飲めや君が乳母求むらむ
12 2926悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母に行かましものを
12 2927うらぶれて離れにし袖をまたまかば過ぎにし恋い乱れ来むかも
12 2928おのがじし人死にすらし妹に恋ひ日に異に痩せぬ人に知らえず
12 2929宵々に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし
12 2930生ける世に恋といふものを相見ねば恋のうちにも我れぞ苦しき
12 2931思ひつつ居れば苦しもぬばたまの夜に至らば我れこそ行かめ
12 2932心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも
12 2933相思はず君はまさめど片恋に我れはぞ恋ふる君が姿に
12 2934あぢさはふ目は飽かざらねたづさはり言とはなくも苦しくありけり
12 2935あらたまの年の緒長くいつまでか我が恋ひ居らむ命知らずて
12 2936今は我は死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし
12 2937白栲の袖折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる
12 2938人言を繁み言痛み我が背子を目には見れども逢ふよしもなし
12 2939恋と言へば薄きことなりしかれども我れは忘れじ恋ひは死ぬとも
12 2940なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別知らぬ我れし苦しも
12 2941思ひ遣るたどきも我れは今はなし妹に逢はずて年の経ぬれば
12 2942我が背子に恋ふとにしあらしみどり子の夜泣きをしつつ寐ねかてなくは
12 2943我が命の長く欲しけく偽りをよくする人を捕ふばかりを
12 2944人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ
12 2945玉梓の君が使を待ちし夜のなごりぞ今も寐ねぬ夜の多き
12 2946玉桙の道に行き逢ひて外目にも見ればよき子をいつとか待たむ
12 2947思ひにしあまりにしかばすべをなみ我れは言ひてき忌むべきものを
122947S1門に出でて我が臥い伏すを人見けむかも [一云 すべをなみ出でてぞ行きし家のあたり見に]
122947S2にほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも
12 2948明日の日はその門行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまたしるけむ
12 2949うたて異に心いぶせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに
12 2950我妹子が夜戸出の姿見てしより心空なり地は踏めども
12 2951海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも
12 2952我が命の衰へぬれば白栲の袖のなれにし君をしぞ思ふ
12 2953君に恋ひ我が泣く涙白栲の袖さへ漬ちてせむすべもなし
12 2954今よりは逢はじとすれや白栲の我が衣手の干る時もなき
12 2955夢かと心惑ひぬ月まねく離れにし君が言の通へば
12 2956あらたまの年月かねてぬばたまの夢に見えけり君が姿は
12 2957今よりは恋ふとも妹に逢はめやも床の辺去らず夢に見えこそ
12 2958人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ
122958S 人目多み直には逢はず
12 2959うつつには言も絶えたり夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに
12 2960うつせみの現し心も我れはなし妹を相見ずて年の経ぬれば
12 2961うつせみの常のことばと思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ
12 2962白栲の袖離れて寝るぬばたまの今夜は早も明けば明けなむ
12 2963白栲の手本ゆたけく人の寝る味寐は寝ずや恋ひわたりなむ
12 2964かくのみにありける君を衣にあらば下にも着むと我が思へりける
12 2965橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ
12 2966紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも
12 2967年の経ば見つつ偲へと妹が言ひし衣の縫目見れば悲しも
12 2968橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも
12 2969解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし
12 2970桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも
12 2971大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも
12 2972赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも
12 2973真玉つくをちこち兼ねて結びつる我が下紐の解くる日あらめや
12 2974紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ
12 2975高麗錦紐の結びも解き放けず斎ひて待てど験なきかも
12 2976紫の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩せむ逢ふよしをなみ
12 2977何ゆゑか思はずあらむ紐の緒の心に入りて恋しきものを
12 2978まそ鏡見ませ我が背子我が形見待てらむ時に逢はざらめやも
12 2979まそ鏡直目に君を見てばこそ命に向ふ我が恋やまめ
12 2980まそ鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ゆけば生けりともなし
12 2981祝部らが斎くみもろのまそ鏡懸けて偲ひつ逢ふ人ごとに
12 2982針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒
12 2983高麗剣我が心から外のみに見つつや君を恋ひわたりなむ
12 2984剣大刀名の惜しけくも我れはなしこのころの間の恋の繁きに
12 2985梓弓末はし知らずしかれどもまさかは君に寄りにしものを
122985S 梓弓末のたづきは知らねども心は君に寄りにしものを
12 2986梓弓引きみ緩へみ思ひみてすでに心は寄りにしものを
12 2987梓弓引きて緩へぬ大夫や恋といふものを忍びかねてむ
12 2988梓弓末の中ごろ淀めりし君には逢ひぬ嘆きはやめむ
12 2989今さらに何をか思はむ梓弓引きみ緩へみ寄りにしものを
12 2990娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも
12 2991たらちねの母が飼ふ蚕の繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして
12 2992玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも
12 2993紫のまだらのかづら花やかに今日見し人に後恋ひむかも
12 2994玉葛懸けぬ時なく恋ふれども何しか妹に逢ふ時もなき
12 2995逢ふよしの出でくるまでは畳薦隔て編む数夢にし見えむ
12 2996しらかつく木綿は花もの言こそばいつのまえだも常忘らえね
12 2997石上布留の高橋高々に妹が待つらむ夜ぞ更けにける
12 2998港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな
122998S 港入りに葦別け小舟障り多み君に逢はずて年ぞ経にける
12 2999水を多み上田に種蒔き稗を多み選らえし業ぞ我がひとり寝る
12 3000魂合へば相寝るものを小山田の鹿猪田守るごと母し守らすも [一云 母が守らしし]
12 3001春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今ぞ悔しき
12 3002あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ我れを
12 3003夕月夜暁闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひわたるかも
12 3004久方の天つみ空に照る月の失せなむ日こそ我が恋止まめ
12 3005十五日に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ
12 3006月夜よみ門に出で立ち足占して行く時さへや妹に逢はずあらむ
12 3007ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を
12 3008あしひきの山を木高み夕月をいつかと君を待つが苦しさ
12 3009橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり
12 3010佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも
12 3011我妹子に衣春日の宜寸川よしもあらぬか妹が目を見む
12 3012との曇り雨布留川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも
12 3013我妹子や我を忘らすな石上袖布留川の絶えむと思へや
12 3014三輪山の山下響み行く水の水脈し絶えずは後も我が妻
12 3015神のごと聞こゆる瀧の白波の面知る君が見えぬこのころ
12 3016山川の瀧にまされる恋すとぞ人知りにける間なくし思へば
12 3017あしひきの山川水の音に出でず人の子ゆゑに恋ひわたるかも
12 3018高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも
12 3019洗ひ衣取替川の川淀の淀まむ心思ひかねつも
12 3020斑鳩の因可の池のよろしくも君を言はねば思ひぞ我がする
12 3021隠り沼の下ゆは恋ひむいちしろく人の知るべく嘆きせめやも
12 3022ゆくへなみ隠れる小沼の下思に我れぞ物思ふこのころの間
12 3023隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく
12 3024妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ
12 3025石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から
12 3026君は来ず我れは故なみ立つ波のしくしくわびしかくて来じとや
12 3027近江の海辺は人知る沖つ波君をおきては知る人もなし
12 3028大海の底を深めて結びてし妹が心はうたがひもなし
12 3029佐太の浦に寄する白波間なく思ふを何か妹に逢ひかたき
12 3030思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処も知らず恋ひつつぞ居る
12 3031天雲のたゆたひやすき心あらば我れをな頼めそ待たば苦しも
12 3032君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも
12 3033なかなかに何か知りけむ我が山に燃ゆる煙の外に見ましを
12 3034我妹子に恋ひすべながり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも
12 3035暁の朝霧隠りかへらばに何しか恋の色に出でにける
12 3036思ひ出づる時はすべなみ佐保山に立つ雨霧の消ぬべく思ほゆ
12 3037殺目山行き返り道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ
12 3038かく恋ひむものと知りせば夕置きて朝は消ぬる露ならましを
12 3039夕置きて朝は消ぬる白露の消ぬべき恋も我れはするかも
12 3040後つひに妹は逢はむと朝露の命は生けり恋は繁けど
12 3041朝な朝な草の上白く置く露の消なばともにと言ひし君はも
12 3042朝日さす春日の小野に置く露の消ぬべき我が身惜しけくもなし
12 3043露霜の消やすき我が身老いぬともまたをちかへり君をし待たむ
12 3044君待つと庭のみ居ればうち靡く我が黒髪に霜ぞ置きにける
123044S 白栲の我が衣手に霜ぞ置きにける
12 3045朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひわたらむ息の緒にして
12 3046楽浪の波越すあざに降る小雨間も置きて我が思はなくに
12 3047神さびて巌に生ふる松が根の君が心は忘れかねつも
12 3048み狩りする雁羽の小野の櫟柴のなれはまさらず恋こそまされ
12 3049桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを
12 3050春日野に浅茅標結ひ絶えめやと我が思ふ人はいや遠長に
12 3051あしひきの山菅の根のねもころに我れはぞ恋ふる君が姿を
123051S 我が思ふ人を見むよしもがも
12 3052かきつはた左紀沢に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬこのころ
12 3053あしひきの山菅の根のねもころにやまず思はば妹に逢はむかも
12 3054相思はずあるものをかも菅の根のねもころごろに我が思へるらむ
12 3055山菅のやまずて君を思へかも我が心どのこの頃はなき
12 3056妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む [一云 直に逢ふまでに]
12 3057浅茅原茅生に足踏み心ぐみ我が思ふ子らが家のあたり見つ [一云 妹が家のあたり見つ]
12 3058うちひさす宮にはあれど月草のうつろふ心我が思はなくに
12 3059百に千に人は言ふとも月草のうつろふ心我れ持ためやも
12 3060忘れ草我が紐に付く時となく思ひわたれば生けりともなし
12 3061暁の目覚まし草とこれをだに見つついまして我れと偲はせ
12 3062忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり
12 3063浅茅原小野に標結ふ空言も逢はむと聞こせ恋のなぐさに
123063S 来むと知らせし君をし待たむ
12 3064人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ
12 3065み吉野の秋津の小野に刈る草の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
12 3066妹待つと御笠の山の山菅の止まずや恋ひむ命死なずは
12 3067谷狭み嶺辺に延へる玉葛延へてしあらば年に来ずとも [一云 岩つなの延へてしあらば]
12 3068水茎の岡の葛葉を吹きかへし面知る子らが見えぬころかも
12 3069赤駒のい行きはばかる真葛原何の伝て言直にしよけむ
12 3070木綿畳田上山のさな葛ありさりてしも今ならずとも
12 3071丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに
12 3072大崎の荒礒の渡り延ふ葛のゆくへもなくや恋ひわたりなむ
12 3073木綿包み [一云 畳] 白月山のさな葛後もかならず逢はむとぞ思ふ [或本歌曰 絶えむと妹を我が思はなくに]
12 3074はねず色のうつろひやすき心あれば年をぞ来経る言は絶えずて
12 3075かくしてぞ人は死ぬといふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに
12 3076住吉の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくも怪し
12 3077みさご居る荒礒に生ふるなのりそのよし名は告らじ親は知るとも
12 3078波の共靡く玉藻の片思に我が思ふ人の言の繁けく
12 3079わたつみの沖つ玉藻の靡き寝む早来ませ君待たば苦しも
12 3080わたつみの沖に生ひたる縄海苔の名はかつて告らじ恋ひは死ぬとも
12 3081玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも
12 3082君に逢はず久しくなりぬ玉の緒の長き命の惜しけくもなし
12 3083恋ふることまされる今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ
12 3084海人娘子潜き採るといふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿は
12 3085朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
12 3086なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり
12 3087ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは
12 3088恋衣着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし我が恋ふらくは
12 3089遠つ人狩道の池に住む鳥の立ちても居ても君をしぞ思ふ
12 3090葦辺行く鴨の羽音の音のみに聞きつつもとな恋ひわたるかも
12 3091鴨すらもおのが妻どちあさりして後るる間に恋ふといふものを
12 3092白真弓斐太の細江の菅鳥の妹に恋ふれか寐を寝かねつる
12 3093小竹の上に来居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑに我れ恋ひにけり
12 3094物思ふと寐ねず起きたる朝明にはわびて鳴くなり庭つ鳥さへ
12 3095朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明の姿見れば悲しも
12 3096馬柵越しに麦食む駒の罵らゆれど猶し恋しく思ひかねつも
12 3097さ桧隈桧隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む
12 3098おのれゆゑ罵らえて居れば青馬の面高夫駄に乗りて来べしや
12 3099紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ
12 3100思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ
12 3101紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
12 3102たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか
12 3103逢はなくはしかもありなむ玉梓の使をだにも待ちやかねてむ
12 3104逢はむとは千度思へどあり通ふ人目を多み恋つつぞ居る
12 3105人目多み直に逢はずてけだしくも我が恋ひ死なば誰が名ならむも
12 3106相見まく欲しきがためは君よりも我れぞまさりていふかしみする
12 3107うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりともなし
12 3108うつせみの人目繁くはぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
12 3109ねもころに思ふ我妹を人言の繁きによりて淀むころかも
12 3110人言の繁くしあらば君も我れも絶えむと言ひて逢ひしものかも
12 3111すべもなき片恋をすとこの頃に我が死ぬべきは夢に見えきや
12 3112夢に見て衣を取り着装ふ間に妹が使ぞ先立ちにける
12 3113ありありて後も逢はむと言のみを堅く言ひつつ逢ふとはなしに
12 3114ありありて我れも逢はむと思へども人の言こそ繁き君にあれ
12 3115息の緒に我が息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも
12 3116我がゆゑにいたくなわびそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに
12 3117門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる
12 3118門立てて戸は閉したれど盗人の穿れる穴より入りて見えけむ
12 3119明日よりは恋ひつつ行かむ今夜だに早く宵より紐解け我妹
12 3120今さらに寝めや我が背子新夜の一夜もおちず夢に見えこそ
12 3121我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに
12 3122心なき雨にもあるか人目守り乏しき妹に今日だに逢はむを
12 3123ただひとり寝れど寝かねて白栲の袖を笠に着濡れつつぞ来し
12 3124雨も降り夜も更けにけり今さらに君去なめやも紐解き設けな
12 3125ひさかたの雨の降る日を我が門に蓑笠着ずて来る人や誰れ
12 3126巻向の穴師の山に雲居つつ雨は降れども濡れつつぞ来し
12 3127度会の大川の辺の若久木我が久ならば妹恋ひむかも
12 3128我妹子を夢に見え来と大和道の渡り瀬ごとに手向けぞ我がする
12 3129桜花咲きかも散ると見るまでに誰れかもここに見えて散り行く
12 3130豊国の企救の浜松ねもころに何しか妹に相言ひそめけむ
12 3131月変へて君をば見むと思へかも日も変へずして恋の繁けむ
12 3132な行きそと帰りも来やとかへり見に行けど帰らず道の長手を
12 3133旅にして妹を思ひ出でいちしろく人の知るべく嘆きせむかも
12 3134里離り遠くあらなくに草枕旅とし思へばなほ恋ひにけり
12 3135近くあれば名のみも聞きて慰めつ今夜ゆ恋のいやまさりなむ
12 3136旅にありて恋ふれば苦しいつしかも都に行きて君が目を見む
12 3137遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして
12 3138年も経ず帰り来なむと朝影に待つらむ妹し面影に見ゆ
12 3139玉桙の道に出で立ち別れ来し日より思ふに忘る時なし
12 3140はしきやししかある恋にもありしかも君に後れて恋しき思へば
12 3141草枕旅の悲しくあるなへに妹を相見て後恋ひむかも
12 3142国遠み直には逢はず夢にだに我れに見えこそ逢はむ日までに
12 3143かく恋ひむものと知りせば我妹子に言問はましを今し悔しも
12 3144旅の夜の久しくなればさ丹つらふ紐解き放けず恋ふるこのころ
12 3145我妹子し我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐解けぬ
12 3146草枕旅の衣の紐解けて思ほゆるかもこの年ころは
12 3147草枕旅の紐解く家の妹し我を待ちかねて嘆かふらしも
12 3148玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎
12 3149梓弓末は知らねど愛しみ君にたぐひて山道越え来ぬ
12 3150霞立つ春の長日を奥処なく知らぬ山道を恋ひつつか来む
12 3151外のみに君を相見て木綿畳手向けの山を明日か越え去なむ
12 3152玉かつま安倍島山の夕露に旅寝えせめや長きこの夜を
12 3153み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む
12 3154いで我が駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きて早見む
12 3155悪木山木末ことごと明日よりは靡きてありこそ妹があたり見む
12 3156鈴鹿川八十瀬渡りて誰がゆゑか夜越えに越えむ妻もあらなくに
12 3157我妹子にまたも近江の安の川安寐も寝ずに恋ひわたるかも
12 3158旅にありてものをぞ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに
12 3159港廻に満ち来る潮のいや増しに恋はまされど忘らえぬかも
12 3160沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも
12 3161在千潟あり慰めて行かめども家なる妹いいふかしみせむ
12 3162みをつくし心尽して思へかもここにももとな夢にし見ゆる
12 3163我妹子に触るとはなしに荒礒廻に我が衣手は濡れにけるかも
12 3164室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも
12 3165霍公鳥飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも
12 3166我妹子を外のみや見む越の海の子難の海の島ならなくに
12 3167波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ我に寄そる子ら
12 3168衣手の真若の浦の真砂地間なく時なし我が恋ふらくは
12 3169能登の海に釣する海人の漁り火の光りにいませ月待ちがてり
12 3170志賀の海人の釣りし燭せる漁り火のほのかに妹を見むよしもがも
12 3171難波潟漕ぎ出る舟のはろはろに別れ来ぬれど忘れかねつも
12 3172浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし
12 3173松浦舟騒く堀江の水脈早み楫取る間なく思ほゆるかも
12 3174漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも
12 3175和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾へど妹は忘らえなくに [忘れかねつも]
123175S [忘れかねつも]
12 3176草枕旅にし居れば刈り薦の乱れて妹に恋ひぬ日はなし
12 3177志賀の海人の礒に刈り干すなのりその名は告りてしを何か逢ひかたき
12 3178国遠み思ひなわびそ風の共雲の行くごと言は通はむ
12 3179留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲のやむ時もなし
12 3180うらもなく去にし君ゆゑ朝な朝なもとなぞ恋ふる逢ふとはなけど
12 3181白栲の君が下紐我れさへに今日結びてな逢はむ日のため
12 3182白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも
12 3183都辺に君は去にしを誰が解けか我が紐の緒の結ふ手たゆきも
12 3184草枕旅行く君を人目多み袖振らずしてあまた悔しも
12 3185まそ鏡手に取り持ちて見れど飽かぬ君に後れて生けりともなし
12 3186曇り夜のたどきも知らぬ山越えています君をばいつとか待たむ
12 3187たたなづく青垣山の隔なりなばしばしば君を言問はじかも
12 3188朝霞たなびく山を越えて去なば我れは恋ひむな逢はむ日までに
12 3189あしひきの山は百重に隠すとも妹は忘れじ直に逢ふまでに [一云 隠せども君を思はくやむ時もなし]
12 3190雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
12 3191よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに
12 3192草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ [一云 み坂越ゆらむ]
12 3193玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道越ゆらむ [一云 夕霧に長恋しつつ寐ねかてぬかも]
12 3194息の緒に我が思ふ君は鶏が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ
12 3195磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ
12 3196春日野の浅茅が原に遅れ居て時ぞともなし我が恋ふらくは
12 3197住吉の岸に向へる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし
12 3198明日よりはいなむの川の出でて去なば留まれる我れは恋ひつつやあらむ
12 3199海の底沖は畏し礒廻より漕ぎ廻みいませ月は経ぬとも
12 3200飼飯の浦に寄する白波しくしくに妹が姿は思ほゆるかも
12 3201時つ風吹飯の浜に出で居つつ贖ふ命は妹がためこそ
12 3202熟田津に舟乗りせむと聞きしなへ何ぞも君が見え来ずあるらむ
12 3203みさご居る洲に居る舟の漕ぎ出なばうら恋しけむ後は逢ひぬとも
12 3204玉葛幸くいまさね山菅の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ
12 3205後れ居て恋ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る
12 3206筑紫道の荒礒の玉藻刈るとかも君が久しく待てど来まさぬ
12 3207あらたまの年の緒長く照る月の飽かざる君や明日別れなむ
12 3208久にあらむ君を思ふにひさかたの清き月夜も闇の夜に見ゆ
12 3209春日なる御笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしぞ思ふ
12 3210あしひきの片山雉立ち行かむ君に後れてうつしけめやも
12 3211玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ
12 3212八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも
12 3213十月しぐれの雨に濡れつつか君が行くらむ宿か借るらむ
12 3214十月雨間も置かず降りにせばいづれの里の宿か借らまし
12 3215白栲の袖の別れを難みして荒津の浜に宿りするかも
12 3216草枕旅行く君を荒津まで送りぞ来ぬる飽き足らねこそ
12 3217荒津の海我れ幣奉り斎ひてむ早帰りませ面変りせず
12 3218朝な朝な筑紫の方を出で見つつ音のみぞ我が泣くいたもすべなみ
12 3219豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
12 3220豊国の企救の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり
13 3221冬こもり 春さり来れば 朝には 白露置き 夕には 霞たなびく 汗瑞能振 木末が下に 鴬鳴くも
13 3222みもろは 人の守る山 本辺は 馬酔木花咲き 末辺は 椿花咲く うらぐはし 山ぞ 泣く子守る山
13 3223かむとけの 日香空の 九月の しぐれの降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ 神なびの 清き御田屋の 垣つ田の 池の堤の 百足らず 斎槻の枝に 瑞枝さす 秋の黄葉 まき持てる 小鈴もゆらに 手弱女に 我れはあれども 引き攀ぢて 枝もとを
13 3224ひとりのみ見れば恋しみ神なびの山の黄葉手折り来り君
13 3225天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川は 浦なみか 舟の寄り来ぬ 礒なみか 海人の釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも 沖つ波 競ひ漕入り来 海人の釣舟
13 3226さざれ波浮きて流るる泊瀬川寄るべき礒のなきが寂しさ
13 3227葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ 五百万 千万神の 神代より 言ひ継ぎ来る 神なびの みもろの山は 春されば 春霞立つ 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき 石
13 3228神なびの三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに
13 3229斎串立てみわ据ゑ奉る祝部がうずの玉かげ見ればともしも
13 3230みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 神なび山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ
13 3231月は日は変らひぬとも久に経る三諸の山の離宮ところ
133231S 古き都の離宮ところ
13 3232斧取りて 丹生の桧山の 木伐り来て 筏に作り 真楫貫き 礒漕ぎ廻つつ 島伝ひ 見れども飽かず み吉野の 瀧もとどろに 落つる白波
13 3233み吉野の瀧もとどろに落つる白波留まりにし妹に見せまく欲しき白波
13 3234やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子の きこしをす 御食つ国 神風の 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門なす 海もゆたけし 見わたす 島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも
13 3235山辺の五十師の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも
13 3236そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 瀧つ屋の 阿後尼の原を 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を
13 3237あをによし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川渡り 娘子らに 逢坂山に 手向け草 幣取り置きて 我妹子に 近江の海の 沖つ波 来寄る浜辺を くれくれと ひとりぞ我が来る 妹が目を欲り
13 3238逢坂をうち出でて見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる
13 3239近江の海 泊り八十あり 八十島の 島の崎々 あり立てる 花橘を ほつ枝に もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米を懸け 汝が母を 取らくを知らに 汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩と比米と
13 3240大君の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 早き瀬を 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡りの たきつ瀬を 見つつ渡りて 近江道の 逢坂山に 手向けして 我が越え行けば 楽浪の 志賀の唐崎 幸くあらば またかへり見
13 3241天地を嘆き祈ひ祷み幸くあらばまたかへり見む志賀の唐崎
13 3242ももきね 美濃の国の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山
13 3243娘子らが 麻笥に垂れたる 続麻なす 長門の浦に 朝なぎに 満ち来る潮の 夕なぎに 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 我妹子に 恋ひつつ来れば 阿胡の海の 荒礒の上に 浜菜摘む 海人娘子らが うながせ
13 3244阿胡の海の荒礒の上のさざれ波我が恋ふらくはやむ時もなし
13 3245天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも
13 3246天なるや月日のごとく我が思へる君が日に異に老ゆらく惜しも
13 3247沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも あたらしき 君が 老ゆらく惜しも
13 3248磯城島の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を
13 3249磯城島の大和の国に人ふたりありとし思はば何か嘆かむ
13 3250蜻蛉島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国 しかれども 我れは言挙げす 天地の 神もはなはだ 我が思ふ 心知らずや 行く影の 月も経ゆけば 玉かぎる 日も重なりて 思へかも 胸の苦しき 恋ふれかも 心の痛き 末つひに 君に逢はずは
13 3251大船の思ひ頼める君ゆゑに尽す心は惜しけくもなし
13 3252ひさかたの都を置きて草枕旅行く君をいつとか待たむ
13 3253葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと 障みなく 幸くいまさば 荒礒波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙げす我れは <[言挙げす我れは]>
13 3254磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
13 3255古ゆ 言ひ継ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど 娘子らが 心を知らに そを知らむ よしのなければ 夏麻引く 命かたまけ 刈り薦の 心もしのに 人知れず もとなぞ恋ふる 息の緒にして
13 3256しくしくに思はず人はあるらめどしましくも我は忘らえぬかも
13 3257直に来ずこゆ巨勢道から岩せ踏みなづみぞ我が来し恋ひてすべなみ
133257S 紀の国の 浜に寄るとふ あわび玉 拾ひにと言ひて 行きし君 いつ来まさむ
13 3258あらたまの 年は来ゆきて 玉梓の 使の来ねば 霞立つ 長き春日を 天地に 思ひ足らはし たらちねの 母が飼ふ蚕の 繭隠り 息づきわたり 我が恋ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠み 天伝ふ 日の暮れぬ
13 3259かくのみし相思はずあらば天雲の外にぞ君はあるべくありける
13 3260小治田の 年魚道の水を 間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし
13 3261思ひ遣るすべのたづきも今はなし君に逢はずて年の経ぬれば
133261S 妹に会わず
13 3262瑞垣の久しき時ゆ恋すれば我が帯緩ふ朝宵ごとに
13 3263こもりくの 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち 斎杭には 鏡を懸け 真杭には 真玉を懸け 真玉なす 我が思ふ妹も 鏡なす 我が思ふ妹も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ
13 3264年渡るまでにも人はありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
13 3265世の中を憂しと思ひて家出せし我れや何にか還りてならむ
13 3266春されば 花咲ををり 秋づけば 丹のほにもみつ 味酒を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の 早き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は寄りて 朝露の 消なば消ぬべく 恋ひしくも しるくも逢へる 隠り妻かも
13 3267明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも
13 3268みもろの 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや
13 3269帰りにし人を思ふとぬばたまのその夜は我れも寐も寝かねてき
13 3270さし焼かむ 小屋の醜屋に かき棄てむ 破れ薦を敷きて 打ち折らむ 醜の醜手を さし交へて 寝らむ君ゆゑ あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも
13 3271我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から
13 3272うちはへて 思ひし小野は 遠からぬ その里人の 標結ふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らず 居らくの 奥処も知らず にきびにし 我が家すらを 草枕 旅寝のごとく 思ふそら 苦しきものを 嘆くそら 過ぐしえぬものを 天雲の
13 3273二つなき恋をしすれば常の帯を三重結ぶべく我が身はなりぬ
13 3274為むすべの たづきを知らに 岩が根の こごしき道を 岩床の 根延へる門を 朝には 出で居て嘆き 夕には 入り居て偲ひ 白栲の 我が衣手を 折り返し ひとりし寝れば ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝る 味寐は寝ずて 大船の ゆくらゆく
13 3275ひとり寝る夜を数へむと思へども恋の繁きに心どもなし
13 3276百足らず 山田の道を 波雲の 愛し妻と 語らはず 別れし来れば 早川の 行きも知らず 衣手の 帰りも知らず 馬じもの 立ちてつまづき 為むすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 思ひ足らはし 魂合はば 君来ますやと
13 3277寐も寝ずに我が思ふ君はいづくへに今夜誰れとか待てど来まさぬ
13 3278赤駒を 馬屋に立て 黒駒を 馬屋に立てて そを飼ひ 我が行くがごと 思ひ妻 心に乗りて 高山の 嶺のたをりに 射目立てて 鹿猪待つがごと 床敷きて 我が待つ君を 犬な吠えそね
13 3279葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ
13 3280我が背子は 待てど来まさず 天の原 振り放け見れば ぬばたまの 夜も更けにけり さ夜更けて あらしの吹けば 立ち待てる 我が衣手に 降る雪は 凍りわたりぬ 今さらに 君来まさめや さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖もち
13 3281我が背子は 待てど来まさず 雁が音も 響みて寒し ぬばたまの 夜も更けにけり さ夜更くと あらしの更けば 立ち待つに 我が衣手に 置く霜も 氷にさえわたり 降る雪も 凍りわたりぬ 今さらに 君来まさめや さな葛 後も逢はむと 大船
13 3282衣手にあらしの吹きて寒き夜を君来まさずはひとりかも寝む
13 3283今さらに恋ふとも君に逢はめやも寝る夜をおちず夢に見えこそ
13 3284菅の根の ねもころごろに 我が思へる 妹によりては 言の忌みも なくありこそと 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 間なく貫き垂れ 天地の 神をぞ我が祷む いたもすべなみ
13 3285たらちねの母にも言はずつつめりし心はよしゑ君がまにまに
13 3286玉たすき 懸けぬ時なく 我が思へる 君によりては しつ幣を 手に取り持ちて 竹玉を 繁に貫き垂れ 天地の 神をぞ我が祷む いたもすべなみ
13 3287天地の神を祈りて我が恋ふる君いかならず逢はずあらめやも
13 3288大船の 思ひ頼みて さな葛 いや遠長く 我が思へる 君によりては 言の故も なくありこそと 木綿たすき 肩に取り懸け 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神にぞ我が祷む いたもすべなみ
13 3289み佩かしを 剣の池の 蓮葉に 溜まれる水の ゆくへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を な寐ねそと 母聞こせども 我が心 清隅の池の 池の底 我れは忘れじ 直に逢ふまでに
13 3290いにしへの神の時より逢ひけらし今の心も常忘らえず
13 3291み吉野の 真木立つ山に 青く生ふる 山菅の根の ねもころに 我が思ふ君は 大君の 任けのまにまに [或本云 大君の 命かしこみ] 鄙離る 国治めにと [或本云 天離る 鄙治めにと] 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れか恋ひむな 旅な
13 3292うつせみの命を長くありこそと留まれる我れは斎ひて待たむ
13 3293み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
13 3294み雪降る吉野の岳に居る雲の外に見し子に恋ひわたるかも
13 3295うちひさつ 三宅の原ゆ 直土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑぞ 通はすも我子 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷の腸 か黒き髪に 真木綿もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊の小櫛を 押へ
13 3296父母に知らせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来るかも
13 3297玉たすき 懸けぬ時なく 我が思ふ 妹にし逢はねば あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに 寐も寝ずに 妹に恋ふるに 生けるすべなし
13 3298よしゑやし死なむよ我妹生けりともかくのみこそ我が恋ひわたりなめ
13 3299見わたしに 妹らは立たし この方に 我れは立ちて 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに さ丹塗りの 小舟もがも 玉巻きの 小楫もがも 漕ぎ渡りつつも 語らふ妻を
133299S こもりくの 泊瀬の川の 彼方に 妹らは立たし この方に 我れは立ちて
13 3300おしてる 難波の崎に 引き泝る 赤のそほ舟 そほ舟に 網取り懸け 引こづらひ ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみえずぞ 言はえにし我が身
13 3301神風の 伊勢の海の 朝なぎに 来寄る深海松 夕なぎに 来寄る俣海松 深海松の 深めし我れを 俣海松の また行き帰り 妻と言はじとかも 思ほせる君
13 3302紀の国の 牟婁の江の辺に 千年に 障ることなく 万代に かくしもあらむと 大船の 思ひ頼みて 出立の 清き渚に 朝なぎに 来寄る深海松 夕なぎに 来寄る縄海苔 深海松の 深めし子らを 縄海苔の 引けば絶ゆとや 里人の 行きの集ひに
13 3303里人の 我れに告ぐらく 汝が恋ふる うつくし夫は 黄葉の 散り乱ひたる 神なびの この山辺から [或本云 その山辺] ぬばたまの 黒馬に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫は逢ひきと 人ぞ告げつる
13 3304聞かずして黙もあらましを何しかも君が直香を人の告げつる
13 3305物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをもぞ 汝れに寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ
13 3306いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す
13 3307しかれこそ 年の八年を 切り髪の よち子を過ぎ 橘の ほつ枝を過ぎて この川の 下にも長く 汝が心待て
13 3308天地の神をも我れは祈りてき恋といふものはかつてやまずけり
13 3309物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをぞも 汝れに寄すといふ 汝はいかに思ふや 思へこそ 年の八年を 切り髪の よち子を過ぎ 橘の ほつ枝をすぐり
13 3310隠口の 泊瀬の国に さよばひに 我が来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉は響む 家つ鳥 鶏も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ
13 3311隠口の泊瀬小国に妻しあれば石は踏めどもなほし来にけり
13 3312隠口の 泊瀬小国に よばひせす 我が天皇よ 奥床に 母は寐ねたり 外床に 父は寐ねたり 起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明けゆきぬ ここだくも 思ふごとならぬ 隠り妻かも
13 3313川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも
13 3314つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背
13 3315泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣ひづちなむかも
13 3316まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩よりなづみ行く見れば
13 3317馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ
13 3318紀の国の 浜に寄るといふ 鰒玉 拾はむと言ひて 妹の山 背の山越えて 行きし君 いつ来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕占を 我が問ひしかば 夕占の 我れに告らく 我妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺つ波の 寄する白玉
13 3319杖つきもつかずも我れは行かめども君が来まさむ道の知らなく
13 3320直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ
13 3321さ夜更けて今は明けぬと戸を開けて紀へ行く君をいつとか待たむ
13 3322門に居る我が背は宇智に至るともいたくし恋ひば今帰り来む
13 3323しなたつ 筑摩さのかた 息長の 越智の小菅 編まなくに い刈り持ち来 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて 我れを偲はす 息長の 越智の小菅
13 3324かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと
13 3325つのさはふ磐余の山に白栲にかかれる雲は大君にかも
13 3326礒城島の 大和の国に いかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へまつりて 殿隠り 隠りいませば 朝には 召して使ひ 夕には 召して使ひ 使はしし 舎人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち あり待てど 召したまはねば
13 3327百小竹の 三野の王 西の馬屋に 立てて飼ふ駒 東の馬屋に 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふと言へ 水こそば 汲みて飼ふと言へ 何しかも 葦毛の馬の いなき立てつる
13 3328衣手葦毛の馬のいなく声心あれかも常ゆ異に鳴く
13 3329白雲の たなびく国の 青雲の 向伏す国の 天雲の 下なる人は 我のみかも 君に恋ふらむ 我のみかも 君に恋ふれば 天地に 言を満てて 恋ふれかも 胸の病みたる 思へかも 心の痛き 我が恋ぞ 日に異にまさる いつはしも 恋ひぬ時とは
13 3330隠口の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜け 下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を惜しみ くはし妹に 鮎を惜しみ 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなく
13 3331隠口の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走出の よろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも
13 3332高山と 海とこそば 山ながら かくもうつしく 海ながら しかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人
13 3333大君の 命畏み 蜻蛉島 大和を過ぎて 大伴の 御津の浜辺ゆ 大船に 真楫しじ貫き 朝なぎに 水手の声しつつ 夕なぎに 楫の音しつつ 行きし君 いつ来まさむと 占置きて 斎ひわたるに たはことか 人の言ひつる 我が心 筑紫の山の 黄
13 3334たはことか人の言ひつる玉の緒の長くと君は言ひてしものを
13 3335玉桙の 道行く人は あしひきの 山行き野行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚取り 海道に出でて 畏きや 神の渡りは 吹く風も のどには吹かず 立つ波も おほには立たず とゐ波の 塞ふる道を 誰が心 いたはしとかも 直渡りけむ 直渡り
13 3336鳥が音の 聞こゆる海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を 枕になし ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は 母父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝てむやと 家問へば 家をも告ら
13 3337母父も妻も子どもも高々に来むと待ちけむ人の悲しさ
13 3338あしひきの山道は行かむ風吹けば波の塞ふる海道は行かじ
13 3339玉桙の 道に出で立ち あしひきの 野行き山行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚取り 海道に出でて 吹く風も おほには吹かず 立つ波も のどには立たぬ 畏きや 神の渡りの しき波の 寄する浜辺に 高山を 隔てに置きて 浦ぶちを 枕に巻
13 3340母父も妻も子どもも高々に来むと待つらむ人の悲しさ
13 3341家人の待つらむものをつれもなき荒礒を巻きて寝せる君かも
13 3342浦ぶちにこやせる君を今日今日と来むと待つらむ妻し悲しも
13 3343浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
13 3344この月は 君来まさむと 大船の 思ひ頼みて いつしかと 我が待ち居れば 黄葉の 過ぎてい行くと 玉梓の 使の言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地を ほのほと踏みて 立ちて居て ゆくへも知らず 朝霧の 思ひ迷ひて 杖足らず 八尺の嘆
13 3345葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ
13 3346見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし 草枕 この旅の日に 妻放くべしや
13 3347草枕この旅の日に妻離り家道思ふに生けるすべなし
133347S 旅の日にして
14 3348夏麻引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり
14 3349葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも
14 3350筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
143350S たらちねの あまた着欲しも
14 3351筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも
14 3352信濃なる須我の荒野に霍公鳥鳴く声聞けば時過ぎにけり
14 3353あらたまの伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ寐を先立たね
14 3354伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に
14 3355天の原富士の柴山この暗の時ゆつりなば逢はずかもあらむ
14 3356富士の嶺のいや遠長き山道をも妹がりとへばけによばず来ぬ
14 3357霞居る富士の山びに我が来なばいづち向きてか妹が嘆かむ
14 3358さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
143358S1ま愛しみ寝らくはしけらくさ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
143358S2逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも
14 3359駿河の海おし辺に生ふる浜つづら汝を頼み母に違ひぬ [一云 親に違ひぬ]
14 3360伊豆の海に立つ白波のありつつも継ぎなむものを乱れしめめや
143360S 白雲の絶えつつも継がむと思へや乱れそめけむ
14 3361足柄のをてもこのもにさすわなのかなるましづみ子ろ我れ紐解く
14 3362相模嶺の小峰見そくし忘れ来る妹が名呼びて我を音し泣くな
143362S 武蔵嶺の小峰見隠し忘れ行く君が名懸けて我を音し泣くる
14 3363我が背子を大和へ遣りて待つしだす足柄山の杉の木の間か
14 3364足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし
143364S 延ふ葛の引かば寄り来ね下なほなほに
14 3365鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
14 3366ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか
14 3367百づ島足柄小舟歩き多み目こそ離るらめ心は思へど
14 3368あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに
14 3369あしがりの麻万の小菅の菅枕あぜかまかさむ子ろせ手枕
14 3370あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む
14 3371足柄のみ坂畏み曇り夜の我が下ばへをこち出つるかも
14 3372相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも
14 3373多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき
14 3374武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり
14 3375武蔵野のをぐきが雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ
14 3376恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ
143376S いかにして恋ひばか妹に武蔵野のうけらが花の色に出ずあらむ
14 3377武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを
14 3378入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね
14 3379我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
14 3380埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
14 3381夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし
14 3382馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我来なば汝は恋ふばぞも
14 3383馬来田の嶺ろに隠り居かくだにも国の遠かば汝が目欲りせむ
14 3384葛飾の真間の手児名をまことかも我れに寄すとふ真間の手児名を
14 3385葛飾の真間の手児名がありしかば真間のおすひに波もとどろに
14 3386にほ鳥の葛飾早稲をにへすともその愛しきを外に立てめやも
14 3387足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
14 3388筑波嶺の嶺ろに霞居過ぎかてに息づく君を率寝て遣らさね
14 3389妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな
14 3390筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに
14 3391筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山悪しかるとがもさね見えなくに
14 3392筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに
14 3393筑波嶺のをてもこのもに守部据ゑ母い守れども魂ぞ会ひにける
14 3394さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ
14 3395小筑波の嶺ろに月立し間夜はさはだなりぬをまた寝てむかも
14 3396小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに
14 3397常陸なる浪逆の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ
14 3398人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね
14 3399信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背
14 3400信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ
14 3401なかまなに浮き居る船の漕ぎ出なば逢ふことかたし今日にしあらずは
14 3402日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ
14 3403我が恋はまさかも愛し草枕多胡の入野の奥も愛しも
14 3404上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ
14 3405上つ毛野乎度の多杼里が川路にも子らは逢はなもひとりのみして
143405S 上つ毛野小野の多杼里があはぢにも背なは逢はなも見る人なしに
14 3406上つ毛野佐野の茎立ち折りはやし我れは待たむゑ来とし来ずとも
14 3407上つ毛野まぐはしまとに朝日さしまきらはしもなありつつ見れば
14 3408新田山嶺にはつかなな我に寄そりはしなる子らしあやに愛しも
14 3409伊香保ろに天雲い継ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら
14 3410伊香保ろの沿ひの榛原ねもころに奥をなかねそまさかしよかば
14 3411多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれどもあにくやしづしその顔よきに
14 3412上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も
14 3413利根川の川瀬も知らず直渡り波にあふのす逢へる君かも
14 3414伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の現はろまでもさ寝をさ寝てば
14 3415上つ毛野伊香保の沼に植ゑ小水葱かく恋ひむとや種求めけむ
14 3416上つ毛野可保夜が沼のいはゐつら引かばぬれつつ我をな絶えそね
14 3417上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ [柿本朝臣人麻呂歌集出也]
14 3418上つ毛野佐野田の苗のむら苗に事は定めつ今はいかにせも
14 3419伊香保せよ奈可中次下思ひどろくまこそしつと忘れせなふも
14 3420上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ
14 3421伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ
14 3422伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど我が恋のみし時なかりけり
14 3423上つ毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり
14 3424下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ
14 3425下つ毛野阿蘇の川原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ
14 3426会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね
14 3427筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥の可刀利娘子の結ひし紐解く
14 3428安達太良の嶺に伏す鹿猪のありつつも我れは至らむ寝処な去りそね
14 3429遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを
14 3430志太の浦を朝漕ぐ船はよしなしに漕ぐらめかもよよしこさるらめ
14 3431足柄の安伎奈の山に引こ船の後引かしもよここばこがたに
14 3432足柄のわを可鶏山のかづの木の我をかづさねも門さかずとも
14 3433薪伐る鎌倉山の木垂る木を松と汝が言はば恋ひつつやあらむ
14 3434上つ毛野阿蘇山つづら野を広み延ひにしものをあぜか絶えせむ
14 3435伊香保ろの沿ひの榛原我が衣に着きよらしもよひたへと思へば
14 3436しらとほふ小新田山の守る山のうら枯れせなな常葉にもがも
14 3437陸奥の安達太良真弓はじき置きて反らしめきなば弦はかめかも
14 3438都武賀野に鈴が音聞こゆ可牟思太の殿のなかちし鳥猟すらしも
143438S 美都我野に 若子し
14 3439鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ
14 3440この川に朝菜洗ふ子汝れも我れもよちをぞ持てるいで子給りに [一云 ましも我れも]
14 3441ま遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか至らむ歩め我が駒
143441S 遠くして 歩め黒駒
14 3442東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに
14 3443うらもなく我が行く道に青柳の張りて立てれば物思ひ出つも
14 3444伎波都久の岡のくくみら我れ摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね
14 3445港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに
14 3446妹なろが使ふ川津のささら荻葦と人言語りよらしも
14 3447草蔭の安努な行かむと墾りし道安努は行かずて荒草立ちぬ
14 3448花散らふこの向つ峰の乎那の峰のひじにつくまで君が代もがも
14 3449白栲の衣の袖を麻久良我よ海人漕ぎ来見ゆ波立つなゆめ
14 3450乎久佐男と乎具佐受家男と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり
14 3451左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも我はそとも追じ
14 3452おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに
14 3453風の音の遠き我妹が着せし衣手本のくだりまよひ来にけり
14 3454庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾
14 3455恋しけば来ませ我が背子垣つ柳末摘み枯らし我れ立ち待たむ
14 3456うつせみの八十言のへは繁くとも争ひかねて我を言なすな
14 3457うちひさす宮の我が背は大和女の膝まくごとに我を忘らすな
14 3458汝背の子や等里の岡道しなかだ折れ我を音し泣くよ息づくまでに
14 3459稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ
14 3460誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を
14 3461あぜと言へかさ寝に逢はなくにま日暮れて宵なは来なに明けぬしだ来る
14 3462あしひきの山沢人の人さはにまなと言ふ子があやに愛しさ
14 3463ま遠くの野にも逢はなむ心なく里のみ中に逢へる背なかも
14 3464人言の繁きによりてまを薦の同じ枕は我はまかじやも
14 3465高麗錦紐解き放けて寝るが上にあどせろとかもあやに愛しき
14 3466ま愛しみ寝れば言に出さ寝なへば心の緒ろに乗りて愛しも
14 3467奥山の真木の板戸をとどとして我が開かむに入り来て寝さね
14 3468山鳥の峰ろのはつをに鏡懸け唱ふべみこそ汝に寄そりけめ
14 3469夕占にも今夜と告らろ我が背なはあぜぞも今夜寄しろ来まさぬ
14 3470相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちがてに [柿本朝臣人麻呂歌集出也]
14 3471しまらくは寝つつもあらむを夢のみにもとな見えつつ我を音し泣くる
14 3472人妻とあぜかそを言はむしからばか隣の衣を借りて着なはも
14 3473左努山に打つや斧音の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる
14 3474植ゑ竹の本さへ響み出でて去なばいづし向きてか妹が嘆かむ
14 3475恋ひつつも居らむとすれど遊布麻山隠れし君を思ひかねつも
14 3476うべ子なは我ぬに恋ふなも立と月のぬがなへ行けば恋しかるなも
143476S ぬがなへ行けど我ぬ行がのへば
14 3477東路の手児の呼坂越えて去なば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
14 3478遠しとふ故奈の白嶺に逢ほしだも逢はのへしだも汝にこそ寄され
14 3479安可見山草根刈り除け逢はすがへ争ふ妹しあやに愛しも
14 3480大君の命畏み愛し妹が手枕離れ夜立ち来のかも
14 3481あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも
14 3482韓衣裾のうち交へ逢はねども異しき心を我が思はなくに
143482S 韓衣裾のうち交ひ逢はなへば寝なへのからに言痛かりつも
14 3483昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ
14 3484麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に
14 3485剣大刀身に添ふ妹を取り見がね音をぞ泣きつる手児にあらなくに
14 3486愛し妹を弓束並べ巻きもころ男のこととし言はばいや勝たましに
14 3487梓弓末に玉巻きかくすすぞ寝なななりにし奥をかぬかぬ
14 3488生ふしもとこの本山のましばにも告らぬ妹が名かたに出でむかも
14 3489梓弓欲良の山辺の茂かくに妹ろを立ててさ寝処払ふも
14 3490梓弓末は寄り寝むまさかこそ人目を多み汝をはしに置けれ [柿本朝臣人麻呂歌集出也]
14 3491柳こそ伐れば生えすれ世の人の恋に死なむをいかにせよとぞ
14 3492小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも
14 3493遅速も汝をこそ待ため向つ峰の椎の小やで枝の逢ひは違はじ
143493S 遅速も君をし待たむ向つ峰の椎のさ枝の時は過ぐとも
14 3494子持山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ
14 3495巌ろの沿ひの若松限りとや君が来まさぬうらもとなくも
14 3496橘の古婆の放髪が思ふなむ心うつくしいで我れは行かな
14 3497川上の根白高萱あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出にしか
14 3498海原の根柔ら小菅あまたあれば君は忘らす我れ忘るれや
14 3499岡に寄せ我が刈る萱のさね萱のまことなごやは寝ろとへなかも
14 3500紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
14 3501安波峰ろの峰ろ田に生はるたはみづら引かばぬるぬる我を言な絶え
14 3502我が目妻人は放くれど朝顔のとしさへこごと我は離るがへ
14 3503安齊可潟潮干のゆたに思へらばうけらが花の色に出めやも
14 3504春へ咲く藤の末葉のうら安にさ寝る夜ぞなき子ろをし思へば
14 3505うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も
14 3506新室のこどきに至ればはだすすき穂に出し君が見えぬこのころ
14 3507谷狭み峰に延ひたる玉葛絶えむの心我が思はなくに
14 3508芝付の御宇良崎なるねつこ草相見ずあらば我れ恋ひめやも
14 3509栲衾白山風の寝なへども子ろがおそきのあろこそえしも
14 3510み空行く雲にもがもな今日行きて妹に言どひ明日帰り来む
14 3511青嶺ろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこのころ
14 3512一嶺ろに言はるものから青嶺ろにいさよふ雲の寄そり妻はも
14 3513夕さればみ山を去らぬ布雲のあぜか絶えむと言ひし子ろはも
14 3514高き嶺に雲のつくのす我れさへに君につきなな高嶺と思ひて
14 3515我が面の忘れむしだは国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲はせ
14 3516対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも
14 3517白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乗りてここば愛しけ
14 3518岩の上にいかかる雲のかのまづく人ぞおたはふいざ寝しめとら
14 3519汝が母に嘖られ我は行く青雲の出で来我妹子相見て行かむ
14 3520面形の忘れむしだは大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ
14 3521烏とふ大をそ鳥のまさでにも来まさぬ君をころくとぞ鳴く
14 3522昨夜こそば子ろとさ寝しか雲の上ゆ鳴き行く鶴の間遠く思ほゆ
14 3523坂越えて安倍の田の面に居る鶴のともしき君は明日さへもがも
14 3524まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする
14 3525水久君野に鴨の這ほのす子ろが上に言緒ろ延へていまだ寝なふも
14 3526沼二つ通は鳥が巣我が心二行くなもとなよ思はりそね
14 3527沖に住も小鴨のもころ八尺鳥息づく妹を置きて来のかも
14 3528水鳥の立たむ装ひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも
14 3529等夜の野に兎ねらはりをさをさも寝なへ子ゆゑに母に嘖はえ
14 3530さを鹿の伏すや草むら見えずとも子ろが金門よ行かくしえしも
14 3531妹をこそ相見に来しか眉引きの横山辺ろの獣なす思へる
14 3532春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも
14 3533人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
14 3534赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の子らはも
14 3535己が命をおほにな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢ふものを
14 3536赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ
14 3537くへ越しに麦食む小馬のはつはつに相見し子らしあやに愛しも
143537S 馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろし愛しも
14 3538広橋を馬越しがねて心のみ妹がり遣りて我はここにして
143538S 小林に駒を馳ささげ
14 3539あずの上に駒を繋ぎて危ほかど人妻子ろを息に我がする
14 3540左和多里の手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問はず来ぬ
14 3541あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも
14 3542さざれ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも
14 3543むろがやの都留の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに
14 3544あすか川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも
14 3545あすか川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば
14 3546青柳の張らろ川門に汝を待つと清水は汲まず立ち処平すも
14 3547あぢの棲む須沙の入江の隠り沼のあな息づかし見ず久にして
14 3548鳴る瀬ろにこつの寄すなすいとのきて愛しけ背ろに人さへ寄すも
14 3549多由比潟潮満ちわたるいづゆかも愛しき背ろが我がり通はむ
14 3550おしていなと稲は搗かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜ひとり寝て
14 3551阿遅可麻の潟にさく波平瀬にも紐解くものか愛しけを置きて
14 3552まつが浦にさわゑうら立ちま人言思ほすなもろ我が思ほのすも
14 3553あじかまの可家の港に入る潮のこてたずくもが入りて寝まくも
14 3554妹が寝る床のあたりに岩ぐくる水にもがもよ入りて寝まくも
14 3555麻久良我の許我の渡りの韓楫の音高しもな寝なへ子ゆゑに
14 3556潮船の置かれば愛しさ寝つれば人言繁し汝をどかもしむ
14 3557悩ましけ人妻かもよ漕ぐ舟の忘れはせなないや思ひ増すに
14 3558逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも
14 3559大船を舳ゆも艫ゆも堅めてし許曽の里人あらはさめかも
14 3560ま金ふく丹生のま朱の色に出て言はなくのみぞ我が恋ふらくは
14 3561金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも
14 3562荒礒やに生ふる玉藻のうち靡きひとりや寝らむ我を待ちかねて
14 3563比多潟の礒のわかめの立ち乱え我をか待つなも昨夜も今夜も
14 3564古須気ろの浦吹く風のあどすすか愛しけ子ろを思ひ過ごさむ
14 3565かの子ろと寝ずやなりなむはだすすき宇良野の山に月片寄るも
14 3566我妹子に我が恋ひ死なばそわへかも神に負ほせむ心知らずて
14 3567置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも
14 3568後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを
14 3569防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも
14 3570葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ
14 3571己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間
14 3572あど思へか阿自久麻山の弓絃葉のふふまる時に風吹かずかも
14 3573あしひきの山かづらかげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ
14 3574小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ
14 3575美夜自呂のすかへに立てるかほが花な咲き出でそねこめて偲はむ
14 3576苗代の小水葱が花を衣に摺りなるるまにまにあぜか愛しけ
14 3577愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも
15 3578武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
15 3579大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを
15 3580君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ
15 3581秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ
15 3582大船を荒海に出だしいます君障むことなく早帰りませ
15 3583ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも
15 3584別れなばうら悲しけむ我が衣下にを着ませ直に逢ふまでに
15 3585我妹子が下にも着よと贈りたる衣の紐を我れ解かめやも
15 3586我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ
15 3587栲衾新羅へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ
15 3588はろはろに思ほゆるかもしかれども異しき心を我が思はなくに
15 3589夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り
15 3590妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る
15 3591妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにぞありける
15 3592海原に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに
15 3593大伴の御津に船乗り漕ぎ出てはいづれの島に廬りせむ我れ
15 3594潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり
15 3595朝開き漕ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも
15 3596我妹子が形見に見むを印南都麻白波高み外にかも見む
15 3597わたつみの沖つ白波立ち来らし海人娘子ども島隠る見ゆ
15 3598ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
15 3599月読の光りを清み神島の礒廻の浦ゆ船出す我れは
15 3600離れ礒に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
15 3601しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ
15 3602あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも
15 3603青楊の枝伐り下ろしゆ種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも
15 3604妹が袖別れて久になりぬれど一日も妹を忘れて思へや
15 3605わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋やまめ
15 3606玉藻刈る処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす我れは
153606S 敏馬を過ぎて 船近づきぬ
15 3607白栲の藤江の浦に漁りする海人とや見らむ旅行く我れを
153607S 荒栲の 鱸釣る海人とか見らむ
15 3608天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ
153608S 大和島見ゆ
15 3609武庫の海の庭よくあらし漁りする海人の釣舟波の上ゆ見ゆ
153609S 笥飯の海の 刈り薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船
15 3610安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか
153610S 嗚呼見の浦 玉裳の裾に
15 3611大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士
15 3612あをによし奈良の都に行く人もがも草枕旅行く船の泊り告げむに [旋頭歌也]
15 3613海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも
15 3614帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな
15 3615我がゆゑに妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり
15 3616沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを
15 3617石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
15 3618山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも
15 3619礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて
15 3620恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも
15 3621我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる
15 3622月読みの光りを清み夕なぎに水手の声呼び浦廻漕ぐかも
15 3623山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ
15 3624我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり
15 3625夕されば 葦辺に騒き 明け来れば 沖になづさふ 鴨すらも 妻とたぐひて 我が尾には 霜な降りそと 白栲の 羽さし交へて うち掃ひ さ寝とふものを 行く水の 帰らぬごとく 吹く風の 見えぬがごとく 跡もなき 世の人にして 別れにし 妹
15 3626鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづしひとりさ寝れば
15 3627朝されば 妹が手にまく 鏡なす 御津の浜びに 大船に 真楫しじ貫き 韓国に 渡り行かむと 直向ふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈引き行けば 沖辺には 白波高み 浦廻より 漕ぎて渡れば 我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隠りぬ さ夜更
15 3628玉の浦の沖つ白玉拾へれどまたぞ置きつる見る人をなみ
15 3629秋さらば我が船泊てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波
15 3630真楫貫き船し行かずは見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを
15 3631いつしかも見むと思ひし粟島を外にや恋ひむ行くよしをなみ
15 3632大船にかし振り立てて浜清き麻里布の浦に宿りかせまし
15 3633粟島の逢はじと思ふ妹にあれや安寐も寝ずて我が恋ひわたる
15 3634筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ
15 3635妹が家路近くありせば見れど飽かぬ麻里布の浦を見せましものを
15 3636家人は帰り早来と伊波比島斎ひ待つらむ旅行く我れを
15 3637草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ
15 3638これやこの名に負ふ鳴門のうづ潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども
15 3639波の上に浮き寝せし宵あど思へか心悲しく夢に見えつる
15 3640都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ
15 3641暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人娘子かも
15 3642沖辺より潮満ち来らし可良の浦にあさりする鶴鳴きて騒きぬ
15 3643沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを
153643S 旅の宿りをいざ告げ遣らな
15 3644大君の命畏み大船の行きのまにまに宿りするかも
15 3645我妹子は早も来ぬかと待つらむを沖にや住まむ家つかずして
15 3646浦廻より漕ぎ来し船を風早み沖つみ浦に宿りするかも
15 3647我妹子がいかに思へかぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる
15 3648海原の沖辺に灯し漁る火は明かして灯せ大和島見む
15 3649鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける
15 3650ひさかたの天照る月は見つれども我が思ふ妹に逢はぬころかも
15 3651ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも海原の八十島の上ゆ妹があたり見む [旋頭歌也]
15 3652志賀の海人の一日もおちず焼く塩のからき恋をも我れはするかも
15 3653志賀の浦に漁りする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚
15 3654可之布江に鶴鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも
153654S 満ちし来ぬらし
15 3655今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ
15 3656秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
15 3657年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我れにまさりて思ふらめやも
15 3658夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ船人を見るが羨しさ
15 3659秋風は日に異に吹きぬ我妹子はいつとか我れを斎ひ待つらむ
15 3660神さぶる荒津の崎に寄する波間なくや妹に恋ひわたりなむ
15 3661風の共寄せ来る波に漁りする海人娘子らが裳の裾濡れぬ
153661S 海人の娘子が裳の裾濡れぬ
15 3662天の原振り放け見れば夜ぞ更けにけるよしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも
15 3663わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ
15 3664志賀の浦に漁りする海人明け来れば浦廻漕ぐらし楫の音聞こゆ
15 3665妹を思ひ寐の寝らえぬに暁の朝霧隠り雁がねぞ鳴く
15 3666夕されば秋風寒し我妹子が解き洗ひ衣行きて早着む
15 3667我が旅は久しくあらしこの我が着る妹が衣の垢つく見れば
15 3668大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも
15 3669旅にあれど夜は火灯し居る我れを闇にや妹が恋ひつつあるらむ
15 3670韓亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし
15 3671ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを
15 3672ひさかたの月は照りたり暇なく海人の漁りは灯し合へり見ゆ
15 3673風吹けば沖つ白波畏みと能許の亭にあまた夜ぞ寝る
15 3674草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさを鹿鳴くも
15
15 3675沖つ波高く立つ日にあへりきと都の人は聞きてけむかも
15 3676天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言告げ遣らむ
15 3677秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば
15 3678妹を思ひ寐の寝らえぬに秋の野にさを鹿鳴きつ妻思ひかねて
15 3679大船に真楫しじ貫き時待つと我れは思へど月ぞ経にける
15 3680夜を長み寐の寝らえぬにあしひきの山彦響めさを鹿鳴くも
15 3681帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも
15 3682天地の神を祈ひつつ我れ待たむ早来ませ君待たば苦しも
15 3683君を思ひ我が恋ひまくはあらたまの立つ月ごとに避くる日もあらじ
15 3684秋の夜を長みにかあらむなぞここば寐の寝らえぬもひとり寝ればか
15 3685足日女御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ
15 3686旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲しも
15 3687あしひきの山飛び越ゆる鴈がねは都に行かば妹に逢ひて来ね
15 3688天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋去らば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず
15 3689岩田野に宿りする君家人のいづらと我れを問はばいかに言はむ
15 3690世間は常かくのみと別れぬる君にやもとな我が恋ひ行かむ
15 3691天地と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 波の上ゆ なづさひ来にて あらたまの 月日も来経ぬ 雁がねも 継ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手濡れて 幸くしも ある
15 3692はしけやし妻も子どもも高々に待つらむ君や島隠れぬる
15 3693黄葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも
15 3694わたつみの 畏き道を 安けくも なく悩み来て 今だにも 喪なく行かむと 壱岐の海人の ほつての占部を 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路に 別れする君
15 3695昔より言ひけることの韓国のからくもここに別れするかも
15 3696新羅へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも
15 3697百船の泊つる対馬の浅茅山しぐれの雨にもみたひにけり
15 3698天離る鄙にも月は照れれども妹ぞ遠くは別れ来にける
15 3699秋去れば置く露霜にあへずして都の山は色づきぬらむ
15 3700あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも
15 3701竹敷の黄葉を見れば我妹子が待たむと言ひし時ぞ来にける
15 3702竹敷の浦廻の黄葉我れ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ
15 3703竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも
15 3704黄葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひにめでて出でて来にけり
15 3705竹敷の玉藻靡かし漕ぎ出なむ君がみ船をいつとか待たむ
15 3706玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む
15 3707秋山の黄葉をかざし我が居れば浦潮満ち来いまだ飽かなくに
15 3708物思ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月ぞ経にける
15 3709家づとに貝を拾ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ
15 3710潮干なばまたも我れ来むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち来ぬ
15 3711我が袖は手本通りて濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ
15 3712ぬばたまの妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ
15 3713黄葉は今はうつろふ我妹子が待たむと言ひし時の経ゆけば
15 3714秋されば恋しみ妹を夢にだに久しく見むを明けにけるかも
15 3715ひとりのみ着寝る衣の紐解かば誰れかも結はむ家遠くして
15 3716天雲のたゆたひ来れば九月の黄葉の山もうつろひにけり
15 3717旅にても喪なく早来と我妹子が結びし紐はなれにけるかも
15 3718家島は名にこそありけれ海原を我が恋ひ来つる妹もあらなくに
15 3719草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経ぬらく
15 3720我妹子を行きて早見む淡路島雲居に見えぬ家つくらしも
15 3721ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ
15 3722大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
15 3723あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
15 3724君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
15 3725我が背子しけだし罷らば白栲の袖を振らさね見つつ偲はむ
15 3726このころは恋ひつつもあらむ玉櫛笥明けてをちよりすべなかるべし
15 3727塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ
15 3728あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり
15 3729愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ
15 3730畏みと告らずありしをみ越道の手向けに立ちて妹が名告りつ
15 3731思ふゑに逢ふものならばしましくも妹が目離れて我れ居らめやも
15 3732あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ
15 3733我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継がまし
15 3734遠き山関も越え来ぬ今さらに逢ふべきよしのなきが寂しさ [一云 さびしさ]
15 3735思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに
15 3736遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな
15 3737人よりは妹ぞも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ
15 3738思ひつつ寝ればかもとなぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる
15 3739かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける
15 3740天地の神なきものにあらばこそ我が思ふ妹に逢はず死にせめ
15 3741命をし全くしあらばあり衣のありて後にも逢はざらめやも [一云 ありての後も]
15 3742逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで我れ恋ひ居らむ
15 3743旅といへば言にぞやすきすくなくも妹に恋ひつつすべなけなくに
15 3744我妹子に恋ふるに我れはたまきはる短き命も惜しけくもなし
15 3745命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはだな思ひそ命だに経ば
15 3746人の植うる田は植ゑまさず今さらに国別れして我れはいかにせむ
15 3747我が宿の松の葉見つつ我れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに
15 3748他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに
15 3749他国に君をいませていつまでか我が恋ひ居らむ時の知らなく
15 3750天地の底ひのうらに我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ
15 3751白栲の我が下衣失はず持てれ我が背子直に逢ふまでに
15 3752春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつうつしけめやも
15 3753逢はむ日の形見にせよとたわや女の思ひ乱れて縫へる衣ぞ
15 3754過所なしに関飛び越ゆる霍公鳥多我子尓毛止まず通はむ
15 3755愛しと我が思ふ妹を山川を中にへなりて安けくもなし
15 3756向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまで
15 3757我が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを
15 3758さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ [一云 今さへや]
15 3759たちかへり泣けども我れは験なみ思ひわぶれて寝る夜しぞ多き
15 3760さ寝る夜は多くあれども物思はず安く寝る夜はさねなきものを
15 3761世の中の常のことわりかくさまになり来にけらしすゑし種から
15 3762我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
15 3763旅と言へば言にぞやすきすべもなく苦しき旅も言にまさめやも
15 3764山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹
15 3765まそ鏡懸けて偲へとまつり出す形見のものを人に示すな
15 3766愛しと思ひし思はば下紐に結ひつけ持ちてやまず偲はせ
15 3767魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに
15 3768このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く
15 3769ぬばたまの夜見し君を明くる朝逢はずまにして今ぞ悔しき
15 3770味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ
15 3771宮人の安寐も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも
15 3772帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
15 3773君が共行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし
15 3774我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
15 3775あらたまの年の緒長く逢はざれど異しき心を我が思はなくに
15 3776今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし
15 3777昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く
15 3778白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに
15 3779我が宿の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
15 3780恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる
15 3781旅にして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ我が恋まさる
15 3782雨隠り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす
15 3783旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
15 3784心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
15 3785霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたもすべなし
16 3786春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも [其一]
16 3787妹が名に懸けたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに [其二]
16 3788耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ [一]
16 3789あしひきの山縵の子今日行くと我れに告げせば帰り来ましを [二]
16 3790あしひきの玉縵の子今日のごといづれの隈を見つつ来にけむ [三]
16 3791みどり子の 若子髪には たらちし 母に抱かえ ひむつきの 稚児が髪には 木綿肩衣 純裏に縫ひ着 頚つきの 童髪には 結ひはたの 袖つけ衣 着し我れを 丹よれる 子らがよちには 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛持ち ここにかき垂れ 取り束ね
16 3792死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも
16 3793白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや
16 3794はしきやし翁の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ [一]
16 3795恥を忍び恥を黙して事もなく物言はぬさきに我れは寄りなむ [二]
16 3796否も諾も欲しきまにまに許すべき顔見ゆるかも我れも寄りなむ [三]
16 3797死にも生きも同じ心と結びてし友や違はむ我れも寄りなむ [四]
16 3798何すと違ひは居らむ否も諾も友のなみなみ我れも寄りなむ [五]
16 3799あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ [六]
16 3800はだすすき穂にはな出でそ思ひたる心は知らゆ我れも寄りなむ [七]
16 3801住吉の岸野の榛ににほふれどにほはぬ我れやにほひて居らむ [八]
16 3802春の野の下草靡き我れも寄りにほひ寄りなむ友のまにまに [九]
16 3803隠りのみ恋ふれば苦し山の端ゆ出でくる月の顕さばいかに
16 3804かくのみにありけるものを猪名川の沖を深めて我が思へりける
16 3805ぬばたまの黒髪濡れて沫雪の降るにや来ますここだ恋ふれば
16 3806事しあらば小泊瀬山の石城にも隠らばともにな思ひそ我が背
16 3807安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
16 3808住吉の小集楽に出でてうつつにもおの妻すらを鏡と見つも
16 3809商返しめすとの御法あらばこそ我が下衣返し給はめ
16 3810味飯を水に醸みなし我が待ちしかひはかつてなし直にしあらねば
16 3811さ丹つらふ 君がみ言と 玉梓の 使も来ねば 思ひ病む 我が身ひとつぞ ちはやぶる 神にもな負ほせ 占部据ゑ 亀もな焼きそ 恋ひしくに 痛き我が身ぞ いちしろく 身にしみ通り むらきもの 心砕けて 死なむ命 にはかになりぬ 今さらに
16 3812占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも
16 3813我が命は惜しくもあらずさ丹つらふ君によりてぞ長く欲りせし
16 3814白玉は緒絶えしにきと聞きしゆゑにその緒また貫き我が玉にせむ
16 3815白玉の緒絶えはまことしかれどもその緒また貫き人持ち去にけり
16 3816家にありし櫃にかぎさし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて
16 3817かるうすは田ぶせの本に我が背子はにふぶに笑みて立ちませり見ゆ [田廬者多夫世<反>]
16 3818朝霞鹿火屋が下の鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも
16 3819夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ
16 3820夕づく日さすや川辺に作る屋の形をよろしみうべ寄そりけり
16 3821うましものいづく飽かじをさかとらが角のふくれにしぐひ合ひにけむ
16 3822橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか
16 3823橘の照れる長屋に我が率ねし童女放髪に髪上げつらむか
16 3824さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ
16 3825食薦敷き青菜煮て来む梁にむかばき懸けて休むこの君
16 3826蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし
16 3827一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六のさえ
16 3828香塗れる塔にな寄りそ川隈の屎鮒食めるいたき女奴
16 3829醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹
16 3830玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため
16 3831池神の力士舞かも白鷺の桙啄ひ持ちて飛び渡るらむ
16 3832からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自
16 3833虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣太刀もが
16 3834梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く
16 3835勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし
16 3836奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴
16 3837ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む
16 3838我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡
16 3839我が背子が犢鼻にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる [懸有反云 佐<我>礼流]
16 3840寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ
16 3841仏造るま朱足らずは水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ
16 3842童ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積の朝臣が腋草を刈れ
16 3843いづくにぞま朱掘る岡薦畳平群の朝臣が鼻の上を掘れ
16 3844ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも
16 3845駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を
16 3846法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ
16 3847壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ
16 3848あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは
16 3849生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも
16 3850世間の繁き刈廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも
16 3851心をし無何有の郷に置きてあらば藐孤射の山を見まく近けむ
16 3852鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ
16 3853石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ [賣世反也]
16 3854痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
16 3855さう莢に延ひおほとれる屎葛絶ゆることなく宮仕へせむ
16 3856波羅門の作れる小田を食む烏瞼腫れて幡桙に居り
16 3857飯食めど うまくもあらず 行き行けど 安くもあらず あかねさす 君が心し 忘れかねつも
16 3858このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠
16 3859このころの我が恋力賜らずはみさとづかさに出でて訴へむ
16 3860大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る
16 3861荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず
16 3862志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ
16 3863荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しくもあるか
16 3864官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る
16 3865荒雄らは妻子の業をば思はずろ年の八年を待てど来まさず
16 3866沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良の崎守早く告げこそ
16 3867沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも
16 3868沖行くや赤ら小舟につと遣らばけだし人見て開き見むかも
16 3869大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
16 3870紫の粉潟の海に潜く鳥玉潜き出ば我が玉にせむ
16 3871角島の瀬戸のわかめは人の共荒かりしかど我れとは和海藻
16 3872我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ
16 3873我が門に千鳥しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫人に知らゆな
16 3874射ゆ鹿を認ぐ川辺のにこ草の身の若かへにさ寝し子らはも
16 3875琴酒を 押垂小野ゆ 出づる水 ぬるくは出でず 寒水の 心もけやに 思ほゆる 音の少なき 道に逢はぬかも 少なきよ 道に逢はさば 色げせる 菅笠小笠 我がうなげる 玉の七つ緒 取り替へも 申さむものを 少なき道に 逢はぬかも
16 3876豊国の企救の池なる菱の末を摘むとや妹がみ袖濡れけむ
16 3877紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも
16 3878はしたての 熊来のやらに 新羅斧 落し入れ わし かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし
16 3879はしたての 熊来酒屋に まぬらる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まぬらる奴 わし
16 3880鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 父にあへつや 身女児の刀自
16 3881大野道は茂道茂路茂くとも君し通はば道は広けむ
16 3882渋谿の二上山に鷲ぞ子産むといふ翳にも君のみために鷲ぞ子産むといふ
16 3883弥彦おのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そほ降る [一云 あなに神さび]
16 3884弥彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つきながら
16 3885いとこ 汝背の君 居り居りて 物にい行くとは 韓国の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳 平群の山に 四月と 五月との間に 薬猟 仕ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟が本に 梓弓 八つ
16 3886おしてるや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 葦蟹を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と
16 3887天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも
16 3888沖つ国うしはく君の塗り屋形丹塗りの屋形神の門渡る
16 3889人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ
17 3890我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ
17 3891荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か我が恋ひざらむ
17 3892礒ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ礒の知らなく
17 3893昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも
17 3894淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ
17 3895たまはやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ
17 3896家にてもたゆたふ命波の上に思ひし居れば奥か知らずも [一云 浮きてし居れば]
17 3897大海の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
17 3898大船の上にし居れば天雲のたどきも知らず歌ひこそ我が背
17 3899海人娘子漁り焚く火のおぼほしく角の松原思ほゆるかも
17 3900織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる
17 3901み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし
17 3902梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ
17 3903春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも
17 3904梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり
17 3905遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも
17 3906御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ
17 3907山背の 久迩の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉にほひ 帯ばせる 泉の川の 上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し あり通ひ 仕へまつらむ 万代までに
17 3908たたなめて泉の川の水脈絶えず仕へまつらむ大宮ところ
17 3909橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ
17 3910玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも
17 3911あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし
17 3912霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる
17 3913霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで
17 3914霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも
17 3915あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
17 3916橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
17 3917霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ
17 3918橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
17 3919あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
17 3920鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿
17 3921かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり
17 3922降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか
17 3923天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
17 3924山の狭そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば
17 3925新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは
17 3926大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも
17 3927草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑつ我が床の辺に
17 3928今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ
17 3929旅に去にし君しも継ぎて夢に見ゆ我が片恋の繁ければかも
17 3930道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまはな
17 3931君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
17 3932須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも
17 3933ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ
17 3934なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久ならばすべなかるべし
17 3935隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく
17 3936草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつ我が恋ひ居らむ
17 3937草枕旅去にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく
17 3938かくのみや我が恋ひ居らむぬばたまの夜の紐だに解き放けずして
17 3939里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし我れぞ悔しき
17 3940万代に心は解けて我が背子が捻みし手見つつ忍びかねつも
17 3941鴬の鳴くくら谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ
17 3942松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ
17 3943秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも
17 3944をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ
17 3945秋の夜は暁寒し白栲の妹が衣手着むよしもがも
17 3946霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに
17 3947今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも
17 3948天離る鄙に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに
17 3949天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや
17 3950家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも
17 3951ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
17 3952妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む
17 3953雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の上に
17 3954馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に
17 3955ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ
17 3956奈呉の海人の釣する舟は今こそば舟棚打ちてあへて漕ぎ出め
17 3957天離る 鄙治めにと 大君の 任けのまにまに 出でて来し 我れを送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉川 清き河原に 馬留め 別れし時に ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく 斎ひて待てと 語らひて 来し日の極み 玉桙の 道をた遠み 山川
17 3958ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも
17 3959かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを
17 3960庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに
17 3961白波の寄する礒廻を漕ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君
17 3962大君の 任けのまにまに 大夫の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離る 鄙に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡き 床に臥い伏し 痛けくし 日に異に増さる たらちねの 母の
17 3963世間は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば
17 3964山川のそきへを遠みはしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ
17 3965春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも
17 3966鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ
17 3967山峽に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
17 3968鴬の来鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも
17 3969大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて来し ますら我れすら 世間の 常しなければ うち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦
17 3970あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも
17 3971山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも
17 3972出で立たむ力をなみと隠り居て君に恋ふるに心どもなし
17 3973大君の 命畏み あしひきの 山野さはらず 天離る 鄙も治むる 大夫や なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる
17 3974山吹は日に日に咲きぬうるはしと我が思ふ君はしくしく思ほゆ
17 3975我が背子に恋ひすべながり葦垣の外に嘆かふ我れし悲しも
17 3976咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの山吹を見せつつもとな
17 3977葦垣の外にも君が寄り立たし恋ひけれこそば夢に見えけれ
17 3978妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻 大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離る 鄙治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年行き返り 春花の
17 3979あらたまの年返るまで相見ねば心もしのに思ほゆるかも
17 3980ぬばたまの夢にはもとな相見れど直にあらねば恋ひやまずけり
17 3981あしひきの山きへなりて遠けども心し行けば夢に見えけり
17 3982春花のうつろふまでに相見ねば月日数みつつ妹待つらむぞ
17 3983あしひきの山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ
17 3984玉に貫く花橘をともしみしこの我が里に来鳴かずあるらし
17 3985射水川 い行き廻れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 統め神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒礒に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎ
17 3986渋谿の崎の荒礒に寄する波いやしくしくにいにしへ思ほゆ
17 3987玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり
17 3988ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも
17 3989奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば
17 3990我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きて行かば惜し
17 3991もののふの 八十伴の男の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒礒に寄する 渋谿の 崎た廻り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布施の海に 舟浮け
17 3992布勢の海の沖つ白波あり通ひいや年のはに見つつ偲はむ
17 3993藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし
17 3994白波の寄せ来る玉藻世の間も継ぎて見に来む清き浜びを
17 3995玉桙の道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも [一云 見ぬ日久しみ恋しけむかも]
17 3996我が背子が国へましなば霍公鳥鳴かむ五月は寂しけむかも
17 3997我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね
17 3998我が宿の花橘を花ごめに玉にぞ我が貫く待たば苦しみ
17 3999都辺に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな恋ふる日多けむ
17 4000天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ
17 4001立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
17 4002片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通ひ見む
17 4003朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れ
17 4004立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ
17 4005落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ
17 4006かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み
17 4007我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ
17 4008あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひ
17 4009玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ
17 4010うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む
17 4011大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に追へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥す
17 4012矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける
17 4013二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも
17 4014松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ
17 4015心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ
17 4016婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
17 4017あゆの風 [越俗語東風謂之あゆの風是也] いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小船漕ぎ隠る見ゆ
17 4018港風寒く吹くらし奈呉の江に妻呼び交し鶴多に鳴く [一云 鶴騒くなり]
17 4019天離る鄙ともしるくここだくも繁き恋かもなぐる日もなく
17 4020越の海の信濃[濱名也]の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや
17 4021雄神川紅にほふ娘子らし葦付[水松之類]取ると瀬に立たすらし
17 4022鵜坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻きの水に衣濡れにけり
17 4023婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり
17 4024立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも
17 4025志雄路から直越え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも
17 4026鳥総立て船木伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神びぞ
17 4027香島より熊来をさして漕ぐ船の楫取る間なく都し思ほゆ
17 4028妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな
17 4029珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
17 4030鴬は今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は経につつ
17 4031中臣の太祝詞言言ひ祓へ贖ふ命も誰がために汝れ
18 4032奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
18 4033波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間なき恋にぞ年は経にける
18 4034奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる
18 4035霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
18 4036いかにある布勢の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留むる
18 4037乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに [一云 君が問はすも]
18 4038玉櫛笥いつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾はむ
18 4039音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上らじ年は経ぬとも
18 4040布勢の浦を行きてし見てばももしきの大宮人に語り継ぎてむ
18 4041梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてら
18 4042藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり
18 4043明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも [一頭云 霍公鳥]
18 4044浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟
18 4045沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ
18 4046神さぶる垂姫の崎漕ぎ廻り見れども飽かずいかに我れせむ
18 4047垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ
18 4048垂姫の浦を漕ぐ舟梶間にも奈良の我家を忘れて思へや
18 4049おろかにぞ我れは思ひし乎布の浦の荒礒の廻り見れど飽かずけり
18 4050めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山霍公鳥何か来鳴かぬ
18 4051多古の崎木の暗茂に霍公鳥来鳴き響めばはだ恋ひめやも
18 4052霍公鳥今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
18 4053木の暗になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時
18 4054霍公鳥こよ鳴き渡れ燈火を月夜になそへその影も見む
18 4055可敝流廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れ我れをし思はば
18 4056堀江には玉敷かましを大君を御船漕がむとかねて知りせば
18 4057玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ [或云 玉扱き敷きて]
18 4058橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を
18 4059橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも
18 4060月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ
18 4061堀江より水脈引きしつつ御船さすしづ男の伴は川の瀬申せ
18 4062夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ
18 4063常世物この橘のいや照りにわご大君は今も見るごと
18 4064大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして
18 4065朝開き入江漕ぐなる楫の音のつばらつばらに我家し思ほゆ
18 4066卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも
18 4067二上の山に隠れる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ
18 4068居り明かしも今夜は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ [二日應立夏節 故謂之明旦将喧也]
18 4069明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜のからに恋ひわたるかも
18 4070一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ
18 4071しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ
18 4072ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我れ待つらむぞ
18 4073月見れば同じ国なり山こそば君があたりを隔てたりけれ
18 4074桜花今ぞ盛りと人は言へど我れは寂しも君としあらねば
18 4075相思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで
18 4076あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を心隔てつ
18 4077我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね
18 4078恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり
18 4079三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ
18 4080常人の恋ふといふよりはあまりにて我れは死ぬべくなりにたらずや
18 4081片思ひを馬にふつまに負ほせ持て越辺に遣らば人かたはむかも
18 4082天離る鄙の奴に天人しかく恋すらば生ける験あり
18 4083常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ば担ひあへむかも
18 4084暁に名告り鳴くなる霍公鳥いやめづらしく思ほゆるかも
18 4085焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ
18 4086油火の光りに見ゆる吾がかづらさ百合の花の笑まはしきかも
18 4087灯火の光りに見ゆるさ百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき
18 4088さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ
18 4089高御倉 天の日継と すめろきの 神の命の 聞こしをす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥 あやめぐさ 玉貫
18 4090ゆくへなくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくや偲はむ
18 4091卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ
18 4092霍公鳥いとねたけくは橘の花散る時に来鳴き響むる
18 4093阿尾の浦に寄する白波いや増しに立ちしき寄せ来東風をいたみかも
18 4094葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人
18 4095大夫の心思ほゆ大君の御言の幸を [一云 の] 聞けば貴み [一云 貴くしあれば]
18 4096大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく
18 4097天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く
18 4098高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける 天皇の 神の命の 畏くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十伴の男も おのが負へる おのが名負ひて 大君の 任けのまにまに
18 4099いにしへを思ほすらしも我ご大君吉野の宮をあり通ひ見す
18 4100もののふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む
18 4101珠洲の海人の 沖つ御神に い渡りて 潜き取るといふ 鰒玉 五百箇もがも はしきよし 妻の命の 衣手の 別れし時よ ぬばたまの 夜床片さり 朝寝髪 掻きも梳らず 出でて来し 月日数みつつ 嘆くらむ 心なぐさに 霍公鳥 来鳴く五月の あ
18 4102白玉を包みて遣らばあやめぐさ花橘にあへも貫くがね
18 4103沖つ島い行き渡りて潜くちふ鰒玉もが包みて遣らむ
18 4104我妹子が心なぐさに遣らむため沖つ島なる白玉もがも
18 4105白玉の五百つ集ひを手にむすびおこせむ海人はむがしくもあるか [一云 我家牟伎波母]
18 4106大汝 少彦名の 神代より 言ひ継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子と 朝夕に 笑み
18 4107あをによし奈良にある妹が高々に待つらむ心しかにはあらじか
18 4108里人の見る目恥づかし左夫流子にさどはす君が宮出後姿
18 4109紅はうつろふものぞ橡のなれにし来ぬになほしかめやも
18 4110左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに
18 4111かけまくも あやに畏し 天皇の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの かくの木の実を 畏くも 残したまへれ 国も狭に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝萌いつつ 霍公鳥 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて
18 4112橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し
18 4113大君の 遠の朝廷と 任きたまふ 官のまにま み雪降る 越に下り来 あらたまの 年の五年 敷栲の 手枕まかず 紐解かず 丸寝をすれば いぶせみと 心なぐさに なでしこを 宿に蒔き生ほし 夏の野の さ百合引き植ゑて 咲く花を 出で見るご
18 4114なでしこが花見るごとに娘子らが笑まひのにほひ思ほゆるかも
18 4115さ百合花ゆりも逢はむと下延ふる心しなくは今日も経めやも
18 4116大君の 任きのまにまに 取り持ちて 仕ふる国の 年の内の 事かたね持ち 玉桙の 道に出で立ち 岩根踏み 山越え野行き 都辺に 参ゐし我が背を あらたまの 年行き返り 月重ね 見ぬ日さまねみ 恋ふるそら 安くしあらねば 霍公鳥 来鳴く
18 4117去年の秋相見しまにま今日見れば面やめづらし都方人
18 4118かくしても相見るものを少なくも年月経れば恋ひしけれやも
18 4119いにしへよ偲ひにければ霍公鳥鳴く声聞きて恋しきものを
18 4120見まく欲り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相見つるかも
18 4121朝参の君が姿を見ず久に鄙にし住めば我れ恋ひにけり [一云 はしきよし妹が姿を]
18 4122天皇の 敷きます国の 天の下 四方の道には 馬の爪 い尽くす極み 舟舳の い果つるまでに いにしへよ 今のをつづに 万調 奉るつかさと 作りたる その生業を 雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畑も 朝ごとに しぼみ枯れゆく
18 4123この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに
18 4124我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ
18 4125天照らす 神の御代より 安の川 中に隔てて 向ひ立ち 袖振り交し 息の緒に 嘆かす子ら 渡り守 舟も設けず 橋だにも 渡してあらば その上ゆも い行き渡らし 携はり うながけり居て 思ほしき 言も語らひ 慰むる 心はあらむを 何しか
18 4126天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも
18 4127安の川こ向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻どひの夜ぞ
18 4128草枕旅の翁と思ほして針ぞ賜へる縫はむ物もが
18 4129針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり
18 4130針袋帯び続けながら里ごとに照らさひ歩けど人もとがめず
18 4131鶏が鳴く東をさしてふさへしに行かむと思へどよしもさねなし
18 4132縦さにもかにも横さも奴とぞ我れはありける主の殿戸に
18 4133針袋これは賜りぬすり袋今は得てしか翁さびせむ
18 4134雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも
18 4135我が背子が琴取るなへに常人の言ふ嘆きしもいやしき増すも
18 4136あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ
18 4137正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも
18 4138薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや
19 4139春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子
19 4140吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも
19 4141春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか住む
19 4142春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大道し思ほゆ
19 4143もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花
19 4144燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く
19 4145春まけてかく帰るとも秋風にもみたむ山を越え来ざらめや [一云 春されば帰るこの雁]
19 4146夜ぐたちに寝覚めて居れば川瀬尋め心もしのに鳴く千鳥かも
19 4147夜くたちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ
19 4148杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも
19 4149あしひきの八つ峰の雉鳴き響む朝明の霞見れば悲しも
19 4150朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ舟人
19 4151今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり
19 4152奥山の八つ峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の伴
19 4153漢人も筏浮かべて遊ぶといふ今日ぞ我が背子花かづらせな
19 4154あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる 越にし住めば 大君の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人目 乏しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほ
19 4155矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも
19 4156あらたまの 年行きかはり 春されば 花のみにほふ あしひきの 山下響み 落ち激ち 流る辟田の 川の瀬に 鮎子さ走る 島つ鳥 鵜養伴なへ 篝さし なづさひ行けば 我妹子が 形見がてらと 紅の 八しほに染めて おこせたる 衣の裾も 通
19 4157紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく我れかへり見む
19 4158年のはに鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ
19 4159礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
19 4160天地の 遠き初めよ 世間は 常なきものと 語り継ぎ 流らへ来たれ 天の原 振り放け見れば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り もみち散りけり うつせみも かくのみ
19 4161言とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常をなみこそ [一云 常なけむとぞ]
19 4162うつせみの常なき見れば世の中に心つけずて思ふ日ぞ多き [一云 嘆く日ぞ多き]
19 4163妹が袖我れ枕かむ川の瀬に霧立ちわたれさ夜更けぬとに
19 4164ちちの実の 父の命 ははそ葉の 母の命 おほろかに 心尽して 思ふらむ その子なれやも 大夫や 空しくあるべき 梓弓 末振り起し 投矢持ち 千尋射わたし 剣大刀 腰に取り佩き あしひきの 八つ峰踏み越え さしまくる 心障らず 後の
19 4165大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね
19 4166時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き 鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに うち嘆き 萎えうらぶれ 偲ひつつ 争ふはしに 木の暗の 四月し立てば 夜隠りに 鳴く霍公鳥 いにしへゆ 語り継ぎつる 鴬の 現し真子か
19 4167時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも
19 4168毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み [毎年謂之等之乃波]
19 4169霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言 朝夕に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取る
19 4170、しらたまの、みがほしきみを、みずひさに、ひなにしをれば、いけるともなし
19 4171常人も起きつつ聞くぞ霍公鳥この暁に来鳴く初声
19 4172霍公鳥来鳴き響めば草取らむ花橘を宿には植ゑずて
19 4173妹を見ず越の国辺に年経れば我が心どのなぐる日もなし
19 4174春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし
19 4175霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや [毛能波三箇辞闕之]
19 4176我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず [毛能波C尓乎六箇辞闕之]
19 4177我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ 独りのみ 聞けば寂しも 君と我れと 隔
19 4178我れのみし聞けば寂しも霍公鳥丹生の山辺にい行き鳴かにも
19 4179霍公鳥夜鳴きをしつつ我が背子を安寐な寝しめゆめ心あれ
19 4180春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほし偲はゆ
19 4181さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし
19 4182霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけな離れず鳴くがね
19 4183霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向ふ夏はまづ鳴きなむを
19 4184山吹の花取り持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも
19 4185うつせみは 恋を繁みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと 茂山の 谷辺に生ふる 山吹を 宿に引き植ゑて 朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず 恋し繁しも
19 4186山吹を宿に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ
19 4187思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小舟つら並め ま櫂掛け い漕ぎ廻れば 乎布の浦に 霞たなびき 垂姫に 藤波咲て 浜清く 白波騒き しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめや
19 4188藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕ぎ廻つつ年に偲はめ
19 4189天離る 鄙としあれば そこここも 同じ心ぞ 家離り 年の経ゆけば うつせみは 物思ひ繁し そこゆゑに 心なぐさに 霍公鳥 鳴く初声を 橘の 玉にあへ貫き かづらきて 遊ばむはしも 大夫を 伴なへ立てて 叔羅川 なづさひ上り 平瀬に
19 4190叔羅川瀬を尋ねつつ我が背子は鵜川立たさね心なぐさに
19 4191鵜川立ち取らさむ鮎のしがはたは我れにかき向け思ひし思はば
19 4192桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる まそ鏡 二上山に 木の暗の 茂き谷辺を 呼び響め 朝飛び渡り 夕月夜 かそけき野辺に はろはろに 鳴く霍公鳥 立ち潜く
19 4193霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花 [一云 散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花]
19 4194霍公鳥鳴き渡りぬと告ぐれども我れ聞き継がず花は過ぎつつ
19 4195我がここだ偲はく知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ
19 4196月立ちし日より招きつつうち偲ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも
19 4197妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし
19 4198つれもなく離れにしものと人は言へど逢はぬ日まねみ思ひぞ我がする
19 4199藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る
19 4200多胡の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
19 4201いささかに思ひて来しを多胡の浦に咲ける藤見て一夜経ぬべし
19 4202藤波を仮廬に作り浦廻する人とは知らに海人とか見らむ
19 4203家に行きて何を語らむあしひきの山霍公鳥一声も鳴け
19 4204我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋
19 4205皇祖の遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこのほほがしは
19 4206渋谿をさして我が行くこの浜に月夜飽きてむ馬しまし止め
19 4207ここにして そがひに見ゆる 我が背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 我が宿の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは恨みず しかれども 谷片付きて 家居れる 君が聞
19 4208我がここだ待てど来鳴かぬ霍公鳥ひとり聞きつつ告げぬ君かも
19 4209谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども 霍公鳥 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲りと 朝には 門に出で立ち 夕には 谷を見渡し 恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず
19 4210藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ
19 4211古に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 智渟壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻問ひしける 処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる 惜しき 身の盛りす
19 4212娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも
19 4213東風をいたみ奈呉の浦廻に寄する波いや千重しきに恋ひわたるかも
19 4214天地の 初めの時ゆ うつそみの 八十伴の男は 大君に まつろふものと 定まれる 官にしあれば 大君の 命畏み 鄙離る 国を治むと あしひきの 山川へだて 風雲に 言は通へど 直に逢はず 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに 玉桙の
19 4215遠音にも君が嘆くと聞きつれば哭のみし泣かゆ相思ふ我れは
19 4216世間の常なきことは知るらむを心尽くすな大夫にして
19 4217卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも
19 4218鮪突くと海人の灯せる漁り火の秀にか出ださむ我が下思ひを
19 4219我が宿の萩咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも
19 4220海神の 神の命の み櫛笥に 貯ひ置きて 斎くとふ 玉にまさりて 思へりし 我が子にはあれど うつせみの 世の理と 大夫の 引きのまにまに しなざかる 越道をさして 延ふ蔦の 別れにしより 沖つ波 とをむ眉引き 大船の ゆくらゆくらに
19 4221かくばかり恋しくしあらばまそ鏡見ぬ日時なくあらましものを
19 4222このしぐれいたくな降りそ我妹子に見せむがために黄葉取りてむ
19 4223あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ紅葉地に落ちめやも
19 4224朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩
19 4225あしひきの山の紅葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく
19 4226この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む
19 4227大殿の この廻りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人やな踏みそね 雪は
19 4228ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね
19 4229新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが
19 4230降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに
19 4231なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも
19 4232雪の嶋巌に植ゑたるなでしこは千代に咲かぬか君がかざしに
19 4233うち羽振き鶏は鳴くともかくばかり降り敷く雪に君いまさめやも
19 4234鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね
19 4235天雲をほろに踏みあだし鳴る神も今日にまさりて畏けめやも
19 4236天地の 神はなかれや 愛しき 我が妻離る 光る神 鳴りはた娘子 携はり ともにあらむと 思ひしに 心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿たすき 肩に取り懸け 倭文幣を 手に取り持ちて な放けそと 我れは祈れど 枕きて寝し 妹が
19 4237うつつにと思ひてしかも夢のみに手本巻き寝と見ればすべなし
19 4238君が行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
19 4239二上の峰の上の茂に隠りにしその霍公鳥待てど来鳴かず
19 4240大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
19 4241春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで
19 4242天雲の行き帰りなむものゆゑに思ひぞ我がする別れ悲しみ
19 4243住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ
19 4244あらたまの年の緒長く我が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ
19 4245そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 任けらゆる 我が背の君を かけまくの ゆゆし畏き 住吉の 我が大御神 船の舳に 領きいまし 船艫に み立たしまして さし
19 4246沖つ波辺波な越しそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊つるまで
19 4247天雲のそきへの極み我が思へる君に別れむ日近くなりぬ
19 4248あらたまの年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも
19 4249石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて初鷹猟だにせずや別れむ
19 4250しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも
19 4251玉桙の道に出で立ち行く我れは君が事跡を負ひてし行かむ
19 4252君が家に植ゑたる萩の初花を折りてかざさな旅別るどち
19 4253立ちて居て待てど待ちかね出でて来し君にここに逢ひかざしつる萩
19 4254蜻蛉島 大和の国を 天雲に 磐舟浮べ 艫に舳に 真櫂しじ貫き い漕ぎつつ 国見しせして 天降りまし 払ひ平げ 千代重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの 八十伴の男を
19 4255秋の花種にあれど色ごとに見し明らむる今日の貴さ
19 4256いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね
19 4257手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に
19 4258明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ
19 4259十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ
19 4260大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
19 4261大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ [作者<未>詳]
19 4262唐国に行き足らはして帰り来むますら健男に御酒奉る
19 4263櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて
19 4264そらみつ 大和の国は 水の上は 地行くごとく 船の上は 床に居るごと 大神の 斎へる国ぞ 四つの船 船の舳並べ 平けく 早渡り来て 返り言 奏さむ日に 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は
19 4265四つの船早帰り来としらか付け我が裳の裾に斎ひて待たむ
19 4266あしひきの 八つ峰の上の 栂の木の いや継ぎ継ぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代に 国知らさむと やすみしし 我が大君の 神ながら 思ほしめして 豊の宴 見す今日の日は もののふの 八十伴の男の 島山に
19 4267天皇の御代万代にかくしこそ見し明きらめめ立つ年の端に
19 4268この里は継ぎて霜や置く夏の野に我が見し草はもみちたりけり
19 4269よそのみに見ればありしを今日見ては年に忘れず思ほえむかも
19 4270葎延ふ賎しき宿も大君の座さむと知らば玉敷かましを
19 4271松蔭の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に
19 4272天地に足らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里
19 4273天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき
19 4274天にはも五百つ綱延ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ
19 4275天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を
19 4276島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち
19 4277袖垂れていざ我が園に鴬の木伝ひ散らす梅の花見に
19 4278あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ
19 4279能登川の後には逢はむしましくも別るといへば悲しくもあるか
19 4280立ち別れ君がいまさば磯城島の人は我れじく斎ひて待たむ
19 4281白雪の降り敷く山を越え行かむ君をぞもとな息の緒に思ふ、息の緒にする
19 4282言繁み相問はなくに梅の花雪にしをれてうつろはむかも
19 4283梅の花咲けるが中にふふめるは恋か隠れる雪を待つとか
19 4284新しき年の初めに思ふどちい群れて居れば嬉しくもあるか
19 4285大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し
19 4286御園生の竹の林に鴬はしば鳴きにしを雪は降りつつ
19 4287鴬の鳴きし垣内ににほへりし梅この雪にうつろふらむか
19 4288川洲にも雪は降れれし宮の内に千鳥鳴くらし居む所なみ
19 4289青柳の上枝攀ぢ取りかづらくは君が宿にし千年寿くとぞ
19 4290春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも
19 4291我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
19 4292うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば
20 4293あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ
20 4294あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ
20 4295高円の尾花吹き越す秋風に紐解き開けな直ならずとも
20 4296天雲に雁ぞ鳴くなる高円の萩の下葉はもみちあへむかも
20 4297をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ
20 4298霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く [古今未詳]
20 4299年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも [古今未詳]
20 4300霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ
20 4301印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし
20 4302山吹は撫でつつ生ほさむありつつも君来ましつつかざしたりけり
20 4303我が背子が宿の山吹咲きてあらばやまず通はむいや年の端に
20 4304山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも
20 4305木の暗の茂き峰の上を霍公鳥鳴きて越ゆなり今し来らしも
20 4306初秋風涼しき夕解かむとぞ紐は結びし妹に逢はむため
20 4307秋と言へば心ぞ痛きうたて異に花になそへて見まく欲りかも
20 4308初尾花花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く
20 4309秋風に靡く川辺のにこ草のにこよかにしも思ほゆるかも
20 4310秋されば霧立ちわたる天の川石並置かば継ぎて見むかも
20 4311秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ
20 4312秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ
20 4313青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか
20 4314八千種に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ偲はな
20 4315宮人の袖付け衣秋萩ににほひよろしき高圓の宮
20 4316高圓の宮の裾廻の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも
20 4317秋野には今こそ行かめもののふの男女の花にほひ見に
20 4318秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか
20 4319高圓の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮鹿出で立つらむか
20 4320大夫の呼び立てしかばさを鹿の胸別け行かむ秋野萩原
20 4321畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして
20 4322我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
20 4323時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ
20 4324遠江志留波の礒と尓閇の浦と合ひてしあらば言も通はむ
20 4325父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごて行かむ
20 4326父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで
20 4327我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ
20 4328大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて
20 4329八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見も人もがも
20 4330難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
20 4331大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 敵守る おさへの城ぞと 聞こし食す 四方の国には 人さはに 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向ひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍士と ねぎたまひ 任けのまにまに たらちねの 母が目
20 4332大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻
20 4333鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み
20 4334海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ
20 4335今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね
20 4336防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ
20 4337水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
20 4338畳薦牟良自が礒の離磯の母を離れて行くが悲しさ
20 4339国廻るあとりかまけり行き廻り帰り来までに斎ひて待たね
20 4340父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬く白玉取りて来までに
20 4341橘の美袁利の里に父を置きて道の長道は行きかてのかも
20 4342真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず
20 4343我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも
20 4344忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも
20 4345我妹子と二人我が見しうち寄する駿河の嶺らは恋しくめあるか
20 4346父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
20 4347家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
20 4348たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
20 4349百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ
20 4350庭中の阿須波の神に小柴さし我れは斎はむ帰り来までに
20 4351旅衣八重着重ねて寐のれどもなほ肌寒し妹にしあらねば
20 4352道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ
20 4353家風は日に日に吹けど我妹子が家言持ちて来る人もなし
20 4354たちこもの立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも
20 4355よそにのみ見てや渡らも難波潟雲居に見ゆる島ならなくに
20 4356我が母の袖もち撫でて我がからに泣きし心を忘らえのかも
20 4357葦垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ
20 4358大君の命畏み出で来れば我の取り付きて言ひし子なはも
20 4359筑紫辺に舳向かる船のいつしかも仕へまつりて国に舳向かも
20 4360皇祖の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏し 神ながら 我ご大君の うち靡く 春の初めは 八千種に 花咲きにほひ 山見れば 見の羨しく 川見れば 見のさやけく
20 4361桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ
20 4362海原のゆたけき見つつ葦が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ
20 4363難波津に御船下ろ据ゑ八十楫貫き今は漕ぎぬと妹に告げこそ
20 4364防人に立たむ騒きに家の妹がなるべきことを言はず来ぬかも
20 4365押し照るや難波の津ゆり船装ひ我れは漕ぎぬと妹に告ぎこそ
20 4366常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ
20 4367我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね
20 4368久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む
20 4369筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ
20 4370霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを
20 4371橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
20 4372足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ 諸々は 幸くと申す 帰り来までに
20 4373今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは
20 4374天地の神を祈りて猟矢貫き筑紫の島を指して行く我れは
20 4375松の木の並みたる見れば家人の我れを見送ると立たりしもころ
20 4376旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ
20 4377母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまくも
20 4378月日やは過ぐは行けども母父が玉の姿は忘れせなふも
20 4379白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る
20 4380難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく
20 4381国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし
20 4382ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人にさす
20 4383津の国の海の渚に船装ひ立し出も時に母が目もがも
20 4384暁のかはたれ時に島蔭を漕ぎ去し船のたづき知らずも
20 4385行こ先に波なとゑらひ後方には子をと妻をと置きてとも来ぬ
20 4386我が門の五本柳いつもいつも母が恋すす業りましつしも
20 4387千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ
20 4388旅とへど真旅になりぬ家の妹が着せし衣に垢付きにかり
20 4389潮舟の舳越そ白波にはしくも負ふせたまほか思はへなくに
20 4390群玉の枢にくぎさし堅めとし妹が心は動くなめかも
20 4391国々の社の神に幣奉り贖乞ひすなむ妹が愛しさ
20 4392天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ
20 4393大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを
20 4394大君の命畏み弓の共さ寝かわたらむ長けこの夜を
20 4395龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
20 4396堀江より朝潮満ちに寄る木屑貝にありせばつとにせましを
20 4397見わたせば向つ峰の上の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻
20 4398大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 大夫の 心振り起し 取り装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き 平らけく 我れは斎はむ ま幸くて 早帰り来と 真袖もち 涙を拭ひ むせひつつ 言問ひすれば 群鳥の 出
20 4399海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ
20 4400家思ふと寐を寝ず居れば鶴が鳴く葦辺も見えず春の霞に
20 4401唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして
20 4402ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父がため
20 4403大君の命畏み青雲のとのびく山を越よて来ぬかむ
20 4404難波道を行きて来までと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも
20 4405我が妹子が偲ひにせよと付けし紐糸になるとも我は解かじとよ
20 4406我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも
20 4407ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
20 4408大君の 任けのまにまに 島守に 我が立ち来れば ははそ葉の 母の命は み裳の裾 摘み上げ掻き撫で ちちの実の 父の命は 栲づのの 白髭の上ゆ 涙垂り 嘆きのたばく 鹿子じもの ただ独りして 朝戸出の 愛しき我が子 あらたまの 年の緒
20 4409家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね
20 4410み空行く雲も使と人は言へど家づと遣らむたづき知らずも
20 4411家づとに貝ぞ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど
20 4412島蔭に我が船泊てて告げ遣らむ使を無みや恋ひつつ行かむ
20 4413枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろが罷き来む月の知らなく
20 4414大君の命畏み愛しけ真子が手離り島伝ひ行く
20 4415白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
20 4416草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我れは紐解かず寝む
20 4417赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ
20 4418我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
20 4419家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも
20 4420草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し
20 4421我が行きの息づくしかば足柄の峰延ほ雲を見とと偲はね
20 4422我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も
20 4423足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
20 4424色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む
20 4425防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず
20 4426天地の神に幣置き斎ひつついませ我が背な我れをし思はば
20 4427家の妹ろ我を偲ふらし真結ひに結ひし紐の解くらく思へば
20 4428我が背なを筑紫は遣りて愛しみえひは解かななあやにかも寝む
20 4429馬屋なる縄立つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲しも
20 4430荒し男のいをさ手挟み向ひ立ちかなるましづみ出でてと我が来る
20 4431笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも
20 4432障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも
20 4433朝な朝な上がるひばりになりてしか都に行きて早帰り来む
20 4434ひばり上がる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく
20 4435ふふめりし花の初めに来し我れや散りなむ後に都へ行かむ
20 4436闇の夜の行く先知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
20 4437霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも
20 4438霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に験あらめやも
20 4439松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ
20 4440足柄の八重山越えていましなば誰れをか君と見つつ偲はむ
20 4441立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ
20 4442我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず
20 4443ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
20 4444我が背子が宿なる萩の花咲かむ秋の夕は我れを偲はせ
20 4445鴬の声は過ぎぬと思へどもしみにし心なほ恋ひにけり
20 4446我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け
20 4447賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに
20 4448あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ
20 4449なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも
20 4450我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも
20 4451うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも
20 4452娘子らが玉裳裾引くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ
20 4453秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも
20 4454高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪
20 4455あかねさす昼は田賜びてぬばたまの夜のいとまに摘める芹これ
20 4456大夫と思へるものを太刀佩きて可尓波の田居に芹ぞ摘みける
20 4457住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね
20 4458にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも [古新未詳]
20 4459葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに
20 4460堀江漕ぐ伊豆手の舟の楫つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも
20 4461堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける
20 4462舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも
20 4463霍公鳥まづ鳴く朝明いかにせば我が門過ぎじ語り継ぐまで
20 4464霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ
20 4465久方の 天の門開き 高千穂の 岳に天降りし 皇祖の 神の御代より はじ弓を 手握り持たし 真鹿子矢を 手挟み添へて 大久米の ますらたけをを 先に立て 靫取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求ぎしつつ ちはやぶる 神を言向
20 4466磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
20 4467剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ
20 4468うつせみは数なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな
20 4469渡る日の影に競ひて尋ねてな清きその道またもあはむため
20 4470水泡なす仮れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千年の命を
20 4471消残りの雪にあへ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な
20 4472大君の命畏み於保の浦をそがひに見つつ都へ上る
20 4473うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ
20 4474群鳥の朝立ち去にし君が上はさやかに聞きつ思ひしごとく [一云 思ひしものを]
20 4475初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
20 4476奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ
20 4477夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば荒しやしてむ見るよしをなみ
20 4478佐保川に凍りわたれる薄ら氷の薄き心を我が思はなくに
20 4479朝夕に音のみし泣けば焼き太刀の利心も我れは思ひかねつも
20 4480畏きや天の御門を懸けつれば音のみし泣かゆ朝夕にして [作者未詳]
20 4481あしひきの八つ峰の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける君
20 4482堀江越え遠き里まで送り来る君が心は忘らゆましじ
20 4483移り行く時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも
20 4484咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり
20 4485時の花いやめづらしもかくしこそ見し明らめめ秋立つごとに
20 4486天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ
20 4487いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は
20 4488み雪降る冬は今日のみ鴬の鳴かむ春へは明日にしあるらし
20 4489うち靡く春を近みかぬばたまの今夜の月夜霞みたるらむ
20 4490あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け
20 4491大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里
20 4492月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか
20 4493初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒
20 4494水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ
20 4495うち靡く春ともしるく鴬は植木の木間を鳴き渡らなむ
20 4496恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける
20 4497見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ
20 4498はしきよし今日の主人は礒松の常にいまさね今も見るごと
20 4499我が背子しかくし聞こさば天地の神を祈ひ祷み長くとぞ思ふ
20 4500梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ
20 4501八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな
20 4502梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ礒にもあるかも
20 4503君が家の池の白波礒に寄せしばしば見とも飽かむ君かも
20 4504うるはしと我が思ふ君はいや日異に来ませ我が背子絶ゆる日なしに
20 4505礒の裏に常呼び来住む鴛鴦の惜しき我が身は君がまにまに
20 4506高圓の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば
20 4507高圓の峰の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや
20 4508高圓の野辺延ふ葛の末つひに千代に忘れむ我が大君かも
20 4509延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも
20 4510大君の継ぎて見すらし高圓の野辺見るごとに音のみし泣かゆ
20 4511鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも
20 4512池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな
20 4513礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも
20 4514青海原風波靡き行くさ来さつつむことなく船は速けむ
20 4515秋風の末吹き靡く萩の花ともにかざさず相か別れむ
20 4516新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
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