カザニエ、(あるいはカザニエーか?)という,フランス語らしき単語が純正の仏語かどうかは、知らない。確か堀田善衛氏の本で出会った言葉のように思うが、心に掛かって忘れられない言葉。
家居(カザニエ)。
自分がぼんやりと感じていたものを言い当てたことばだった。
「ひきこもり」ということが言われ始めるずっと前のことだった。
いまでは閉じこもる若者は「ヒキコモリ」と書くのかも知れないが。
本当は引き籠もるとは、そうネガティブとは限らない行為、
ではないかとも思うのだが。
カザニエとは「家居」とか「隠居」と訳せるのだろうが、
これらの日本語には特有の癖がありもうひとつ腑に落ちない。
給料で暮らすのが普通の社会では、暇人、失業者、道楽など、
ロクデナシのイメージに繋がっているようだ。
括弧つきにして、家居(カザニエ)と書くと、
なにか新しいライフスタイルみたいに見える。
都会でも田舎でも、家居(カザニエ)の好さは、
自分のペースで暮らすという事に尽きよう。
だれにも気兼ねなく家で静かに暮らすことを、
家居(カザニエ)とぼくは一人でそう決めて使っている。
そういう目で眺めると、カザニエであるひとは、
まわりにもいるものだ。
うらやむべき暮らしをしているかに見えるひとたち。
世間から距離をとって、その限りでは「ひきこもり」して、
自分の暮らしをもう一度自分の手に取り戻した人たちだ。
問題はその「隠居暮らし」が、言葉どおりで、
自己完結した遊興や趣味三昧で終わるのかどうかだ。
確かに、趣味悠々…も悪くはない。
でも、それは自分の世界ではないように思う。
自分は世界の一部分であることから逃れようがない、
……静かに暮らしたいし、それを願うが、
世界に餓えで苦しむ子供がいても
我が暮らしのみ見つめて 充実した人生と、
納得できるほどぼくの視野は狭くないみたいだ…
でも、何が出来るというのか。
そう思いながらも、 時だけが過ぎる日々であるのだけれど。
一人居して静かであることは、
自分を越えることにも顔を向けるためには、
必要な条件であるのだ。
家居(カザニエ)でおれる時を願うのは、
自分にそれが要るからだ。
…自分らしい自分を、いつも維持したいのだ。
モンテーニュのように自分を種に人間を省察するより
ネットで繋がり、自立した思考を確保しながら
人間一般でない、生身の人類の一人、であることを実感したい。
そう思う。
気力や静謐は田園の暮らしで養いながら、
参加者であり、俯瞰的観察者でもありたい。
森陰の一軒家からネットに向けて綴るこの日記も
その世界に開いた窓のつもりで続けている。
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