2007年3月27日火曜日

カザニエ ( casanier? ) が好き

カザニエ、(あるいはカザニエーか?)という,フランス語らしき単語が純正の仏語かどうかは、知らない。確か堀田善衛氏の本で出会った言葉のように思うが、心に掛かって忘れられない言葉。
家居(カザニエ)。
自分がぼんやりと感じていたものを言い当てたことばだった。

 「ひきこもり」ということが言われ始めるずっと前のことだった。
 いまでは閉じこもる若者は「ヒキコモリ」と書くのかも知れないが。
 本当は引き籠もるとは、そうネガティブとは限らない行為、
 ではないかとも思うのだが。

 カザニエとは「家居」とか「隠居」と訳せるのだろうが、
 これらの日本語には特有の癖がありもうひとつ腑に落ちない。
 給料で暮らすのが普通の社会では、暇人、失業者、道楽など、
 ロクデナシのイメージに繋がっているようだ。

 括弧つきにして、家居(カザニエ)と書くと、
 なにか新しいライフスタイルみたいに見える。

 都会でも田舎でも、家居(カザニエ)の好さは、
 自分のペースで暮らすという事に尽きよう。

 だれにも気兼ねなく家で静かに暮らすことを、
 家居(カザニエ)とぼくは一人でそう決めて使っている。

 そういう目で眺めると、カザニエであるひとは、
 まわりにもいるものだ。 
 うらやむべき暮らしをしているかに見えるひとたち。

 世間から距離をとって、その限りでは「ひきこもり」して、
 自分の暮らしをもう一度自分の手に取り戻した人たちだ。

 問題はその「隠居暮らし」が、言葉どおりで、
 自己完結した遊興や趣味三昧で終わるのかどうかだ。

 確かに、趣味悠々…も悪くはない。
 でも、それは自分の世界ではないように思う。

 自分は世界の一部分であることから逃れようがない、
 ……静かに暮らしたいし、それを願うが、
 世界に餓えで苦しむ子供がいても
 我が暮らしのみ見つめて 充実した人生と、
 納得できるほどぼくの視野は狭くないみたいだ…

 でも、何が出来るというのか。
 そう思いながらも、 時だけが過ぎる日々であるのだけれど。

 一人居して静かであることは、
 自分を越えることにも顔を向けるためには、
 必要な条件であるのだ。

 家居(カザニエ)でおれる時を願うのは、
 自分にそれが要るからだ。
 …自分らしい自分を、いつも維持したいのだ。

 モンテーニュのように自分を種に人間を省察するより
 ネットで繋がり、自立した思考を確保しながら
 人間一般でない、生身の人類の一人、であることを実感したい。
 そう思う。

 気力や静謐は田園の暮らしで養いながら、
 参加者であり、俯瞰的観察者でもありたい。

 森陰の一軒家からネットに向けて綴るこの日記も
 その世界に開いた窓のつもりで続けている。

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