2007年12月20日木曜日

庭にまた山茶花が咲く季節になった

  ひとり居れば山茶花ま向かいに日が薄れ   蛙逝

 去年は山茶花についてひとに教えられた。
 今年も同じように山茶花は咲いて
 同じように猿は出没し
 変わらずぼくはここに居る。

 時々遠くに居る友や、今では連絡が途絶え
 安否の不明な友に思いが廻る。

 父の晩年、いっとき手紙の遣り取りが増えた旧友がいた。
 父が死んでしばらくは葉書の便りが来ていたが、
 死亡の知らせは遠慮して出さなかった。

 分かっているのだ、相手のほうも。
 もう残りは二、三人だけだということを。
 何時それが途絶えてしまうかもしれないことも。

 だがそうと分かっていることと、事態直面とはまた別だ 。
 迷ったのだが、結局手紙は書かなかった。

 それから一、二度の便りの後、ふつりと途絶えた。

 寂しかったがそれでいいと自分に言い聞かせた。
 しばらくは相手の気持ちが思われてならなかった。

 コノ杯ヲ受ケテクレ 
 ドウゾナミナミ注ガセテオクレ、
 花ニ嵐ノ喩エモアルゾ、
 サヨナラダケガ人生ダ    という詩を思い出す。
 この詩自体は「人生すべからく飲むべし」
 というに過ぎないらしいが。
 花に嵐。一陣の風に吹き消されるいのち。
 昨日も一昨日も、そして今日も、
 どこかで理不尽な死を死んでいるひとがいる。

 唐突だが
 「もっと相関を、もっと弁証法を」という声が
 自分の内側から聞こえる。
 偶然と理不尽との向こうに
 合理的な理性的なものが潜む。

 帰納的思考が現状の追認と
 現実への屈服に終わらないためには
 もっと理性が必要だろう。

 自分の牙を研ぐとは、
 今の時代、野生的になることじゃない。

 冷静でしかも快活に不屈な精神は、
 きっと高度に理性的なはずだ。

 それこそが自分の牙となる。

 だとすれば、ものごとを相関的に、有機的に、
 総合的に等々に捉える眼力が
 鍛えられなくてはならないだろう。

 そう思って「ヘーゲル」をまた読み始めた。

 いまさらと笑う友人もいそうだが笑えばいい。



 薄ら日がゆっくり消えて行き、
 闇が訪れるまでの暫しの静寂。

 山茶花の赤が消え残った熾火のように
 懐かしい。
  
 その静かなひとときの物思いだった。




 




 
 

2007年12月7日金曜日

鞍馬山の山陰に暮らした頃の懐かしい人に会った


 【廃校の旧黒田小学校芹生分教場の遠景】

先月の晴れたある日に出かけました。
車にツレと地元で知り合いの市会議員Mさんとが乗って同行しました。

わが地域は野生動物の被害が多く、特に最近「お猿さん」が暴れまくっておりまして、対策に苦慮してるんです。
議会で取り上げて対策を進めたいMさんが「美山とか京北とかは電気柵とかもあるって聞くし一度見に行ってみたい」と話すのを聞きYohの耳がぴくっと動いたのでした。

何を隠そう実はYohは今は京都市に吸収された旧京北町の片隅で13年暮らしていたのです。
「土地勘あるからつれて案内してあげてもいいよ」と申し出ての「視察」と」なりました。
目的は十分に果たせてYohの面目も立ちました(やれやれ)
でも生半なことでは解決は難しいのが野生動物対策。
びっくりしたのは
猪の行動力(被害)とアライグマ被害の広がりの大きさ。


北山杉の中川地域から細野へ入り周山へ、




そして弓削から山国(これも地名です)へ。





桜で著名な常照皇寺。












その傍を走って黒田へ。



あちこちにネット・フェンスが張られています。
被害はどこにもあるのですね。

帰路を貴船方面へ変更したので、予定していなかった
昔の住所に向かうことになったのです。

まるで呼ばれているように向かっていくのです。
途中の集落灰屋では旧友が声を上げて気がついてくれ
思わずの再会。お茶を呼ばれながら1時間ほど話し込み
また来るからねと約束。

そしていよいよ旧住所の芹生の里へ。
住んでいたころすでに高齢化が始まっていたから
もう人家は無いかも…
懐かしい家に軽トラックが…
思わず二人を車に待たせてずかずか入ってしまう。
おお~という返事の声がして元気な顔が笑っていました。
勧められて二人を呼びいれジューヤクやドクダミの自家製のお茶を淹れてもらった。いやお互い頭に白いものがいっぱいになってきてるが元気で何よりですと喜び合い。

話は一気に熊や猿、カモシカなど北山の獣たちに移って
時間がたってしまった。
   

  季節はずれですがキツリフネ。







ぼくらは以前の住処を見に行った。
公孫樹の大木はすっかり葉を落としていたが大欅はまだはらはら落葉を続けていた。
Mさんは「まるで宮澤賢治の世界みたいですね…」と言った。
見るとスチールの赤い郵便受けが錆だらけになりながら残っていて、僕らの後二度住む方が入ったのに、何故か僕の書いた表札がそのままだった。
国村 洋とまだ読むことができたし、
粋がって書いたラテン語の詩句も読める…

Hic Amor, Haec Patria…ウェルギリゥスの詩のかけら。
ここに愛、ここに祖国 という言葉だ。

三十半ばで此処に流れ着いたYohは
この山里でいのちと愛と自然に恵まれ再生を得た。
そんな土地だから…
この郵便受けの自分の名前を見て
涙がこみ上げてきて困った。

区長に聞くと三ヶ月前に住人が去ったのだそうで…
また住み~やと言ってくれた。
心がふわふわと動きそうになっていた。

………

あれから半月余。
ぼくらはまたあの山の分教場跡と結ばれたみたいだ。

今日区長は話をまとめるからおいでと
電話の向こうで言ってくれた。

歌舞伎十八番「菅原伝習」の寺子屋の段の舞台。芹生の里。
ぼくらは通うことになりそうだ。
アトリエや子供の合宿場所には最高のトポス。
神佑天助のごとき時の巡り。
金輪際を一回り回ってしまったのかな。

2007年12月6日木曜日

MIHO MUSEUMで 直筆の信長の書状をみました

信長の肖像とされるものを見てどんな感想を抱かれるでしょうか。

比叡山僧侶や加賀の一向宗徒を殲滅した残酷無比な戦国武将と見えるか。

どうもそういう風には見えないかなとわたしなどは思います。

でもまぎれもなくこれは彼の肖像らしいですから、意外な感じがあります。

ところが彼自身の書状を展示しているので、引き寄せられるように
見入りました。
なんともまるで女性のような水茎くっきりな繊細さもある筆なのです。


ただ大胆不敵な性格と戦略的思考に長けた知力だけで天下布武はできなかったのでしょう。
感じやすく鋭く物を見抜く感受性や吸い込むような魅力もあったのかもしれませんね。
少なくとも武将のイメージには遠い感じの筆遣いでした。
興味津々で覗き込んでいる人がいっぱいいました。


もうひとりの直筆にもであって感激。
大好きなタイプのひと。でも友人だったら
付き合い方がちょっと難しそうなひと。でも
やっぱり友達であることが嬉しいと思うひと。

明恵上人。
道元禅師や親鸞上人と同時代。

三人とも情熱的なのは鎌倉時代人だからでしょうか。

でも明恵さんは狂熱的な噴出もあるひとでした。

有名な明恵さんの夢日記。
『夢記』の断簡が展示にあったのです。

現代語の読みも添えられたありましたが
とつこうつ、どうにかだどり訓んでみました。
博物館での楽しみのひとつです。

でも
夢で仏に出会っているときの明恵さんの気持ちって
どんなんだったのでしょうかね。
実感して知りたくなりますね。

不思議なおかたです。

そういえば奈良女子大におられた?岡潔さんも
「夕べ夢枕に普賢菩薩がたたれ…」と数学の講義の最中に
話されたりしたそうで、天才肌のひと、(明恵さんもそうだと思います)にはそういうことはあるのかもしれません。

昔見た「樂毅論」での藤三娘(光明皇后)の雄渾な男勝りな、しかし優美さも感じた筆遣いからも想像はさまざまに羽ばたいたけれど、

歴史がこのように具体的に感性に訴えて迫ってくるのは
物という対象がそれにかかわった人間の行跡として見えてくるとき、
いきなり物はまったく違った光芒を放つものなんだと思います。

信長が本当はどんな人だったか。
明恵さんは何故来世より現世により良く生きることを
選んだのか、信仰はかれにとってどんな意味があったのか。

その晩はいつまでもいろいろ思って胸の中がざわざわしていました。
今という時機を生きる歴史の中の自分はどんな意味や無意味を背負っているのだろう。残り少ない旅路をそんなことを考えながら歩いていくのだなと思いながら…。


ブログを検索すると同じものを見た人の感想がヒットしました。

<< 織田信長の直筆書状のひとつを、
初めて間近に見ることができた。
季節の挨拶の短い手紙。
ふわり、丸くやわらかな筆さばきで、
荒々しい武将の風を全く感じさせない。
むしろ貴族的とさえ思うような字だった。 >>

やっぱり、同じような印象なんだ…

2007年12月2日日曜日

MIHO MUSEUM 晩秋の美術館で古典美を堪能


滋賀県の信楽というと…たいていの人は「ああ、陶器のタヌキ…}と、反応しますね。
関西人でGnomonの年齢以上の老人なら
 「マメダの置物(オキモン)でっしゃろ」
  続けて大概の人が
 「雨~のショボショボ降る晩にマメダが徳利提げて
  酒買いに~」と唄う

マメダは豆田ではなくて、関西流の略語です。

マクドナルドがマクドになるように
豆ダヌキがマメダなんです。

もう少し物を知る人は紫香楽宮址がありますね、と言います。

でもMIHO美術館がありますねという人はまずいない。
美保でも美穂でも三保でもないMIHOだそうです。
名前からしてすでに思わせぶりなんです。

ウエブ検索でも「MIHO美術館」か「MIHO MUSEUM」で出てきます。

MIHO MUSEUM

すごい山の中の美術館です。

東海道線石山駅からバスがありますが、
ぼくは木津川市の自宅から和束町を抜けて
ドライブして行きます。
今回はちょうど一時間ばかりで着きました。

仕掛けとして陶淵明の桃花源(桃源郷)を
リアライゼーションしていますね。

車はエントランスハウス前のパーキングエリアで
止めなければなりません。
ここで現世とのお別れです(笑)

電気自動車がやってきます。
ゴルフ場のカートの親みたいな乗り合い自動車で、
制服の若い女性が一人で運行しています。(わたしは乙姫と呼んどります)

両サイドが桜や躑躅などが植え込まれている上り坂を行きます。
春夏は鶯がしきりに鳴いているのですが、今回は聞けませんでした。

2,3分でトンネルですが、これが仙境への通路ですね。
金属のパネルが貼られたトンネルの壁は輝きがあるグレーで
タイムトンネルを潜る感覚が味わえます。

トンネルを出て渓に懸かった釣り橋を渡り到着。
四周の山は紅葉しています。
すっかり都会からも世俗からも切り離されて
半ば中国風半ばモダーンの美術館に入ります。

       

え?一応「個人情報保護」ということで(笑)
左はぼくのツレで、右側の二人は古くからの友人。
友人はどちらもMIHOは初めてなのです。

       




だいたい感じは分かりますかね。
たしかグラン・ルーブルの設計者のデザインで
山に溶け込むように開放的な建築です。
略歴がありますね。
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I.M.ペイ氏の略歴
1917年、中国・広東州で生まれる。
1940年、マサチューセッツ工科大学卒業。
1948年~55年、Webb & Knapp.Inc.のディレクター。
1955年、I.M.Pei & Partnersを設立。

主な作品
ジョン・ハンコック・タワー(1976年)
ワシントン・ナショナルギャラリー東館(1978年)
ボストン美術館西館(1980年)
モートン・H・メイヤーソン・シンフォニーセンター(1989年)
滋賀・カリヨン塔(1990年)
香港・中國銀行(1991年)
グラン・ルーブル(1993年)
ロックン・ロール・ホール・アンド・フェーム(1995年)
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現在は開館10周年記念特別展Ⅲ「MIHOコレクション 大いなる時を超えて」の展示なのです。
普段は出ていない所蔵品も見られるかとやってきたのです。

期待通りでした。堪能しました。

同行の友人は茶道の稽古が長い人なので
紹鴎の使っていた品など興味深そうでした。
そして乾山のデザインの現代性にため息。

古代ガラスの不思議な色や

三千年前のエジプト人の感性がそっくり活き活きと
現れてくる小品。
アラバスター石の河馬の像の上に
水に縁のある蛙などが線描されている
その見事な力に溢れた線
すごいデッサン家がここにいるじゃないか。

海外では知られてもいるのか。
中国語や韓国語、それに英語やフランス語が
ざわざわしている雰囲気も今回は経験した。

景徳鎮の磁器を見ている中国人の観光客の横顔が
気になった。
バチカン美術館で天正少年使節が携えた伊達政宗の書状を
覗き込んでいた日本人の自分がそれにダブって見えてくる。

物が時空を横切ってギラリと光って人間を照射する瞬間。
そういう瞬間が今の彼に起こっているかもしれないな。

名品ばかり見ていると高ぶってきて疲れる。
それを寄る年波と我はいふなり…

ここへくる楽しみがあるのです。
エントランスが2Fになっているので、順路は2階から1階へとなっていて、移動するとき吹き抜けの上から下を見下ろすと、ちょうど全体が目に入るように古代モザイク画が配置されているのです。

      


これがそうなんですが、わたしにはこの展示が面白いのです。
一種の謎解きで愉しんでいます。
毎回何かを発見?して一歩一歩解釈していく楽しみ。

      


(黄色のローマ字はわたしが読んで入れました)
今回はこのモザイクの年代はまだ判定できないが
デュオニソスとアリアドネとエロースが描かれてあることは
読み取れた。
少し古代ギリシャ文字が読めるようになった、嬉しい。
でもまだ全部は無理。次回はもう少し行ければいいが。

サチュロスも描かれている。これはデュオニソスの子分の妖精だから付属的なものだ。
何故バッカス(バッコス)=デュオニソスと
アリアドネが一緒なんだい?
アリアドネならテーセウスとで物語になるはずで…
アリアドネの糸車でテーセウスがミノタウロスの迷宮から
脱出する話は知っている。

なんでもこのアリアドネは大地の女神という性格があり
アテナイやクレタ島などで信仰されたという。
テーセウスの物語の最後で死ぬが、死なないで復活して
デュオニソスと結婚したとするストーリーもあるらしい。

それなら分かる。両者の間に愛を現すエロース(クーピッド)がいるのはそのせいだ。

右角の顔は「PAN」と書いてあるようだ。
パンフルートのパンは妖精の一種。半獣半人だったな。
夫婦でいるデュオニソスとアリアドネ。
取り巻いているサチュロスやパーン。
バッカナーレ(デュオニソス祭)の感じがするが
左の老人が何なのか?

全体として農事と関係がありそうだ。
農村の領主層の屋敷に描かれていたものだろうか。

デュオニソスとアリアドネは
対のものであり
調べているとガンダーラの仏教遺跡にも見られたらしい。

原始仏教に入り混じっているギリシャ神話の要素!
面白いな。



デュオニソスの膝に乗っているのがアリアドネ。仏教寺院の装飾に付いていたものだそうです。
酒宴の群像の遠い起源にアリアドネがいたのか。

祭りとは神と人の共食(共飲)だそうで、
バッカナーレは古代というより原始の祭りのイメージ。
神仏との交感のあわいに生じる陶酔とカタルシスの
記号としての女性(にょしょう)
アリアドネが小野の小町や和泉式部に重なって
見え始めたのでわたしは夢心地に近づいています。

このように
MIHO MUSEUMという場所は
世界救世教の分派らしい教団の宗教的領域に
運営されているので静謐は保たれています。

謎解きが終わるまで何度かまだ訪れるでしょう。

ここは有機栽培の素材で作られた食事もできる。
というか、それしかないのです(笑)が
パンもおいしい。サラダも取れたての野菜。

デートには最高の場所ですね。
三十年ばかり遅いけれど(笑)

もうすこしギリシャ文字を覚えてまた
挑戦しにきます。
たぶんツレと一緒。

 
      
マンネリズムで写っております(^^)

2007年11月14日水曜日

他所で見つけたJottit.comを試す

なんとも素っ気ないが、それが好感になる。
Jottitドットcomはそんなサービスだ。

ネット上のメモ帳がそのまま自分のWebサイトになる。そんな感じ。

文字を体裁付けるのは、マークダウン記法という、
HTMLのタグに似たもっと簡略な記述法。

強調文字は*を付けて書く。たとえば

これは*最高です

これは最高です
のように表示される。

これは*最高*です
とすれば
これは最高です

表示される。

Wikiがこのような記法だそうだが
葉書一枚か便箋一枚にまとめられるルールで
ページをレイアウトできたら、確かに便利だね。



![[写真A]]{http:// *********/*****/***.jpg}

写真は上のように記述するのだ。ただしサイズの指定はないみたいだ。



面白いのは、http://jottit.comで
いきなり自分のサイト名を求められ、作成するのだが、
幾らでも作れそうなこと。

すべてhttp://*****.jottit.comという形のようだが。



いまhttp://ahona.jottit.comを作ったとして、
次々に作るページは
http://ahona.jottit.com/*****などの形になるんだろうか?

もし、新しいサイトをhttp://sonna.ahona.jottit.comとしたら
それでも作成できるのだろうか。

やってみよう。

2007年11月13日火曜日

朋アリ遠方ヨリり来ル。亦楽シカラズヤ。

<< Gnomon君へ

君のブログ見ました。

いきなり

『日時計 みたいに… 暮らせたら…』の

エントリーの題に「月下美人をみてきました」
などとでてきたので、

はじめは「これは違うぞ」と思ったのですが、
アーカイブなどを見ていってようやく

「ああやっぱり彼か」と納得できました。

まだまだ知らない顔があるんだなと、妙に納得した次第です。

昨日は突然の連絡にもかかわらず、うまく会えてよかったですね。

おかげさまで、久しぶりに「ふるさと」に帰ってきたような、安らいだ気分になりました。

これまでの人生で、さまざまな出会いと人脈ができ、
それぞれに自分にとってかけがいのない財産ではあるものの、
私にとっては、やはり一番くつろげる「場」であると再確認しました。

よろしければ、またお会いしませんか?  >>


先ほどメールが来ていた。上のはその一節だ。
読んでいて心がぬくもってくるのが分かる。

十数年会っていなかった。
近くにいても忙しかったり自分のことで精一杯だったり…

ふと思い出してくれて、電話をくれた。
高校以来の古い友人だからもう数十年の間柄。
変わっていない絆が話していて実感に変わっていく。

「戦友」というものがどういうものか分からないが、
その類のものだろうか。
今では三人の孫がいる「爺っちゃ」

奈良で落ち合って数時間。
時が豊穣な一夜だった。

奈良の共通の友人も加わって三人の噺は
歩いていても酒食の席でも切れ目がなかった(笑)

ここのところなんだか暗かった気持ちに
一条の光が差し込んできた。

「ぼくのほうこそ、会えて嬉しかった」
心からそう言っている自分がいたのだから
確かにぼくは動かされたのだと思う。

彼の乾いた明るい良く響く笑い声に。
高校生だった頃と変わらないその声に。

さあ、返事を書こう。

数少なくてもこのような朋友があることを
ぼくがもっともっと大事にしてこなければ
ならなかったのだ。
そのことに気づいたと、書こう。

ここ京都府南部の山の中の暗がりで
ひとつ点った灯りのように
今夜のぼくは単純に幸せなのです。

2007年11月9日金曜日

月下美人を見てきました







親戚の家で次々と月下美人が咲いているというので
見に行きましたがその晩は開ききらず…もう寒くなってきているからなんだろうな。

で、
翌朝1時間あまりの道を再訪。
咲いておりました。
初めて見たので新鮮で感激しました。



月下の美人という名にふさわしい凛とした風情は
さすがだなと思いました。
花の中を覗いてみるとまるで小宇宙でした。
白く明るんだ広がりに黄色い小さな星が浮かんでおりました。
きれいだなぁと暫し無心になりました。










でも
この花の蕾はエイリアンの触手みたいな凄みのある濃い赤みを帯びた不思議な形です。
折りたたみ式の人工衛星がアンテナを広げていくのを見ているような
不思議な感情が湧いていました。

2007年7月23日月曜日

貴男もあたしも買われたいのち…




自分の感情をどう表現するか。
もやもやした不鮮明なところのある気持ち
画像検索でキーワードを替えながらやっていて
この画像のグロな感じが近いかなと思って
もらってきた…  気分悪い人いたらごめんなさい ⇒




選挙もたけなわ(たけなわってどう書くんだったっけ…酣か)

昨夕は丸善で人に会うので京都へ。
この書店、京都丸善は梶井基次郎が小説「檸檬」で
爆弾みたいにレモンを置いた…その書店だったね。

選挙の街頭演説にぶつかって歩けないほど、
ゆっくり通りながら観察。ものすごい人だ。
動員されてきてる人もいるのだろうが、サラリーマンや
学生も立ち止まって聞いてるらしい。みな真剣に聞いている。
こんどの選挙の特徴のようだ。

投票率は上がる。自民党は減り、公明党は維持または減。
でも民主党が圧勝できるか?
京都らしく共産党がすごく元気な女性候補だ。
自民・民主・共産の2議席争い。

今朝はまた朝から赤城大臣の政治資金問題。
あらたな局面になっていると報道。
あきらかに政治資金規正法違反。
だがこの件ではよく読むと罰則規定がない。
上手く抜いてあったんだね。予想してたみたいに。
コメンテータも言っていたが、他の自公民の政治家も?
と疑わしくなってくる。

完全国営で一切金のかからない選挙は出来るだろうに。
と、ぼくら素人は思うが、そんなモンじゃないそうだ。

政治に金が要るのは他の入用があるからだと。
法案通す国会対策とか、イロイロと…
昔は自民・公明・社会・民社の国対委員がマージャンしながら
お金が動いたりしてたとか。

企業・団体の政治献金の禁止が徹底しない限り
幾ら政治資金規正法の細目をいじっても事態は変わらない。

年に一度同窓会の二次会でカラオケに行くが
ぼくはかろうじて1,2曲の持ち歌がありますが
そのひとつが「カスバの女」…
この記事のタイトルがその一節なんですね。

お金で縛られたらもうお終い。
体は縛られても心は別よ…と言いたいけれど…

花の都パリのムーランルージュの踊り子だった…
酒場の女
失恋したら外人部隊に身を投じて
人生を捨てた男
恋してみても一夜の火花…

どうせ「買われたいのち」のふたりだから
という負け犬同士の引かれ歌だけど
ぼくには近しい感情なもので…

でも赤城君の場合は、ちょっと不細工すぎないかい。

男らしくしろとは言わない。
こっちも「男らしさ」なんてないから。

出処進退は何で決めるのかね?
お金の疑惑に答えられない君と庇い続けるABちゃんと、
オノレ・ドーミエのカリカチュールになっちゃてます。

政府の統計でこの11年間で900人近くが餓死している。
診断書に他の病気が併記されたのは統計に入れないので実数は
もっともっと多いと研究者がコメント。
これは自然現象や高齢化じゃないと見るべきだ。
リストラ。非正規雇用増大。賃金水準の低下。
ネットカフェ難民の発生。
社会が格差固定化社会になってきているからだ。
それに加えて権利意識の喪失。
「世間に迷惑をかけてはいけない…」
これは美談ではない。悲劇だ。無知と政治の無責任との。
バブル以上と言われる多国籍企業中心の利益増大の影にある事実。

ヒルズ族など勝ち組はいいが
大多数の国民はこういう現実をうすうす感じているから
不安なのに、年金までがめちゃくちゃだった。

一票しかない。悔しいけれどそれが平等、民主主義。
この一票、どこへもっていこうか。

金で汚れていない党や人へ入れよう。そうしよう。
心では「買われたいのち~」と哀愁に身を浸しながらも
せめて政治は金で買われていないところを選びたい。

ジョナサンの万引き…



ドイツの話らしいのですが…

TVで 『万引きカモメ』を報じていた。

映像で見るとなるほど、お店の棚から咥えて

のこのこ外へポテトチップスの袋を持っていく。


なんでも、毎回同じチーズ味の袋だそうで…(笑)


どうやら仲間のところで袋を破って食べるらしく

カモメのボスだろうというのですが…

なかなか楽しいというか面白いニュースです


「カモメのジョナサン」という本を思い出しました。


五木寛之さんの訳だったですね。


万引きの代金私が代わって払うわ…という人も出てきたそうで

人情は共通という感じで愉快ですね。


ぼくは丹後半島ではカモメにポテトチップスを狙われて

怖いくらいだった経験があります。

カモメはポテトチップスが好きなんだろうか?


2007年7月18日水曜日


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黒田三郎 【くろだ さぶろう】

大正8年2月26日~昭和55年1月8日。
市民の日常と生活感覚を、平易な言葉で書いた詩が多い。「ひとりの女に」は戦後を代表する恋愛詩集との評価が高い。

代表詩集

* 「ひとりの女に」 昭和29年
* 「失われた墓碑銘」 昭和30年
* 「小さなユリと」 昭和35年
* 「もっと高く」 昭和39年

代表作品

* 賭け
* 夕方の三十分
* 秋の日の午後三時
* 死のなかに

--- 余計な一言 ---

何も付け加えなくてもいいだろう、この詩は。
黒田三郎が亡くなったときぼくの中でも
何かが静かに立ち去っていったように思う。

戦後詩(現代詩)は難解と言われるが
黒田三郎の詩に韜晦はない。
が、その詩精神には揺るぎはない。
紛れもなく強靭な批評性があっての作品ばかりなのだ。
戦後日本の代表的現代詩人のひとりだ。

若い日のYohはこんな兄貴がいたらいいなと憬れたものだ。

代表作の詩集「ひとりの女に」は
戦後を代表する恋愛詩集と言われるし
ぼくもそう思っている。

この作品は最愛の恋人(妻)を亡くした後のやもめ暮らしで
愛娘との勝手の分らない家庭の仕事と勤めの掛け持ち
まだ癒えない痛みを酒に薄めて奮闘する自画像なのだ。

よくある様な、見た様な光景。

でもここに出現する不思議な輝きと静けさに
人生ってまじめにやっていくものなんだ……と感じますね。

ただの呑べぇに見えてもこういう暮しなのかもしれないと、
立ち飲みのサラリーマンを横目でみて通る、今夕のぼく。

2007年6月25日月曜日

成ヶ島(なるがしま)の海亀よ、生成(なる)の島で生みたまえ…

どんなところで商いをするにせよ

モラルやルールは大事にしなければ墓穴を掘る。

ミート・ホープの件もYohには他人事ではなく
いつも意識にあることだ。

保健所に検査時に誉められるぐらいでないといけない。
そうやってバランスのとれた状態を維持することが
責任がもてる経営ということだろう。

インターネットという新しい場で、
間違わないように自戒して前進しなければ、と
思う。

でもモラルやルール以前に、いつの間にか失くしがちな
ある種の感性と知性を保ち続ける意識的な努力はいるなぁ、と
しきりに思うこのごろだ。



先ほどTVで取り上げていて、思わず引き込まれて
最後まで見たのだが、大阪湾に向かい合う淡路島の
東南隅にくっ付いている小島、 成ヶ島の自然。

           

瀬戸内のガラパゴスと言うのだそうだ。知らなかった…
多様な貝類。隼の営巣地。ハマボウ(汽水性の樹木)…豊かな生態系がある。
       
 

それに大阪湾で唯一海亀(アカウミガメ)が産卵にやって来る島。

ところが、とんでもないことになっている。
流れ寄るヤシの実ならぬゴミが島を蔽い尽くさんばかり。

ボランティアが定期的に綺麗になるまで清掃しているのだ。
その方が、ここは生き物のサンクチュアリだ、
来るたびに発見があってうれしい。子孫にこれを手渡す、と
笑顔で仰っているのがまぶしかった。

流れ着くゴルフボールのネームからどのゴルフ場のものか
特定が出来るので、加古川や淀川、大和川をへて
川からゴミがやってくることは明らかだった。

ぼくの家のある地域は木津川が域内を流れている。
ぼくらの不注意に川に落としたモノが成ヶ島へ流れ着き
海亀のお母さんを殺すかもしれないわけだね。

暮しの連鎖はいのちの連鎖のほんの一部にすぎないのに。
ぼくらの「普通の国」の「普通の暮し」がいのちの連鎖を断ち切る。
無自覚なままでいたら、そうなる。

成ヶ島は潮の寄せ場で、砂が堆積し
遠浅になって歩いていけたりする
そういう環境条件の島で、無人島だ。

サンクチュアリとしてだけではなく……

 … これは、Yohの従来からの説なんだけど

水の力で島が大きくなったり消えたりする不思議を
大阪湾の周辺の人々は沢山見てきた。
それに因む名前がいくつもあるようだ。その1つが「成る」「成り」。

大阪には東成、西成という地名があるが
古い時代は東生、西生とも書いた。

日生と書いてもぼくは保健屋さんとは思わない。
ある場所では「ひなせ」と読むのだ。

「なす」は成す、生すの意味。
以前は無かったのにいつの間にか島になった。
そういう場所が「成る」「生(な)る」島なのだ。

成ヶ島の傍には「生石」(おいし)という地もある。
これも成る(生<ナ>る)と関係がある地名かもしれない。

成るという言葉や名前は、
自然の力で化成した土地。生成する力の現われ、
造化の神の降臨する聖地という意味だ。

そこへぼくらの廃棄物(一番多いのは空のペットボトル)が
押し寄せている。

大昔、天皇は即位したあとでこの大阪湾の水の力を祭り
治政の平安を祈った。
八十島(やそしま)の祭りという。
元は大阪城のある地に近い渡辺にあった神社、
今は浪速区にある、坐摩(いかすり)神社が必ず参加する
ことから見て、これは浪速の水辺の祭りだ。

いわゆる河内王朝論にかかわる学説だが、
水辺の王権の祭りはもともとは
短時節で潮流が島を造り出す神秘への賛嘆と
畏怖が生み出した国土を鎮める神祭りだろう。

そこには水の力、水の霊力への怖れと信仰が現れている。
ぼくらは祖先たちのその気持ちをもう解りえないのか?

もし川が自分の身体を流れ通り抜けるとしても
あなたはゴミになるモノを川に捨てますか?

そういう問いをモラルやルールの前に自分の中に
もっていたいものだ。

そうすればミート・ホープなど現われようもないのだが。

2007年5月25日金曜日

今年もはや6月10日が近づいてきた 9条の会の日だ

主権者の国民が、国の形を決め、政治を行う国家と為政者に、
守らせるべき政治の基本を定めるのが憲法だ。

国民に政府が守れと押し付ける条文ではない。
だから就任する首相は憲法遵守を誓うが、
あれは憲法に向かって誓約しているが、
本質は国民にむかってしている誓約だ。

国民の中からは9条を変えよという声は上がってこない。
自民党は結党以来憲法を変えると掲げてきた。
眼目は9条の骨抜き、除去にあった。


皮肉なことだが、今の急流のような改憲の動きは
しかし外来のものだ。
「ブッシュの百年戦争」ぼくは勝手にそう名づけたが
アメリカの先制攻撃型世界戦略の補完部隊として
日本から戦場で血を流す若者を供給
して欲しいのだ。
アーミテージはあからさまな男だから、
遠まわしでもそうはっきり示唆している。

憲法に手を付けるのは「愛国主義」から、とは限らないのが、ややこしい。
政権を握るためにはアメリカの認知が要る国では
雨後の筍のように改憲派が国会に増え続けている。
民主党だって基本は改憲派だ。


議会だけ見て国民・市民を見ないともう暗いだけの時代だが。
草の根に目をやれば事態は違って見えてくる。

安保条約でも憲法でも、大きな国政の課題は運動にはなりにくい。
60年安保でも岸首相の傲慢で強引な政治が国民に危機感を増幅したからあれだけの大きな事件に発展した。
反対運動の初めのころは運動する人々は動きが鈍い国民の反応にあせっていたそうだ。

ところが、ここ数年日本の大衆運動に変化が起こっているみたいだ。
憲法の改悪にストップをかけようという草の根の運動が元気なのだ。

ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎氏などが呼びかけた会
『9条の会』が全国にどんどん広がっている。
9条を変えないほうがいいという気持ちが広がってきているようにも見える。


『9条の会』は今年でまだ三年目、3周年を迎える『9条の会』だが、
昨年の2周年目で5000を超えた全国各地域の9条の会は
いま、6000を超えている。
全国に文字通り津々浦々に作られてきている。
すでにいわゆる「60年安保」闘争が進められた当時の
地域共闘組織の数を2000も超えてしまっている。

つまり戦後史の記録を軽々と塗り変えたわけだ。
これが意味するものは何か。
良く考えたいが、そのひとつは自由で柔らかな草の根の運動が主体となっていることにある。

呼びかけ人は有名人、知識人だが、参加者は無名の市民たちだ。
平和と人間の人権をしっかり守っていきたい思いであつまった力がこんなに大きくなってきている。相手は金も組織も権力機構ももった手ごわい相手だけれど、運動は寄せて来る潮のようにいつか彼らの足元までとどきたい。戦争する国家にならないぞという声が大きな潮流になってこの国の政治を洗い清める日がくることを夢見て、自分に出来ることをしていこうと思う。


2006年6月10日9条の会2周年 全国交流集会 その1

2006年6月10日9条の会2周年 全国交流集会 その2

2007年5月9日水曜日


日記ソフトを使ってブログに投稿するのです。







文字です。



2007年5月7日月曜日

イミテーション・パークの報道に考えてしまったことがある。










戦後直後を知る世代から言うと、他人のこと言えないんだよな…中国のこういう状況は困りもので、非難していくべきなんだけれど。

物まね泥棒はジャップどもといわれ続けてたのだ、戦前から。

そうして基礎を作り、朝鮮戦争、インドシナ戦争、
ベトナム戦争と戦争景気で近代化と富裕化を成し遂げたんだからね。

謂わば他人の血で儲けてきた歴史がある。

それを教わらずに来た世代が、簡単に相手の非を見て熱くなるのは、少し心配ですね。
上に言ったような面にも目配りしてくれると安心なんだけど…。

今のTVは国内に満ちてきている不協和音や不安のガス抜きをするために、
中国や韓国の欠点や誤りをバランスを欠いて取り上げてるな~って思える。
そんな節を感じるので書いておきたくなった。

亮さんのところで見せてもらった、YouTubeに載せられたTV録画ですが、同じ内容は他のチャンネルでも流れていたので、ぼくもTVでは既に見ていました。

(こういうTV録画だという著作権がらみのものを出すのもどうか、という別の問題もありますが、後に言うようにオリジナリティの問題が不明なので、一応ここに引用するのはいいだろうと、勝手に判断します。したがって責任はぼくにあります。)

どの局もほぼ同じ映像であること、同じ日にどの局もおなじものを流していること。そして、このことに対する批評が全く出てこないことには、ちょっと衝撃を受けたのです。

常態化している「垂れ流し報道」の実例である訳だが、それにしても少し酷い状況じゃないか。

誰もそれを変だと思わないことを、ぼくは心配する。
これは、事件ではない。取材報道なのだ。
例えば911のような事件発生なら、限られた同一ビデオや写真が現場を知らせる情報として何度も使われたり、いっせいに各種メディアから流れるのは自然だ。これは批評以前にまず情報を確保する意味で当然の事態だ。
しかし、やがてさまざまな視点や論点や周辺的事情などがごちゃ混ぜに出始め、論説や批判やさらには世論調査などが続いていく。それがメディアなのだ。

こんどの中国の「イミテーション・パーク」の報道は、なぜどの局も飛びついたのか。ぼくには「飛びついた」ように見える。

取材報道だから、その内容は何時流してもいいし、鮮度よりその社会的意味、政治的、経済的意味が重要な、そういう性質のニュース素材である。
今までも知る人ぞ知るの中国の実情がある。マスコミ人なら一定の知識はあったはずだ。なかったなら報道人の資格はない。ぼくでも知っていることを知らないはずはないのだ。
ではなぜ、同じ日に同じ素材を無批判に流しているのだろう。

繰り返すが、これは事件報道ではない。
スポーツの試合結果でもない。
商習慣に関わる倫理の問題や国民的な価値観念の問題を背後に持つ社会的事実の報道だ。

取り上げる価値は確かにある。
それも他人事ではなく、重要な問題だ。

ネット上の違法な「商品や権利の損壊」の形で我々にも身近な問題だ。情報流出で知られたWinnyなどによる著作権侵害などは、日本でも深刻だから。

それゆえに、単純には「笑う」「非難する」だけのニュースではない。
ところが、この日、本格的な突っ込んだ批評は、ついに聞かなかった。
民主主義とか自由を量るひとつのバロメーターが、こんな思考停止になっている国は、北朝鮮を笑えない、と心配になる。

時あたかもアメリカが著作権問題で中国を提訴した時機。

こんどの報道のネタになった取材と構成は
何時何処で誰が何のために誰の資金で行ったのか?

ぼくならそれを知らされない、確かめられない以上は
政策的な「宣伝戦略」かもしれないという判断を担保しておく。

今、日本のマスコミは、
「アメリカ議会による従軍慰安婦問題での対日非難決議案」の陰に、中国ロビーの画策が有ることを言って、それが根拠のない非難や、アメリカ人の本来の対日感情からはずれたもの、のように報道しているが、危ない危ないと、ぼくは思う。

日米戦争の歴史的事実は、感情や民族的自負心を理由にして、変えられるものと、我々が信じ始めたら、とんでもない錯誤の道へ、ハンドルを切ることになるだろう。

安倍さんたちの論理は「強くなれば言う者はいなくなる」だから、危険度は高いと見ている。

カナダでは、中学校だったか高校だったかになると、マスコミの利用法をみんなで報道番組などを材料にして討論を通じて身につけるようにカリキュラムがあると聞く。

報道は社会的な制約の中で営まれていて、どんなときに間違うか、歪められるかを、実例と歴史で学び、一人一人が自主的で批判力のある自分の考えかたを持たせるのを目標にしているらしい。
学ぶべきだと思う。

報道は確かに、「事実を伝える」
しかし、多くの場合、その事実はさらに大きな複雑な事実の一部なのだ。
そしてその大きな複雑な事実の意味、客観的な意味や真実は、簡単にぱっと、解るものではない。
もし簡単に報道を見て、ぱっと真実が解るなら、およそ学問や科学や、総じて整理された経験知は、要らないし、成立しなかったはずだ。

今そのことを何度も自分に言い聞かせ、良く考え、調べ、
疑えないものだけで

(それが世間に流布される大量の情報に比べ呆れるほど少ないみすぼらしい真実であっても)

物を考え行動していく覚悟をしないといけないと、いささか、臍を噛みながら思うのだ。

若くて頭の軟らかいとき、もっと考える力、分析する力、集まった事実から見通しを立てる力を、培うことに努力すべきだったと。

単純に考えれば
昨年亡くなった「経営学の神様」ガルブレイスも晩年に言い切ったように、中国とインドが世界の動向の中心に座るのは趨勢だし、法則的なものだ。
そのことへの感情や反発はいろいろ有ってもいいが、事実や歴史に背を向けて思いたい思いへと自分から傾いていく国民にはなってほしくない。
冷徹な判断力と粘り強く自分の立脚点に不動の信念を持って大胆で柔軟な外交や協力を作り出し、ヨーロッパ以上の規模の共同体を生み出すことに積極的役割を果たす国になる。

これが長期的な展望で唯一平和的発展をもたらす方向だと信じている。

難しいのは、沸き立つような愛国的、民族主義的、強硬派の
煽情的言論に、相変わらず各国の民衆が乗せられやすい事情を
未だに抱えているからだ。

この間簡単な経済学のシミュレーションの例を見ていたら、
今の格差を踏まえて計算すると
格差が拡大して所得の平均が上がっても
大半の人々は絶対的にも所得が減ると出た。

高額所得者の数がほんのわずか増え、その人々を含めた
上位の少数者に富が集中するする結果、全体の富が増え
平均が上がっても、大多数は生活が貧しくなる社会。

いままっしぐらに進んでいく構造改革後の経済とは
簡単に言えばそういう極度の格差社会なのだ。

かってアメリカでも起こったことだ。
豊かな社会がもっと豊かな社会になった、と言われた。

だがニューオリンズの台風が暴露したのは
救いようのない規模にに達した貧困の蓄積と富の偏りだった。
イラクで戦争やってるひまなど本当はないのだ。
蓄積された貧困が個人責任だというのは、科学ではない。

だから大臣だった時から竹中平蔵は政治家で
経済学者じゃなかったんだ(笑)
経済学用語でしゃべるのが上手いだけの政治家。
―これは学問的批判だよ(笑)

もとから経済人が集う「大阪倶楽部」に出入りする
「交際」好きだったのをぼくは知っている。

個人は成功したり失敗したりする。
何十万人何百万人が失敗するのは本人の所為か?
バカいってはいけない。いうヤツの方が馬鹿だね。
物を考える力がないのだ。

限度を超えた貧困は個人的原因ではない。
これは現行憲法の魂でもある。
最低限度の社会的文化的生活を保障するのは
国家の責任だと、科学と合致することを
憲法には書いてあるのだ。
言い換えると個人が人間らしく暮していれば
国家は責任を果たしている事になる。
どこの国家がそう出来ているか、否かは
法ではなく政治の問題だが。

繁栄は目に付き目を眩ませ易いが、心しよう。
大貧民社会はもうすぐだ。もう始まっているのだから。

この変化が生み出す緊張と絶望は内向する間は
個々人の不幸の堆積だが、やがて、外に向かう惧れがある。

そうした急流が存在する社会にしないように
マスコミにはバランス感のある報道と日本人の自己批評能力の涵養が
使命としてあると、ぼくは考える。
そういうマスコミ、メディアに批判を加える市民的能力は
これはぼくら市民自体の責任なのだ。

もっともっと自分たち自身を直視して
遠くまで見える視界と見張り台をもたなくちゃいかんなぁ…

曲折や波乱はあっても人類社会は大局的には進歩している、
はずなんだがなぁ、
と最後はちょっと溜息もつく、ぼくである。

押熊童子熊童子。童子は何故に怪力か?

 Rinaちゃんはもう中学三年生かい。
 そうか、ぼくが初めて聊斎志異を読んだのが
 二年生だった。三年生では山海経を読んだな。
 どちらも不思議な話のマーケットだがな。

 RinaちゃんはHP、ハリー・ポッターのファンだったね。
 空を飛ぶ少年は日本にもいたな…すぐ近くさ。

 君の住んでいる後ろのお山、信貴山の話やよ。
 絵巻物は朝護尊寺で見学したろう?
 鉄の鉢が米を載せて空を飛ぶんだよな。

 あの信貴山縁起絵巻に少年の「みさき神」が出て来たね。
 『剣の護法』という名の護法童子だ。


 まぁ少年の妖精だが、どういう正体の者なのか、

 訊ねた事はあるかい?

 もともと護法で有る無いに関わらず、童子という存在が
 謎めいているのだな、絵巻などでみると。

 例えば、昔噺だ。
 鬼が出てくると、鬼のことを「何々童子」と呼んでいるだろう。

 それは知っているだろう。

 なぜに鬼は「童子」と呼ばれるんだろうね。

 童子はみんな鬼だと思うかい?

 たまたま鬼は童子の格好を好むのだろうか?

 事情がありそうな感じだろう?

 この話、退屈?もう眠いんだよな、ははは。

 続きを明日してもいい…?











ケイタイでバンドしてる…

携帯でバンド。
[携帯電話][バンド][ライブ]
携帯でバンド。
by suda


携帯電話5台でライブをしています。
それぞれドラムだったりベースパートだったりギターパートだったり。
新しいよなー。これなら誰でも出来そうだし、かといって簡単じゃなくてちゃんと練習も必要だし。(By SUDA)

2007年5月6日日曜日

富山市って凄いですネェ…

日経新聞の連載の記事ですが。
日本一の豊かな家計は富山市の市民なんだって…
日本の真ん中の都市富山市。

平均以上の統計数字が多い都市だっていうのだ。
平均月収71万円、日本一。
消費支出40万円、全国2位。
小遣い月額4万5千円、日本一.

産業都市で女性の進出が抜群だということ。
家計に占める夫の収入の比率が非常に低い。
昔からの大家族的な家庭が多い。

それらが今分厚い需要と底力になって内発的発展の軸になっている…そんな感じの記事だ。続きが読みたくなった。

高岡もそうなんだろうか? 同じ県民性だし…


2007年5月5日土曜日

ちょっとシンクロ…万葉ロマン

連休は何処へも行かず。 行きたい所が多すぎて、先に気疲れしてしまった (^^;)会期の長いのは返って行こうと思っているころに忙しくなったりするものな。ぜひとも行こうと思っているのは大阪中之島東洋陶磁美術館で「安宅コレクション」
それに天王寺のギメ東洋美術館浮世絵名品展、北斎の二幅一対の竜虎図が里帰りで揃って見られる…
個展や企画展の案内も…でもなぁ、身も心もちょっと重い…
あれやこれやが…いっぱい。そして街の人込みが…
「連休明けの平日の午前中の開館後三時間」を
ねらって行くことにするかな…。

ぼくにとっては名品の前に立てることは常に試練、面接試験。
そして何時も落第、追試、再試験…。
人込みで押し流されながらでは、合格には行き着けませんな。

ちょっと嬉しいこともすこし。

昨日、村から下りていって南加茂台団地の一軒だけの書店に買い物のついでに立ち寄ったら、隅の棚で「おいでおいで」しているような本があった。目の隅にひっかかりがあったのだ。

「--万葉集に詠まれた--南山城の古代景観」乾幸次

あれれ、こんな店に(失礼)硬い本があるなぁ…
奥付でみるに地元の井出町の方で、立命館史学の流れのようだ。
藤岡謙二郎先生などの弟子筋にあたるのだな。

藤岡氏の著書は接したことがある。
「聖徳太子の旁示石」という論文が面白かった。脚で書くタイプの方だ。
宮本常一先生タイプだが、史料批判も確りしたアカデミシャンでもあった。

その弟子だからとの期待は、違わず、良い本だ…嬉し。
ぼくの座右の一冊に加わるだろう。

この本は地元の古代の問題集みたいなものだもの。読み応えあり。
地名や古道が大好きなものだから、目次に心躍る項目が並んでる。



妻を亡くして打ちのめされていた日々、
夜更けに眠れずに紐解いていたのは万葉集だった。

作家の五木寛之さんが言うように、悲哀しいときは悲哀しい歌や文に触れるのが良い、というのは真実だった。
断腸の想いの最中にも悲しい歌や恋の歌は、
ぼくを支えてくれ揺さぶり励まし続けてくれた。

そんな万葉集の中で、毎夜ぼくが開いた挽歌があった。
絶唱がぼくを貫いて行く度に、納得も諦観もまだなくても、
ある確かさが戻ってくるのを、ぼくは感じていた。
「相楽山」(さがらかのやま)に若妻を葬った男の歌。
死せし妻をかなしびて高橋朝臣が作る歌1首併せて短歌。



白栲の袖差し交へて靡びき寝し 
我が黒髪の真白髪になりなむ極み 
新らた世に共にあらむと 玉の緒の絶えじい妹と結びてし、ことは果たさず、思へりし心は遂げず、 白栲の袂を別れ にきびにし家ゆも出でて、みどり子の泣くをも置きて 朝霧のおほになりつつ
山代の相楽山の山の際(ま)に行きすぎぬれば 言はむすべ、せむすべ知らに、我妹子とさ寝し妻屋に朝(あした)には 出で立ち偲ひ夕には入りゐ嘆かひ 脇ばさむ子の泣くごとに、男じもの、負ひみ抱きみ 朝鳥の哭(ね)のみを泣きつ、恋ふれども験(しるし)を無みと、言問はぬものにはあれど 我妹子が入りにし山をよすかとぞ思ふ


白たえの袖さし交え寝た わが妻
黒髪が白髪になるまで いつまでも
初々しい気持ちでいようと誓い合った わが妻
神の結びたもうた縁をふりきって
愛しい妻は誓いをはたさず白たえの袖口をふりほどいて
和やかに暮らしていた家を去って 泣くみどり子も置いて
朝霧のなかへ おぼろげになって 山背(やましろ)の 相楽山(さがらかやま)の山際(やまのま)へ 隠れてしまった
何と言って よいやら
何をしてよいやら すべも知らず
わが妻と 睦み寝た妻屋にいて 朝には 門に立って偲び
夕べには 部屋に籠もって嘆き 脇に抱えた 子の泣くごとに
男なれど 背に負い抱き 朝鳥が とどみ啼くように
ちぢに哭きつつ 妻を恋い焦がれるも かい(効)もなく
ものも言ってくれない 山ではあるが
わが妻の霊が 隠れ籠もった山を
せめてもの 形見として 懐かしがるばかり
わが妻なる やましろの相楽山(さがらかやま)よ
ああ こもり隠れし わが妻よ


「朝影に我が身はなりぬ、玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに」

 朝の地面に長く延びる影のように私はやせ細ってしまった、
 澄んだ玉飾りが光るよう瞬く間に逝ってしまったきみだったから

乾先生は地元の史料を使って調べていき、
「相楽山」が小さな丘のような山で、場所はここと、
ほぼ特定できた様子だ。そうなのか。
古街道に沿う小さな小山があの若妻の墓所だったんだ。

長い時間が過ぎ去り
この歌の歌われた木津川のほとりを、
今では悲しみを忘れたぼくが、
奈良コープへの買出しの行き帰りに通っているのだ…

千年の時を超えて歌が残ったので、
その悲哀しい歌がぼくを支えてくれた。、
はるかに遠い時間を隔て、高橋朝臣の嘆きは、
今も激しく響いているが、
今はそれを「哀れ」と思うぼくがいる。
万物は流転し心も移ろう、芸術は永遠を湛えていても。


昨夜、万葉集の中の挽歌で一番身近なものはやはり…
相聞で一番好きなのは…
と、別のところでチャットしていたので、

なんというシンクロだ、と不思議感を満喫。

家持くんがぼくを呼んでいるのかな、
濁り酒注いでくれたら、行くけど (^^;)~♪

  団地のロータリの真ん中に花壇。
  ひとつの音符みたいにポピー咲いてました。




          

2007年5月4日金曜日

堅香子の花と娘女と春の水

物部(もののふ)の八十娘女(やそをとめ)らが汲みまがふ寺井の上の堅香子(かたかご)の花 (万葉集 四一四三・大伴家持)

物部と書いて「もののふ」と読み八十(やそ)に掛かるのですね。

もののふと云う「ものものしい」イメージが、数の多さを形容する八十(やそ)という言葉を呼び起こし、もののふ(男のイメージ)がするりと娘女(をとめ)らの、水汲みに行き来する賑やかさに転じたかと思うと、その情景に寺井(てらゐ)が見える様子が浮かんでくる。

多分寺井とは当時の先進施設の寺院に設えられた清水(井戸)で、堤で囲った貯水式の給水施設なのだと思う。

その井戸は丘の端にあり、見上げてすぐのあたりに、片栗の花が咲いていることに、作者は気づいたのだ。
春の日差しが花を引き立てて、その可憐さが、忙しく水汲みに立ち働く女たちの様子と、二重写しに見えているのだ。

家持くんの弾む気持ちが伝わってくる歌だ。
一時は目だっても、忽ち見えなくなるのが堅香子(かたくり)の花。
それは春の足どりのあわただしさでもあるのだけれど。


2007年5月3日木曜日

どうして山里になんか棲むのだい?


                 
 山中問答      李白

 問余何意棲碧山

 笑而不答心自閑

 桃花流水杳然去

 別有天地非人間




 山中問答         李白

 余に問う何の意ありて碧山(へきざん)にか棲むと

 笑って答えず心自から閑なり

 桃花流水杳然として去ぬ

 別して天地の人間(じんかん)に非ざる有り


   問うものがいる、どうして草深い山中に棲むかと。

   無理もないかと答えずに笑っている、長閑な心で。

   桃の花びらが水に落ち何処へやら遠く流れていく。

   ここはそれ、世間様とはかけ離れているのさ。



 これは自分の愛唱詩だ。

 黛まどかさんから届いた「俳句でエール」には
 蓬もちの句が入っていた。

 嫁姑声の似て来し蓬餅
            渡部トヨ

  よめしゅうとめ こえのにてきし よもぎもち

                     季語/蓬餅
 田舎の嫁と姑は、農作業の共同作業で同じ経験を
 分かちあうから、いつしか女同士認め合うことになり
 次第に共通するしぐさも持つようになったりする。
 この句では、声まで似てきているのだ。
 働くものの伸びやかな声のさざめき。
 仕事上がりのお茶と蓬餅が和やかな場にある…
 田舎暮らしにも好いことはあるのだ。

室内でダイヤモンドダストを人工的につくりだす



東近江市にある西堀榮三郎記念探検の殿堂でダイヤモンドダストを人工的につくりだす実験をやっている。

この記事はLazyCameraというブログに出たもの。出かけて写真を撮ってきたのだそうで、きれいな写真。撮影は難しかったそう。

東近江市に記念館があるのは知らなかった。
南極越冬隊隊長だったから、小学生のころ憬れの人だった。
品質管理の理論と実践の草分けでもある。

過冷却の水にショックを与えると一瞬に氷になるのと同じ原理で
ダイヤモンドダストができるのに衝撃が必要なんだって、知らなかった。それに樹氷も同じらしいと…へぇ山中の衝撃ってなんだろう。
天狗のくしゃみだったりして(笑)

北海道では自然現象としてみることが出来るらしい。
これは北海道で撮られたもの。

これは信州松本で、マイナス15度以下になった証拠。
すこしわかりにくいが、上の方にに見えている。

ぼくは京都の北山山中で
川が流れている狭い渓谷であること、無風だったこと
湿度が一定で急激に気温が下がったこと、朝日が差し込んだ
という条件で2度ほど見ることが出来た。



西堀榮三郎
1903年京都府に生まれ。1928年京都大学理学部卒業後、京大講師、助教授を経て民間企業(東芝)に移り真空管を発明した天才技術者。統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込んだ人物として知られる。後のQCサークルである。今西錦司、桑原武夫ら京都グループ主要メンバーの一人。日本山岳協会会長も務め、日本初の8000m級登山である「マナスル登山」の際、ネパール政府との交渉役も務めた。昭和55年チョモランマ登山隊総隊長を努める。「雪山賛歌」の作詞者でもある。探検家のカリスマ的存在であった。京大の教授となった翌年の1957年2月15日から翌年2月24日にかけて行われた、第一次南極越冬隊の隊長を務めた。その後、原研理事などを務めたが1990年に死去。主な著書に『品質管理実践法』 『南極越冬記』 『西堀流新製品開発』 『品質管理心得帳』 『想像力』 『五分の虫にも一寸の魂』などがある。

2007年5月2日水曜日

茶摘み籠にならぬ茶摘ポケット

今日は八十八夜だそうだ。
新茶の季節。

最近、新聞を新聞受けへ取りに出るときポケットに一掴み分の茶の新芽と若葉をちぎって詰めてもどる。
それを手揉みにして暫らく置くと蒸れて黒ずみ、少し乾いてきたらティーパックに入れて湯を注ぐ

『生茶』…でもないか。
あまり香りはない。

でも「青汁」に慣れた舌には青臭さも感じない。
旨みがあって、かなりイケルと思っている。
今の季節だけの遊び。
葉酸、ビタミン、テアニン、少しはカフェインとカテキン。
ぼくなりに更けゆく春の味わい。

焙じると香ばしくなってお茶らしいが、いまはこちらが気にいってるのだ。

2007年4月30日月曜日

Mind the step


I’ve been taking all the daffodil photos - so I needed a break on the website. This is the inside of the main entrance gate to King’s college, on King’s parade. There is a small door within the larger one - hence “Mind the step”.

面白いですね。
興味深々になりますね、ぼくは。

ステップっていろんな意味になるから
あれこれ想像してしまう。

アリスや兎(懐中時計もったヤツね…)が
潜り抜けて行きそうな…ドア。

なぜドアにもう一つ小さなドアが要るのか?
the main entrance gate to King’s college, on King’s paradeっていうのも気になるところ。

辞書には

mind [watch] one's step

(1)足元に気をつける.

(2)言葉[行い]に気をつける.

と、ふたつ出ている。
ぼくは(2)でMind the step!と言われそう。

ケンブリッジは古くて奥深いのだな、行って見たくなった。

2007年4月27日金曜日

小さな日溜まり


これが青汁の原料で有名?なケールの、その花です。

これは咲いてしまっていますが、花芽は菜の花よりもコクがあり
茹でて三杯酢などで食べるととても美味しいのですよ。
関西風人の好きな「お好み焼き」にもキャベツの変わりに
ケールの葉や茎、花芽を刻んで入れるとお代わりしたくなります♪



今日は小休止のような一日。
会社のデスクの上で新聞からはみ出していたチラシに目が止まった。
         
あれ、これは… 阿修羅じゃないか、興福寺の。
見たことないでしょう? この角度の写真。
ぼくは、中学生の頃、このような角度も含めて、
じっくり見せて戴いた。

中学校には美術鑑賞クラブという鑑賞専門のクラブがあり
ぼくは部員だった。かなり高度な?鑑賞力のある先輩が多かった。
部誌に『四天王寺再建非再建論争を論ず』なんて書いている人もいたし。ぼくもボリンガーの「抽象と感情移入」などを読んで、分からぬままで議論に首をつっこむ真似などをしていた。

顧問の先生が足立という京都美術大学(現京都芸大)卒の方で
情熱的な先生だった。(今もお元気だ)
終いには先輩たちは脱乾漆法の高30センチほどの仏像を造り始めた。
       
部室には日本の古典書籍が揃っていた。初めて日本書紀や続日本紀を原文の漢文で「見た」のもこの部室だった。

先生の伝で法華寺や秋篠寺や当麻寺はじめ、たくさんの寺を回った。
住職たちはみな優しくしてくださり、部屋へ上げていただいて絵巻物を拝見できたり、本堂の中を「懐中電灯」で仏様のお顔をじっくり観察?させてもらえたり、今思えばのんびりした時代。
国宝の仏に触らせてくれたのだから…考えられないね。
         
そして大好きになった浄瑠璃寺の建物と仏たちの傍へ縁あって棲む事ができている。人生七曲しても生きていればお日様のあたる道にもでるもの。


22日まで、ボランティアしてました。春の不調を堪えながらがんばってました(^^;)
合併にともなう市長選挙と市会議員選挙。
ぼくらの地域は新市の周辺部になるから、予算がしっかり公平に使われるかは大問題。
だからみんなが分かっていても発言を怯えている同和予算の組み方などではっきりものを言ってきた議員に市会へ出てもらうため、思い切って応援を買って出た。

50人いた議員が26人に減る。35人立候補で9人落ちる。数十票から数票で当落が分かれるだろうという激戦だった。
村というものは保守的で、区長会という行政の代行事務もする半ばは公的な自治機関で特定候補を地域代表に推薦を決定するようなことをするのだ。(厳密に言えば公選法違反じゃないのかな)

だから住民になって十数年過ぎたぼくは、もう村人だから、
あえて他の候補を推して選挙の活動で働きかけるのは勇気がいるのだ。
         

それでも事実は雄弁で、何人かは地域の代表は君の推す候補がいい、票を入れるよと言ってくれた。
他の地域にも選挙カーの運転手で入ったが、個人的にはおじいさんやおばあさんが手を振ってくれたり、家の物陰から小さく手を振ってくれたり、次第に空気が変わっていくのを感じた。

政策をきちんと言う選挙をする候補だったからだ。コミュニティーバスの本数の増加(JR駅前行きだけでなく市役所、病院への路線を追加させる)と料金の引き下げ(旧町内は他町のより高い)をするなど。

全体としては投票日前は落ちるかもしれない、というほどの気持ちにさせられた。
他候補が「あそこは大丈夫、だからうちへ票を」と大宣伝を掛けていたからだ。いわゆる『大丈夫論』が広がったのだった。
最後はこれだけがんばったんだから、悪いはずがない…という精神主義になった。自分でも自分が可笑しくて笑った。

市長選挙では、合併の推進の中心だった前町長が市長に決まった。
だが住民投票条例を作って合併の是非を問えと集めた1万を越える捺印署名と同数の票を市民派市長候補が集めた。批判票は厳然とあることを示した。

開票が大幅に遅れ、市会候補の結果が確定したのは午前三時半。

ぼくは選挙事務所で待ちながらこっくりこっくり。我慢できない眠さだった(笑)PCでNHKのインターネット用速報をモニターしていたのに。待ちくたびれた耳に突然電話が鳴り響き、開票所から結果が届いて、目が覚めた。

ぼくが推したのは共産党の4候補。
町政で一番しっかりやっていたからだ。
今便りになるのは地方政治ではここしかないな、と結論しての選択だった。勇気も要ったけれど。

予想外の結果がでたのだった。
4人の候補者のうち一人は第二位の高位当選。
ぼくの地域の女性候補も十一番目という成績。ヨカッタ!!
後の二人もは19,22番目となった。
当落ぎりぎりはいなかったのだ。
町政時代何かと言うとぼくの推した候補(町会議員だった)に辛く当たっていた女性候補(前町会議員)は落選。(^^)

で、お定まりの「ばんざ~い」「ばんざ~い」
気持ちよかったぁ! 
議員さんにはその朝から仕事が待っていた…
疲れを取り、エンジン全開でいけるコンディションを作ってね。
先は長い、仕事も多い。身体に気をつけてね。
そう思い小さな身体の、女性議員になった彼女に感謝したぼくでした。

さあ、日常に戻ってがんばろう。
今日はこうして日溜まりのような一日をもらったのだから。