2008年9月17日水曜日

京都の町を歩いてきました

 10日に京へ出かけました。
久しぶりに二人での遠出です。

植物園に開園時間ちょうどに着きましたが、駐車場のどこに止めるかでちょっと思案して時間を使いました。この日はよく晴れて、暑くなりそうだったので日陰になる場所を確保しました。

昼からの予定のうち一番楽しみなのは、画廊「ヒル・ゲート」の企画展。
それまで、まず植物園でゆっくり歩き、体をほぐすつもりです。
いま走れと言われたら、嫌だ。と言うでしょう。
この夏の消耗はまだどこかに残っている感じがある。
ゆっくりでいい。今日は散歩気分でうろつくのです。

温室の建物の中へ入っていく。(200円払う)














これは係りのひとが落ちたのを集めて水盤に入れて訪れた者に見てもらえるようにして通路の傍らに置いてあるものです。志が感じられる。これが此処の特質だ。気持ちが明るくなる。
ここはじっとりと汗ばんだけれど気持ちよく歩けた。

持ってきたカメラには通販で手に入れたばかりの中古品のマクロレンズを付けた。
杖代わりの一脚をネジ込んでカメラを固定し花を写してみた。
ぼくのよく震える腕も少しは固定されてくれたか、以前よりアップが上手く写せるみたいで嬉しくなった。














例によってGoogleのWebPicasaで
大きいサイズのスライドショウを見るには
URL: http://gataro.co.cc/shokubutuen.html を
クリックしてください。
















































































2008年8月6日水曜日

今日は8月6日 

1997年の8月の広島平和記念公園





去年の子供たちの平和宣言もあった。
8月だけではない内容だから
夏だけの思想にはしたくないものだが。






今日の広島2008平和記念式典のストリーミングもある。
時間帯限定で流れるらしい。
http://www.stickam.jp/profile/hiroshima2008
7:45~9:00の間がライブらしい。
保存された動画はいくつかに分割されているようだ。

2008年8月1日金曜日

思い出というには昏い記憶だけれど

もう三十年を越えてしまった
長い時間の向こうに君はいる
思いっきり童顔の娘顔のままで
こちらはあっという間に老いさらばえたが
君は相も変らぬくぐもった声で挨拶をよこすのか。
熱帯夜の続いたやり過ごしにくいこの季節に
どうしても君を呼び出してしまうぼくだ。

君の親友だった河野裕子に
どんなに冷たいまなざしで
ぼくは詰られたことか。

それは彼女にとって君が
友人以上の存在だったことを
示していたから、
返す言葉は何もなかったさ。

彼女の歌集を開くと
あのころの青春の色も形も
そこにある。

特にあのころ出したばかりの歌集
『森のように獣のやうに』には
君たちの匂いが立ち込めているみたいだ。
とりわけ次の作などに印象が深い。


逆立ちしておまへがおれを眺めてた
           たつた一度きりのあの夏のこと



真昼間のまばゆき闇の彼方より
            天打ち返し郭公鳴ける



いまだ暗き夏の真昼を耳閉ざし
            魚のごとくに漂ひゐたり



振り向けば喪ひしものばかりなり 
            茜おもたく空みたしゆく



横たはる獣のごとき地の熱に
            耳あててゐたり陽がおちるまで



あはれ常に鏡の裡よりのぞきゐる
            暗く澄みたるひとつの顔あり



森のやうに獣のやうにわれは生く
            群青の空耳研ぐばかり



命日を挟んで数日は
ぼくは眠れない夜を過ごすだろう
老いを自覚せざるを得ない身にも
夜明けまで
ただただ思うだけの時間もある
明けやすい季節だから
苦痛ではない
まして
かつて愛した者への問い…
いやいや、問うているのは
あちらなのだが


(次に置くのは 拙い詩だが 
 ぼくの夜の幻想みたいなものだ)




夢幻の球のなかで
      ―亡妻幻影―



どれほどの量で
愛していた
と言うのか

どんな仕方で
愛していた
と言うのか
君を

失ったあとでは
それは
もう不確かで
わらわらと崩れ
溶けてゆく
石鹸と同じ

悲しみより
大きい
喪失があり
道は
消えていた
そこから先には
君も
ぼくも
居ない
世界が見えた

八月の
大都市で
時間が
氷結した

愛なんぞ
最初っから
無かったんだ
ぼくは
幻覚から
覚めようと
自分を掻き毟り

不眠の赤錆を
ぼろぼろ
溢している
輪郭のない
影であった

後何分早く
着いていれば
救急車は
「間に合った」のか
何故あの時
あのことに
気付かなかったのか
とか思う

もしも もしも
ならば ならば ならば

自分を狙撃する
無数の弾丸に
自分から
身を投げても

流れない
夜の川が
果てしなく
夏の日々を
延びていただけ

あの八月

三十年過ぎても
今も
体の中に潜み
眠るぼくの夢を
囲み縁どる
夏の闇

輝きと
沈黙とは
いつでも
ふたつとも
君のもので

物食う音に
似た
ぼくの呻きと
乾き崩れた
悔恨の
歯ぎしりの
鉛色とは

紛れもなく
やはり
ぼくのものだ

いのちの季節
八月に
死と
永訣を
学んだ
ぼくと君とが

いまは
ひとつ
小さな球になり
転がって
映し出す
今夜の
このときの
沈黙と
輝く闇

深夜
やって来て
ぼくに
煙草を
吹きかけて
君が
笑うのだ

あのころの
童顔の残る
表情のままで

僕の背後で
ぱしゃりと
一匹の
アマゴが
跳ねた

君は口に
毟りとった
栢の実を
含んで
ふっ
と吐いた

夜明けまで
このまま

立ち昇るまま
煙のまま

球体のまま
ぼくらのままで

三十年の
隔たりのままで

来るはずのない
「二人の朝」まで

……

2008年7月30日水曜日

夏の気配のしていた頃

初夏の印象から
少し前にはもうじき夏だと
楽しみにしていたが
この暑さと異常な集中豪雨

すっかり
夏の季候の被害者の気分だが
季節の移ろいに咎はない。

picasaに上げておいた
初夏のスナップを見てみた。
まだ使いこなせていないが
あのころはもっと
よく分かっていないままで
試しにシャッター切っていたのが
よく分かる。

そしてそれでもと言うみたいに
そこにも季節は映り込んでいるのだった。











2008年7月26日土曜日

ちょっと旅気分。 リスボンへ…


暑いと気をそらしたくなる。
エアコンはコンセントから外してあり(スイッチを無意識に入れないように)
もはら扇風機をたまに回す。体を馴らし運転しているのだ。
まだまだ暑くなりそうだし。

涼しい体験の想い出をまさぐると、
かっと暑いマドリードから到着した
リスボンの街を吹いていた風。
気持ち良かったな。
気温が低いわけじゃないが
湿った海風だったのか、
気持ちがほっとした記憶。

ひと夜だけの滞在だったが、思い出にくっきり刻まれた旅。
だらだらと皆で登って行ったアルファマの街角。
誇り高さと貧しさと希望と悔恨が入り混じったような
深い深い目の色の年配の女が歌う
FADOの哀しい調べ。
へんな味のワイン。
小さな足の小さな靴。

サラザール独裁があっけなく崩壊したのは
完璧な計画どうりのクーデタと民衆の支持だった。

戒厳の兵士の銃口にひとつひとつ娘たちが差していった赤いバラ。
それを新聞は「薔薇の革命」と名付けた。1974年のこと。




それから3年、
次々独立する旧植民地から引き揚げる無一文の入植者たちで
失業者があふれ、民主化が作り出したのは貧困かと言われ始めていた。

広場はそうした人々が持ち物を売る違法な露店でいっぱいだった。
当時西ヨーロッパ一「戦闘的」といわれた共産党が新聞を売っている横で
ぼくは「アルプスの少女ハイジ」のポルトガル語版の絵本を買った。
(家族が読んだ古 本なのだ.)

ついでにその「戦闘的な新聞」も買った。
一面には米軍はベトナムから引き上げよ(と書いてあるらしい)
と見出しが躍っている。
当時はヨーロッ パではどこでも見られたスローガンだった。
やがて最大時60万人居た米兵は一人もベトナムからいなくなった。
翌年サイゴンが解放されたのは4月30日だっ た。

日本はベトナム景気で潤い海外旅行はどんどん行きやすくなり、
ぼくでも出かけられたのであるから、皮肉なことだが。

思い出せないのが
そのとき何を食べたのか
と言うこと。ぼくらしいわい。

で、ネットでリスボンをキーに
あちらこちら覗き見していて見つけたブログ。

「りすぼんうまいもの日記」
http://lisboeta.exblog.jp/

これは<みっけもん>
住んで働いているが故の
プラス
主婦の観察眼故の
面白さがある。

何食べたのか-追跡はどこへやら
読みふける。

文章が上手い。
ウイットやユーモアも利いている。
他者への想像力もある。
開高建ばりの文体に近づいている箇所もあるな。
美味なコラムみたいに読める。

マークして時々見に行こう。
このわたし本人はいま
淡白に素麺をすすっております(笑)

リスボンの夜景、夜風、物の匂い。
流れていく記憶の情景。
その流れていく感じ
ちょっと涼感に似てるかな。
風鈴みたいな。

これもひとつの削夏法。
じぶんでそよそよ。

  

2008年7月22日火曜日

暑さのなか堪えている-人も草木も虫も-


 
雷一つ屋根越しに蝶庭へ落つ  蛙逝
(らいひとつ やねごしにちょう にわへおつ   あせい)


<夏の日の良さと辛さと我に在りて、
 ふたつながらに我を捨て置く
 暑さのままに。>

羽虫が空中でいっぱい
飛びかってる。
雨が近いのか。

蜘蛛は中空に糸を飛ばし
住い替えの支度を試みる。

無心というなら
この風景こそ無心。

自分の内なる
扉が開いたので
風を入れる気で
家の窓も
開け放つ。

熱気と虫と草いきれが
部屋に入ってくる。

いのちの
おおきな流体が
流れ込む。

飛び込んできて
あわただしく出て行った
蝶を
目で追いながら

人間と言うものは
なんて孤独なんだろう

物言わず飛びまわる
虫たちのなんという
華やかな
賑わいだ

人は饒舌なだけ
孤独の影は
色濃いのだ
と思った。


雷が遠くで鳴った。
屋根から飛び降りるかのように
下ってきた蝶が稲妻に見えた。

2008年7月15日火曜日

暑い夏日が続き始めると思うことが増える

暑い。

もうすぐ八月だ。
熱帯夜の夏日は心身ともにつらいが
どこかで暑さを頼っている自分がいる。

今日、またしても調べもののついでに読んでしまった
あるサイトの記事。

『徒然はるかさん』(リンク)というサイトの筆者による
映画を見ての感想文だが
現実の歴史の断片がくっきりとかいまみえた。

世代を越えて流れる
地下水脈があることがわかる。

歴史と言う記憶は
このようなものを含んで成り立っているのだ。

一部の引用では全体の印象が伝えきれない
それで文章の紹介は控えるので
ぜひ見に行って読んでもらいたい。

特別に新しいことが書かれてあるわけではない。
しかし祖父から孫へ伝えられた言葉と
それを受け止めた孫の感銘が伝わる文章だ。

文章が熱を持っているように感じられるのは
高知人の熱血と言うわけではないだろう。
誰でもがそうあってしかるべしなのだと思う。

題して
南の島(リンク)- 日本人が眠る平和な海岸 -


一人でも多くの日本の若者にこういう実際の体験が伝わってほしい。
今なおニューギニアの山中には打ち捨てられたままの
若い日本兵たちの白骨が眠っているのだから。

  

2008年7月10日木曜日

エーゲ海にあるCAMで夕日など眺める



エーゲ海のサントリーニ島は
プラトンが描いた一夜で沈んだ古代文明都市
アトランティスのモデルだったと言われている。
火山島で内湾は噴火口の周辺なのだが
観光地であるのでCAMがありHPでその日の
海の風景が見られる。
日替わりのエーゲ海。
葡萄酒色の朝の海が見えるかな。

見つけたのは次のWebサイトだ。
http://www.santorini.net/home.html




2008年7月9日水曜日

tahoe湖でキャンプしていたらクマさんお出まし

アメリカの写真サイトを物色してたら
(無料のが多いからどんなものかと見学に)
動画もあって

 BEAR ATTACK IN MY CAMPSITE

とあるので見てみるとホントにクマさんだ。



場所はカリフォルニア州のタホ湖のようだ。

まだ成獣じゃないような気がするが
撮影者は女性で
よく冷静に撮影してると感心した。

日本でもありそうな「事件」なので
貼り付けさせてもらうことにした。

2008年7月8日火曜日

ちょっとしたことだけど気がつきにくい

ちょっとしたことだけど気がつきにくい、
そんなことがよくある。

釣り愛好家が(SNSでの知人)Blogを
更新したのに気付いて拝見に行った。

Picasaのスライドショーを使って
海の写真をブログに貼り込んでいる。

ここでも山の写真をスライドにしている。
このやり方は簡単だけど

PicasaWebの場合は
ちょっと分かりにくいのだ。

Picasawebのアルバムを開き
左のオプションを見ても
リンクというURLをコピーする
選択肢はあるがスライドはない。


実はこのとき
Googleのアカウントで
表示が英語モードになっていないと
スライドショーがという
選択が出ないのだ。




英語表示にセットするには
上端の「設定」をクリックして
言語の設定の所を英語にしなくてはならない。





これでスライドショーが左に選択肢で表示される。




左の選択肢




それをクリックすると
今選択されているアルバムのスライドショーの
emned埋め込み形式でコードが表示され
表示画面サイズの選択などもできる。




これをコピーしてBlogやHPに貼り付けれわけだ。

書くと複雑みたいだが
やればあっけないこと、
簡単なのだ。

picasawebはシンプルなのが良さになっている。
flickr.comやslid.comを使ってきたが
picasaと連動してPicasawebを使いこなすのも
悪くない選択に思える。

2008年7月3日木曜日

野生の鹿は尻毛の白色がきれいだった                        大台ケ原紀行
















今回は友人が夫婦で来て4人組になった。

















熊もいるわけだ。鈴がいるんだけどな、昼間だし、まぁ良いんだろ。














 


大台ケ原というと

倒木と苔

早速朽ちて苔むした老木の残骸が
僕らを見送っているのに気がついた。

さぁ始まったネイチャートレック

わくわくしてきたぞ。







Posted by Picasa


クリックすると大きなサイズのスライドを見ることができます。

2008年6月27日金曜日

牧野富太郎作の植物採集行進 

2006.11.11 記のバックアップ


MOさんのホームページ渡瀬遊水池の植物に面白いものが出ています。

ここから引用○

牧野富太郎博士が明治44年に創立した東京植物同好会に植物採集行進曲というものがあったので 面白いからご紹介しておきましょう。その時代を反映してはいますが今も昔も同じ心を持った人たちの集まりだと感じます 
植物採集行進曲
                    東京植物同好会

根堀り片手に胴乱下げて
今日は楽しい採集よ
採った千種(ちぐさ)の優しい花も
やがて知識の実を結ぶ

国の為なら草木も採れよ
君は一本僕二本
つもりつもっておし葉の山が
末は御国を輝かす

異国に誇る草木の数よ
すべて知らねば国の恥
心一つに力を合わせ
調べ上げましょ我がフロラ

多き草木を原料(もとで)に使い
産業工業盛んに起こし
民の暮らしを一層善くし
国の富をも殖やしましょ

草木(くさき)可愛いの心をひろめ
愛し合いましょ吾等同士(どし)
思い遣(や)りさえこの世にあらば
世界(せか)や平和で万々歳
        (関本平八 1941 『栃木県植物総覧』から引用)

○ ここまで引用

ね、面白いでしょう。
おじさんたちが会でそろって歌ってる姿想像できてしまうおもしろさ。

植物採集に行進曲があったことが、面白いのに加えて、
明治44年という殖産興業、富国強兵の時代の息吹が反映して勇ましい感じがあるし、
でも、最後に歌われているのは、
やっぱり『愛と平和』。
草木を愛する人々の平和な世界的連帯なんだという、おもしろさ。

そう思いませんか?

SNS的スピリットのルーツのひとつは

『人と事物への愛』(物欲じゃなく!)

と改めて感じます。

 
                                      

2008年6月20日金曜日

三人で二上山へのぼった。再登は何年ぶりか…


歩きながら「風の王国」のシーンが影絵のように見えてきたひと時。



【画面をクリックするとPicasaのWebアルバム画面になり大きなサイズ画像でみられます】

 飛ぶ鳥のように雄岳から雌岳へ登って行く一群の者たちのシルエットを追うYohでありました。

2008年6月19日木曜日

飛行石が有ったら買いますか?

2006.11.15 09:38 これはあるSNSで書いていたもののバックアップです。

天空の城ラピュタに出てくる
舞台回しのあの素敵な石。飛行石。

飛行石がもし誰かの手にあったとする
あなたは買いますか
買って飛んでみます?

ふと、そう思いました。
---- 書きかけたらコメントがいっぱい。ありがとう。


うふふ、思った通りのコメント、みなさんありがとう。

もし「飛行石を売ってあげる」
と言われたら

「欲しい」

ですよね。


問題は、

お金で買った場合でも
飛行石はちゃんと飛んでくれるのだろうか?
という疑問を、みんなが持つかどうか。

だったんです、
ふと思ったという、その中味は。


昔話の『夕鶴』の主人公、与兵衛のように、
黄金の「買う力」を持ってしまった者には、
もう「つう」の純粋な心が見えない。

そのような変化が、
買った者と飛行石の間に
起こることはないのだろうか?

『天空の城ラピュタ』では、
そこまでは語られていないが。

洞窟の中のシーンで
それが暗示されていたように、ぼくは感じる。

だって、洞窟では
 『人に感応する石たち』のさざめきがあったから。

 
 交換という行為。
 『物を物として扱う』行為を通しても、

 石のもつ神秘な力は手に入ると、
 今時の人間、
 ぼくらは無反省に思ってしまうけれど。

 石に込められた力は、
 石をもつ者の人格的な質が鍵となって

 パワーを発現する、
 
 そういうものじゃないのかなぁ。


 だから、飛べるのかな?
 と、思うのだった。


 石が歌う、
 或いは石が突然輝く、
 まるで意思が有るように

 でもそれは
 そこに無媒介でヒトがいるから。

 いなければ石は寡黙なままだろう。

 人と人が惹かれ合うように、
 石とヒトも響き会う。

 人がもつ善なる要素に感じて
 石は浮上し
 石は歌うに違いないと…

 

-追記-
飛行石の写真を見つけました(笑)
 掲載されてる写真をクリックすると
 拡大で見られます。

 記事も読んであげて、
 ちょっと不思議ですから。


2008年6月14日土曜日

???D灰って何???













http://www.dgray-man.com/


とほっ D灰って何よ…

CURURUで最初のコメント入れてくれたのが㊥2の女の子。
中二だよ(孫がいたらこれくらいかも)

で、その子のブログ見に行ったら、
言語学的混乱に陥った(笑)

D灰がどうたらこうたら…(目がテンだ)

だいぶ考えあぐね時間が経ってから
諦めて試しにググッたら(Google)出てきた(!)

普通名詞じゃないかっーAhh。
結局は
D Gray man 
というアニメの略語なんだね。

D+灰(グレイ)な訳か。

でもYohのちょっと好きな世界じゃないか。
エクソシストがうようよいたりして…

好奇心を失わないのが老人力の源、と
D灰くらいにたじろがないたじろがない。

 ふ。

 

ぼくのYoutubeでのお気に入りの一つ


ぼくのYoutubeでのお気に入りの一つです。
日本語もできる英語もできるという彼女は
やわらかくて優しい気持ち
オープンマインドの持ち主。

見ているとYohにはためになることの多い
自作ビデオがあります。
彼女のページは
http://jp.youtube.com/user/mvoir33
です。



この動画は彼女が日本の手話を覚えて
手話で語っているわけです。
で、よその国の人にも日本の手話を覚えてもらえば
皆で話し合えるから教えたいんだって。

面白い発想です。

行き帰りに散策する興福寺で

若い時は
鹿などに興味はなかった。

それがどうだ。

気づくと佇んで観察している自分がいる。














若い雄鹿の美しい角に見とれる。
なかなかハンサムじゃないか。


足元には松笠がたくさん落ちている。












芝の上は
他にも落し物は多い。


勿論。











鹿の糞(フン)です(笑)


しとしと芝を濡らしていく通り雨も
奈良には似つかわしい落し物であるかも。

わたくしYohもたいてい何か落し物していきます。

長いあと引く溜息とか
びっくりマークとか
今日はたっぷり聴かせてもらった
ショクニホンギの第十五巻の数条から
生まれ落ちたため息やビックリさんたちである。

地下にある近鉄奈良駅に隣りするスターバックスで
安コーヒを飲みマッフィンを頬張って
帰る道すがら週に一度の短い幸福が
足取りを軽くしてくれる。

公園の鹿たちのまなざしも
澄んできれいに見える気がするのは
気の所為でしかないだろうが。

あとはどれかの店によって
カミサンの「おかき」を
購って帰るだけという安心感…

若い人たちには気付きにくい
ちいさな安らぎだ。

2008年5月28日水曜日

予告編見たが 良さそうだね

<いいもの観たい>

「西の魔女が死んだ」





「ぐるりのこと」


上映場所
http://www.gururinokoto.jp/theaters/


どちらも「トラウマ」や「こころの深層」のことが背景にあって生きるってことを真面目に切なく考えさせてくれるものだろうと予想している。

とくに「ぐるりのこと」は身につまされる予感がある。

美術を学んで、でも美術家ではない生き方を選んで…
夫婦に降りかかるありふれただが深刻な葛藤…
心の闇、それを見守るほかない夫…

自分の人生に重ねてみるだろうなと、思っている。少しためらったがやっぱり見に行こう。

同時に見れるのは上映日程から21日だけ。
もしだめなら「ぐるりのこと」を選ぼうかなとおもう。

 

これから読みたい2冊の本 自分用覚え



かはたれ―散在ガ池の河童猫 (福音館創作童話シリーズ) (単行本)

朽木 祥 (著), 山内 ふじ江 

価格: ¥ 1,575 (税込)
内容(「MARC」データベースより)
河童のこどもがやってきた。小さな猫に姿を変えて…。かはたれ、それは魔法の解ける時間。今まで見えなかったものが見えてくる。心の問題を抱える少女・麻と、河童のこども・八寸との、ユーモアと感動に満ちたファンタジー。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
朽木 祥
1957年、広島市に生まれる。被爆二世。上智大学大学院博士前期課程修了。
2002年より児童文学の創作を始める

山内 ふじ江
1946年、栃木県に生まれる。東京芸術大学油絵科卒業


ユウキ (福音館創作童話シリーズ) (単行本)
伊藤 遊 (著), 上出 慎也

価格: ¥ 1,365 (税込)

内容(「MARC」データベースより)
転校生の名前は、いつも「ユウキ」。祐基、悠樹、勇毅…、思い出と痛みを残して去っていった転校生たち。そして今、ケイタの目の前に、長い髪をしたひとりの女の子が現われた…。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
伊藤 遊
1959年生まれ。京都市出身。立命館大学文学部史学科卒業。96年、はじめての長編「なるかみ」が、児童文学ファンタジー大賞・佳作を受賞、97年には「鬼の橋」で同大賞を受賞。これまでの刊行作品に、『鬼の橋』(98年、福音館書店/産経児童出版文化賞・推薦)、『えんの松原』(2001年、同/産経児童出版文化賞および日本児童文学者協会新人賞)がある。札幌市在住

上出 慎也
1963年生まれ。石川県出身。金沢美術工芸大学美術学科卒業、同大学院美術工芸研究科修了。高校時代、8ミリ映画制作(クレイアニメ)に没頭。その後油絵を始め、画家・鴨居玲に傾倒する。大学院修了後、都市計画関連の会社で、都市景観やまちづくり業務に十二年間従事した。現在、フリーのイラストレーター、画家として、絵本・イラストレーション制作を中心に活動。石川県在住

2008年5月27日火曜日

大阪人もあまり知らないが河内は


『悪名』シリーズは今でもビデオで見られます…


 大阪人でもあまり知らないが
河内は古代日本の先進地域だった。

 五世紀の「河内政権」説はさておいて、
推古朝以降の時代からそれは著しいものがあった。

 今では「かわち」というだけで、映画『悪名』での
勝新太郎と田宮二郎の「悪口と喧嘩」のイメージが
後をひいてか、「がらのわるさ」が強調されている。
 
 実際、近世以降の河内は木綿栽培をバネにして
活発な商品化経済が起こった。
その土地の元気と活力が独特の土地柄、気風を生んだのも確か。
 
 その一面は「八尾の朝吉」という(実在のモデルもあった)
河内のやんちゃな男衆のイメージの基となった。
それは小説家今東光氏の筆の冴えがあったからだ。
だが、一面が誇張されたのも事実。

  どんよりと変化のない農村ではなく
目端の利く、利にさとく、機転の利く
商い感覚をもった農村人、
河内の男達はみな「頼もしい」「頭の切れが良い」
近代的なセンスを持った大阪人の源流のひとつなのだ。

 それはとおく万葉時代、それより古くからの
この土地の先進的気風につながっている。

 聖武天皇の時代には天皇が国政の難局を乗り切る方策として
東大寺造営をもって国家鎮護を祈るという一大プロジェクトが興された。

 仏教の裾野の広がり無しに、古代日本のこの時期を解釈できない。
大仏造営に協力した僧行基(渡来人の子孫で、菩薩といわれた)と
巨大な信者集団が果たした役割は大きかった。

 プロジェクトのリソースは河内からも出ている。
河内や和泉に広がる渡来人系、在地豪族系の仏教寺院や
その文化、生産力(技術者)の物心両面の協力なしには
大仏は完成しなかった。

 「悪名」がでたついでになるが、古代史の断片。
「悪僧」の代表は戦前は、(今もか)
弓削道鏡という人物。河内で現在の八尾市の人。

 称徳女帝を色仕掛けで籠絡し、国政を曲げ、帝位を窺った悪人-
ということになっている。
だが、称徳女帝の病を癒やした天分に充ちたヒーラーであった。
だから彼女は彼を熱愛する。そのために確かにもう少しで
古代国家の王権は僧侶が簒奪することになりかけただろう。

 これは「皇親による継承」という古代天皇制の逸脱となる。
それで、クーデター的に道鏡は失脚していくのだった。

 だが熱愛の二人が、河内の道鏡の郷で行宮(あんぐう)を
営んだころの段階でとどまって、我慢していれば、
どういう展開になったか。

 河内は1960年代までは見通し遙かに水田や畑の続く平野だった。

 だが遙か古代の河内は、寺院が建ち、
川には美しい大陸風の丹塗りの赤い橋が架けられ、
采女風の装束で豪族の娘たちが渡っていく風景がみられたのだ。

  しなてるや 片足羽(カタシハ)川の さ丹(ニ)塗りの
  大橋の上ゆ  紅(クレナヰ)の 赤裳(モ)裾引き
  山藍もち 摺れる衣(キヌ)着て ただひとり
  い渡らす児は 若草の 夫(ツマ)かあるらむ
   橿(カシ)の実のひとりか寝(ヌ)らむ 問はまくの 欲しき
  我妹(ワギモ)が 家の知らなく

              万葉集 巻9-1742 高橋虫麻呂歌

  反歌
  大橋の頭(つめ)に家あらばま悲しく独りゆく子に宿貸さましを
 
               同   巻9-1743 高橋虫麻呂歌
 
 纐纈(コウケチ)染めという古代染色技法があった。
 それは河内の在の渡来系の技術で、
 纐纈(こうけつ)姓の方がいまでもいるのは、
 一族の専門職をその姓としたからだ。

 いま高安の里の高みからながめると、大阪城を取り巻く高層ビル群が
近代的群像となって、霞んで見えている。

 古代の人々は逆に、難波津に船泊りするとき、
遠くに寺院の塔や大屋根が夕陽に輝いているのを見た。

 生駒山の下に広がる河内の風景に、古代都市的風貌を感じて、
もうすぐ都に入れると胸を躍らせたに違いない。

2006.11.18 記

米寿の祝いって…、実は本人主役の踊りの会



 25日は大阪市内のさる老舗の料亭で母の米寿祝い。

 何度目の復活劇なのか。
 「お産以外寝込んだことがない」という女の健康さの喩えを地で行く母だったが

 最初は大腸がんで手術。はじめは家から出かけなくなるほどの打撃だったようだ。
 が、気を取り直すと積極的に行動に出始め、以前通りの人づきあい、習い事。

 二度目は大腿部骨折で骨頭壊死で人工の関節に。
 が、またも目標を人に言わずにリハビリに邁進。
 一年後に踊りの会で復活を披露した。

 三度目は家族ももうだめかと覚悟したほどの病気。悪性リンパ腫。
 しかし、タイプが治療実績の上がりやすいタイプだったから薬などがよく効き、
 医師の手際の良いチームワークで「事務的」なくらいスムースに退院。

 以来ぼちぼちと稽古しているのは気付いてはいたが。
 「やる」というのを「やめとけ」とは言えないよね。
 転ばないでくれ、と祈るような気持ちだったが、
 畏るべし88歳というほかない。やってのけたよ。

 MICHIKOさん(86歳)といい母といい、年寄りが元気だ。

無心ということ

無心とは「心無き」こと

無心にあそぶ子どもたちという表現が、
無心の意味をよく表している。

心無い仕業ともいう。「酷い」仕打ちのことだろう。

『心』が無いとは、では一体どういうことか?

人としての資質を、世間知を、他者への思慮を、備えている。
「分け知り」顔というときの、「分別」をもつこと。
「情を通じ」というときの、「なさけ」「男女の機微」「人情」を知ること。
それが「有心(うしん)」心あり、だろう。

「こころありげな」風情とは靡いてくれそうな予感ということであろうか。

どれもこれも、実はあまり、ぼくには縁がない。

やはり、ぼくは心無いヤツ、{非情}なんだろうか。

無心は、けれど自由と言うことだ。
西行法師はよく「こころなき身」と歌っている。

法師、出家は脱世間だから、
世間知を捨て、恋情を捨て、父子の恩愛を捨てて、旅立つ者。

出世間こそ「こころなき身」、その心情は、こころでないこころ。
そこに自由な感情の生成という逆説的な情感があふれ出る。

「いのちなりけり」と日々を実感して生きる喜びの歌が生じる。

それは「仏心(ぶっしん)」ほとけごころの歌といってよいはずだ。

「いのちの喜び」の歌をさがして、旅し歩き続けた西行に「学ねび」て、
ぼくも歌心もって、生きてゆこう、あとすこしの道のりを…



ところで…
お金をちょうだい、と言うのを
「無心する」と言ったんじゃなかったか?
あれは何故、「無心」なんだ?
 
檀家に無心する、無心な僧侶?(笑)
 
                        2006.11.10 記

 

2008年5月24日土曜日

資本主義の限界を越える道を探究する政治家              

5月18日 サンデープロジェクト   



其の一 読み継がれるわけ<「蟹工船」小林多喜二>


其の二


其の三



サンデープロジェクトがこういう取り上げ方をするのは異例だ。
どういう風の吹きまわしか?
でも見そびれたのでYoutubeで見るということができるのは便利なんだが…
放送権は侵害していることになるのだろうな。

秩父市(旧荒川村)にお住まいの田中美智子さんは元国会議員。
革新共同で衆議院で活動されていたが今86才。
元気にブログ「自然と猫と私」を日々綴っておられるが、
この番組の感想を書いた記事があった。引用させてもらおうっと。
ご自分で撮影の花の写真がいい。
デジカメも使いこなせるとは恐るべし86歳。

<<  昨日の10チャンネル、志位さんが主役で出演した。時代が変わったと感じた。田原総一郎氏が、「資本主義はもう限界にきていますか?」なんて質問するんだから。志位さん、ながながと主演したねえ。わかりやすく、傑作だった。いよいよ共産党の出番だ。思わず拍手!資本主義は競争と利潤追究主義だから、その点では、もう限界。このままでは、貧富の格差は広がるばかりだし、国力もダメになる。経済大国、世界2位、とんでもない。いつの間にか、順位はさがる一方だ。  ラテン中南米の貧困撲滅の政治の流れ、急激な変化には目を見張る。27カ国加入のEUの大きな成果にもおどろくねえ。CO2の抑制は模範的だし、森が増えたなんて聞くと、すごいなあ。見習うべきだ。日本政府は自国の森や山や自然を切り崩して、高速道路やダムにして平気、生活道路はほったらかし、田圃はコメ作っちゃあいけないんだとさ。食糧の自給率は39%に落ちているのに、反省さえない。世界的に食糧がたりなくなっているから、輸入できなければ、どうなる。国民は、貯金のないひとが30%にもなっている。貧困層がどんどん増えて、餓死者が出始めている。 >>

Naseer Shamma - Hilal-alsaba

 ウードという楽器です。イラク人のミュージシャンですが今はエジプトを中心に演奏活動をしているウードの名手だそうです。カイロにいる友人のブログで知りました。なかなかいいものですね、ウードの響きは体に響いてくる感じで。






中村中のコレクション Youtubeから

 中村中というシンガーソングライターのCDは聞くけれど
映像では紅白以来で少し嬉しい見つけものだった。
貼り付けて何度か視聴したい。これは自分用だね。



  友達の詩


  冗談なんかじゃないからネ


  わたしを嘲笑ってよ


  愚痴


  強がり 歌:戸田恵子 feat. 中村中


  ホワイト・クリスマス


  中村中 in 一青窈SPライブ!!

2008年5月22日木曜日

未曾有の災害に声もないが



阪神大震災のとき徒歩で夜通し歩いて豊中から兵庫区の妹夫婦の家まで
辿った道々の光景がよみがえり胸が苦しい。

中国の子供が死ぬ前に書き残した
「お父さんお母さん
すみません。」 というメモが出てきたと聞いて
涙が出て止まらなかった。

できることは少ないが募金などでできるだけのことをしたい。

習いに通い始めたばかりの中国語教室も先生が救援活動に行ったのか
休止になった。この不幸の中で日中の人間的なつながりが作られ
信頼と友情が育まれることを願う。


          

日中双方の「愛国主義」や「ナショナリズム」を抑えて冷静な相互理解を深めることはアジアが共同体を作っていく重要な一歩になる。
災害は後に大変な負担を残す。だから日本の国民は進んで手を差し出して機会を作っていくのがいいと思うのだ。

2008年5月11日日曜日

シンクロニシティーを味わう

kawaraここ暫く何故か精神医学者ユンクのいう「シンクロニシティー」を体験しているみたいな感じがある。

それはどうも勘だけれども旧友たちと比較的頻繁に会うことが増えたことと関連がありそうだ。

この一事からしてもユンクのいうそれが客観的実在性ではなく何か別のもの

人間の行動に影響する心理構造的な背景を示唆している気がする。

比曾寺遺跡に行き当たったのも一種のデジャビュであろう。

今日たまたま葛城山へ登ろうという誘いの電話が入ったが、残念ながら体調が低下中であるのと

月曜日が歴史書講読のサークルの日で外したくない日なので遠慮した。

その電話の時も「あれ」という感じが来た。だって今日読んでいた本の中で

葛城という地域とそこにまつわる歴史的事情を考えていたからだ。

「同期したじゃないか、また」と思えて頭の中に 「!」が立った。

旧友との交流は平板な現在の時間を立体的な流れに戻すこと。

その独特の時間経験がいつもと違う心理状態を現出させていくらしいこと。


たまたま奈良という地域を軸に三人で会ったりすることの影響も微妙に

空間・時間の経験的枠組みを揺らがせていることもありそうだ。


シンクロニシティーの面白さは多分にユンクの名づけの巧さによるし

それに加えて人間にはそういう経験が意外と多発するからだろう。


SNSでの話題として結構もりあがった話題だった記憶もある。

たくさんの人が「そう言えばそんな経験あるよ」と感じるのだ。


でも自分が多く経験してみて、そう不思議なものではないと 思うようになった。

もう少し続いてくれると おもしろい発見があるかもしれないと期待している。


それにしてもちょっと気温の変動が大きいと風邪をひく。もっと体に注意を払うようにしなくては。


    これはZoundryで書きアップロードしたものだ。

    メニューが英語だがまあ使いやすい方だ。出来はいいと思う。





Powered by Zoundry Raven

2008年4月18日金曜日

又兵衛桜は見事なたたずまいだった

          

2008年4月17日木曜日

佛隆寺の桜を見てきました



 吉野の桜を見に走り出したのが平日なのに車の列、列 。

 で橋の手前で左へ折れ突き当たりを右折。
 あれ、比曾寺! 
 前日水野先生が神仏習合時代の寺院の話から廃仏毀釈の話になって
 触れられた寺じゃないか。名前が比曾寺(桧蘇寺とも)と変わった名だったので 覚えていたが此処にあったのか。

 後藤又兵衛の旧宅跡とかいう場所にある又兵衛桜を見てから佛隆寺へ行った。
 この日まで名前は知らなかった。 というか桜狩りの風情を楽しむ習慣がないので有名な桜は知らないのだ(><;)

 山寺でしたが、とても気に入りました。
 桜もですが、山の中腹に鎮まっている古寺の様子に好感が湧いたのだった。
 神仏習合の真言密教系で白岩神社という社が傍にある。その鳥居前に 巨木の切り株があった。終に力尽きた樹を危険なため切り倒したものだろう。 これほどの樹を好んで切るはずはない。惜しい事をしたものだ。

 山門を入ろうとすると赤外線センサーでピロロローンと鳴った。
 山門を入るのに100円入れるよう促されたのだ。
 ミスマッチが可笑しい。

 境内に石碑があり「大和茶発祥伝承地」と刻んである。
 標高はどれくらいか。200メートル以上はあるだろう。
 茶畑にはいい立地ではある。通風もよさそうだ。
 
 この写真スライドは今日初めて知って登録した「フォト蔵」というサイト。
 スライドの写真の右上肩のボックスをクリックするとそのサイトへ飛ぶ。 そこで写真をクリックすると拡大表示も見られ、大中小のサイズでダウンロードもできる。

 1ギガの容量が無料で使えるのは便利だ。友人とのデジカメ写真のやり取りの経由場所にもなるだろう。メールでは少し辛い容量のデータなんだから。 ひとまとめにして一度でアップロードできたのは便利で使いやすさに感心した。
 youtubeなどとはまた一味違うな。

 とりあえず佛隆寺の写真だけアップ。
 又兵衛桜はまた後で。

 

2008年4月11日金曜日

雨天に書を繙き校(かむがへ)る




天平時代の出来事を知ったり覚えても得になるものはない。
昔も今も変わらず争いごとが多いな、とか分かる程度(笑)
しょうもない事と言われても仕方ない。
だが人々は古代史の講演会とか現地見学会とかに
わんさと押しかけている。
いや揶揄してるのではなく、
そのエネルギーの出所がいぶかしいのだ。
何故なんだろう。

歴史はロマンだって言う人が多いけれど、はたしてそうか?
ロマンって言葉の使い方がへんじゃないか。

「単独飛行」氏はロマンは休息であるが時には中毒であると言っている。
ロマンについてのぼくの定義とは異なるが
ロマンを言う人の心情を言い当てている気もする。

脱出と憧れが衝動になり、ついには中毒に至る。
それも情熱のかたちだから、とやかくは言えない。

でも五月蠅いのだけは勘弁してほしい。
講演などはおとなしく聴こうや、
と言いたい。



巻十四。天平十三年。
夏四月辛丑。遣従四位上巨勢朝臣奈弖麻呂従四位下藤原朝臣仲麻呂従五位下民忌寸大楫外従五位下陽候史眞身等撿挍河内与攝津相爭河堤所。

五月乙卯。天皇幸河南観挍獵。

夏、四月辛丑(かのとうし)。従四位上ノ巨勢朝臣(こせのあそん)奈弖麻呂(なてまろ)、従四位下ノ藤原朝臣仲麻呂(なかまろ)、従五位下ノ民忌寸(たみのいみき)大楫(おおかじ)、外従五位下ノ陽候史(やこのふひと)眞身(まみ)等ヲ遣リテ、河内ト攝津ノ河堤(かわのつつみ)ヲ相ヒ爭フ所ヲ撿挍(しらべただ)セシム。

五月乙卯(きのとう)。天皇河南ニ幸シテ挍獵ヲ観(みそなは)ス。

天平十三年は九年の疫病の大流行、恭仁京遷都の計画の進行、広嗣の乱、その最中の天皇の長期行幸など、波乱に富んだ出来事の後、比較的穏やかに新都造営が進んでいるように見える日々だ。

先生が居て即いて読んで行けるのはありがたいことだ。
例えば、
通常は続日本紀は年始めの朝儀の記事は記さないのだ。通例が通例通りでなかったら廃朝と記すのだ。書いてなければ元日の朝儀は行われている。といった指摘。普通の歴史の本には書いてないと思うこういう指摘を随所で入れてくださる。
ものすごく大事な贈り物をもらっている気がして幸せになる。
そして自分の知恵にそれが成っていくように希望がわく。

旧暦の夏四月の廿二日(この年の四月辛丑)といえば
まもなく梅雨の長雨が降り始めるころか。
摂津職と河内国守が対立しているのを収めたという記事だ。
梅雨前に決着させたという事か。
河堤の争いとあるのは何だろうか。単なる土地の境界の争いではないと思うが、どうか。
帰属は則ち責任の所在だから、堤防の補修の責任がどちらにあるかを争っていたのではないか。
決壊を恐れる住民が騒ぎ補修の必要が明らかになったが
摂津か河内かの帰属で揉めたのではないだろうか。

摂津と河内の境界を流れる川といえば淀川か大和川だ。
その堤の帰属と補修責任を国界を明らかにして決着する仕事が
この日終わったのだ。

これをこの日4人が出かけて現地視察し裁定して帰ってきたと
解釈しては大間違い(なのだそう)だ。

続日本紀の記事は文書資料を基にして編集して書かれている。
この記事の元になった文書の日付が辛丑(廿二日)なのだ。
だから何もかも済んで文書に4人の署名が入って提出された紙に
天平十三年五月辛丑とあった。(ひょっとすると五月廿二日とあったかも。もう何年かすると五月廿二日辛丑と書くようになるらしい)
4人名前があるが、実際に現地へ出かけたのは後の二人。民忌寸と陽候史だろう。二人の姓からして渡来系の官人だろう。民忌寸も陽候史も田籍と田丁を管理するなど記録や計数に明るい官僚たちだ。

川の堤の帰属や境界を記録したものが当時の政府や国郡官衙に保管されていたかどうかは、知らない。何で裁定したのだろう。住民の古老の記憶を尋ねたりはしなかったか。

また上司二人は藤原仲麻呂と巨勢奈弖麻呂だ。仲麻呂は将来反乱者となる運命にあるがこのときは少壮官人として颯爽と仕事に腕をふるっていたことだろう。

五月には聖武天皇が河南に行幸して猟を観覧している。

これは我が家に間近い場所についての記事だ。
川とは今の木津川。昔の泉川のこと。今も川岸から近くに泉川中学校があるのはその追憶からだ。
北岸の宮殿(まだ未完だった)から出て川を渉り

挍獵を観た。挍獵とは矢来様の囲いを仕掛けて、其処へ勢子が獲物の獣を追い込むやり方の猟である。

この短い記事から立ち上がってくる情景がある。

当時は新都造営の槌音高い日々。
川の南岸に街区を切るため切り開かれた広い空間が出来ていて
まだ建物は建っていない。

そこに杭を打ち細柱を立て囲いを作って猟場としたのだろう。

小高い丘か仮作りの台の上から天皇は観たのだ。
観には見下ろすという意味があるから、そう読んで良いだろう。

この記事の少し前に実は日本初の「生類憐れみ」の詔が出されている。馬牛を殺してはならないとし違反への罰則も厳しく定めた。
それなのにここでは猟がされ、天皇が出御してそれを観ているのは矛盾のようだが、家畜は人間のために働いているのに殺したり食べたりしてはならないというのであり、野生の鳥獣虫魚はそうではないとされていたらしい。

それと造都に関わる祭儀としての猟という面も考慮した方が良いのかもしれない。地主神への鎮めと祈願はどうであったのだろうか。


加茂町の田園風景の向こうにうっすら霞んで記事の情景が見えてきそうな気がする。それは根拠のない空想なんだけれど。

自分の立っているあたりを
佐保へ帰って行く家持も通っていったかと
思ってみたりする。

単調な実務的記事や記録の集まりの続日本紀が
読みようで活き活きと動き出す。

それを案内してくださる先生がいること。
ありがたい、本心からそう思う。

まだリタイア出来ない身の上だから
何時脱落するか分からない。仕事がどう動くかで決まるもの。
でもこれから長いつきあいの本に六国史が成りそうな予感がある。
ツレアイは笑って見ている。様子模様眺めらしい。
挫折を予見しているのかもしれない。

書いてみて何が楽しいのか自分でもよく分かってきた。
この楽しさを大事にしていこう。
 

2008年4月10日木曜日

甲乙丙丁

甲乙。丙丁。戊己。庚辛。壬癸。
ふう~。やっと書けるようになった~。

読むほうもできるようになりましょう。

きのえ(甲)きのと(乙)… みずのえ(壬)みずのと(癸)

癸午(みずのと・うま)というように読めるなら合格。
60種類あるのだから丸暗記はちょっときつい(笑)。
子丑寅…は書けるはずだったが(><;)
最後の猪を失念…出てこない(><;)  亥だった。
やれやれ。

連日こんな具合でブログのマイページにくるまでに自滅。
疲れて寝る毎日。ロートルは奮戦しながら消えてゆくか?

でもネットを使いながらの自学自修はドキドキすることがあって
楽しいですね。
大伴家持の署名が残っているのを写真で見ることができるなんて
ネットの凄さを実感します。



奈良時代の「太政官符」は数通しか残っていないが、
そのうちの2通だったか3通だったかが大伴家持の署名のもの、
というのも面白い。
これは律令制が壊れていって式部省の文書などが神祇官の家だった
卜部(吉田)家に私有されたことが幸いして保存され残存できたわけだ。
が、その中でも式部省にいた家持の署名があるものが大事にされたのかもしれない。
万葉集の歌人としての名がそうさせたのかどうか。

上の写真の大伴宿祢という字は他の書記役の役人の手で
家持という署名がご本人の手です。

モニターに拡大で見ていると横からツレアイが
「クセのありそうな人やね。だれ?」って、おい家持じゃないかぁ。
「いや、どういう人がらかって意味よ」
ぼく「……」(そんなことわかるものか。俄か歴史マニアのぼくに <笑>)

でも真筆は感動だな、いつも。
前にもMIHO美術館で明恵上人の筆跡を見た時も心動いた。
字がへたくそな自分らしい憬れもあるのだけれど。
筆で書かれた文字はたくさんの物思いを喚起する。


そのうちに、そのうちに、つれあいに
「コレハネ、ソモソモ…」なんどと蘊蓄を垂れる日がくる
かどうかはワカランけれど、
日暮れて道猶遠しされどこの道を歩む遅々として進まざれども
楽しみは必ず至れり…と信じて進もう。


[余談]
このごろは教えるものも教えられるものもネット活用らしく
ゼミの後先を先生とブログで質疑応答しているのもある。

「人と環境」を歴史学に組み入れて研究していくという
ユニークな研究者北條勝貴さんの試み。

来るべき書物

学生の質問が面白くて全部読んじゃった(^^)
この頃の学生って先生に
占いの仕方まで聞くのかい?とか。面白いですよ。
ためにもなったです。

 

2008年3月17日月曜日

後期高齢者医療制度の中止・撤回求める

2008.03.17 00:28
 さすが日本共産党の議員だ。小池氏は肝心な点をついて質問を通じて後記高齢者医療制度の本当の狙いを浮き彫りにしている。

問題は医療費を節約するために75歳以上の人間を
差別医療へ囲い込むことだ。

これが4月から実施されるのに知らない人がいっぱいいる。

年金と言い国保と言い政府のやっていることは許しがたい。
あれこれ言うまでもない。

関心のある人はこの国会のビデオを見て考えてほしい。

「改革」路線が何であるかをこういう事例を通して国民が理解し

反撃に出る日は来るのだろうか?

来させ4なければならない。

使い捨てられてたまるか!
 
人間だもの。年取っても人間だもの。








 



     



      

2008年2月6日水曜日

美ら海の島キューバ  Cuba  Si! 


南海、南国、トロピカル…
むかし、Cuba Si! Nixon No! とガーファンクルが歌っていたが
こんなCuba Si!も あるのだね。

ナツメロ風のキューバ観光案内にも見えるけど。
ちょっと癒されました。
甘苦い濃いカリビアン・コーヒーとサルサと笑顔と有機農業の国キューバへ。
行って見たいなと、思う。

チェ・ゲバラの精悍な記念碑の彫像がちらと見えた。
紛れも無く現代の現実のキューバなのだった。

Turismo para vivir  いのちへの旅と
Cultura para sentir  異文化への感動を

そんな感じのコピーかな、最後は。

2008年1月23日水曜日

チェーザレ。 駆け抜けていけ、時の疾風に吹かれながら…


← イサベラ・デステ

今日は新しい府条例に基づく食品等の自主回収報告義務についての説明会の案内が来ていたので、隣の藤井寺市まで出かけた。
大ホールに50人ばかり参加者が集った。
説明は府の若い女性の幹部がパワーポイントを使いこなして一人で画面を使って行った。(美人だな、と周りで言っていた)。
内容は良く解ったし質問をして余計腑に落ちた。勉強になったし、府の取り組みの姿勢に好感が持てた。陰で保険所や府の担当部局は苦労しているのだろうな。なにしろO-157以来ずーっと色々続いてるから。今は「吉兆」など目白押しにあるからね。ご苦労様と言いたい。

終わってから書店に回り、仕事関係の資料になるものをあさってから、コンピュータ関係の棚へ近寄ってふと右手を見るとコミックの棚で…

ん?「チェーザレ」……あのチェーザレ?
ボルジア家の悪名高きチェーザレがコミックに?

然り!なんとぉ~ホントだ。へ~面白そう!

買ってしまった4巻一度に。へへへ。楽しみぃ~

でも
惣領冬実…シラン、全く知らん。
でも絵はいけてるやんか。




チェーザレ 1―破壊の創造者 (1) (KCデラックス)チェーザレ 1―破壊の創造者 (1) (KCデラックス)

近代政治学の発端になったと言われるのが
誰でも知っているほど有名な本
「君主論」
韓非子と並んで有名な?マキァベッルリの書いた本
「君主論」
そのモデルと言われるのが枢機卿チェーザレ・ボルジア。

ぼくなどチェーザレ=毒殺と陰謀みたいなイメージだが
近代的な権力の創出や統一国家を意識的に目指した最初の政治家でもあった。だからこそ、マキァベッルリは彼をモデルに著述をしたと言われる。
手段は目的で正当化されるという意見ばかり一人歩きして、マキァベッルリと「君主論」は誤解されている。
本当は近代国家や主権を実践的に捉えようとした歴史的業績なのだ。
けっして悪人のバイブル。野心家のマニュアル。では決してない。


コミックの『チェーザレ』だが、読み始めると
魅惑的な情景の中にリアルに時代と人物が動き出した。

もうじきロレンツォ・メディチが出てくるのかとわくわく。

サボナローラも
ダビンチも
ラファエッロも出てくるし
ミケランジェロだって
出てくるかもしれない。
堪らんねこれは。

最近7,8年、コミックのコーナーなんて立ち止まることは無かった。
だのに、向こうからお呼びだったんだな。


昔、29歳の妻がコミック好きで、
何時も何か持っていた。

「ナンだ?その、枕みたいな厚さは!」
「これ?…ハイこれよ」
「……」
『花とゆめ』??
「けっこう面白ぇヨ!読んでみたら」
かくて、
嵌ったのですね。
女流コミックにも面白いのがあると知り。


萩尾望都の「ポーの一族」は
2.3年は読むと泣きました。
妻の本棚から借りて読んだら面白くて面白くて。

でもまもなく妻は永遠に居なくなり、
まるでメリーベル自身みたいに、
この宇宙のどこにも存在しなくなってしまったので。
でも、泣くと分っているのに読んで、
やっぱり泣くのでした。

ポーの一族 (1) (小学館文庫)ポーの一族 (1) (小学館文庫)


同じ作者の「11人いる」は逆に吼えました。
どうして女の作者にこんな良いSFコミックが書けるんだぁ!
と差別丸出しで吼えながら読み終えました。


ぼくは一度しか日本の外へ出ていないのですが
その行き先はイタリアでした。
人生でアッシージの聖堂を訪ねて感嘆できたことが
自分の無常の幸せかと思うYohには
(ルネッサンスという時代は1200年代から始まる感じですが、)
ハイルネッサンスといわれるチェーザレ・ボルジアの生きた時代は迷宮のような妖しい魅惑に満ちています。

コミックに入り込んで
イマジネーションを爆発的に発動しながら
堪能することにしましょう。
何度も読み返すかもしれない。
そんな気がしています。


そういえば、もしイサベラ・デステが出てくるなら
どんな女性に描かれているんだろう。

それを想像するだけでわくわくする。
実に見事な人物。そして美しい完璧さ。

塩野ななみ氏と違って
歴史上のドラマは
個人の力量や人徳や知力などの役割よりも
時代のうねりを生み出す社会的背景の動向を重視する
Yohはそういう人間ですが、
個人の性質や力量の効果の大きさも理解できます。

イサベラ・デステがいなかったら
イタリアの情勢はかなり違っただろう。
それほど彼女の知性と胆力と美貌が
歴史を彩った度合は大きい。
エステ家の動きのない時代史なんて書けない。

きっとコミックにもご登場だろう。
楽しみだな。

ポーの一族とマザーグース

ポーの一族の構成と伏線について

2008年1月21日月曜日

報告、ドキドキ・ワクワクの月曜日



月曜日。今日は『読む会』の日でした。
一応、(一応でしかないのが心許ないが)
予習と疑問点のメモを作って臨みました。

最近は月曜日が近づくと「どきどき」「わくわく」して落ち着かなくなります。
当日はもっとそうなります。

毎回が、「ふ~ん、学問ってそういうことなんか~」体験の、

連続連打。

だから1クール2時間で2回を一度にやるのですが、終わると完全にぐったり、
放心状態です。

日本書紀や続日本紀のテキストを読むのですが
読み3分解説7分といった感じです。
解説も本文の解説よりは関連事項や関係論文や学会裏話(面白い)など漫談的な進行で迷走かと思うくらい。

でもでも、笑っているうちに回らない頭が知らぬうちにクルクル回転しているのですね。終わると頭は爆発しそうに。

だいたいYohはもと美術系青年でそれも泥まみれコースでしたから、机に2時間座って講義を聴くなんてことが慣れていない。

最初は面食らうだけでした。
脈絡も無く並んでいるように見える続日本紀の記事を現代訳で読んでみても誰が正五位下に任じられたとか、日食があったとか、宴をしたとかが頭を通り過ぎるだけなのでした。

ところが…先生の漫談の向こうに読み方のヒントが見えてくるのです。

そのことが、ど~んと胸に応え、感動してしまいました。

歴史の資料として書紀や続紀を読むということはどういうことか、それを笑い話にしながら話してくださっているのです。

例えば郡というのは国―郡―里という制度の単位ですが古くは評と書いてコオリ(コフリ)と読んでいたがいつか郡に変わったらしいとされていた。それについては郡評論争という討論が一時あって、最後に京都大の岸教授が木簡の変遷から論証して大宝律令以後郡と表記されるようになったことが確定したという。

学会の裏話なども入っての経過説明を聞くだけで、歴史的事実の究明は忍耐と創意が要る手続き厳密な過程なのだと分かってくる。

目からうろこが何枚も何枚も落ちていくのでした。
そうだったのか、の連続。

嬉しかったのは予習して気がついた事柄を先生が解説で触れられ、自分の解釈が間違っていないことが分かったこと。

欽明天皇の即位前紀の天皇幼時の夢の条の性質が「説話」風の「語りもの」の形式に近いなと思っていたら、実際そういう解釈を先生も話された。

会社で言えば「総務」に当たるような「治部省」に出された秦氏の上申書のような文書に記されていた先祖の由緒語りを続紀の編者が採用して記事としたのだろう、と説明されていた。

書紀や続紀の内容がどこから得られた資料なのかを示唆されている訳だ。
これはどうも先生のライフワークの一部のようだ。
学位論文の中味に繋がっているらしい。
いつかじっくり聞いてみたい内容だ。

文字の話も面白く刺激的だった。

欽明天皇という呼び名は漢風諡号といって平安初期に淡海三船によって作られたらしい。日本書紀の記述には無かったもので、今漢風諡号も書いてあるのは後世に入れられたものだ。
アメクニオシハラキヒロニハというのが和風諡号だ。

これを元興寺の露盤銘にある記事ではアマクニ云々と記されているが、その字はマを末としてある。
ところがこれはアメ云々とあった元来の表記はメを米という字で記していたが、書かれた字がすこし崩して書かれていたので、書写するとき誤って末字と読んだらしい。それでメ(米)がマ(末)となってしまったと。

米と末は活字で見ると印象がかけ離れたものだが、行書体を崩して書く人の書体で見ると実に良く似ている。
このような例は他にもあると、別の例も示された。

また胸がドキドキしてきた。
じつはYohは古事記を愛読していた時期があり、そのときに同じような気づきをして、年来の疑問として持ち続けているのだ。

紀記の天皇系譜については歴史家は実在性の強い主な系譜に注意を集中するので、Yohが気づいた点については読んだことが無い。

専門家に聞くには論拠が弱い思いつきかと感じていたが、今日のこの話はそれと同じじゃないか!

Yohの気づいたのは系譜じゃなくて、系譜に紛れ込んでいるが実際は神話の断片じゃないかというものだが、
その論拠が漢字の表記の書写の間違い(似た字を取り違えた)からだと想定したのだった。

このドキドキはまだ続いている。
先生に聞いてみようか、どうか。

欽明紀の即位前紀の形式上の破綻も注意したいところと思っている。
こんなところにも二王朝並立とか内乱とか言われるこの時代の解らなさが顔をだしている気がするからだ。

即位のとき「年若干」だった、ということは、一体何歳だったのか。
先行する秦氏の条の「幼時」という表記と手白香皇后との譲り合いの「未ダ政治ヲ閑(なら)ハ」ないのは幼いからという件と併せて読めば、やはり手白香皇后が称制ないし即位していたと見たほうが良いように思える。

本当に知りたいことにたどり着くためには長い修練と洞察の年月が必要なのだろうな。

Yohにその時間が与えられるか、どうか。
そうだ。手段として、戦術として、「長生き」を自分の課題とするか、自信ないけど。

ま、がんばろう。
 
 

2008年1月17日木曜日

ひと、ひとに 会う。一期の華の薫るかな。

雖會師不學徒如向市人
雖習讀不復只如計隣財

 タトヒ師ニ會フト雖ヘドモ
 學バザレバ徒ニ市人ニ向クガ如シ
 タトヒ讀ムヲ習フト雖ヘドモ
 復マザレバ只隣財ヲ計フルガ如シ 
             實語教(編者未詳・江戸時代)


滅多に出会えない機会が与えられて師とするべき人に出会っても、その機会を学びの機会と出来るかどうかだ。
今の自分は多分そういう機会を得たのだと思う。そのことを忘れないようにしたい。

SNSの仲間に漢文エディターという便利なフリーツールの存在も教えていただいた。
一歩一歩と形が出来ていく。
早く対訳本の続日本紀を入手したいものだ。
古い版だが日本書紀のほうは岩波書店の日本古典文学大系を持っているので当面はそれを使っていこうと思う。吉川弘文館の六国史日本書紀もあるので差し当たりこれで十分と思う。続日本紀の読解の参考は平凡社の現代語訳(直木先生監訳)が手元にある。

でも年表とか地図とか、欲しくなって来そうだ。
目に付いたので立ち寄った八尾市内の書店で『奈良時代MAP』というのを買った。奈良市内の現在の地図をトレーシングペーパーに印刷してあり下に奈良時代の分かっている情報が透けて見えるように印刷されたページがある。
長屋王の屋敷跡。藤原の仲麻呂邸のほうが広いのには驚いた。倍は広いのだ。
一時の仲麻呂の権勢を示すものだろう。
身分の低い人の住所のほうが情報が多いのか、見ていると面白い。
絵師(画師)が結構居る。息長姓の絵師など。

宮都の研究はまだまだこれからの様子だ。
木簡の研究も終わったわけでは無いだろうし。

そういえば何かの検索のついでに木簡データベースというのに行き当たったことがあった気がする。もう一度当たってみよう。
なにしろ同時代の資料だからね。興味がある。

2008年1月13日日曜日

六十の手習いで続紀天平十年に挑戦中

自分が住居に選んだ土地に昔短期間であっても
都が置かれたことの理由を以前から知りたかった。
朝日カルチャーセンターの広告に惹かれて申し込んで
一ヶ月余り出たが年末で全講座が閉鎖になった。
近鉄奈良駅周辺では成り立たないらしい。
西大寺駅周辺では便利がいいので可能だろうが
近鉄がカルチャー講座を開いている。
と言うことで撤退となった。

それはいいのだが、
二階に上がって梯子が無くなった感じになるじゃないか。

そう思う人たちが講師に要望して自主講座として続くことに。
ありがたや。

でも、観測が甘かった。内容が充実し、かなり努力しないと
ついていけないかも… (汗)

講座は『日本書紀と続日本紀を読む会』と名前がついた。
読むのだから簡単だよ、と思っていたら、
白文(返り点や句読点を付けていない漢文)を読むんだ。
と、思い返せば高校以来、白文など見てもいないよ。

日本書紀は欽明紀から、続紀は天平十年元旦から、と決まった。
で、1月7日に行って来たんです。
初日なので講師の水野柳太郎先生の漫談風の独演でしたが
話されている内容は、済んでみるとかなり濃い内容です。

終わってへとへとです。
昼の休憩時に先生が何故かYohに
「こんな話でいいですか」と問われたので、困って
「私は…素養がありませんので…」と誤魔化し。(汗+汗)

吉川弘文館刊の黒板勝美編「六国史」が種本らしい。
それに小学館の原文と読み下しと現代訳のついたの。

現代訳は参考程度に考えること
当然でしょうね、訳者の私見が入るからね。

漢文は上古の訓読に拘らず普通の漢文式に読んでよい
当時の読み方に拘っても返って意味が分からなくなることも多い。
こう言われて、なるほどと腑に落ちた。自分はそういう逆の和臭の強い読み方に傾いていたので読めなかった面があるな。

文字通り六十の手習い。
がんばれば一年でかなり読みこなせるようになる、との先生の励ましを真に受けてがんばろう。

少し進めば続紀は「藤原広継の乱」のところだし、
面白い話も聞けるだろう。
欽明紀の方も継体・安閑・宣化の王朝並立説などを廻る話がでるだろう。

まずは読めなくては話にならない。
毎週一度はかなりキツイ課題だ。予習も復習も要りそうだ。
気合を入れてがんばらなくては。
でも、仕事上の課題が多すぎる年明け。どうなることか。
やるしかないな。


先生のお勧めは白文を紙に手書きで写すことだそう。
そうすれば漢文に馴染み区切りやリズムが感じられるようになると。
さっそくやっているのだけれど、字の下手さに我ながらあきれ果て、
意欲低下。いやいや、続けなければだめだ。

探すと国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに六国史が印影版で入っている。
早速JPEG2000のプラグインを入れてブラウズする。
汚い版で活字が潰れていたりして読めない字がある。
でも電子テキストでは外字になって表示できない字も
印影では見えるので併用するのが便利。


半日かけて欽明紀全文と天平十年聖武紀全文を
テキストで入手。
MS wordで縦書きの横置き用紙A4で白文にして印字。

書き写しながら読んでいる。現代訳と対照して
自己採点は60点かな。まあまあの出だしとしょう。

1時間半講義で30分質疑か読み方指南。

次回が楽しみになってきた。

年内に先生に「よくできました」と
桜の判子もらえますように。
がんばるぞ。

伝説の綯い混ざる 『コマンダンテ チェ・ゲバラ』

アルゼンチン生まれのチェ・ゲバラはキューバ革命に参加し司令官(コマンダンテ)と呼ばれるようになった。彼はボリビアで部隊を率いてゲリラ活動中CIA に指揮された政府軍に捕らわれ裁判の機会も与えられず撃ち殺された。ボリビアの「虐げられた民衆の利益のために」闘った彼だが、実は十分な支持を得られなかったためゲリラの基本、「民衆に匿われ守られながら彼らとともに闘う」原則が守れなかった。そのため追い詰められた結果の捕縛と銃殺という悲劇になった。
Youtubeで見つけたひとつの動画はこの事件をバックにチリの(これもピノチェット将軍のクーデターで虐殺されてしまったミュージシャン)ビクトル・ハラ作の歌が流れるもの。最後の シーンに民衆が立ち上がっていく姿を映像にしているが、これは願望が伝説を生み出していく一例だ。
         
伝説化された映像の中でチェ・ゲバラは不死鳥になり永遠化される。

 しかし、それから20年以上たった現在。動画は未来を予見していたことが分かる。

 孤立して敗北した英雄は時間を経て民衆の中に帰ってくる。
 民衆自身が立ち上がり世界を変えようとする時、回想の中に帰ってくるのだ。


         
 あれほど農民から孤立してしまったゲバラだったが
 いまや先住民も含めて国民的な広がりで運動が起こってきた。

 いまや先住民は沈黙の隷従者ではない。
 帽子を冠った先住民たちが国の政治を動かしている。
 モラレス大統領は南米初の先住民出身の大統領なのである。


 彼の後ろにはゲバラの顔が浮かんでいる。
 彼を支持する人々の中にはチェ・ゲバラの像を掲げる者もいるからだ。

         

 見たまえ、デモ隊の先頭にゲバラがいる。
 彼の顔が幕に描かれている。
 彼は彼が身をささげた人々の中へ帰ってきたのだ。


 揺れ動く中南米。
 マスコミは希望的観測でベネズエラやボリビアの政権は
 ポピュリズムの失敗として終わるだろうと論じている。
 果たしてそうか。

 南米諸国民が国境を越えて見せているかって無い団結の姿を
 軽く見るようでは 政治的感覚は鈍いと言わなくてはなるまい。

 未来は常に明るいとは言えない。
 しかし明るい未来は常に民衆の参加で作られる。
 それを信じるか信じたくないかの違いなのだ。

 
 『コマンダンテ チェ・ゲバーラ』の歌の一節を口ずさんでいた
 亡き友の若々しい声が耳の底によみがえってくる、老いたぼくの耳に。

 ビクトル・ハラの詩と文章をスペイン語辞書を片手に
 とつこつと読んでいた横顔も浮かんでくる、しろい項も。

 なんだか今年あたりは
 フィデル・カストロがその生涯を閉じる予感がする。

 だがモラレスやチャベスたちは生きていく、民衆とともに。
 多くの間違いや失敗をしながら。
 そのツケを自ら支払いながら、ひとは生きる、民衆も。

 「時代は心を変える」と友が歌っていた、キューバの歌を。
 希望を持てる心へと変えるのだと。時よ進め、時よ移れ。

 時間だけは長く経った。
 ぼくはまだいる、ここに。
 そして
 希望は、まだここに、 ある。確かに ある。

 《ぼくはゲバラ崇拝者ではない。
 ただ中南米の人々にとって過去ではないことに注意したいのだ。》
 
 

2008年1月12日土曜日

思い出のキラパジュンのシルエットに再会…

Quilapayún

El pueblo unido jamás será vencido





la muralla





Mi patria





Plegaria a un labrador





Contraste





Inti-Illimani & Quilapayún

Ventolera





yaravi y huayno






Cantata de Santa María (parte III)





Victor Jara
Manifesto





Victor Jara
TE RECUERDO AMANDA





Victor Jara
Comandante Che Guevara





Inti Illimani
El Aparecido (Che Guevara promocional)





Silvio Rodriguez
Playa Giron

2008年1月3日木曜日

初夢の代わりに…


 カーボン・チャンスの時代。
 金儲けのチャンスではなく、
 新しい経済社会、新しい科学技術系、
 人類史的統合の時代を拓くチャンスの時代。

 日本を除くアジアと言われ始めている今。
 孤立しないでアジアの不可欠の構成部分であり続ける
 そういう日本であってほしい。

 戦前や戦時ではなく戦後史を生きてきた自分の
 身の回りからアジアを眺められないか…振り返ってみたい。
 今年はそういう探索も課題にしよう。

 小学校でも、中学校でも、高校でも
 大阪育ちのYohの周囲にはいつも外国籍の友達がいた。
 ほとんどが韓国籍・朝鮮籍の在日コリアンたち。
 中学校の同級生には明治初期の長崎への来日からという
 滞在暦をもつ中国人の家庭の子がいた。

 高校でも同級に中国人、朝鮮人がいた。
 みんな日本語で生活していたから
 外国人と意識することはまれだったし、
 どこかでそれをよしとする空気があった。

 そして知り合ったりして一応どちらからも
 友人と思っている外国人はそのあとにもいる。

 ベトナム人のグエン君とナン君。
 バングラデシュ出身のカーン君。
 フィリピン出身のペピート君とジェーシィさん。

 アジアではないがカナダ人のニール君や
 最近知り合ったフランス在住のチリ人画家。

 案外多いですね。知らない間に増えている友人たち。
 ベトナムやバングラデシュの友人は留学生出身の在日外国人だから
 日本語は達者でナン君などは日本の詩をすらすら読んで
 Yohの書いた詩を的確に批評してくれたこともあった。

 カナダ人やチリ人となると言葉の壁があるので
 どちらも怪しい日本語と怪しい英語での会話になるが。
 でもなんとか気心が通じる。
 大工のニール君とは日本建築の話題で、
 チリ人の画家とは彼の作品の話題で、共有できるものがある。

 思うのだけれど、彼らといるとき
 ぼくも相手も同じものを媒介にして向き合っている。
 「いま」と「ここ」と「何か」をシェアしている。
 
 そのシェアできる関係こそが大事なぼくの財産だし
 中身が変わっても変わらないで居れる関係かどうかだ。

 僕が例えばベトナムへ旅に出るとしても
 彼らに便宜を図ってもらおうとは思わない。
 いまでは企業や国家にしっかりしたポストをもつが
 かつての友情はそれとは無関係だから。
 旅の終わりに電話してお茶など一緒に飲めたらいいなとは思う。

 遠くなった日々は美しいもの、
 その美をそのままにそっと置きたいものだ。
 きっとナン君は今もベトナムの五言絶句みたいな
 彼らしいやさしい気持ちの詩を書いているだろう。
 変わるはずはない。それでいいのだ。

 彼らとは 
 ベトナム戦争がなかったら知り合う機会は無かったろう。

 こう見てみると僕も
 民際交流 (民と民の直接交流による友好を
 ある老エスペランティストはこう名づけた)を重ねてきている。

 国益や利権に関わらない民際交流でアジアをひとつに結ぶ。
 EUのような一体化は直ぐには無理だから、
 経済や文化での交流と互恵(互恵という言葉のほうが好きだ
 win-win関係などという言葉よりも)の「恵み」が紡ぐ信頼関係の
 長い織物を織り続けて、アジアが長期の繁栄の時代に入っていく。
 そういう夢の揺り籠を揺する時代がきている。

 僕はもうその先頭を走れる能力はないが
 何かできないか。そう思って考えながら歩いてみたい。
 一箇所でいい、今年はどこかアジアの街角に佇んでみたいです。

 フエかそれともネグロス島の田舎町か。
 サンダカン。あるいは中国のどこかの下町に。
 
 
 

2008年1月1日火曜日

2008年元旦

新年の恒例である甲田医院での朝会に出てきました。
いつもはこういう恒例行事は苦手なので行きません。
失礼に当たっても行かないのが自分流なのですが、
今年は先生のほうからぜひ聞いてくれとのことで
出かけました。
少食健康法の新しい考え方、実行の仕方を
試みてみてほしいというお話でした。

自然免疫を生かした治療が注目される医学的新分野になり
元旦の日経新聞でも記事が出ています。
抗体医薬が新しいベンチャービジネスになると。

人間の体がもっているパワーを引き出す方が
化学的薬剤より効果的だとわかってきたことと
それを実行できるほど分子生物学的レベルが上がってきたことで
流れがかわりつつある。

断食という伝統的な知恵がもつパワーの秘密が
分子生物学的手法で解き明かされる時期が見え始めた。

そんな話でした。
食べかたで変わる人生というYohの多年にわたるテーマも
具体的な糸口が見え始めるのでしょうか。
楽しみな感じで年が明けたなと思いました。


帰り道にちょっと凧揚げが見たくなって
平城宮址へ寄り道しました。
案の定何組かのパパと子供たちがいて…
パパは奮闘してました。
一年に一度だろうから、ま、直ぐには上がらない(笑)
でも、みんなそのうちに上がり始め
子供たちの嬉しそうな顔。
笑顔をおすそ分けしてもらってパチリパチリと
写真に撮りました。

年始挨拶に出た帰り、平城宮址に寄る。凧揚げしている親子。




今年は「日本再定義が始まる」というYohの「予言」ですが…
かなり怪しい予言ですね。
(自分で茶化してどうだといわれそうですが。)

でも、一応続きで書いていきますが、

日本国家は既に再定義されているという事は
どういうことか。
それは数年来の「日本の社会のきしみ」の大きな部分を
説明する事実です。

日本国を定義すると言えば普通は
まず憲法というのが順序でしょう。

でも、まだ日本国憲法は再定義(改憲)されていませんよね。

では何が、日本国の再定義だったのか?
国民投票もしていないのに?

憶えていませんか?
新聞は国民に解りやすく報道してこなかったが、

『安保再定義』という言葉が
一時マスコミにも流れていたことを。

建前は日本は主権国家で、外国との条約は
その主権国家が主権を放棄せず
他律的に制限もされずに結ぶもの、
安保条約もそういうものとされています。

でも『安保再定義』の中身は…

一国行動主義(一国覇権主義ともいう)のアメリカの行う
戦略行動を能動的に支え一翼を担い戦うもの。
安倍前首相が「血の同盟」と言ったのは正確な表現でした。

「世界共同の」テロ対策への協力とかいった表現、
言葉のあやで隠されていますが、
今までとは違った覚悟が求められる内容が

安保再定義でした。
小泉・安倍政権はその路線上をするすると滑って
もう一歩で再定義の完成にこぎつけることに
成功するはずでした。

つまり「安保の実質的な新体制」安保再定義。
それに見合う憲法改変=国内体制の再定義。
だったわけです。

震源は安保、傾いたのは主権国家の背骨(憲法)。

民営化路線にしても、郵政民営化にしても
教育基本法改悪にしても
福祉や税の改悪にしても
全部がこの再定義に関わっている。

全貌はいまはまだ見えないが、
歴史はきっと明るみに出すだろう。
小泉とブッシュの闇協定を。

佐藤栄作総理時代の核密約が暴露されたように
歴史は決して暗黒ではない。

このように「闇で」再定義され、今もされつつある
日本国家の再定義に対して

もうひとつの再定義が必然的に起こってくるだろう。

それは国民による再定義だね。

日本再定義。日本人として
もう一度考え直してみよう。
これでいいのか?
わたしたちは何者なのか?
どうしたいのか?

国民の面倒を見る気のなくなった、
多国籍企業化した大企業や
合衆国の財界や政府にはやさしい国家、
誰のものなのかと問いたくなる国家を

いちど自分から遠ざけ相対化し、
疑問符を付けて
考え直してみる。

これが日本再定義。(日本再定義ではなく)

イタリア人はイタリア国家を軸に物を考えない傾向が強い。
地方の自立性が強いし、非政府的組織が元気だし
スローフード・スローライフ運動を生み出すような
カルチャーの奥深さがある。
金で計れない豊かさがあるように思う。
いまの日本人はイタリアに学ぶといいのかもしれない。

強い国家と国家主義に自分のアイデンティティを求めるより
一人ひとりの知性や情緒を生かしあい
人間関係と暮らしの再建から
日本社会を本当に自由な社会として再建する
全国民的コラボレーションがいまこそ必要じゃないか。

それをYohは日本再定義と言うわけです。

日本国憲法は国民生活を仕切る基本法としては
世界有数の優れた憲法と思う。

悲しいかな、半世紀の自民党政権はそれを台無しにすることばかり
してきたと思う。

深刻化する格差社会も
国際経済のグローバル化などが原因だというのは皮相で、
国民生活を優先に経済運営を出来ないという
官僚や政治家の暗愚の証明でしかない。

家庭経済、個人消費を、最終需要を大事にしない経済運営に未来はない。

国民は気づき始めているし、
行動も始まっている。

労働組合の組織率、構成員数が増加に転じたという。

社会的反撃が始まった。
それが成功するかどうかは未知だが。

これは企業拡大に伴う
従業員数の増大に比例しての増加ではない。
つまり自分の生活と生存とを賭けた
闘いの数字と読まねばならない。

だが、成功するならやる、しないならやらない、
という怯惰は
この数字を生み出さなかったはずだ。

絶望はかならず希望に接続する。

もしそれが誠実であるならば、
忍耐強く学ぶ知性にめぐまれるならば。

日本再定義には「元年」はない。
ひとりひとりが自分の日本に気づき
定義をし直していくのだから。

貴方の日本、二十一世紀の日本、
自分の理想の、あるべき姿と一体の日本の姿
見えていますか。

Yohの青春時代は
『三丁目の夕日』の時代
あのころの自分を発掘しながら
Yoh的再定義をしていくつもりです。
あのころも
三井三池炭鉱の合理化と閉山で
大阪の街には炭鉱離職者の家族が溢れ
釜ヶ崎の日雇い労働者の騒動がありました。

Yohの若い友人がこの正月の炊き出しボランティアで
釜ヶ崎に詰めています。
今まで社会的関心など弱かった友人ですが
自分で考えがあって行くのだと参加していきました。
ちょっとした感慨と感動があります。

しなやかで
つよい心
やさしくて
ひとにひらかれたこころ
水に似て
自由で純粋なこころ
にほんのことばに
たっぷりと盛られる
あたたかなこころ
そんなこころで再定義する日本に
戦争の立つ場所はない。

あけましておめでとうございます


 
           庭の山茶花が咲いています

 新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春の
 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)       大伴家持

 日本海側はゆきだそうですね。
 あたらしい年を清め予祝するように降りしきる雪のように
 吉事が重なっていって欲しい。

 年の初めにひとが願うことは古代人も現代人もちがいはないですね。

 我が家では「寝正月」になりそうですが、溜まった未読本を
 ゆっくり読んでみたいと、わくわくしております。

 皆さまにも希望に満ちた一年でありますように。



 昨年の正月は「今年の予言」というのを考えて初出勤時に
 同僚に公開しました。

 「今年は電子マネー元年になる」
 どうやらそれは予見どおりになったようです。

 さて今年はどういう「予言」を発表するかな?と
 考えているところです。
 大体見当は定まっているのですが。

 キーワードは『再定義』なんです。

 はっきり云うと「日本再定義」となりましょうか。

 日本国の再定義、というのじゃなく。
 日本再定義、というのがミソです。

 日本国の再定義は実はもうされているのです。

 日本国の再定義とは何でしょう。
 つまり
 「日本国家の再定義」って何でしょう。

 それが何かが分かれば
 それに対する
 もうひとつの「再定義」が何かも判然としてくるのでは…