2008年5月27日火曜日

無心ということ

無心とは「心無き」こと

無心にあそぶ子どもたちという表現が、
無心の意味をよく表している。

心無い仕業ともいう。「酷い」仕打ちのことだろう。

『心』が無いとは、では一体どういうことか?

人としての資質を、世間知を、他者への思慮を、備えている。
「分け知り」顔というときの、「分別」をもつこと。
「情を通じ」というときの、「なさけ」「男女の機微」「人情」を知ること。
それが「有心(うしん)」心あり、だろう。

「こころありげな」風情とは靡いてくれそうな予感ということであろうか。

どれもこれも、実はあまり、ぼくには縁がない。

やはり、ぼくは心無いヤツ、{非情}なんだろうか。

無心は、けれど自由と言うことだ。
西行法師はよく「こころなき身」と歌っている。

法師、出家は脱世間だから、
世間知を捨て、恋情を捨て、父子の恩愛を捨てて、旅立つ者。

出世間こそ「こころなき身」、その心情は、こころでないこころ。
そこに自由な感情の生成という逆説的な情感があふれ出る。

「いのちなりけり」と日々を実感して生きる喜びの歌が生じる。

それは「仏心(ぶっしん)」ほとけごころの歌といってよいはずだ。

「いのちの喜び」の歌をさがして、旅し歩き続けた西行に「学ねび」て、
ぼくも歌心もって、生きてゆこう、あとすこしの道のりを…



ところで…
お金をちょうだい、と言うのを
「無心する」と言ったんじゃなかったか?
あれは何故、「無心」なんだ?
 
檀家に無心する、無心な僧侶?(笑)
 
                        2006.11.10 記

 

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