2008年1月1日火曜日

2008年元旦

新年の恒例である甲田医院での朝会に出てきました。
いつもはこういう恒例行事は苦手なので行きません。
失礼に当たっても行かないのが自分流なのですが、
今年は先生のほうからぜひ聞いてくれとのことで
出かけました。
少食健康法の新しい考え方、実行の仕方を
試みてみてほしいというお話でした。

自然免疫を生かした治療が注目される医学的新分野になり
元旦の日経新聞でも記事が出ています。
抗体医薬が新しいベンチャービジネスになると。

人間の体がもっているパワーを引き出す方が
化学的薬剤より効果的だとわかってきたことと
それを実行できるほど分子生物学的レベルが上がってきたことで
流れがかわりつつある。

断食という伝統的な知恵がもつパワーの秘密が
分子生物学的手法で解き明かされる時期が見え始めた。

そんな話でした。
食べかたで変わる人生というYohの多年にわたるテーマも
具体的な糸口が見え始めるのでしょうか。
楽しみな感じで年が明けたなと思いました。


帰り道にちょっと凧揚げが見たくなって
平城宮址へ寄り道しました。
案の定何組かのパパと子供たちがいて…
パパは奮闘してました。
一年に一度だろうから、ま、直ぐには上がらない(笑)
でも、みんなそのうちに上がり始め
子供たちの嬉しそうな顔。
笑顔をおすそ分けしてもらってパチリパチリと
写真に撮りました。

年始挨拶に出た帰り、平城宮址に寄る。凧揚げしている親子。




今年は「日本再定義が始まる」というYohの「予言」ですが…
かなり怪しい予言ですね。
(自分で茶化してどうだといわれそうですが。)

でも、一応続きで書いていきますが、

日本国家は既に再定義されているという事は
どういうことか。
それは数年来の「日本の社会のきしみ」の大きな部分を
説明する事実です。

日本国を定義すると言えば普通は
まず憲法というのが順序でしょう。

でも、まだ日本国憲法は再定義(改憲)されていませんよね。

では何が、日本国の再定義だったのか?
国民投票もしていないのに?

憶えていませんか?
新聞は国民に解りやすく報道してこなかったが、

『安保再定義』という言葉が
一時マスコミにも流れていたことを。

建前は日本は主権国家で、外国との条約は
その主権国家が主権を放棄せず
他律的に制限もされずに結ぶもの、
安保条約もそういうものとされています。

でも『安保再定義』の中身は…

一国行動主義(一国覇権主義ともいう)のアメリカの行う
戦略行動を能動的に支え一翼を担い戦うもの。
安倍前首相が「血の同盟」と言ったのは正確な表現でした。

「世界共同の」テロ対策への協力とかいった表現、
言葉のあやで隠されていますが、
今までとは違った覚悟が求められる内容が

安保再定義でした。
小泉・安倍政権はその路線上をするすると滑って
もう一歩で再定義の完成にこぎつけることに
成功するはずでした。

つまり「安保の実質的な新体制」安保再定義。
それに見合う憲法改変=国内体制の再定義。
だったわけです。

震源は安保、傾いたのは主権国家の背骨(憲法)。

民営化路線にしても、郵政民営化にしても
教育基本法改悪にしても
福祉や税の改悪にしても
全部がこの再定義に関わっている。

全貌はいまはまだ見えないが、
歴史はきっと明るみに出すだろう。
小泉とブッシュの闇協定を。

佐藤栄作総理時代の核密約が暴露されたように
歴史は決して暗黒ではない。

このように「闇で」再定義され、今もされつつある
日本国家の再定義に対して

もうひとつの再定義が必然的に起こってくるだろう。

それは国民による再定義だね。

日本再定義。日本人として
もう一度考え直してみよう。
これでいいのか?
わたしたちは何者なのか?
どうしたいのか?

国民の面倒を見る気のなくなった、
多国籍企業化した大企業や
合衆国の財界や政府にはやさしい国家、
誰のものなのかと問いたくなる国家を

いちど自分から遠ざけ相対化し、
疑問符を付けて
考え直してみる。

これが日本再定義。(日本再定義ではなく)

イタリア人はイタリア国家を軸に物を考えない傾向が強い。
地方の自立性が強いし、非政府的組織が元気だし
スローフード・スローライフ運動を生み出すような
カルチャーの奥深さがある。
金で計れない豊かさがあるように思う。
いまの日本人はイタリアに学ぶといいのかもしれない。

強い国家と国家主義に自分のアイデンティティを求めるより
一人ひとりの知性や情緒を生かしあい
人間関係と暮らしの再建から
日本社会を本当に自由な社会として再建する
全国民的コラボレーションがいまこそ必要じゃないか。

それをYohは日本再定義と言うわけです。

日本国憲法は国民生活を仕切る基本法としては
世界有数の優れた憲法と思う。

悲しいかな、半世紀の自民党政権はそれを台無しにすることばかり
してきたと思う。

深刻化する格差社会も
国際経済のグローバル化などが原因だというのは皮相で、
国民生活を優先に経済運営を出来ないという
官僚や政治家の暗愚の証明でしかない。

家庭経済、個人消費を、最終需要を大事にしない経済運営に未来はない。

国民は気づき始めているし、
行動も始まっている。

労働組合の組織率、構成員数が増加に転じたという。

社会的反撃が始まった。
それが成功するかどうかは未知だが。

これは企業拡大に伴う
従業員数の増大に比例しての増加ではない。
つまり自分の生活と生存とを賭けた
闘いの数字と読まねばならない。

だが、成功するならやる、しないならやらない、
という怯惰は
この数字を生み出さなかったはずだ。

絶望はかならず希望に接続する。

もしそれが誠実であるならば、
忍耐強く学ぶ知性にめぐまれるならば。

日本再定義には「元年」はない。
ひとりひとりが自分の日本に気づき
定義をし直していくのだから。

貴方の日本、二十一世紀の日本、
自分の理想の、あるべき姿と一体の日本の姿
見えていますか。

Yohの青春時代は
『三丁目の夕日』の時代
あのころの自分を発掘しながら
Yoh的再定義をしていくつもりです。
あのころも
三井三池炭鉱の合理化と閉山で
大阪の街には炭鉱離職者の家族が溢れ
釜ヶ崎の日雇い労働者の騒動がありました。

Yohの若い友人がこの正月の炊き出しボランティアで
釜ヶ崎に詰めています。
今まで社会的関心など弱かった友人ですが
自分で考えがあって行くのだと参加していきました。
ちょっとした感慨と感動があります。

しなやかで
つよい心
やさしくて
ひとにひらかれたこころ
水に似て
自由で純粋なこころ
にほんのことばに
たっぷりと盛られる
あたたかなこころ
そんなこころで再定義する日本に
戦争の立つ場所はない。

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