2012年3月8日木曜日




纏めてる指の若さや桜餅

まとめてる ゆびのわかさや さくらもち


父恋し彼岸のさくら水の影


改訂して  父恋ふや 彼岸のさくら水の影  としたい


2012年3月4日日曜日

「おりん」の旅


日本人の祈り そのひとつのかたち



表示に問題があるので画面をダブルクリックし
youtubeの画面で見ることを勧めます。

2012年3月3日土曜日





いちめんのなのはな 可悲し 海へ 坂


いちめんのなのはなかなし うみへ さか

2012年3月1日木曜日


3.11へのわが想いを作りました。



降る雪や 無辜亡ぼしぬ海の上




往還に季語突き返し 北の春



昏きより昏きに往くか 梅薫る



春の海 廃墟の壁の水明かり






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オーロラ

2012年2月27日月曜日

俳句 はやぶさ

ワーナーマイカル高の原で「はやぶさ 遥かなる帰還」をみてきました。
感想は平凡な感激しか書けないので捨て置きます。
ツレとふたりで映画館は久しぶりでした。
1950年代はまだ戦後の荒廃の余燼が社会に残っている時期でした。
また少年の耳目には南極越冬隊や火星大接近などのニュースが興奮をもたらしていました。
そんな時期に大阪市立電気科学館が初めての児童向け連続天文学教室を開きました。
わたしは友人とふたり受講する幸運に恵まれました。
火星観測で世界的にも知られていた佐伯恒夫さんも講師になった講座ははじめての手さぐり感にみちた楽しさあふれるものでした。なつかしい思い出ですが、今回「はやぶさ」を見ての興奮とよろこびにはそうした少年の日々の宇宙への憬れが自分の中で目を覚ましていた気がします。
映画の変に「日本と日本人は素晴らしい。万歳」みたいな陶酔を誘導するようなところのない描き方も好かったからでしょう。静かな喜びに包まれて見終えました。エンディングの糸川博士たち宇宙研究開発の先人の写真も最後まで見て席を立ちました。

オーストラリアの砂漠地帯の6月の夜空に燃え尽きていく「はやぶさ」に日本の宇宙研究の水準の高さと研究者の誇りへの賛歌を詠んでみたくなり季節外れの句ですが作りました。

天空なるや はやふさ 消えし 夏の闇

あめなるや はやふさきえし なつのやみ



同じこの時期に公開中のイーストウッド監督、デカプリオ氏主演の「J.エドガー」も見たくて何とか時間を作ろうと思います。近く公開予定の「戦火の馬」の予告編も見たので見たいと思っています。
スピルバーグ監督の「戦争映画でない」戦争映画です。

2012年2月24日金曜日

妻へ 2句

春霞 隠れごころでつづく恋
             はるがすみかくれごころでつづくこひ

妻こひし むかふを向いて 春の閨
             つまこひしむかふをむいてはるのねや

春愁ということばがあります。
含蓄のあることばです。

そのなかに恋のこころも含んでいるはず。
年老いた夫婦のあいだに消え残る恋もあるとすれば
どんなものか、口に出すと嘘に変わるとしても、
言ってしまいたい気もしてくる春の宵。
かくれんぼの続きのままに燠火になったものもある。
時には枕を並べてしゃべりながら眠ってしまうことを欲していることもあるが、
もうそっぽ向いて寝てしまっていたりして、ものさびしく天井を見上げていたり。
そんな老いたる男の、らしくない恋の句。

2012年2月22日水曜日

賢島の温泉にて





早起きして大浴場で日の出を見ていました。
元気でたかと太陽に聞かれた気分になりました。


英虞の春 蹴り開け放つ大朝日






英虞湾の温泉地で咲き乱れる菜の花を見ました。


 菜の花に寄りて静まり英虞の海


夏目漱石に幾つかいい菜の花の句がありますが、気に入った一句は。


 漱石 
    菜の花や城代二万五千石

2012年2月19日日曜日

俳句 藪椿


藪椿 雪の貴船の 雪のうへ

雪受けて 紅い花弁のまゝで落ち

藪椿 きふねの雪に逢い初めし

奥つ宮 ゆき ゆき きふね 藪つばき

まんてんの ゆき ゆき 滂沱 藪つばき

2012年2月9日木曜日


仕舞ひ際 をとこ厨房の渾り酒

遠白き夜明けの空や凧あがる



遠白き夜明けの空や凧あがる

薄明のだだっぴろい空に春めいたまだうそ寒い風。
凧がひとつ上がっている。

新芽の赤さに春を感じた句


              ルージュ
風止んで芽立ちの赤さ春めきぬ



風やんで芽立ち赤さ春めきぬ


まだ冷たい風に耐えて身を縮め風が止んで気も緩む
そこに赤いものが新芽だった。春を感じた。

2012年2月8日水曜日

90歳を越えた母の傍で







  待つ皃で小雪に眺いる母の傍


  ふと弱気云ひかけ 雪に又笑みて


  老ひと云ふは病にあらず 雪已まず


  春来れば歌舞伎を見せむ 春くれば

2012年2月2日木曜日


Canon 5D MarkII での動画撮影だという。綺麗なものが取れるものだ。

A Week In Montana from Preston Kanak on Vimeo.

2012年1月19日木曜日

年の暮れ雑感を詠む


冬の空はあっという間に暗くなる。その移り際の暮れ色に魅かれる。

別姓を保って暮らしたいふたりにこの国は優しくはなかった。それももう暫くだ。
民主党政権はこの点でも裏切ってくれました。でも期待外れの人生、とは言わない。

大夢は人生の比喩。夢のような人生の意。浮生夢の如し。
路地はろじ或はろしと読む。大阪では「ろーじ」とも。
蕪村の「路地の細さよ」という感慨がわかる歳になったねぇ。胡蝶は君かそれともぼくか。
奥へ奥へと迷いながら縺れ飛ぶ蝶ふたつ夢の中、人生の中、どこまで一緒なのか。

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2012年1月16日月曜日

短詩 自由律俳句風



コンビニで買うおむすびみたいな君がなぜか心に載っている


振り返ったその娘(こ)はあの娘 もう髪切って目顔おとなで


「夢 無いよ」と言ったけど むかしと変わらない柔らかい髪だ


コーヒーの匂いがする指でピアス外して ぼくを見るな

2012年1月8日日曜日

寄合に行く

じぃじ ばぁば 集いて夜話の寒桜


大勘定の寄合は一年に一度の自治会の決算日。
    川柳一句浮かぶ。
煩悩を除いた顔か「福笑い」 


    テレビ番組を一句。
不真面目とドギツイを混ぜて『バラエティ』 

鴛鴦もレジで会うまでいきわかれ 


    クリスマスの俳句
亡妻(きみ)と買いしクリスマスローズ追憶う夜

風つよくイブの 星 映る爪の冷え




 

2012年1月4日水曜日


風つよきイブの窓べに生爪冷え

「収束」の建屋に虚し片時雨



2011年12月23日金曜日

テントで年を越すひとびと

経産省前テントもまもなく年を越す。
http://civilesociety.jugem.jp/

「収束」の建屋に虚し片時雨 蛙逝


http://civilesociety.jugem.jp/
civilesociety.jugem.jp

「東電値上げ要請 上乗せ「総原価」手つかず」 東京新聞

「東電料金値上げ 政府は抜本的支援策の検討を」 読売社説


読売新聞の政治姿勢は明確だね。原発推進、東電擁護。
さすが「正力松太郎」の息のかかった新聞だけのことはある。


八ツ場ダム続行

土建屋国家再スタート。

大臣と一緒に地元の政治屋万歳三唱。

民主党の公約違反だけじゃなく、こういう構造を変えられないことをこそ議論してくれないとね。
一方で公務員・官僚をひとくくりに経費削減の大合唱が税金の無駄使いを名目になされているのに、これはどうだというのだろう。

2011年11月27日日曜日

貴船もみじ灯篭 liveイベント情報: バチホリック BATI-HOLIC

貴船もみじ灯篭 liveイベント情報: バチホリック BATI-HOLIC: 和太鼓と唄と踊り 11月27日(日)PM5時30分〜 日本各地に伝わる和太鼓・踊り・唄及びそれらをもとに作曲。 京都を中心に全国各地、海外で演奏活動を行う。日本各地を旅し、 現地の人々に学び、 BATI-HOLICなりのアレンジを加えることで伝統を踏襲しつつ も現代社会に即...

2011年11月25日金曜日

古代中国の夜空に広がっていた星座の一端はこのようなものだったらしい。
古代史の背景として暦や天文の知識の水準がどうであったかという理解が必要と気づいて少し本を読んでみている。
謡曲「弱法師」の中に出てくる不思議な一節「彼の一行の加羅の旅云々」にある「いちぎゃう」こと一行は僧侶であっただけでなく高度な数学と天文知識をもち造暦の技術で唐代の改暦に名を残したという。一行暦がそれであると。
ふん。
「弱法師」では過罰的な旅路で一行を助けて夜空の天体が行く道を照らしたという伝説を既知のこととして地の謡いに使っているが、作者の元雅(だったと思う)はどこからその知識を得たのだろう。
芸能史にはこうした謎めいた事実がいっぱいある。
人生の変転に比して夜空の星はほとんど変わらないように思っていても、実際はそうではない。
本に載っているこうした星座は一般の農民たちなどには無関係のものだったのだろうか。
日本の近世の農民は星を謡うことが少なかったとは言えないが星座の名は少ない。せいぜい昴など。
「月は東にすばるは西にいとし殿御はまんなかに」などはよく知られた農民の歌だ。
占星術と一体になったそれ故に観測を必要とする暦学のあった中国ではその世界観から生み出された星座もあったのではないだろうか。
いろいろなことを思うのだが、今の自分にはまだ深く読み進むだけの学力がないので疑問は疑問のままになって残っていくばかりだ。
もっとも手の着かない疑問を持ったままでいるのもきらいではないのだけれど。

地球からわずか数百光年先の恒星が超新星爆発を起こして死ぬということが最近の研究で分かったという。その話が今夜深夜にNHKで放映されるという。
ぜひ見なくては。人類はどうなるのだろう。
今日爆発して光速で爆発が広がっても数百年先の話だけれど。
何らかの影響はあるのだろうな。
原発事故どころじゃない宇宙からの衝撃に無傷でいられるのだろうか人類は。
美しい星の世界は同時に荒々しい力の発現する場所でもある。
知りたい気持ちと身のすくむ恐ろしさとを一緒に感じる場所、宇宙。

2011年11月10日木曜日

原発事故現場の米国製ロボットは Roombaの兄弟で、改造された軍用ロボットだって知っている?

iRobotの最高経営責任者(CEO)で
スーパーギークのColin Angle氏が
「スター・ウォーズ」ファンなのは、
意外なことではない。

勇敢なR2-D2や
ヒト型ロボットのC-3POが賞賛される中で、
Angle氏は平凡な「MSE-6」に感心する

MSE-6は床の上を走り回って修理をしたり、
「デス・スター」で大勢のストームトルーパーを先導したりする小型の箱形ドロイドだ。

それはなぜか。Angle氏は、
「われわれはあのロボットを作れるからだ」と言う。

R2-D2やC-3POを崇拝するのではなく、
たとえありふれていて
美しくなく危険なものだったとしても
実際の問題を解決することに
ロボット業界が注力すれば
世界は今よりもずっとよい形になるかもしれない。

Angle氏は先週ボストンで開催のRoboBusinessカンファレンスで
開会のスピーチを行い、起業家やエンジニアに対して、
現実的になり、ビジネスの実際的知識を得るよう促した

そうしたアプローチが
iRobotによい結果をもたらした例は枚挙に暇がない。

同社は膨大な数の「Roomba」掃除機を販売したことに加え、

イラクで道端の爆弾から信管を取り除いたり
アフガニスタン洞窟内を捜索したりする
PackBot」ロボットも数多く配備している。

また同社エンジニアは、
2010年のメキシコ湾原油流出事故の後に
深海部の原油プルームを探したり、

福島原子力発電所で
部分的炉心溶融が発生した後に
調査を行ったりするために、
カスタマイズしたロボット
を提供した。

ニュースソースはhttp://japan.cnet.com/interview/35010207/
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お掃除ロボットで有名なメーカーは

同時進行でアフガンやイラクで
兵器として、兵器補助機械として、稼働中のロボットのメーカーでもある。

利潤のためには軍用も民生用も区別ない。

もういちど読んでおこう。
たとえありふれていて、
美しくなく、危険なものだったとしても、
実際の問題を解決することに
ロボット業界が注力すれば、
世界は今よりもずっとよい形になるかもしれない。

危険なものだとわかっていてそれを利潤の手段にする企業経営者に
世界は今よりもずっとよい形になる、などと言わせてはいけない。

IT化された兵器にあふれた世界で保たれている秩序を
「今よりずっと良い形」と思うのは悪魔的思考というほかない。

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2011年11月9日水曜日

井上薫「聖徳太子『異名』論」のメモと感想

井上薫「聖徳太子『異名』論--なぜさまざまな名をもつのか」
                  (『歴史読本』1996年12月号)


『歴史読本』は、歴史ファンを対象とした一般雑誌。
玉石混淆の内容。
井上氏は「聖徳太子」「厩戸皇子」「東宮聖徳王」「上宮厩戸豊聡耳命」について触れている。、
中でも「厩戸皇子」について詳しく論じる。
まず家永三郎の研究の紹介。
古代の皇族の名は地名か氏族名にちなんだものが多いこと。
『文徳実録』に「先朝の制は、皇子の生れる毎に乳母の姓を以て之の名と為す」とある。厩戸皇子の場合も「厩戸部」に由来すると主張。
坂本太郎氏の反論。
厩戸部という部民はない。当時、馬の飼育にたずさわっていたのは馬飼部である。井上氏は、「厩戸」は氏族名ではないかとし、岸俊男の論文、
「日本における『戸』の源流」
                  (『日本歴史』197号、 1964年10月)
に支持をもとめる。
岸論文。
飛鳥戸・史戸・他戸・楯戸、その他、「戸(べ)」の字を含む17の氏族がある。それらは朝鮮からの渡来人系に限られており、大和・河内・和泉・摂津・播磨・豊前近江・美濃・越中・武蔵・常陸に分布。
定着は6世紀にさかのぼるといい、特に河内の高安郡と安宿郡に集中していることを明らかにした。
井上氏は、この論文を基にして、
(イ)厩戸氏の女性が太子の乳母をつとめた、
(ロ)厩戸氏が馬の飼育や調教などの技術で太子に仕え重く用いられた、
のどちらかであるとし、後者を重視します。敏達朝の官司制の進展に伴ったもので馬と関係が深かった皇子の名の「厩戸」は「うまやべ」なのだと言う。
その証拠の一つ。
天平神護元年(765)。
馬養造人上の言上によれば播磨国印南野に居た祖先の牟射志は、よく馬を養うことができ、厩戸皇子に仕えて馬の司に任じられたが庚午年籍の造籍の際、誤って馬飼部に入れられたという。改めることを許された。
井上氏はこれを太子の馬官が古来の伴造制の官司とは異なっていたことを示すとする。
他に挙げている証拠。
渡来人である司馬達等は、名から見て馬をつかさどる職掌であって、その子孫は鞍作氏となっている。鞍作氏は蘇我氏だけでなく上宮王家とも関係が深かった。こうした論点に基づいて
「厩戸」は「うまや(の)と」ではなく、「厩戸(うまやべ)氏」に由来する。
後にそれが忘れられた結果、「馬小屋の戸のところで生まれた」などという伝説が生まれた。
厩戸皇子が馬および渡来系氏族と関係が深いこと。
「厩戸」という名がその関連を示唆するものであるのは確かだろう。
「厩戸氏」という氏族が実際に存在したか。
用明天皇や上宮王家とその氏族が関わっていたか。
その記録は残っていない。以上は 聖徳太子研究の最前線 より要約したメモ
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しかし 厩戸を「うまやべ」と読めないかと気づいた私にとってはとても興味深い論考だ。大阪府八尾市にある穴太神社の社地は聖徳太子の生母の屋敷のあったところという伝承がある。河内高安も八尾市域だがそこに渡来系の人々の集住があったことも事実だ。重ね合わせると平群から高安にかけての渡来文化ベルトのようなものが見えるようだ。聖徳太子という名で知られた人物の文化的背景は河内につながっているのだ。

2011年11月5日土曜日

佐藤一斎の三学戒

三学戒

少にして学べば則ち壮にして為すこと有り

壮にして学べば則ち老いて衰えず


老にして学べば則ち死して朽ちず


晩学は不朽のためと言うのか。
いやいや
真理の側に身を置くことの矜恃を言うのだろうね。


少(わかもの)にして学ぶことは多かった。
壮(おとこざかり)において学ぶところが
疎かだったねぇ…ワタシ。
老(きわもの)となって猶学ぶことを取り返すのは
ワタシの場合は執心だろうね。
老いは際物だと思うからじたばたしてしまう。
それが「知って死ぬ」という衝動かなあ。


でも単純に楽しく嬉しいんだから、
それでよかろう。
傍迷惑は仕方があるまい…
面白がってくれる他人(ひと)には
ちょっとお裾分けするんだから良いだろう。


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2011年10月15日土曜日

蝦夷地域の統合へのステップ

文武元年(六九七)十月壬午《甲子朔十九》  
冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。

陸奥の蝦夷、方物を貢す。

文武元年(六九七)十二月庚辰《癸亥朔十八》 
十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。

越後の蝦狄に物を賜うこと、各々差有り。

文武二年(六九八)六月壬寅《十四》     
壬寅。越後國蝦狄獻方物。

越後國の蝦狄、方物を献ず。

文武二年(六九八)十月己酉《廿三》     
己酉。陸奥蝦夷獻方物。

陸奥の蝦夷、方物を獻ず。

文武三年(六九九)四月己酉《乙酉朔廿五》
夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。
越後の蝦狄一百六人に爵を賜うこと差有り。


和銅三年(七一〇)正月丁夘《十六》
丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。
奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。
隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。

天皇、重閣門に御して、文武百官并びに隼人、蝦夷に宴を賜う。
諸々の方樂を奏す。
從五位已上に衣一襲を賜う。



和銅三年(七一〇)四月辛丑《廿一》
辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。

陸奥の蝦夷等、君姓を賜わり編戸を同にせんことを請う。之を許す。

天平宝字元年(七五七)三月乙亥《廿七》
乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。

勅。今自り以後、藤原部の姓を改めて久須波良部と爲し、君子部は吉美侯部と爲す。


神亀元年(七二四)二月壬子《廿二》
壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。
(中略)從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。 

2011年9月27日火曜日

顔淵死す


272  顏淵死、門人欲厚葬之。
子曰、不可。
門人厚葬之。
子曰、回也、視予猶父也、予不得視猶子也。
非我也、夫二三子也。

272
顔淵死す、門人之を厚く葬らんと欲す。
子曰く、不可。
門人之を厚く葬る。
子曰く、
回や、予(われ)を視ること猶父にするがごとし。
予、子にするがごとくに視ることを得ざりし。
(ああ)我(の為す)に非らざるなり、
夫(か)のニ三子(の為)せるなり。

最も将来を嘱望していた顔回が死んだ。
孔子の気持ちを忖度して門人たちは盛大に葬儀をしたいと申し出たが
孔子は「不可(いけない)」と答えた。
だが門人たちは準備をして盛大に葬儀を執り行った。
孔子はそのことを悔やんで言った。
回はわたしをまるで父親にするように親身に見守り仕えてくれた。
わたしはわが子にするように回をしめやかに送ってやれなかった…
私が願ったのはこんな葬儀ではなかった、
あの弟子たちときたらなにもわかってくれなかったのだなぁ…

2011年8月4日木曜日

三年

冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。

遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。

記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。

白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。

この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。

同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。

賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。

白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。

王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異

2011年7月18日月曜日

ジブリの新作アニメ 「コクリコ坂から」 

 昭和レトロという言い方がすっかり当たり前になった現在の日本では
昭和38年(1963年)は歴史の中にぼんやり浮かんでいるわけですが、
私的には鮮烈な特別な年であった。

そのS38に時機を設定したアニメ「コクリコ坂から」が出来たというので
ネット予約をして翌日のオープンの日に
近くのWBイオンシネマシアターへ行って見てきた。

舞台は横浜。時代は東京オリンピックの前年。
主人公たちは高校三年生。

旧制中学校時代からの鉄筋コンクリート建物の校舎。
木造のそれより古い洋館風の建物(に入っているのは
個性的なクラブやサークルの部室)がでてくる。

懐かしすぎる風景。

自分の通った高校もよく似た雰囲気だったから
まるで主人公達が昔の自分たちのように感じられて
いつの間にか画面の中に入り込んでいるような気分で
目を瞠っていた。

青春は何時の時代でも同じ青春。
でも時代によってかたちは違っている。

ジブリのアニメとしては
息継ぎ的な作品と思うのだけれど
懐かしさをかき立てて
思い出のシャンパンの泡に包んでくれたので
ぼくには100点の出来。

ガリ版印刷なんて知らない世代のほうが多い昨今。
ガリ切りでペンだこできながらも ビラを作っていたことを
思い出させてくれた「コクリコ坂から」には
しばしの幸せをもらった。

物語の中では
海が輝き 風が光ってた。
信号旗がはためき
少女の瞳の中を 空が流れていった。

暑い夏の贈り物
あの熱い青春の記憶
揺さぶり起こしてくれた佳作「コクリコ坂から」

美味しい紅茶と白いケーキのような
甘く薫る初恋にも
出会えるアニメだ。

2011年7月1日金曜日

近くの町、井手町議会は全会一致で「原発脱却」意見書を採択しました。

井手町で「原発脱却」決議が全会一致で採択されました。
日本共産党の谷田議員が議会運営委員会で提案した内容をもとに
保守系の副議長が提案したものです。

原子力発電からの脱却を求める意見書
 福島第一原子力発電所は、平成23年3月11日に発生した東日本大震災により、1号機、2号機、3号機がメルトダウンを起こし、現在その収束の道筋さえ見えない深刻な事態に陥っている。
 この過酷事故によるおびただしい放射性物質の汚染により、福島第一原子力発電所から半径20キロ圏内の「警戒区域」、ならびに半径20キロ圏外の「計画的避難区域」に指定された住民は、住み慣れた家、職場を追われ、故郷に帰れる見通しもなく、苦痛な避難生活を送っている。
 本町でも、隣県の福井県に14基の 原子力発電所が立地しており、この過酷事故を決して他人事と片づけることはできない。原子力発電所は、多重防護による対策が取られているから過酷事故は起 きず絶対に安全だという「安全神話」が完全に崩壊したことにより、福島第一原子力発電所の事故発生以来、日々住民は原子力発電所事故に対し不安と危険を覚 えている。
 よって、井手町議会は、福島第一原子力発電所の過酷事故を教訓に、子孫にこのような不安と危険を残さないため、国においてエネルギー政策の抜本的な転換を図り、期限を定めて原子力発電から脱却することを強く求める。
 また、その期限に至るまで、このような過酷事故による危険を二度と起こさないため、原子力発電所の安全確保に十二分な措置を新たにとるよう、国に対し次のとおり要望する。
               記
1 期限を定めて原子力発電から脱却し、代替エネルギーに転換する新たなエネルギー政策を定めること
2 原子力発電所の安全を確保するため、30年を超え、高経年化している原子力発電所の運転の延長を認めないこと
3 原子力発電所にかかる緊急時計画区域(EPZ)を始めとする安全基準の抜本的な見直しを図ること
4 原子力安全・保安院は、より一層原子力発電所の安全の確保を図るため、原子力利用を推進する経済産業省からの分離・独立ならびに権限強化を行うこと
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
平成23年6月29日
京都府綴喜郡井手町議会

2011年6月26日日曜日

白村江敗戦の国難から平城京が出来た、だから日本人は偉い…という漫談。

さきほどNHK日曜討論での五百旗部発言はあきれた。

白村江敗戦の国難から平城京が出来た
(日米戦争の敗戦という国難から大発展したのと同じとおもっているのか?)
という珍説をのべた。

国難というショックと危機意識が
国内対立を棚上げし
有無を言わさない大開発を可能にし
(投資チャンス)をもたらすという「経験則」で
勝手な想像をしているのだが
頭の中身が思わず露呈したのだろう。

しかし、むちゃくちゃな議論だよ。
藤原京だってそう言えないだろうに。
高安の烽火(とぶひ)が作られたような状況は
一過性のもので終わった。
当時の為政者は分かっていたはずだ。


大津京の建設や
壬申の乱を
白村江の敗戦と結びつけるのなら分かるが。

「国難が強い国を作る」云々は、
被災者そっちのけの「復興開発」商売への露払い。
思わず口に出た感じ。

村井宮城県知事も「日本人の美質」を盾にとって
震災復興という名前の財界・官僚主導の民活計画の推進を言う。

それを当然視しての番組作りである。

批判的な意見など出ない番組を平気で作るNHK。
それは結果として情報格差の震源地になることだ。
せめて当事者である住民の声を反映するくらいの
配慮を効かせる工夫は出来るはずだ。

そう言えば村井知事の企業参入での漁業再建計画には
圧倒的に漁業関係者は反対なのに、
(その当事者を無視して知事は「計画案」に固執して再考を拒否したが)、
NHKは賛成派もいるという報道をしていた。

結論が先にある報道は公共放送のすることではない。

復興へはさまざまな提言がなされている。
それらを総合的に議論する場をこそ
NHKは公共放送として企画する責務がある。

多数派だけでの政策づくりの旗振り役では
政権党に無批判になるよう国民を呉誘導し、
国民への正確な事実報道という中心的任務への責任を裏切ることになる。

こういう番組作りは止めるべきだ。

2011年6月23日木曜日

辛酉。 陪從せる仕丁仕女已上及び僧都已下に綿を賜うこと差有り。


巻卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉
賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差

巻の卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉。
陪從せる仕丁・仕女已上、及び僧都已下に綿を賜うこと 差有り。


十月己酉《十五》◆己酉。車駕幸飽浪宮。
十月辛亥《十七》◆辛亥。進幸由義宮。
十月癸丑《十九》◆癸丑。以從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲河内守。左中弁右兵衛督内匠頭並如故。
十月乙夘《廿一》◆乙夘。權建肆廛於龍華寺以西川上。而駆河内市人以居之。
陪從五位已上以私玩好交關其間。車駕臨之。以爲遊覽。
難波宮綿二万屯。塩卅石。施入龍華寺。

十月辛酉《廿七》◆辛酉。賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差。

十月壬戌《廿八》◆壬戌。授无位上村主刀自女從五位下。時年九十九。優高年也。

この十月二十七日の記事は称徳女帝が現在の大阪府八尾市である地に造営された由義宮(ゆげのみや)に滞在中の行動のひとつである。
注目されるのは左中弁右兵衛督内匠頭である藤原朝臣雄田麻呂に河内守を併任させたこと、龍華寺の西の川上に肆廛を權建(仮に建てる)して河内の市人を「駆」(追い入れる?)して居住させたこと、難波宮のニ万屯の綿(まわた)などを竜華寺に施入したこと。

これは此処を宮都とするに同じい行動である。

肆廛は文脈からみて「市場」である。市人(いちびと)に強制して居住させるのはここを東西の市(平城京)と同等な場とするための伏線でだから「權建」なのだろう。

無位無官の老婆にいきなり從五位下を与えている。宮殿に上れる身分の従五位下であり、上村主(かみのすぐり)は在地の豪族の圏内の人物だから、これも一種の利益誘導だ。
気風のいい主権者として自己を演出している。

道鏡への愛の発現という角度から見ると空恐ろしくもあるが…。

反対するものを意識しつつも強引に進めるという女帝の姿勢がはっきり見える気がする。
その一方で従う仕丁や仕女、また竜華寺の僧侶たちに物を下賜して周囲を固めているのがこの十月二十七日の記事なのである。
ryugejiato.jpg

由義宮の比定地は説があるとしても八尾の市内のどこかで現在はここが有力か。

http://bit.ly/jFNSXB
「由義神社は、由義宮を西ノ京に神語景雲三年(769)孝徳天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郎にまたがる広域の中心由緒 深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内五社の一社 である立派な旧社であったが、 中世度重なる兵火により消失した。」

この放送、団塊世代にはイイかも

音楽が世界を動かす
ロック、フォーク、リズムアンドブルース、レゲエ、ラップ、ジャズ・・・。音楽が人びとの心に訴えかける力とそこにこめられたメッセージは時代を動かし、社会の変革に大きな役割を担ってきました。音楽は人びとの思考にインスピレーションを与え、精神を高揚させ、多くの人びとを団結させることができます。公民権運動やヴェトナム反戦から反アパルトヘイトまで、そして今も続く第三世界の貧困やエイズとの闘い、それらの運動は音楽と手を取り合ってきました。 


本講座はアメリカとイギリスのアーティストたちを中心に、
20世紀の音楽がいかにして政治やさまざまな運動と関わり、
社会の中で大きな役割を果たしてきたかを振り返ります。
講師は金沢出身の五十嵐氏。 
五十嵐 正(いがらし ただし) 
1958年石川県金沢市生まれ。金沢大学大学院教育学研究科音楽教育修士課程修了。
フリーのライターとして国内外での取材、音楽雑誌の記事執筆。
アメリカのフォーク、ロックの分野に詳しい。 
東京南青山にあった伝説の輸入レコード店「パイド・パイパー・ハウス」での
勤務経験もあり。ミュージック・マガジン誌で
「五十嵐正のフォーキー・トーキー Folkie Talkie」連載中。 

久しぶりに 
NHKラジオ第二聞いてみよう。 
スケジュール表は 
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch03/1107.html 

最近はLogitecのUSBラジオをPCにつないで予約自動録音できているので、
好きなときに聞くことが出来ます。 
夕食後 
見たくもないホームドラマなどに付き合わず(ツレの好きな番組とか)
イヤフォンでゆったり聞くのがいいのです。 
手はPCで漢詩の漢字を調べたりしながら。 

21世紀から見る『資本論』~マルクスとその時代~」というのも面白そうだな。 
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html

わたしの「自慢」は若さの馬鹿力で経済学部でもないのに 
あの難しい資本論を三巻のうち第一巻だけですが
二回読み通した(笑)こと。 

それで忍耐力だけは絶対に自信があった(笑) 
ですが 
年をとると気が短くなって… 

確かに資本論の捉えている資本の本性は 
今東京電力を見ていると変わらずにある。 
「資本論の国」といわれたソ連が崩壊しても 
マルクスも資本論も消え去らないのは 
資本論が真理を捉えているからですね。 

ソ連が「資本論に背いていた国」だっただけです。 

で21世紀にマルクスの文章と資本論はどう読まれていくのか
興味深いですね、わたしには、ですが。 


ぼくには「こっくりさんと資本論」という 
ちょっと面白い経験があるのですが 
記憶があいまいになりかけているので 
その話はまたいつか。 

資本論を読んでもそこに世界の今が書いてある訳は無い。 
でも資本論の論理を使えば
随分と世界は見通しよく見えてくると思います。 

思考力を鍛えることのできる本のひとつとして 
若い人にはお勧めできる一冊です。 

若いころのがんばりを思い起こして 
この放送も聴いてみようかと思います。 http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html

2011年6月20日月曜日

甲辰奉幣帛于住吉社

巻三 慶雲元年(704年)七月廿一日 甲辰。
奉幣帛于住吉社。

巻の三、慶雲元年(704年)七月廿一日 甲辰(きのえたつ、こうしん)
住吉社に幣帛を奉ず。

〇 これだけではその意味は判らない。
手がかりは月日だが…
この年の春は旱魃で雨が降っていないので、諸社に遣使して幣帛を奉げている。
住吉社は航海の神であるがもともと水神だから関連があるのかもしれない。
しかし降雨を祈念するならその旨を記すのが普通だろう。
むしろ一般的に国土の平安を有力な神に祈念したとみるのが穏当かもしれない。

遣唐使等に関連しての住吉社の記事はあるが単独で目的を書かない記事は此処だけだ。
住吉社の続日本紀での初出の記事だが、
他の神社と並んでではなく単独で記されているのは此処だけのようだ。

<住吉社と朝廷との関係、紀記ではどうかと気になったので書いておく>

辛亥車駕幸平城宮

巻四 和銅二年八月
辛亥。車駕幸平城宮。免從駕京畿兵衛戸雜徭。

巻の四 和銅二年(709年)八月廿八日 辛亥(かのと い、しんがい)
車駕、平城宮に幸す。駕に從える京畿の兵衛は(その)戸の雜徭を免ず。

阿閉皇女が即位してなった元明天皇の行動記録である。

車駕は天皇のことを指している。
行幸するときはこういう表現になる。
乗り物を指すのではなく乗っている天皇を指す。
したがってこれは「天皇平城宮に幸す」という意味だ。

新京の平城宮はまさに建設の最中にある。
前年岡田離宮や春日離宮に行幸した際も物の下賜と免除を行っている。
行幸に従うため近畿の各地から動員された兵衛たちに戸ごとの雑徭を免除したのである。

平城宮の建設に関わる負担は大きかった。
それでも新京は着々と建設されていく。
.

戊寅山背國相樂郡狛部宿祢奈賣一産三男

巻五 和銅四年(七一一)七月五日 戊寅
山背國相樂郡狛部宿祢奈賣一産三男。
賜絁二疋。綿二屯。布四端。稻二百束。乳母一人。



巻の五 和銅四年(771年)七月五日 戊寅(つちのえとら、ぼいん)
山背國の相樂(さがらか)郡の狛部宿祢(こまべのすくね)奈賣(奈売:なめ)が一(度)に三男を産めり。
絁(あしぎぬ)二疋、綿(わた)二屯、布(あさぬの)四端、稻二百束、乳母一人を賜う。

事実は簡単な内容である。

我が家の近所であるが、現在の木津川市山城町上狛の住人であろう。
当地は三角縁神獣鏡大量出土で有名な椿井大塚山古墳の所在地の近くである。
高麗系の人々の定住地で外交施設・高麗館(こまのむろつみ)があったところと言われている。

狛部宿祢(こまべのすくね)奈賣(奈売:なめ)が三つ子の男の子を産んだので
絁(あしぎぬ)二疋、
綿(まわた)二屯、

布(あさぬの)四端、
稻二百束を与え
それに乳母一人を付けてやった、という記事である。

絁は絹布の一種である。
布は普通は麻布を意味している。
どちらも交換性の高い貨幣としての価値もある。
実用とのみ考えるべきではない。

ここでは二疋(ひき)、二屯、四端という量に注目しておこう。
疋と端(反)は現在でも布の量の単位として受け継がれている。
綿の屯は嵩ではなく重さの単位だろう。

こうした官による恩賜の存在がもつ社会的意味は何だろうか。

救済的意味合いのものとは区別されるべきだろう。
珍しいゆえの吉兆慶事は、王化の成果として、公的に認知して

天下に帝王の徳を示す目的だろうか。

.

行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜

巻廿三 天平宝字五年(七六一)五月

丙午 使散位外從五位下物部山背。正六位下曰佐若麻呂。行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜。

巻の廿三
天平宝字五年(761年)五月廿三日 丙午(ひのえうま)

散位外從五位下の物部山背(もののべのやましろ)、正六位下の曰佐若麻呂(おさのわかまろ)を使して
畿内の陂池(いけ)・堰堤(つつみ)・溝洫(うなで)の(それに)宜しき所を行視せしむ。

少し訓読の妥当性に不安があるが、意味は読み取れたように思う。

当時のトラフィックや農事のインフラの土木工事の適所を視察して選定することを二人が命じられ行くという記事だ。

記事の基になった史料は役所の発令の文書(その記録)である。まだこの日付の時点では二人は出動していないのである。

曰佐若麻呂は帰化人系の技術者かもしれない。すくなくとも二人の下に実務に詳しい技術職や事務職がいるのである。

それにしても、旧暦の五月末といえば今の暦で6・7月であるが適当な時季かどうか?
むしろ既設のものの点検と補修の要請を受けての発令ではないだろうかという気がする。

こういう記事の持つ意味の検討というのもひとつの研究のモチーフであるように感じた。

2011年6月19日日曜日

九月辛巳授正六位上後部高笠麻呂外從五位下

古き京で拾った恋は
 「続日本紀を読む心」

『続日本紀』巻廿

天平宝字元年(七五七)九月六日 辛巳《丙子朔六》

九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。

九月辛巳(六日)。 正六位上の後部の高笠麻呂に従五位下を授く。

本人は優秀な金工(金属工芸家)であった。

≪<

高笠麻呂という金工(金属工芸技術者)がいた。奈良の平城京の左京六条二坊に居住し、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼会に使用された、表題の「裁文」を製作した。

「裁文」は大型の金銅透彫板で、最も長い部分が43.5センチの、雲を造形化したものである。たがねで細部を線刻し、全体に渡金していて、柄の片面の部分に「東大寺高笠麻呂作/天平勝宝四年四月九日」と二行に分けた銘があり、また、柄の部分に花喰鳥の流麗な線刻がある。http://bit.ly/k9V0WI

>≫

五年たって従五位下を授けられたが、これは金工であった彼の作ったものへの褒美ではないだろう。通常の昇進とみなせよう。だが作品に署名を残しているほど自負は大きかったのだろうし周囲の評価もあったに違いない。

家系的には高麗系の技術職の家柄であったらしい。

高句麗系の官位に前部(ぜんほう)後方(こうほう)があるので

後方・高(麗)を姓としたのだろう。だから「しりとべ」といった読みは後からのものであろう。

当時どう読んだかは検討が要る。

≪<

正倉院文書の天平十七年(745)に後部高多比、天平宝孝元年(757)に後部高笠麻呂、同五年に高麗の人後部高笠麻呂などの名が見える。姓氏禄に後部高は高麗国の人、後部高千金の後裔となっている。

そして、平安時代には坂上田村麿の征夷に、尻高氏は上野十四郷の加勢一千騎とともに従軍し、大嶽根山の戦いに大功を立てたと言い伝えられている。

http://bit.ly/mnAXpb

>≫

住居は朱雀大路を挟んで大安寺と薬師寺が向き合うその中点あたり当時の五条と六条の通りに挟まれた場所であった。今の八条町のあたりである。

住居がわかるのも面白いが文書が残されているのだろう。 http://bit.ly/iQ2tcG

2011年6月18日土曜日

洛陽道  儲光羲

大道直如髪   大道 直きこと髪の如く 
春日佳氣多   春日 佳気多し
五陵貴公子   五陵の貴公子
雙雙嗚玉珂   双双 玉珂を鳴らす 


洛陽道は都洛陽の大通り。真っ直ぐ長い髪のように伸びている。
 春日(なぜか私の得たテキストでは春来とある)は佳気多し、とは
春の日のうららかであること、うきうきさせるものが多いこと。
ただ天気がいいというのではない。佳人を「よきひと」と読むのにおなじ。
五陵は場所。有閑の貴族子弟や遊侠の徒が集まる繁華な場所。
双双は擬音語。玉製の馬具『玉珂』が触れ合って立てる華麗な音である。  

大道|直|如髪
春日|佳気|多
五陵|貴公|子 (貴|公子か…?)
双双|鳴|玉珂 

詩経のなかに「綢直如髮」という表現がある。
絹糸と道ではずいぶん違うようにも思えるが、大道(ひろびろとした道)が長い髪をほどくように真っ直ぐ伸びているのだ。

大道は地、春日は天(時)、貴公子は人、そしてさんさんと鳴る玉の馬具は繁栄を象徴している。 どこか「祝祭性」の感じが漂う詩だ。

日常を切り取るかに見えて実は…多分に「越境」している。
こう解してよいのだろうと思う。

安史の乱が起こる前の太平楽然とした洛陽の風俗を抽象的に
ただ双双と鳴る玉珂に焦点を結んで切り取って見せた詩である。 

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子 

「みだれ髪」 この歌でも具体的な対象は櫛と髪。
二十という時春という時が輝きと色と重さをもっている。 
春と青春をともに掬い上げて残すところのない詩歌ふたつ。