2011年6月23日木曜日

辛酉。 陪從せる仕丁仕女已上及び僧都已下に綿を賜うこと差有り。


巻卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉
賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差

巻の卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉。
陪從せる仕丁・仕女已上、及び僧都已下に綿を賜うこと 差有り。


十月己酉《十五》◆己酉。車駕幸飽浪宮。
十月辛亥《十七》◆辛亥。進幸由義宮。
十月癸丑《十九》◆癸丑。以從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲河内守。左中弁右兵衛督内匠頭並如故。
十月乙夘《廿一》◆乙夘。權建肆廛於龍華寺以西川上。而駆河内市人以居之。
陪從五位已上以私玩好交關其間。車駕臨之。以爲遊覽。
難波宮綿二万屯。塩卅石。施入龍華寺。

十月辛酉《廿七》◆辛酉。賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差。

十月壬戌《廿八》◆壬戌。授无位上村主刀自女從五位下。時年九十九。優高年也。

この十月二十七日の記事は称徳女帝が現在の大阪府八尾市である地に造営された由義宮(ゆげのみや)に滞在中の行動のひとつである。
注目されるのは左中弁右兵衛督内匠頭である藤原朝臣雄田麻呂に河内守を併任させたこと、龍華寺の西の川上に肆廛を權建(仮に建てる)して河内の市人を「駆」(追い入れる?)して居住させたこと、難波宮のニ万屯の綿(まわた)などを竜華寺に施入したこと。

これは此処を宮都とするに同じい行動である。

肆廛は文脈からみて「市場」である。市人(いちびと)に強制して居住させるのはここを東西の市(平城京)と同等な場とするための伏線でだから「權建」なのだろう。

無位無官の老婆にいきなり從五位下を与えている。宮殿に上れる身分の従五位下であり、上村主(かみのすぐり)は在地の豪族の圏内の人物だから、これも一種の利益誘導だ。
気風のいい主権者として自己を演出している。

道鏡への愛の発現という角度から見ると空恐ろしくもあるが…。

反対するものを意識しつつも強引に進めるという女帝の姿勢がはっきり見える気がする。
その一方で従う仕丁や仕女、また竜華寺の僧侶たちに物を下賜して周囲を固めているのがこの十月二十七日の記事なのである。
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由義宮の比定地は説があるとしても八尾の市内のどこかで現在はここが有力か。

http://bit.ly/jFNSXB
「由義神社は、由義宮を西ノ京に神語景雲三年(769)孝徳天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郎にまたがる広域の中心由緒 深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内五社の一社 である立派な旧社であったが、 中世度重なる兵火により消失した。」

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