巻五 和銅四年(七一一)七月五日 戊寅
山背國相樂郡狛部宿祢奈賣一産三男。
賜絁二疋。綿二屯。布四端。稻二百束。乳母一人。
巻の五 和銅四年(771年)七月五日 戊寅(つちのえとら、ぼいん)
山背國の相樂(さがらか)郡の狛部宿祢(こまべのすくね)奈賣(奈売:なめ)が一(度)に三男を産めり。
絁(あしぎぬ)二疋、綿(わた)二屯、布(あさぬの)四端、稻二百束、乳母一人を賜う。
事実は簡単な内容である。
我が家の近所であるが、現在の木津川市山城町上狛の住人であろう。
当地は三角縁神獣鏡大量出土で有名な椿井大塚山古墳の所在地の近くである。
高麗系の人々の定住地で外交施設・高麗館(こまのむろつみ)があったところと言われている。
狛部宿祢(こまべのすくね)奈賣(奈売:なめ)が三つ子の男の子を産んだので
絁(あしぎぬ)二疋、
綿(まわた)二屯、
布(あさぬの)四端、
稻二百束を与え
それに乳母一人を付けてやった、という記事である。
絁は絹布の一種である。
布は普通は麻布を意味している。
どちらも交換性の高い貨幣としての価値もある。
実用とのみ考えるべきではない。
ここでは二疋(ひき)、二屯、四端という量に注目しておこう。
疋と端(反)は現在でも布の量の単位として受け継がれている。
綿の屯は嵩ではなく重さの単位だろう。
こうした官による恩賜の存在がもつ社会的意味は何だろうか。
救済的意味合いのものとは区別されるべきだろう。
珍しいゆえの吉兆慶事は、王化の成果として、公的に認知して
天下に帝王の徳を示す目的だろうか。
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