「続日本紀を読む心」
『続日本紀』巻廿
天平宝字元年(七五七)九月六日 辛巳《丙子朔六》
九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。
九月辛巳(六日)。 正六位上の後部の高笠麻呂に従五位下を授く。
本人は優秀な金工(金属工芸家)であった。
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高笠麻呂という金工(金属工芸技術者)がいた。奈良の平城京の左京六条二坊に居住し、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼会に使用された、表題の「裁文」を製作した。
「裁文」は大型の金銅透彫板で、最も長い部分が43.5センチの、雲を造形化したものである。たがねで細部を線刻し、全体に渡金していて、柄の片面の部分に「東大寺高笠麻呂作/天平勝宝四年四月九日」と二行に分けた銘があり、また、柄の部分に花喰鳥の流麗な線刻がある。http://bit.ly/k9V0WI
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五年たって従五位下を授けられたが、これは金工であった彼の作ったものへの褒美ではないだろう。通常の昇進とみなせよう。だが作品に署名を残しているほど自負は大きかったのだろうし周囲の評価もあったに違いない。
家系的には高麗系の技術職の家柄であったらしい。
高句麗系の官位に前部(ぜんほう)後方(こうほう)があるので
後方・高(麗)を姓としたのだろう。だから「しりとべ」といった読みは後からのものであろう。
当時どう読んだかは検討が要る。
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正倉院文書の天平十七年(745)に後部高多比、天平宝孝元年(757)に後部高笠麻呂、同五年に高麗の人後部高笠麻呂などの名が見える。姓氏禄に後部高は高麗国の人、後部高千金の後裔となっている。
そして、平安時代には坂上田村麿の征夷に、尻高氏は上野十四郷の加勢一千騎とともに従軍し、大嶽根山の戦いに大功を立てたと言い伝えられている。
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住居は朱雀大路を挟んで大安寺と薬師寺が向き合うその中点あたり当時の五条と六条の通りに挟まれた場所であった。今の八条町のあたりである。
住居がわかるのも面白いが文書が残されているのだろう。 http://bit.ly/iQ2tcG
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