2007年12月20日木曜日

庭にまた山茶花が咲く季節になった

  ひとり居れば山茶花ま向かいに日が薄れ   蛙逝

 去年は山茶花についてひとに教えられた。
 今年も同じように山茶花は咲いて
 同じように猿は出没し
 変わらずぼくはここに居る。

 時々遠くに居る友や、今では連絡が途絶え
 安否の不明な友に思いが廻る。

 父の晩年、いっとき手紙の遣り取りが増えた旧友がいた。
 父が死んでしばらくは葉書の便りが来ていたが、
 死亡の知らせは遠慮して出さなかった。

 分かっているのだ、相手のほうも。
 もう残りは二、三人だけだということを。
 何時それが途絶えてしまうかもしれないことも。

 だがそうと分かっていることと、事態直面とはまた別だ 。
 迷ったのだが、結局手紙は書かなかった。

 それから一、二度の便りの後、ふつりと途絶えた。

 寂しかったがそれでいいと自分に言い聞かせた。
 しばらくは相手の気持ちが思われてならなかった。

 コノ杯ヲ受ケテクレ 
 ドウゾナミナミ注ガセテオクレ、
 花ニ嵐ノ喩エモアルゾ、
 サヨナラダケガ人生ダ    という詩を思い出す。
 この詩自体は「人生すべからく飲むべし」
 というに過ぎないらしいが。
 花に嵐。一陣の風に吹き消されるいのち。
 昨日も一昨日も、そして今日も、
 どこかで理不尽な死を死んでいるひとがいる。

 唐突だが
 「もっと相関を、もっと弁証法を」という声が
 自分の内側から聞こえる。
 偶然と理不尽との向こうに
 合理的な理性的なものが潜む。

 帰納的思考が現状の追認と
 現実への屈服に終わらないためには
 もっと理性が必要だろう。

 自分の牙を研ぐとは、
 今の時代、野生的になることじゃない。

 冷静でしかも快活に不屈な精神は、
 きっと高度に理性的なはずだ。

 それこそが自分の牙となる。

 だとすれば、ものごとを相関的に、有機的に、
 総合的に等々に捉える眼力が
 鍛えられなくてはならないだろう。

 そう思って「ヘーゲル」をまた読み始めた。

 いまさらと笑う友人もいそうだが笑えばいい。



 薄ら日がゆっくり消えて行き、
 闇が訪れるまでの暫しの静寂。

 山茶花の赤が消え残った熾火のように
 懐かしい。
  
 その静かなひとときの物思いだった。




 




 
 

0 件のコメント: