2007年5月7日月曜日

イミテーション・パークの報道に考えてしまったことがある。










戦後直後を知る世代から言うと、他人のこと言えないんだよな…中国のこういう状況は困りもので、非難していくべきなんだけれど。

物まね泥棒はジャップどもといわれ続けてたのだ、戦前から。

そうして基礎を作り、朝鮮戦争、インドシナ戦争、
ベトナム戦争と戦争景気で近代化と富裕化を成し遂げたんだからね。

謂わば他人の血で儲けてきた歴史がある。

それを教わらずに来た世代が、簡単に相手の非を見て熱くなるのは、少し心配ですね。
上に言ったような面にも目配りしてくれると安心なんだけど…。

今のTVは国内に満ちてきている不協和音や不安のガス抜きをするために、
中国や韓国の欠点や誤りをバランスを欠いて取り上げてるな~って思える。
そんな節を感じるので書いておきたくなった。

亮さんのところで見せてもらった、YouTubeに載せられたTV録画ですが、同じ内容は他のチャンネルでも流れていたので、ぼくもTVでは既に見ていました。

(こういうTV録画だという著作権がらみのものを出すのもどうか、という別の問題もありますが、後に言うようにオリジナリティの問題が不明なので、一応ここに引用するのはいいだろうと、勝手に判断します。したがって責任はぼくにあります。)

どの局もほぼ同じ映像であること、同じ日にどの局もおなじものを流していること。そして、このことに対する批評が全く出てこないことには、ちょっと衝撃を受けたのです。

常態化している「垂れ流し報道」の実例である訳だが、それにしても少し酷い状況じゃないか。

誰もそれを変だと思わないことを、ぼくは心配する。
これは、事件ではない。取材報道なのだ。
例えば911のような事件発生なら、限られた同一ビデオや写真が現場を知らせる情報として何度も使われたり、いっせいに各種メディアから流れるのは自然だ。これは批評以前にまず情報を確保する意味で当然の事態だ。
しかし、やがてさまざまな視点や論点や周辺的事情などがごちゃ混ぜに出始め、論説や批判やさらには世論調査などが続いていく。それがメディアなのだ。

こんどの中国の「イミテーション・パーク」の報道は、なぜどの局も飛びついたのか。ぼくには「飛びついた」ように見える。

取材報道だから、その内容は何時流してもいいし、鮮度よりその社会的意味、政治的、経済的意味が重要な、そういう性質のニュース素材である。
今までも知る人ぞ知るの中国の実情がある。マスコミ人なら一定の知識はあったはずだ。なかったなら報道人の資格はない。ぼくでも知っていることを知らないはずはないのだ。
ではなぜ、同じ日に同じ素材を無批判に流しているのだろう。

繰り返すが、これは事件報道ではない。
スポーツの試合結果でもない。
商習慣に関わる倫理の問題や国民的な価値観念の問題を背後に持つ社会的事実の報道だ。

取り上げる価値は確かにある。
それも他人事ではなく、重要な問題だ。

ネット上の違法な「商品や権利の損壊」の形で我々にも身近な問題だ。情報流出で知られたWinnyなどによる著作権侵害などは、日本でも深刻だから。

それゆえに、単純には「笑う」「非難する」だけのニュースではない。
ところが、この日、本格的な突っ込んだ批評は、ついに聞かなかった。
民主主義とか自由を量るひとつのバロメーターが、こんな思考停止になっている国は、北朝鮮を笑えない、と心配になる。

時あたかもアメリカが著作権問題で中国を提訴した時機。

こんどの報道のネタになった取材と構成は
何時何処で誰が何のために誰の資金で行ったのか?

ぼくならそれを知らされない、確かめられない以上は
政策的な「宣伝戦略」かもしれないという判断を担保しておく。

今、日本のマスコミは、
「アメリカ議会による従軍慰安婦問題での対日非難決議案」の陰に、中国ロビーの画策が有ることを言って、それが根拠のない非難や、アメリカ人の本来の対日感情からはずれたもの、のように報道しているが、危ない危ないと、ぼくは思う。

日米戦争の歴史的事実は、感情や民族的自負心を理由にして、変えられるものと、我々が信じ始めたら、とんでもない錯誤の道へ、ハンドルを切ることになるだろう。

安倍さんたちの論理は「強くなれば言う者はいなくなる」だから、危険度は高いと見ている。

カナダでは、中学校だったか高校だったかになると、マスコミの利用法をみんなで報道番組などを材料にして討論を通じて身につけるようにカリキュラムがあると聞く。

報道は社会的な制約の中で営まれていて、どんなときに間違うか、歪められるかを、実例と歴史で学び、一人一人が自主的で批判力のある自分の考えかたを持たせるのを目標にしているらしい。
学ぶべきだと思う。

報道は確かに、「事実を伝える」
しかし、多くの場合、その事実はさらに大きな複雑な事実の一部なのだ。
そしてその大きな複雑な事実の意味、客観的な意味や真実は、簡単にぱっと、解るものではない。
もし簡単に報道を見て、ぱっと真実が解るなら、およそ学問や科学や、総じて整理された経験知は、要らないし、成立しなかったはずだ。

今そのことを何度も自分に言い聞かせ、良く考え、調べ、
疑えないものだけで

(それが世間に流布される大量の情報に比べ呆れるほど少ないみすぼらしい真実であっても)

物を考え行動していく覚悟をしないといけないと、いささか、臍を噛みながら思うのだ。

若くて頭の軟らかいとき、もっと考える力、分析する力、集まった事実から見通しを立てる力を、培うことに努力すべきだったと。

単純に考えれば
昨年亡くなった「経営学の神様」ガルブレイスも晩年に言い切ったように、中国とインドが世界の動向の中心に座るのは趨勢だし、法則的なものだ。
そのことへの感情や反発はいろいろ有ってもいいが、事実や歴史に背を向けて思いたい思いへと自分から傾いていく国民にはなってほしくない。
冷徹な判断力と粘り強く自分の立脚点に不動の信念を持って大胆で柔軟な外交や協力を作り出し、ヨーロッパ以上の規模の共同体を生み出すことに積極的役割を果たす国になる。

これが長期的な展望で唯一平和的発展をもたらす方向だと信じている。

難しいのは、沸き立つような愛国的、民族主義的、強硬派の
煽情的言論に、相変わらず各国の民衆が乗せられやすい事情を
未だに抱えているからだ。

この間簡単な経済学のシミュレーションの例を見ていたら、
今の格差を踏まえて計算すると
格差が拡大して所得の平均が上がっても
大半の人々は絶対的にも所得が減ると出た。

高額所得者の数がほんのわずか増え、その人々を含めた
上位の少数者に富が集中するする結果、全体の富が増え
平均が上がっても、大多数は生活が貧しくなる社会。

いままっしぐらに進んでいく構造改革後の経済とは
簡単に言えばそういう極度の格差社会なのだ。

かってアメリカでも起こったことだ。
豊かな社会がもっと豊かな社会になった、と言われた。

だがニューオリンズの台風が暴露したのは
救いようのない規模にに達した貧困の蓄積と富の偏りだった。
イラクで戦争やってるひまなど本当はないのだ。
蓄積された貧困が個人責任だというのは、科学ではない。

だから大臣だった時から竹中平蔵は政治家で
経済学者じゃなかったんだ(笑)
経済学用語でしゃべるのが上手いだけの政治家。
―これは学問的批判だよ(笑)

もとから経済人が集う「大阪倶楽部」に出入りする
「交際」好きだったのをぼくは知っている。

個人は成功したり失敗したりする。
何十万人何百万人が失敗するのは本人の所為か?
バカいってはいけない。いうヤツの方が馬鹿だね。
物を考える力がないのだ。

限度を超えた貧困は個人的原因ではない。
これは現行憲法の魂でもある。
最低限度の社会的文化的生活を保障するのは
国家の責任だと、科学と合致することを
憲法には書いてあるのだ。
言い換えると個人が人間らしく暮していれば
国家は責任を果たしている事になる。
どこの国家がそう出来ているか、否かは
法ではなく政治の問題だが。

繁栄は目に付き目を眩ませ易いが、心しよう。
大貧民社会はもうすぐだ。もう始まっているのだから。

この変化が生み出す緊張と絶望は内向する間は
個々人の不幸の堆積だが、やがて、外に向かう惧れがある。

そうした急流が存在する社会にしないように
マスコミにはバランス感のある報道と日本人の自己批評能力の涵養が
使命としてあると、ぼくは考える。
そういうマスコミ、メディアに批判を加える市民的能力は
これはぼくら市民自体の責任なのだ。

もっともっと自分たち自身を直視して
遠くまで見える視界と見張り台をもたなくちゃいかんなぁ…

曲折や波乱はあっても人類社会は大局的には進歩している、
はずなんだがなぁ、
と最後はちょっと溜息もつく、ぼくである。

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