ぼくは19年生まれの昭和二桁世代だ。
零歳児のぼくの頭上にB29が飛来して焼夷弾を落とし込んだ。
街は燃え、崩れ落ち、人々は死んでいった。焼け跡、闇市、パンパンガールといった戦後の風景や風俗を覚えているわけではない。
ただ記憶のどこかに時代の色、匂い、空気が残っている。
茶色い戦争ありました…有名な中原中也の詩の一節。中也らしい鋭さで捉えた戦争の色、茶色。泥と赤錆が入り混じった茶色がかった残骸を夕日が赤く染めている。築港の辺りの風景は終戦直後から50年代半ばまであまり変わらなかった。高度成長経済が始まる前のほとびたような時間のよどみ。
信じられないかもしれないが、大阪という大都会でも少年たちは膝や肘に繕い痕や当て布(接ぎ当て)をした服やズボンで、学校へ通ったり遊んだりしていた。それが普通だった。
五年生になった春の一学期。ぼくは何時ものように講堂の明るく日が差し込む長椅子に座りに行った。昼休み、友達から離れて、本を開くためだった。
いじめられっ子は抜け出せて上級生として落ち着きを取り戻した頃だ。星の本ばかり読みあさり始めていた。図書館にはもう読んでいない天体関係の本はなかった。
大学生の教養課程位が読む膨張宇宙論の概説などを手に入れたので、よほど真剣にならないと理解できないと子供心にも見当がついたから、静かな講堂で読むことにしていたのだ。ハッブルの説。ガモフのビッグバン説…。順を追って力学抜きで書いてあるので大体の所はわかるのだった。
すっかり本に引き込まれていて講堂に人がいるのに気がついていなかったから、鳴り響いたピアノの音に不意をつかれてびくっと身をおこした。後ろ姿に長い三つ編みが見えた。
轟くようにやってきた音の洪水は読書を押し流し、激しくうねってぼくを飲み込んでしまった。
びっくりしたまま呆然と聞いているぼくをはぐらかすように突然ピアノの音が止み、ばたんという音がして、その子は立ち上がって出て行った。
出て行くときぼくに気づいてちらと目をぼくに向けたがそのまま通り過ぎて出て行ってしまった。
その子が見たのは口を開けたまま目を瞠っているへんな男の子だった。
たぶん一目惚れしたんだ。それからは何をしていても、勉強の本の前でも、ドッジボールに喚声を上げているときも、三つ編みの先っぽが鼻先に揺れていた…。
気がつくとその子は直ぐ近所の子だった。お寺さんの家の子で、母親は「○○式ドレスメーカー学園」のような名の洋裁学校を経営していた。今思えば、だからその子は少女雑誌から抜け出してきたような姿をしていたのだ。
学校の前に在った市営プールが米軍から市に返還され、泳げるようになった日、その子の水着の艶やかな水色のグラディエーションがぼくを震撼させた。プールサイドですれ違っただけなのに心臓は早鐘を撞いていて目が眩むばかりだった。
だが今思えば不思議だが、その子は取り巻きのいるような子ではなかった。目立たない子だったのだ。女の子同士のありがちな噂も聞こえてくることはなかった。それがかえって神秘的に見えた気がする。
六年生の夏の林間学級で高野山へ行ったが、他校生もたくさん来ていて、NHK主催の音楽コンクールが開かれた。その子がピアノで出場したのだが、予選落ちだった。そう上手ではなかったのだろう。
だがぼくは体ごと応援して真っ赤な顔になっていた。先生がお前どうかしたか、具合悪いのかと聞くほどに。いいえ暑いだけです、とかすれ声で言って変な顔をされた。
この片想いはそのままで続き、中学三年を終えるまで変わらなかった。中学では夏休みの地域連絡の責任者に二人が指名され、教員室で指示を受けて一緒に校門を出たことがあった。そのとき交わした言葉も記憶にはない。学校から与えられた必要なことだけを話し、「夏休み何事もみんなに起きませんように」と言って別れただけだったように記憶している。
話はただそれだけのことだった。なにも他にない。星のことに夢中だった少年とピアノが大好きだった少女のすれ違っただけの片想いのできごと。
終りは突然やってきた。ラブレターを書いて無思慮にもポストではなくその子の家の郵便受けに投じたからだ。数日を経ないで先方の母親から母に手紙の件が伝わった。
母に問われたことに動転してしまった。その夜自分が無限小になった感覚のまま朝が来た。相手の気持ちなど分からなかったが、もうお終いだった。
高校は別々の学校に進んだ。その子はやはり音楽教育で知られた女子高だったし、ぼくは公立の普通校へ進んだ。時は1960年の春。国を揺るがす政治の季節だった。5月末、長い長い、白熱の真剣な議論の中から生徒たちは国会解散、岸首相退陣を求めて6月4日の国民統一行動日のデモに全員で参加すると決めた。
そのことを高校の職員会議に知らせ許可するよう求めた。先生たちも長時間の大議論の末、考えられないような結論が出た。生徒たちの参加決定には反対だ。が、自由の校風の成果としての生徒諸君の意思を尊重し、同行して諸君らを我々が守る。我々も共に行く。
生徒代表であったぼくらは、喚声を上げて総会の会場で待機していた生徒たちの所へなだれ込んだ。ドラマのような融合だった。夜が来ていた。男子生徒が女子生徒全員を自宅へエスコートするため、分担が即座に決められ、三年生による実行点検組が作られ、電話の前に生徒名簿が広げ置かれた。
6月4日、中之島公園へ向かう人で環状線も一杯になり、路面電車もデモ隊が多くて遅れていた。
ぼくは先輩に自治会のメッセージを先に主催者の国民会議議長団に届け、高校生代表の発言を確保するよう先触れをしてきてくれと頼まれ、タクシーで先着するため、昼日中に街にひとり飛び出した。
自分が不良になった気分だった。勉強の時間帯に一人で街へ…。
そのときばったりとその子と出逢ったのだった。デモ隊が溢れる昼下がりの街を帰宅させるのは拙い、と判断した女子高は早くも帰宅を急がせたのだろう。
頭に白く長い鉢巻(民主主義を!国会解散!と書いてあった)を靡かせて走ってきたぼくは、びっくりして立ち止まった。
なぜ立ち止まったのだろう。その子もびっくりしたようにぼくを瞠めていた。一瞬の間があって、少年は駆け出した。頭の中で「遅刻は絶対ダメ」と先輩が叫んでいた。すれ違うとき、なぜかぼくは片手をひらひらさせた。さようなら、を言ったみたいに…。
これがその子と逢った最後の機会だった。
何年か過ぎて、在日朝鮮人の高校生とフォークダンスで交流するイベントをしたとき、その子と仲良しだった子がチマ・チョゴリの姿で傍へ来て、「あなた、あの子のこと好きだったでしょう」と言って、意味ありげに、にっこりと笑った。
そのとき初めて、ぼくは気づいた。あの子はずっと前から知っていたんだ、ぼくがあの子を好きだったことを。最後の出逢いの一瞬に、お互いが目顔で言ったのは、本当はさようならなんかじゃ、なかったんだ、ということを。
マイムマイムの流れる、いわし雲の空の下で、酸っぱいような、甘いような、隠れて泣きたいような気持ちの泡立ちが、わーっとオルガンの音色みたいに湧きあがって、やがて消えていくのだった。
……
そのひと? ええ、ぼくにとっては、透明な樹脂に封入された花のように、今も小学校の講堂でピアノ弾いてるんです。ぼくはやっぱり星を探して本の頁を指を舐めながらめくっているんです、きっと永遠に…。ええ、ぼくにとっては…そのひとは…
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