2007年4月24日火曜日
ありがとう
ありがとう。もう友達。いつも一緒だよ…
実はついこの間に亡くなった池田晶子さんという哲学者(対話的哲学ライターとぼくは名づけていますが)の「14歳からの哲学」を読み始めたばかり。
ちょっと頭が哲学風に「言葉まみれ」になりかけている。
それで、「ありがとう」という主題なんだけれども…
哲学的な「ありがとう論」も有り得る気がする(笑)。
だって、「ありがとう」と言ったり、思ったりするとき
「ありがとう」な自分や、「ありがとうの相手」、がいるのだから。
そして、そのときの自分や、そのときの相手が、
「なぜ」ありがとうって言える場面にいるのか、
問うことは無意味じゃないもの。
そう問い、答えが分かれば、「ありがとう」の中味が
気持ちだけじゃない…って分かったりするから。
それが「思う」から「考える」への飛躍、哲学なんだと
池田さんは言っている。
大人になるってことなんだ、それが。
ただ思うだけじゃなく、
考える(校=かんがえる)ことを
身につけることなんだ。
学校(学び、考える(=校)場所)へ行くのはそのためか。
「ありがとう」って、気持ちだよな。
だから、「ほんの気持ちです」といってお礼の品を渡すよ。
感謝する気持ちが、「ありがとう」なんか?
気持ちだな、まずもって「ありがとう」の気持ちだ。
そして気持ちだから、「ありがとう」という「思い」なんだ。
思う自分。…考える自分。どう違うのだ、同じなんか?
「ありがとう」は、気持ち。
でも「ありがとう」は言葉。
声にもなる言葉。
「アリガトウ」
「ありがとう」と言葉で言う前に
声に出して言う前に、
アリガトウと呟いている自分がいる。
思っている自分がいる。
でなけりゃ
それは、嘘言葉。
「アリガトウ」という嘘。
言葉はひと(他者)への架け橋。
他者や世界への窓。
ぼくは15歳でゆめみた。
「こころの窓」
「言葉でできた橋」。
<人が人に壁になるのではなく、人は互いに
世界に向かって開かれている窓になってほしい>
甘い幼い詩人の魂に映った苦い諍い。
……
嘘を吐く世界で「ありがとう」も嘘に変わるなら
詩人は生きていけない。
自分のなかにも嘘が生えてくるから。
「アリガトウ」と言えなくなった分だけ
「ありがとう」は身体いっぱいに溢れて
感謝しながら泣いていることだってあるさ。
「ありがとう」「アリガトウ」が渡す
こころの架け橋が渡れなくて
立ちすくんで更けた夜もあった。
「世の中を憂(う)しと痩(や)さしと思えども」
鳥ではない人間の身では飛び立つこともかなわぬ願い。
……
知人に「有り難う御座います」と
鞄などにシールを貼り
持ち歩く人がいる。
「ありがとう」おじさんになっている。
溢れるほど「アリガトウ」が涌いてくるのだろうか?
紙の上にある「ありがとう」
ぼくは「ありがとう」が言えなかった。
一番大事な別れに
「アリガトウ」と声にならなかった。
大事な大事な人に分かれるのに
二度と顔を見ることができないのに
溢れるものにさえぎられて
「アリガトウ」が言えなかった。
いつまでもそのことを忘れられずにいる。
肝心のときに言葉はバラバラになって
地面に散らばってしまったと。
「すみません」とは言えるのに
「ありがとう」は気軽に言えない。
そんなことが多い、ぼくはそんなやつ。
ぼくは最後のそのときに
眼差しだけでいいから
世界に「ありがとう」と
そっと言葉で返したい。
自分にはいろいろあったけれど
自分が一部分でいた世界は
やっぱり美しい場所だったと
最後のことばに残しておきたい
滅多にいえないぼくだから
ありがとう
みんながいるから
世界は人生はすてきだった
と。
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