2007年4月7日土曜日
『缶蹴り』した空き地を想う
2005年03月14日(月)
少年時代には空き地が身近にあった。
近所の誰もが通ったり焚き火をしたり
物を干していたりした。
勝手に穴を掘ったりしても、それを放置しても
いつの間にか大人が元にもどしていたりする。
決して無所有ではない。
だが誰のものでもなく誰のものでもある場所は
「土地」というものの一面をぼくらに実体験させていた。
明確な管理人が居ない分
誰もが自由に「アクセス」できるが
その分幾分かの「責任」や「分担」を
子供心にも感じていたようだ。
そして当時は駅前などの公共空間でさえ
何かそうした性格を共有させられていた
そう感じるのだが。
広場はどこも生活空間として同質であるとみなされ
駅前や百貨店前の広場といった空間も
空き地的性格を保有していたのではないか。
そうした公共空間には
香具師や「傷痍軍人」や「浮浪者」もが出入りし
リヤカーを引いてきた農民夫婦が腰を下ろして
休みながら辺りを眺めていたりした。
子供にとっては、それは自分の家の近くの
空き地の延長と拡大として連続したものであった。
舗装された広場は
「焼き芋」はできなくても
「缶けり」には広くて好かった。
追い払われることはしばしばっだったにしても。
空き地をもつ少年であった自分達には
どこか香具師や浮浪者に似た性質が
いつのまにか潜んでいたのではなかったか。
街場の人間の浮動的な、
出入りの多い時間と空間への愛着。
今もある。
すくなくとも自分には
空き地の魔力に魅入られていた時代があった。
空き地から見る夕陽の凄さと魅惑が
いまもぼくを
夕陽を見に出かける人間でいさせている。
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