2007年4月17日火曜日

酒どころの話

 あっさりした甘みのある酒「呉春」池田の酒である。

下戸が酒の話を少しするのだ。

 西国街道は山崎街道とも言って京都の大山崎から摂津へ西に向かう古代からの幹線道路だった。
この街道の北側には北摂の山が迫っていて箕面の勝尾寺などの名刹がある。猪名川に出る辺りの在所が池田である。ここは京都の松尾大社がそうであるように渡来系の人々も多く住んでいたせいか酒郷(造り酒屋の町)である。
 私事になるがぼくのツレアイの父は早くに亡くなったが、酒を愛した人であった。それで半ばは冗談だが、幾分かは本気で「お前ひとりくらいは池田の酒屋へ嫁にやってもいいがなぁ」と言っていたそうだ。実際農家なので4人姉妹の半分が農家に嫁いでいった。変り種の三女ならまぁ酒屋へ嫁に貰ろうてもらえば酒には困らん…という冗談では有ったが、その気になれば話がないわけでもない、そういう家だった。その三女が下戸もいいとこのぼくと暮らしている。こういうわけで、話から知って下戸のぼくも池田が酒郷であると心得ていた。
 今では摂津の酒どころといえば灘郷である。京の伏見と並ぶ関西の造り酒屋ゾーンであることはご存知だろう。その灘の酒は、北摂池田の人々が商品の出荷港まで含めた繁栄の拠点として開いたものであることは、だがあまり知られていない。
 日本酒の歴史に詳しくはないが、中世には池田の酒は銘酒として知られていたようで、その証拠に池田の酒が陸路鎌倉街道を運ばれて行ったと伝えられている。酒樽二つを一駄と数える慣わしはここから来ているという。
 さて、ツレアイの父が宵の熱燗の酔いがまわるとき三女を嫁にやってもいいと思ったその酒が、さてどの銘柄、どの酒造家のものかは定かではないが、さぞや好い心地になってのことであろう。ぼくにすれば上戸なんてそんなものかと思うばかりだが。
 鎌倉街道を揺られて行った酒樽は当然のことながら、鎌倉の上級武士たちの酒宴の席に出されたであろう。源頼朝の手にしている酒盃に注がれた献上の酒が池田の酒であった、と想像を広げる。賎(しず)や、しず、しずの苧環くりかへし…静御前が歌い舞う、その席に並んでいた人々が含んだ酒もそうだったのだと。

江戸時代になると繁栄は灘に奪われて衰微したが、京都御所の酒造りの秘伝を伝えられたという池田の酒は、その品格と味をなかなか失わなかったものと見える。あわやぼくがツレアイを逃がす機会になったかもしれぬほどに。

 箕面、池田、豊中、伊丹など近在の寺や旧家に、最近になって人気の出ている江戸時代の画家、伊藤若沖の描いた絵がかなり分布しているのは、案外この辺りの裕福な人々の上品な遊楽の文化に池田の美味い酒が一役買っていたからかもしれないと、思うのだ。若沖にしても度々の滞在や長逗留しての制作に惹かれるだけの魅力があっただおろうから、こんな想像も涌いてくるのだった。


 若冲の奇想の背後に奇想の羽根を広げるに必要な自由な空気を漂わせる町衆の気風があるのは見落とせない視点ではないだろうか。

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