2007年3月27日火曜日

たくさんのコガラが飛び去って

2006.11.03 15:32

家の屋根の辺りに何かいる…

雀くらいの大きさの小鳥が七八羽群がり飛んだ
首のあたりが白い、
黒っぽいネクタイ模様もあると思う

見ているとあちこち
木々の実をついばんで
いたずらっ子みたいに
パーっといっせいにいなくなった

飛び去ったあとの
屋根の上の空が
なんか心残りの色して
残像になる…

いなくなった子供たち
震災でなくなった子ら
自殺に追い詰められた子ら

小鳥の群れのように
消えてもどこか
いつまでもいる

たとえばコーヒーの
香りの中に
たとえばテーブルを転がる
鉛筆の音の側
きみらは いると
ぼくは気づく

庭の草の陰に、ひょこっと

2006.11.03 14:05

これ、なんという茸かな。

ニガクリタケ? なら毒菌子。
椎茸に似た色で暈の裏もよく似てる。
でも軸が違うし全体に裂け易いので違う。

噛んでみるが苦みはない。
案外食べられるかも知れない…
少しだから汁の実くらいなら使えるか。

ま、下痢はいやだし、いま手元にキノコ図鑑ないしなぁ。

こんな記事書くと都会の人は
だから田舎はイイ、羨ましいなんて言うひとが出てくる。
でも都会はキノコの宝庫なんだ。みんな知らないだけ。
蝉のように鳴くわけでも鳩のように糞するのでもないから
気付きにくいだけ。

公園を散歩するときや道沿いの樹木、植え込みの陰など、
気をつけて見よう。
他家のガレージの横とか。案外に生えてくる。
学校やお寺、教会の敷地なども候補地だね。
達人はあっという間に見つける。
東京はかなり多種の生息地だと思う。
都会というジャングルでリラクゼーションとして
菌ハンティングをしよう。
アミガサタケなど珍種を見つけよう。
美味ですぞ。
ほぼ年間楽しめるゲームですね。

地震?今朝の話?

2006.11.03 13:34
早朝にグラッときたらしい。
震度3だとTVにテロップがでたらしい。
北大阪が震源地との情報も流れたらしい。

 みっつも「らしい」が続くのは、ぼくが白河夜船で気がつかなかったから。
横で寝ていた連れあいは目を覚ましTVも電源入れてみていた。

ぼくが地震で目を覚ますのは震度4くらいから…と笑われている。
そんなわけない。昨夜は疲れていたし寝たのが2時前だったからだよ。

googleを使って日本の活断層をチェックしてみたら、あるわあるわ。
日本は活断層の密集地。このあたりも東西南北どっちに行っても活断層まで遠くない。

いまさら心配なんかしても無意味。出来る対策をして後は覚悟を決めて生きる…だけだね。

ZZZZZZZ、ぐらぐら、どしんっ、むぎゅっ、シーン。
という最期を遂げる自分を想像する。
で、せめてというので、日頃から2階で寝ている。

のんきなぼくの唯一地震対策…

晩秋を残して雲は行った

2006.11.02 23:20

街なかを風が渉る
昼の月は影が薄くて
遠くに霞んで
ビルの間を人間が
凝集して動いている
空だけが静か

こんな日は
はたはたはた
はたはたはたと 
こころが靡く音がする

埃っぽい風が渉る
先はもう見えない
スクランブル交差点で
すれ違う顔の どれひとつ
ほほえんでいはしない

思い出せない何かを探して
見あげる空
そこだけが深い青さだ
立ち止まってみていると
なぜか湧き上がって
切なく想い出が群れる

肩先を暖めている
傾き始めた陽射し

雲はここを発って
入り乱れながら
どこへゆくのだ
ぼくを残して

窓から見えるもの、窓に訪れるもの

2006.11.01 20:17

画家の藍みつるさんがSNSのページに
カーテンにとまったカマキリの写真と
お帰り願った顛末が書いてあります。
ふむふむ~と読ませてもらいました。

ぼくも先日カマキリを撮りました。
庭に何匹もいてじっとしています。日向ぼっこです。

自然は生き物で充満、いのちが溢れています。

女性は苦手な人が多いから
カマキリが部屋にいるのは困るのでしょうね…

夏場だけですが、
ぼくは昼間は窓を開け放っておきます。

オニヤンマ、
アゲハ蝶、
ヤモリ、
モリアオガエル

の出入りは許します。

一度窓からマムシさんが入って来てびっくり。

お帰り願うのに大騒ぎしましたが。

ブンブンやクワガタなら良いのですが
ミツバチを追ってスズメバチまで来ると
さすがにぞっとしますね。

窓ガラスに3センチくらいの
モリアオガエルが
じっと止まっているのは
とてもとても美しい光景です。

本を読んでいる耳の傍をくすぐるように
アゲハチョウが舞い過ぎてゆくのは

真昼の夢みたいです。

努力しなければ、<すれば、じゃありません(^^)> 
都会でも同じような感じにできるのですよ。

彫刻家の友人は
庭を一切の手入れを止めてしまい
草木の生えるに任せ
野鳥や虫の来るに任せています。

鳥の落とした種が背の高い樹に育ったそうです。

植えないで、
無為に徹して、
樹を得た人 ですね。

希望という衣を着た絶望的子供たち

2006.11.01 00:14

希望という名のあなたをもとめて…

希望とはなんだろう。
希望とは人をどこへ導くものなのか。

自殺者が続出するいまの子供たちの姿に心痛むが、
そこからぼくはあらぬことを考えてしまう。

一人一人の子供達は、いつの間にか
「自分一人の目標」という名の、
奇妙な希望を持たされているのではないか。

自分の成功、自分の願いの成就することを、
希望と呼んでいいとしても、
そしてその目標が仮に、
「人類に役立つ発明」などであったとしても、
その希望は他者に依存しない孤立した希望ではないか?

人と人は相互に依存し合うもの。それが救いでさえあるほどに。

人は人に出会い、場を共にし、
時には傷つけあうほどに、
縺れあい、関わり合い、
共に過ごす時間を生きる。

希望の本当の姿はそういう場にあるものではないか。

本当の希望は他者を前提にし、他者に依存するものでないか?

希望が他者へ、人から人へ、向かって
広がり伸びるもの、であれば、
いまの大人も子供も、
過剰で孤立した個としての希望によって
浮き上がってはいまいか?

まわりに誰もいないときも成り立つ夢は
本当の夢といえるのか?

手に触れるすべてが黄金になる腕を手に入れた
ミダス王のように、
愛娘まで黄金に変わるまで気付かない、
個的希望の膨らみ。

自然からの離反で始まった人間の自立は、
最後にはお互いからの離反へ
自分からの離反へと行き着く。

果てしない人生の途上で出会うのは
たぶんどれもこれも
自分に似たまがい物の対象、
決して他者という豊かさではない。

時間を埋めているのは
「目標は達成された」という確認だけ。

手に入るものは皆、金で買えるものか、
人との比較で価値の決まるものしかない世界。

希望という名の絶望
と、ぼくはそれに名をつける。

希望という色を身にまとっていても
それは絶望と呼ぶ方がふさわしい
そんな本性のものだから。

子供達を追い詰めている本当の不幸は
絶望を未来と取り違える錯誤にあるし

実態は今の社会の落ち込んでいる
人間の共同性の欠如、連帯性の稀薄、
コラボレーションの解体にある。

「可愛かったら得するよ、ママがいってた…」

こどもという自然に近い存在を
このように利得至上主義に押しやって
反自然の存在に変えてしまう、

こんな社会はどうにかして
変えなければならないと思う。

人が人といることの豊かさが

すべての価値の源泉なのだから。

お茶の実は小さな瘤みたいだ

2006.10.30 22:03
お茶の実がついている。
形は不揃いで瘤みたいな感じだ。

マタタビの実に似た感じだがそれほど不揃いではない。

あれは蠱えいといって虫が入って瘤に成るのでひどく不揃いだ。

北山時雨に濡れて、
芹生の里のマタタビは実り、葉を白く変えただろうか。
ハシバミも実っただろうか。
その傍にあった継子(ママコ)の手
--ハナイカダは今も立っているだろうか。

妻を亡くして自分を見失い、
逃亡者のように、
山里にひとり行き着いた。

森の中に逃れた男は
名前さえ樹々の暗がりに隠した。
三年の間、山は黙って男を包んでくれた。

地の果ての寂しさが、人を癒やす。
ヤマネやテンやフクロウが
訪ねてくるだけの
言葉のない時の流れ

森を抜けるせせらぎの呟きを
叶えられない約束として聞く
明け暮れ
だがいつのまにか
水と風と闇が

いのちを返してくれたのだった…

京北の山里の暮らしを
漠然と想い出させてくれた、
ひとつふたつの木の実。

晩秋の森の薄暗がりに見つけた
お茶の花とその実。

ポケットにそっと実を滑らせて持って帰る。
食べられるものではないのだけれど。
弾けて種が覗くまで
テーブルの上に置いて
楽しみとしよう。

お茶の花は寂しげ

2006.10.30 22:00
新聞受けへ降りていくとき、
道ばたにお茶の花が咲いていた。

大好きだが、
お茶の花は寂しげな花と感じる。

清潔で柔らかな白い花弁。
寄り添って支え合っているような黄色の花芯。

お茶の木の葉は固くて、濃い緑だから、
いっそう花の白さと可憐さが目につく。

手入れの途絶えた森の端にひっそりと咲くお茶の花。

どこかで自分の人生に添えられた
コメントを読むように
お茶の花をのぞき込んでいる、
ぼくがいる。

ここいらの柿は嫁泣かせやった…と聞いた

2006.10.29 23:21









この村の柿は特徴のない柿で、
縦長でもないし平べったくもない。

ところが、とんでもない特徴がひとつある。

これが嫁泣かせといわれる理由になった。

じつは日本の柿はもともと皆渋柿だったのだ。

その中から甘柿が変異種で出現した。
神様の贈り物みたいに。

そんな事情で甘柿は接ぎ木で増やすのだそうだ。
苗木を買ってきたときすでに接ぎ木された苗だそう。

ところがである。
渋柿が渋いのは当たり前。
種が十分に成熟するまでにもがれたら、
子孫を残すのに不都合だからだ。

だから渋い実にまずなってから、
後で甘くなる。

熟れた柿の実…
(真っ赤な夕日に似た、しかし昏い赤色。、
シャーベットにすると最高の甘さ)
でもすぐじゅくじゅくになって傷みやすい。

出荷するには向かない。
それで堅いけれど甘い、
ヘンな品種が、求められたわけだ。

今の甘柿とは、近世の経済に合わせた商品の柿。
商品化品種の登場を意味している。はず。

自給自足の暮らしでは、熟れたのから食べ、
渋いのは置いておき、熟れさせて食べる。

余るほどなら渋のまま剥いて干し柿にする。
それが自然な暮らしの形なのだ。

この地の柿は自生種の柿で、
特徴はバラバラに熟す性質があること。
出荷し始めたとき、問題が発生した。
全部渋柿か、
全部甘柿かならば
出荷には好都合なのだが、
混ざっているのだ。

甘柿に渋柿がまざっている。

しかもこの甘柿は、当時としてはとても甘く、上品な味。
人気も高い。値も高く売れる。

そして、
さぁ、嫁が泣かされる番だ。

----ぼくも今では、
どれが甘柿で、どれがまだ渋柿か、
9割以上、当てられる。

9割じゃ駄目。完璧じゃなければ…
と舅、姑が言う。
出荷の篭にひとつでも渋が入っていたら、
信用なくす!

土地で育った舅や夫は簡単に見分け、
ン十年の姑はよそから来てもベテランになってる。

嫁は泣く。柿のせいで泣く。

写真はかつて若い嫁達を泣かせた、
その柿なんです。
黒い点々状に糖分が詰まった、
美味しい柿。

ぼくは今日初物として5つも食べたのでした。

柿の木に柿実る、何の不思議なけれど…

2006.10.29 21:09
柿が今年も熟れ始めた。食べ時のものもある。
柿はビタミンCが豊富な果物なのに、
この頃は若い人はあまり食べないのか、
売れ行きは伸びていないそうだ。

柿の葉を6月頃に採集して、80度くらいの温度で蒸すと、酵素が活動を止める、蒸し器から降ろして、風を当てながら十分縒りをかける感じで揉み込む、そうしてお茶に作りあげる。

これが柿の葉茶である。

ビタミンCとカテキンのたっぷり入った健康茶で、
これを毎日お茶代わりに飲めば風邪を引かないし、
アレルギーにも強くなる。
昔から柿が実る頃医者は休業というそうだ。

ぼくは電子レンジとオーブントースターを併用する方法で、
即席「製茶」で柿の葉茶を作ってすぐ飲む。
まあ、8月頃までだけれど。

住んでいるところが京都のお茶の産地なので、
近所には道ばたに雑木としてお茶が自生しているので、
採集してきては自家焙煎ならぬ自家製茶。

その日の分をその日の朝作ることが出来る。

番茶と割り切れば今だって葉を採れる。

栽培の茶の木ではないので「完全無農薬」の茶。

西式健康法では、
この柿の葉の茶を毎日飲用する。

最近たっぷりの水を摂ることをやかましく言うようになったが、
昔から水と柿の葉茶(ビタミンC)の常用を教えていたのだから、
西勝造はすごい。

ぼくらの青年時代は、

運動中は水分を摂ってはならん、

と言われていた。

が、西は人間の体の本質を見抜いていたので、

毎日1升(約2㍑)飲むべし、
飲める体質になれ

と指導していた。

ぼくもそれに学んでいるわけ。

水のことと並んで、
排泄便通のこと、
皮膚の鍛錬。

みな現代医学が今やっと解明し始めているのだから
西の直感と洞察と仮説はたいしたものだと感心する。

ぼくは西勝造の追従者ではないが、
学ぶところの多い偉人だと思う。