2007年5月5日土曜日

ちょっとシンクロ…万葉ロマン

連休は何処へも行かず。 行きたい所が多すぎて、先に気疲れしてしまった (^^;)会期の長いのは返って行こうと思っているころに忙しくなったりするものな。ぜひとも行こうと思っているのは大阪中之島東洋陶磁美術館で「安宅コレクション」
それに天王寺のギメ東洋美術館浮世絵名品展、北斎の二幅一対の竜虎図が里帰りで揃って見られる…
個展や企画展の案内も…でもなぁ、身も心もちょっと重い…
あれやこれやが…いっぱい。そして街の人込みが…
「連休明けの平日の午前中の開館後三時間」を
ねらって行くことにするかな…。

ぼくにとっては名品の前に立てることは常に試練、面接試験。
そして何時も落第、追試、再試験…。
人込みで押し流されながらでは、合格には行き着けませんな。

ちょっと嬉しいこともすこし。

昨日、村から下りていって南加茂台団地の一軒だけの書店に買い物のついでに立ち寄ったら、隅の棚で「おいでおいで」しているような本があった。目の隅にひっかかりがあったのだ。

「--万葉集に詠まれた--南山城の古代景観」乾幸次

あれれ、こんな店に(失礼)硬い本があるなぁ…
奥付でみるに地元の井出町の方で、立命館史学の流れのようだ。
藤岡謙二郎先生などの弟子筋にあたるのだな。

藤岡氏の著書は接したことがある。
「聖徳太子の旁示石」という論文が面白かった。脚で書くタイプの方だ。
宮本常一先生タイプだが、史料批判も確りしたアカデミシャンでもあった。

その弟子だからとの期待は、違わず、良い本だ…嬉し。
ぼくの座右の一冊に加わるだろう。

この本は地元の古代の問題集みたいなものだもの。読み応えあり。
地名や古道が大好きなものだから、目次に心躍る項目が並んでる。



妻を亡くして打ちのめされていた日々、
夜更けに眠れずに紐解いていたのは万葉集だった。

作家の五木寛之さんが言うように、悲哀しいときは悲哀しい歌や文に触れるのが良い、というのは真実だった。
断腸の想いの最中にも悲しい歌や恋の歌は、
ぼくを支えてくれ揺さぶり励まし続けてくれた。

そんな万葉集の中で、毎夜ぼくが開いた挽歌があった。
絶唱がぼくを貫いて行く度に、納得も諦観もまだなくても、
ある確かさが戻ってくるのを、ぼくは感じていた。
「相楽山」(さがらかのやま)に若妻を葬った男の歌。
死せし妻をかなしびて高橋朝臣が作る歌1首併せて短歌。



白栲の袖差し交へて靡びき寝し 
我が黒髪の真白髪になりなむ極み 
新らた世に共にあらむと 玉の緒の絶えじい妹と結びてし、ことは果たさず、思へりし心は遂げず、 白栲の袂を別れ にきびにし家ゆも出でて、みどり子の泣くをも置きて 朝霧のおほになりつつ
山代の相楽山の山の際(ま)に行きすぎぬれば 言はむすべ、せむすべ知らに、我妹子とさ寝し妻屋に朝(あした)には 出で立ち偲ひ夕には入りゐ嘆かひ 脇ばさむ子の泣くごとに、男じもの、負ひみ抱きみ 朝鳥の哭(ね)のみを泣きつ、恋ふれども験(しるし)を無みと、言問はぬものにはあれど 我妹子が入りにし山をよすかとぞ思ふ


白たえの袖さし交え寝た わが妻
黒髪が白髪になるまで いつまでも
初々しい気持ちでいようと誓い合った わが妻
神の結びたもうた縁をふりきって
愛しい妻は誓いをはたさず白たえの袖口をふりほどいて
和やかに暮らしていた家を去って 泣くみどり子も置いて
朝霧のなかへ おぼろげになって 山背(やましろ)の 相楽山(さがらかやま)の山際(やまのま)へ 隠れてしまった
何と言って よいやら
何をしてよいやら すべも知らず
わが妻と 睦み寝た妻屋にいて 朝には 門に立って偲び
夕べには 部屋に籠もって嘆き 脇に抱えた 子の泣くごとに
男なれど 背に負い抱き 朝鳥が とどみ啼くように
ちぢに哭きつつ 妻を恋い焦がれるも かい(効)もなく
ものも言ってくれない 山ではあるが
わが妻の霊が 隠れ籠もった山を
せめてもの 形見として 懐かしがるばかり
わが妻なる やましろの相楽山(さがらかやま)よ
ああ こもり隠れし わが妻よ


「朝影に我が身はなりぬ、玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに」

 朝の地面に長く延びる影のように私はやせ細ってしまった、
 澄んだ玉飾りが光るよう瞬く間に逝ってしまったきみだったから

乾先生は地元の史料を使って調べていき、
「相楽山」が小さな丘のような山で、場所はここと、
ほぼ特定できた様子だ。そうなのか。
古街道に沿う小さな小山があの若妻の墓所だったんだ。

長い時間が過ぎ去り
この歌の歌われた木津川のほとりを、
今では悲しみを忘れたぼくが、
奈良コープへの買出しの行き帰りに通っているのだ…

千年の時を超えて歌が残ったので、
その悲哀しい歌がぼくを支えてくれた。、
はるかに遠い時間を隔て、高橋朝臣の嘆きは、
今も激しく響いているが、
今はそれを「哀れ」と思うぼくがいる。
万物は流転し心も移ろう、芸術は永遠を湛えていても。


昨夜、万葉集の中の挽歌で一番身近なものはやはり…
相聞で一番好きなのは…
と、別のところでチャットしていたので、

なんというシンクロだ、と不思議感を満喫。

家持くんがぼくを呼んでいるのかな、
濁り酒注いでくれたら、行くけど (^^;)~♪

  団地のロータリの真ん中に花壇。
  ひとつの音符みたいにポピー咲いてました。




          

2007年5月4日金曜日

堅香子の花と娘女と春の水

物部(もののふ)の八十娘女(やそをとめ)らが汲みまがふ寺井の上の堅香子(かたかご)の花 (万葉集 四一四三・大伴家持)

物部と書いて「もののふ」と読み八十(やそ)に掛かるのですね。

もののふと云う「ものものしい」イメージが、数の多さを形容する八十(やそ)という言葉を呼び起こし、もののふ(男のイメージ)がするりと娘女(をとめ)らの、水汲みに行き来する賑やかさに転じたかと思うと、その情景に寺井(てらゐ)が見える様子が浮かんでくる。

多分寺井とは当時の先進施設の寺院に設えられた清水(井戸)で、堤で囲った貯水式の給水施設なのだと思う。

その井戸は丘の端にあり、見上げてすぐのあたりに、片栗の花が咲いていることに、作者は気づいたのだ。
春の日差しが花を引き立てて、その可憐さが、忙しく水汲みに立ち働く女たちの様子と、二重写しに見えているのだ。

家持くんの弾む気持ちが伝わってくる歌だ。
一時は目だっても、忽ち見えなくなるのが堅香子(かたくり)の花。
それは春の足どりのあわただしさでもあるのだけれど。


2007年5月3日木曜日

どうして山里になんか棲むのだい?


                 
 山中問答      李白

 問余何意棲碧山

 笑而不答心自閑

 桃花流水杳然去

 別有天地非人間




 山中問答         李白

 余に問う何の意ありて碧山(へきざん)にか棲むと

 笑って答えず心自から閑なり

 桃花流水杳然として去ぬ

 別して天地の人間(じんかん)に非ざる有り


   問うものがいる、どうして草深い山中に棲むかと。

   無理もないかと答えずに笑っている、長閑な心で。

   桃の花びらが水に落ち何処へやら遠く流れていく。

   ここはそれ、世間様とはかけ離れているのさ。



 これは自分の愛唱詩だ。

 黛まどかさんから届いた「俳句でエール」には
 蓬もちの句が入っていた。

 嫁姑声の似て来し蓬餅
            渡部トヨ

  よめしゅうとめ こえのにてきし よもぎもち

                     季語/蓬餅
 田舎の嫁と姑は、農作業の共同作業で同じ経験を
 分かちあうから、いつしか女同士認め合うことになり
 次第に共通するしぐさも持つようになったりする。
 この句では、声まで似てきているのだ。
 働くものの伸びやかな声のさざめき。
 仕事上がりのお茶と蓬餅が和やかな場にある…
 田舎暮らしにも好いことはあるのだ。

室内でダイヤモンドダストを人工的につくりだす



東近江市にある西堀榮三郎記念探検の殿堂でダイヤモンドダストを人工的につくりだす実験をやっている。

この記事はLazyCameraというブログに出たもの。出かけて写真を撮ってきたのだそうで、きれいな写真。撮影は難しかったそう。

東近江市に記念館があるのは知らなかった。
南極越冬隊隊長だったから、小学生のころ憬れの人だった。
品質管理の理論と実践の草分けでもある。

過冷却の水にショックを与えると一瞬に氷になるのと同じ原理で
ダイヤモンドダストができるのに衝撃が必要なんだって、知らなかった。それに樹氷も同じらしいと…へぇ山中の衝撃ってなんだろう。
天狗のくしゃみだったりして(笑)

北海道では自然現象としてみることが出来るらしい。
これは北海道で撮られたもの。

これは信州松本で、マイナス15度以下になった証拠。
すこしわかりにくいが、上の方にに見えている。

ぼくは京都の北山山中で
川が流れている狭い渓谷であること、無風だったこと
湿度が一定で急激に気温が下がったこと、朝日が差し込んだ
という条件で2度ほど見ることが出来た。



西堀榮三郎
1903年京都府に生まれ。1928年京都大学理学部卒業後、京大講師、助教授を経て民間企業(東芝)に移り真空管を発明した天才技術者。統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込んだ人物として知られる。後のQCサークルである。今西錦司、桑原武夫ら京都グループ主要メンバーの一人。日本山岳協会会長も務め、日本初の8000m級登山である「マナスル登山」の際、ネパール政府との交渉役も務めた。昭和55年チョモランマ登山隊総隊長を努める。「雪山賛歌」の作詞者でもある。探検家のカリスマ的存在であった。京大の教授となった翌年の1957年2月15日から翌年2月24日にかけて行われた、第一次南極越冬隊の隊長を務めた。その後、原研理事などを務めたが1990年に死去。主な著書に『品質管理実践法』 『南極越冬記』 『西堀流新製品開発』 『品質管理心得帳』 『想像力』 『五分の虫にも一寸の魂』などがある。

2007年5月2日水曜日

茶摘み籠にならぬ茶摘ポケット

今日は八十八夜だそうだ。
新茶の季節。

最近、新聞を新聞受けへ取りに出るときポケットに一掴み分の茶の新芽と若葉をちぎって詰めてもどる。
それを手揉みにして暫らく置くと蒸れて黒ずみ、少し乾いてきたらティーパックに入れて湯を注ぐ

『生茶』…でもないか。
あまり香りはない。

でも「青汁」に慣れた舌には青臭さも感じない。
旨みがあって、かなりイケルと思っている。
今の季節だけの遊び。
葉酸、ビタミン、テアニン、少しはカフェインとカテキン。
ぼくなりに更けゆく春の味わい。

焙じると香ばしくなってお茶らしいが、いまはこちらが気にいってるのだ。

2007年4月30日月曜日

Mind the step


I’ve been taking all the daffodil photos - so I needed a break on the website. This is the inside of the main entrance gate to King’s college, on King’s parade. There is a small door within the larger one - hence “Mind the step”.

面白いですね。
興味深々になりますね、ぼくは。

ステップっていろんな意味になるから
あれこれ想像してしまう。

アリスや兎(懐中時計もったヤツね…)が
潜り抜けて行きそうな…ドア。

なぜドアにもう一つ小さなドアが要るのか?
the main entrance gate to King’s college, on King’s paradeっていうのも気になるところ。

辞書には

mind [watch] one's step

(1)足元に気をつける.

(2)言葉[行い]に気をつける.

と、ふたつ出ている。
ぼくは(2)でMind the step!と言われそう。

ケンブリッジは古くて奥深いのだな、行って見たくなった。

2007年4月27日金曜日

小さな日溜まり


これが青汁の原料で有名?なケールの、その花です。

これは咲いてしまっていますが、花芽は菜の花よりもコクがあり
茹でて三杯酢などで食べるととても美味しいのですよ。
関西風人の好きな「お好み焼き」にもキャベツの変わりに
ケールの葉や茎、花芽を刻んで入れるとお代わりしたくなります♪



今日は小休止のような一日。
会社のデスクの上で新聞からはみ出していたチラシに目が止まった。
         
あれ、これは… 阿修羅じゃないか、興福寺の。
見たことないでしょう? この角度の写真。
ぼくは、中学生の頃、このような角度も含めて、
じっくり見せて戴いた。

中学校には美術鑑賞クラブという鑑賞専門のクラブがあり
ぼくは部員だった。かなり高度な?鑑賞力のある先輩が多かった。
部誌に『四天王寺再建非再建論争を論ず』なんて書いている人もいたし。ぼくもボリンガーの「抽象と感情移入」などを読んで、分からぬままで議論に首をつっこむ真似などをしていた。

顧問の先生が足立という京都美術大学(現京都芸大)卒の方で
情熱的な先生だった。(今もお元気だ)
終いには先輩たちは脱乾漆法の高30センチほどの仏像を造り始めた。
       
部室には日本の古典書籍が揃っていた。初めて日本書紀や続日本紀を原文の漢文で「見た」のもこの部室だった。

先生の伝で法華寺や秋篠寺や当麻寺はじめ、たくさんの寺を回った。
住職たちはみな優しくしてくださり、部屋へ上げていただいて絵巻物を拝見できたり、本堂の中を「懐中電灯」で仏様のお顔をじっくり観察?させてもらえたり、今思えばのんびりした時代。
国宝の仏に触らせてくれたのだから…考えられないね。
         
そして大好きになった浄瑠璃寺の建物と仏たちの傍へ縁あって棲む事ができている。人生七曲しても生きていればお日様のあたる道にもでるもの。


22日まで、ボランティアしてました。春の不調を堪えながらがんばってました(^^;)
合併にともなう市長選挙と市会議員選挙。
ぼくらの地域は新市の周辺部になるから、予算がしっかり公平に使われるかは大問題。
だからみんなが分かっていても発言を怯えている同和予算の組み方などではっきりものを言ってきた議員に市会へ出てもらうため、思い切って応援を買って出た。

50人いた議員が26人に減る。35人立候補で9人落ちる。数十票から数票で当落が分かれるだろうという激戦だった。
村というものは保守的で、区長会という行政の代行事務もする半ばは公的な自治機関で特定候補を地域代表に推薦を決定するようなことをするのだ。(厳密に言えば公選法違反じゃないのかな)

だから住民になって十数年過ぎたぼくは、もう村人だから、
あえて他の候補を推して選挙の活動で働きかけるのは勇気がいるのだ。
         

それでも事実は雄弁で、何人かは地域の代表は君の推す候補がいい、票を入れるよと言ってくれた。
他の地域にも選挙カーの運転手で入ったが、個人的にはおじいさんやおばあさんが手を振ってくれたり、家の物陰から小さく手を振ってくれたり、次第に空気が変わっていくのを感じた。

政策をきちんと言う選挙をする候補だったからだ。コミュニティーバスの本数の増加(JR駅前行きだけでなく市役所、病院への路線を追加させる)と料金の引き下げ(旧町内は他町のより高い)をするなど。

全体としては投票日前は落ちるかもしれない、というほどの気持ちにさせられた。
他候補が「あそこは大丈夫、だからうちへ票を」と大宣伝を掛けていたからだ。いわゆる『大丈夫論』が広がったのだった。
最後はこれだけがんばったんだから、悪いはずがない…という精神主義になった。自分でも自分が可笑しくて笑った。

市長選挙では、合併の推進の中心だった前町長が市長に決まった。
だが住民投票条例を作って合併の是非を問えと集めた1万を越える捺印署名と同数の票を市民派市長候補が集めた。批判票は厳然とあることを示した。

開票が大幅に遅れ、市会候補の結果が確定したのは午前三時半。

ぼくは選挙事務所で待ちながらこっくりこっくり。我慢できない眠さだった(笑)PCでNHKのインターネット用速報をモニターしていたのに。待ちくたびれた耳に突然電話が鳴り響き、開票所から結果が届いて、目が覚めた。

ぼくが推したのは共産党の4候補。
町政で一番しっかりやっていたからだ。
今便りになるのは地方政治ではここしかないな、と結論しての選択だった。勇気も要ったけれど。

予想外の結果がでたのだった。
4人の候補者のうち一人は第二位の高位当選。
ぼくの地域の女性候補も十一番目という成績。ヨカッタ!!
後の二人もは19,22番目となった。
当落ぎりぎりはいなかったのだ。
町政時代何かと言うとぼくの推した候補(町会議員だった)に辛く当たっていた女性候補(前町会議員)は落選。(^^)

で、お定まりの「ばんざ~い」「ばんざ~い」
気持ちよかったぁ! 
議員さんにはその朝から仕事が待っていた…
疲れを取り、エンジン全開でいけるコンディションを作ってね。
先は長い、仕事も多い。身体に気をつけてね。
そう思い小さな身体の、女性議員になった彼女に感謝したぼくでした。

さあ、日常に戻ってがんばろう。
今日はこうして日溜まりのような一日をもらったのだから。

2007年4月25日水曜日

ちょっと違う角度から。 昨日のエントリを考える

 昨日は学力テストのことを関連記事として書いた。

 なぜ書く気になったのだろう…と振り返ると、
 いくつかのことがあるように思うのでした。

 40何年か前にも文部省(当時)が「全国一律の学テ」を
 企てました。そのときも「上から」でした。
 父兄や学校の現場からのものでも、受験産業の関与でもなく。

 背景にあったのは高度成長路線に必要な「直ぐ役立つ」労働力、
 人材を大量に作れという財界三団体のチームプレーでした。
 そのもう一つ背後にはケネディー・ライシャワー路線と呼ばれた
 アメリカの対日政策の変更がありました。

 アメリカの政府はアイゼンハワーが来日を中止しなければならない
 ほどの日本人の対米意識を親米的にする必要を感じ知日派
 ライシャワー博士を大使に任命していたのです。
 学生運動のない日本の大学、教授陣と学生を作り出すために。
 20年かかってそれは実現しています。

 60年代には安保全学連の元幹部まで含めアメリカ留学が
 急増しています。財界の「人作り政策」といわれた企画の
 小中高生徒への「学テ」はその一端でした。

 そのころから「文部省のお役人」の耳がアメリカや財界の声だけ
 聞こえる耳だったのは確かなようです。
 だから、またか…と思うのです。考えないお役人の企画は
 多分役には立たない。だからそれほどテスト自体は
 気にしないでもいいのかもしれない。問題はその心理的波紋の方。

 偏差値の統計学的意味やその限界も理解できない人までが
 偏差値が…という社会です。「学テ」が復活してくることで
 いっそう「競争原理という悪魔」が野放しになるでしょう。

 都市以外で地域社会が辺境部から崩壊してきている日本で
 それを日々生み出している魔法の言葉が「競争原理」「市場原理」
 教育と言うレアな人間性を育てる場所に
 ヘンな「原理主義」は要らないと思うんだけどな。
 
 苦労のともなう地域社会の再創出が鍵なのだと思うが
 誰もがそのことを気づくような場面がまだないのだ。
 痛ましい事態でも経験しなければ…震災後のボランティアみたいに。 

2007年4月24日火曜日

ありがとう








ありがとう。もう友達。いつも一緒だよ…

実はついこの間に亡くなった池田晶子さんという哲学者(対話的哲学ライターとぼくは名づけていますが)の「14歳からの哲学」を読み始めたばかり。

ちょっと頭が哲学風に「言葉まみれ」になりかけている。
それで、「ありがとう」という主題なんだけれども…

哲学的な「ありがとう論」も有り得る気がする(笑)。

だって、「ありがとう」と言ったり、思ったりするとき

「ありがとう」な自分や、「ありがとうの相手」、がいるのだから。

そして、そのときの自分や、そのときの相手が、
「なぜ」ありがとうって言える場面にいるのか、
問うことは無意味じゃないもの。

そう問い、答えが分かれば、「ありがとう」の中味が
気持ちだけじゃない…って分かったりするから。

それが「思う」から「考える」への飛躍、哲学なんだと
池田さんは言っている。
大人になるってことなんだ、それが。
ただ思うだけじゃなく、
考える(校=かんがえる)ことを
身につけることなんだ。

学校(学び、考える(=校)場所)へ行くのはそのためか。

「ありがとう」って、気持ちだよな。
だから、「ほんの気持ちです」といってお礼の品を渡すよ。

感謝する気持ちが、「ありがとう」なんか?
気持ちだな、まずもって「ありがとう」の気持ちだ。

そして気持ちだから、「ありがとう」という「思い」なんだ。
思う自分。…考える自分。どう違うのだ、同じなんか?

「ありがとう」は、気持ち。
でも「ありがとう」は言葉。

声にもなる言葉。
「アリガトウ」

「ありがとう」と言葉で言う前に
声に出して言う前に、
アリガトウと呟いている自分がいる。
思っている自分がいる。
でなけりゃ
それは、嘘言葉。
「アリガトウ」という嘘。

言葉はひと(他者)への架け橋。
他者や世界への窓。
ぼくは15歳でゆめみた。
「こころの窓」
「言葉でできた橋」。
                 


<人が人に壁になるのではなく、人は互いに
世界に向かって開かれている窓になってほしい>
甘い幼い詩人の魂に映った苦い諍い。

……

嘘を吐く世界で「ありがとう」も嘘に変わるなら
詩人は生きていけない。
自分のなかにも嘘が生えてくるから。

「アリガトウ」と言えなくなった分だけ
「ありがとう」は身体いっぱいに溢れて

感謝しながら泣いていることだってあるさ。

「ありがとう」「アリガトウ」が渡す
こころの架け橋が渡れなくて

立ちすくんで更けた夜もあった。

「世の中を憂(う)しと痩(や)さしと思えども」
鳥ではない人間の身では飛び立つこともかなわぬ願い。

……

知人に「有り難う御座います」と
鞄などにシールを貼り
持ち歩く人がいる。
「ありがとう」おじさんになっている。
溢れるほど「アリガトウ」が涌いてくるのだろうか?
紙の上にある「ありがとう」


ぼくは「ありがとう」が言えなかった。
一番大事な別れに
「アリガトウ」と声にならなかった。

大事な大事な人に分かれるのに
二度と顔を見ることができないのに
溢れるものにさえぎられて
「アリガトウ」が言えなかった。

いつまでもそのことを忘れられずにいる。
肝心のときに言葉はバラバラになって
地面に散らばってしまったと。

「すみません」とは言えるのに
「ありがとう」は気軽に言えない。
そんなことが多い、ぼくはそんなやつ。

ぼくは最後のそのときに
眼差しだけでいいから
世界に「ありがとう」と
そっと言葉で返したい。
              

自分にはいろいろあったけれど
自分が一部分でいた世界は
やっぱり美しい場所だったと
最後のことばに残しておきたい
滅多にいえないぼくだから

ありがとう
みんながいるから
世界は人生はすてきだった

と。

全国学力テストって生徒のためじゃないでしょ

文部省やその代行業者が「生徒のため」という時ほど眉唾はありませんよ(笑)

国家というのは「送りオオカミ」的お節介の結晶体で
一種のUFO(共同幻想)ですね。

なぜ「公教育という子育て」は「全国一律」でないといけないのかな。
地域格差が拡大していく社会で一律のテストでなにが分かるのか…。
結果が出ると、「うちは遅れている!→大変だからもっと勉強させよう」、といった、格差からくる過剰不安反応でいっそう教育が歪むだけ。

考える力のないお母さんや先生が生徒をきっと地獄まで連れて行くことのなるね。痛ましい結果が目に見えます。

家族、学校、地域社会が助け合える環境がない社会では、学力テストの資料的意味はない。
文科省は、自分たちのこれからの教育施策を正当化する数字や事実を集めたがっているのだ、と思います。

TVで「サンプリングより全数検査のほうが正確なのは統計学の常識」、と記者会見で大臣が言っていたが笑止千万。
考古学者の吉村教授がコメントしてたように、事実は全く逆である。

全数検査よりサンプリングによる抜き取り調査のほうが正確であるのが「統計学の常識」なのだ。あべこべじゃないか(爆笑)
文科省って学問の常識も持ち合わせない人が責任者らしい。
中学生でも知っている常識の無い人が何を言うか、と言っておきたい。

昔、推測統計学(推計学)の日本での草分けだった増山元三郎さん(2005年逝去)の一般向けの「推計学の話」を読んだ。(増山さんは学者馬鹿ではなかった。サリドマイド薬過では統計学者として資料批判で発言され、学者の社会的な責任を果たされた立派な方だった)

  推計学の話 増山元三郎 朝日新聞社 1949

これは絶版だろうが、名著だと思う。小学6年生にもよく分かる本だったが、後になって内容の高度さが分かってびっくりしたからだ。

『池に棲む魚の数の推計を二度網を投げて調べる方法』を、数十個の碁石で実験しながら学んだ。
いまでも森に住む動物の生息数の推定などに使われている。

この本にサンプルを何度かとって調べるほうが全数に当たって調べるよりなぜ良いかが書かれていた。
小中学生でも分かる論理だった。

この論理教えてあげようか、文科省の大臣に。

テストだ統計だという前に、
本当の学力が数字で測れるものかどうか。
量れるものは何か。
どう活用できるのか。
広く国民にわかる議論をして欲しいね。

「常識」をしっかり身に着けてからね。


     実用に関係して統計的思考を見せるコラムなら
     『くもりのち晴れ』がお勧めですね。
     この方の「入学試験とクリーンルーム」は
     科学的思考で試験制度をチクリと刺す一読の価値あるコラム。

-------------- 一部引用します --------------------------
……
入試センター試験が終わりました。試験問題が新聞に出ていましたが、どれもなかなか難しい。時間をかければともかく、これ全部を2日でやるのはまず無理。ある大学の先生に、受験生はできるのですかと聞くと、パターンで覚えているのですよ、との答え。まるで将棋のコンピュータプログラムと同じです。将棋のプログラムでは、序盤、中盤は膨大な過去の実戦パターンを参照して、局面に応じて指す手を選択し、終盤はコンピュータ得意の腕力で読み切るのです。近年、急速に力をつけ、プロをもおびやかす存在になっています。チェスはすでにコンピュータがプロの世界チャンピオンに勝つこともあります。

 こんな難しい試験に受かって入学してきたはずの学生の学力はどうか。ある先生は、平方根がわからない学生がいると、また別の先生は、マイナスがわからないのがいるといわれる。

 昨年、琉球大学での学生の追跡調査が論議を呼びました。入試センター試験の結果と入学後の学業成績には相関がないというのです[1]。同じような結果が拓殖大学などからも報告されています。どの大学も、大卒の学力が身につけられる学生を入学させようと、○×式試験以外に推薦、AO、小論文、面接などを組み合わせていろいろ苦心しています。卒業時成績に一番相関が高いのは大学1年目の成績という報告もあります。基礎が身についていなければ何年在学してもムダというのです。
……
   この方がまじめなのは、[1]のようにコラム末尾に引用した論文やデータを記して、論拠を出しています。大臣もぜひ見習いたまえ。