2008年1月13日日曜日

六十の手習いで続紀天平十年に挑戦中

自分が住居に選んだ土地に昔短期間であっても
都が置かれたことの理由を以前から知りたかった。
朝日カルチャーセンターの広告に惹かれて申し込んで
一ヶ月余り出たが年末で全講座が閉鎖になった。
近鉄奈良駅周辺では成り立たないらしい。
西大寺駅周辺では便利がいいので可能だろうが
近鉄がカルチャー講座を開いている。
と言うことで撤退となった。

それはいいのだが、
二階に上がって梯子が無くなった感じになるじゃないか。

そう思う人たちが講師に要望して自主講座として続くことに。
ありがたや。

でも、観測が甘かった。内容が充実し、かなり努力しないと
ついていけないかも… (汗)

講座は『日本書紀と続日本紀を読む会』と名前がついた。
読むのだから簡単だよ、と思っていたら、
白文(返り点や句読点を付けていない漢文)を読むんだ。
と、思い返せば高校以来、白文など見てもいないよ。

日本書紀は欽明紀から、続紀は天平十年元旦から、と決まった。
で、1月7日に行って来たんです。
初日なので講師の水野柳太郎先生の漫談風の独演でしたが
話されている内容は、済んでみるとかなり濃い内容です。

終わってへとへとです。
昼の休憩時に先生が何故かYohに
「こんな話でいいですか」と問われたので、困って
「私は…素養がありませんので…」と誤魔化し。(汗+汗)

吉川弘文館刊の黒板勝美編「六国史」が種本らしい。
それに小学館の原文と読み下しと現代訳のついたの。

現代訳は参考程度に考えること
当然でしょうね、訳者の私見が入るからね。

漢文は上古の訓読に拘らず普通の漢文式に読んでよい
当時の読み方に拘っても返って意味が分からなくなることも多い。
こう言われて、なるほどと腑に落ちた。自分はそういう逆の和臭の強い読み方に傾いていたので読めなかった面があるな。

文字通り六十の手習い。
がんばれば一年でかなり読みこなせるようになる、との先生の励ましを真に受けてがんばろう。

少し進めば続紀は「藤原広継の乱」のところだし、
面白い話も聞けるだろう。
欽明紀の方も継体・安閑・宣化の王朝並立説などを廻る話がでるだろう。

まずは読めなくては話にならない。
毎週一度はかなりキツイ課題だ。予習も復習も要りそうだ。
気合を入れてがんばらなくては。
でも、仕事上の課題が多すぎる年明け。どうなることか。
やるしかないな。


先生のお勧めは白文を紙に手書きで写すことだそう。
そうすれば漢文に馴染み区切りやリズムが感じられるようになると。
さっそくやっているのだけれど、字の下手さに我ながらあきれ果て、
意欲低下。いやいや、続けなければだめだ。

探すと国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに六国史が印影版で入っている。
早速JPEG2000のプラグインを入れてブラウズする。
汚い版で活字が潰れていたりして読めない字がある。
でも電子テキストでは外字になって表示できない字も
印影では見えるので併用するのが便利。


半日かけて欽明紀全文と天平十年聖武紀全文を
テキストで入手。
MS wordで縦書きの横置き用紙A4で白文にして印字。

書き写しながら読んでいる。現代訳と対照して
自己採点は60点かな。まあまあの出だしとしょう。

1時間半講義で30分質疑か読み方指南。

次回が楽しみになってきた。

年内に先生に「よくできました」と
桜の判子もらえますように。
がんばるぞ。

伝説の綯い混ざる 『コマンダンテ チェ・ゲバラ』

アルゼンチン生まれのチェ・ゲバラはキューバ革命に参加し司令官(コマンダンテ)と呼ばれるようになった。彼はボリビアで部隊を率いてゲリラ活動中CIA に指揮された政府軍に捕らわれ裁判の機会も与えられず撃ち殺された。ボリビアの「虐げられた民衆の利益のために」闘った彼だが、実は十分な支持を得られなかったためゲリラの基本、「民衆に匿われ守られながら彼らとともに闘う」原則が守れなかった。そのため追い詰められた結果の捕縛と銃殺という悲劇になった。
Youtubeで見つけたひとつの動画はこの事件をバックにチリの(これもピノチェット将軍のクーデターで虐殺されてしまったミュージシャン)ビクトル・ハラ作の歌が流れるもの。最後の シーンに民衆が立ち上がっていく姿を映像にしているが、これは願望が伝説を生み出していく一例だ。
         
伝説化された映像の中でチェ・ゲバラは不死鳥になり永遠化される。

 しかし、それから20年以上たった現在。動画は未来を予見していたことが分かる。

 孤立して敗北した英雄は時間を経て民衆の中に帰ってくる。
 民衆自身が立ち上がり世界を変えようとする時、回想の中に帰ってくるのだ。


         
 あれほど農民から孤立してしまったゲバラだったが
 いまや先住民も含めて国民的な広がりで運動が起こってきた。

 いまや先住民は沈黙の隷従者ではない。
 帽子を冠った先住民たちが国の政治を動かしている。
 モラレス大統領は南米初の先住民出身の大統領なのである。


 彼の後ろにはゲバラの顔が浮かんでいる。
 彼を支持する人々の中にはチェ・ゲバラの像を掲げる者もいるからだ。

         

 見たまえ、デモ隊の先頭にゲバラがいる。
 彼の顔が幕に描かれている。
 彼は彼が身をささげた人々の中へ帰ってきたのだ。


 揺れ動く中南米。
 マスコミは希望的観測でベネズエラやボリビアの政権は
 ポピュリズムの失敗として終わるだろうと論じている。
 果たしてそうか。

 南米諸国民が国境を越えて見せているかって無い団結の姿を
 軽く見るようでは 政治的感覚は鈍いと言わなくてはなるまい。

 未来は常に明るいとは言えない。
 しかし明るい未来は常に民衆の参加で作られる。
 それを信じるか信じたくないかの違いなのだ。

 
 『コマンダンテ チェ・ゲバーラ』の歌の一節を口ずさんでいた
 亡き友の若々しい声が耳の底によみがえってくる、老いたぼくの耳に。

 ビクトル・ハラの詩と文章をスペイン語辞書を片手に
 とつこつと読んでいた横顔も浮かんでくる、しろい項も。

 なんだか今年あたりは
 フィデル・カストロがその生涯を閉じる予感がする。

 だがモラレスやチャベスたちは生きていく、民衆とともに。
 多くの間違いや失敗をしながら。
 そのツケを自ら支払いながら、ひとは生きる、民衆も。

 「時代は心を変える」と友が歌っていた、キューバの歌を。
 希望を持てる心へと変えるのだと。時よ進め、時よ移れ。

 時間だけは長く経った。
 ぼくはまだいる、ここに。
 そして
 希望は、まだここに、 ある。確かに ある。

 《ぼくはゲバラ崇拝者ではない。
 ただ中南米の人々にとって過去ではないことに注意したいのだ。》
 
 

2008年1月12日土曜日

思い出のキラパジュンのシルエットに再会…

Quilapayún

El pueblo unido jamás será vencido





la muralla





Mi patria





Plegaria a un labrador





Contraste





Inti-Illimani & Quilapayún

Ventolera





yaravi y huayno






Cantata de Santa María (parte III)





Victor Jara
Manifesto





Victor Jara
TE RECUERDO AMANDA





Victor Jara
Comandante Che Guevara





Inti Illimani
El Aparecido (Che Guevara promocional)





Silvio Rodriguez
Playa Giron

2008年1月3日木曜日

初夢の代わりに…


 カーボン・チャンスの時代。
 金儲けのチャンスではなく、
 新しい経済社会、新しい科学技術系、
 人類史的統合の時代を拓くチャンスの時代。

 日本を除くアジアと言われ始めている今。
 孤立しないでアジアの不可欠の構成部分であり続ける
 そういう日本であってほしい。

 戦前や戦時ではなく戦後史を生きてきた自分の
 身の回りからアジアを眺められないか…振り返ってみたい。
 今年はそういう探索も課題にしよう。

 小学校でも、中学校でも、高校でも
 大阪育ちのYohの周囲にはいつも外国籍の友達がいた。
 ほとんどが韓国籍・朝鮮籍の在日コリアンたち。
 中学校の同級生には明治初期の長崎への来日からという
 滞在暦をもつ中国人の家庭の子がいた。

 高校でも同級に中国人、朝鮮人がいた。
 みんな日本語で生活していたから
 外国人と意識することはまれだったし、
 どこかでそれをよしとする空気があった。

 そして知り合ったりして一応どちらからも
 友人と思っている外国人はそのあとにもいる。

 ベトナム人のグエン君とナン君。
 バングラデシュ出身のカーン君。
 フィリピン出身のペピート君とジェーシィさん。

 アジアではないがカナダ人のニール君や
 最近知り合ったフランス在住のチリ人画家。

 案外多いですね。知らない間に増えている友人たち。
 ベトナムやバングラデシュの友人は留学生出身の在日外国人だから
 日本語は達者でナン君などは日本の詩をすらすら読んで
 Yohの書いた詩を的確に批評してくれたこともあった。

 カナダ人やチリ人となると言葉の壁があるので
 どちらも怪しい日本語と怪しい英語での会話になるが。
 でもなんとか気心が通じる。
 大工のニール君とは日本建築の話題で、
 チリ人の画家とは彼の作品の話題で、共有できるものがある。

 思うのだけれど、彼らといるとき
 ぼくも相手も同じものを媒介にして向き合っている。
 「いま」と「ここ」と「何か」をシェアしている。
 
 そのシェアできる関係こそが大事なぼくの財産だし
 中身が変わっても変わらないで居れる関係かどうかだ。

 僕が例えばベトナムへ旅に出るとしても
 彼らに便宜を図ってもらおうとは思わない。
 いまでは企業や国家にしっかりしたポストをもつが
 かつての友情はそれとは無関係だから。
 旅の終わりに電話してお茶など一緒に飲めたらいいなとは思う。

 遠くなった日々は美しいもの、
 その美をそのままにそっと置きたいものだ。
 きっとナン君は今もベトナムの五言絶句みたいな
 彼らしいやさしい気持ちの詩を書いているだろう。
 変わるはずはない。それでいいのだ。

 彼らとは 
 ベトナム戦争がなかったら知り合う機会は無かったろう。

 こう見てみると僕も
 民際交流 (民と民の直接交流による友好を
 ある老エスペランティストはこう名づけた)を重ねてきている。

 国益や利権に関わらない民際交流でアジアをひとつに結ぶ。
 EUのような一体化は直ぐには無理だから、
 経済や文化での交流と互恵(互恵という言葉のほうが好きだ
 win-win関係などという言葉よりも)の「恵み」が紡ぐ信頼関係の
 長い織物を織り続けて、アジアが長期の繁栄の時代に入っていく。
 そういう夢の揺り籠を揺する時代がきている。

 僕はもうその先頭を走れる能力はないが
 何かできないか。そう思って考えながら歩いてみたい。
 一箇所でいい、今年はどこかアジアの街角に佇んでみたいです。

 フエかそれともネグロス島の田舎町か。
 サンダカン。あるいは中国のどこかの下町に。
 
 
 

2008年1月1日火曜日

2008年元旦

新年の恒例である甲田医院での朝会に出てきました。
いつもはこういう恒例行事は苦手なので行きません。
失礼に当たっても行かないのが自分流なのですが、
今年は先生のほうからぜひ聞いてくれとのことで
出かけました。
少食健康法の新しい考え方、実行の仕方を
試みてみてほしいというお話でした。

自然免疫を生かした治療が注目される医学的新分野になり
元旦の日経新聞でも記事が出ています。
抗体医薬が新しいベンチャービジネスになると。

人間の体がもっているパワーを引き出す方が
化学的薬剤より効果的だとわかってきたことと
それを実行できるほど分子生物学的レベルが上がってきたことで
流れがかわりつつある。

断食という伝統的な知恵がもつパワーの秘密が
分子生物学的手法で解き明かされる時期が見え始めた。

そんな話でした。
食べかたで変わる人生というYohの多年にわたるテーマも
具体的な糸口が見え始めるのでしょうか。
楽しみな感じで年が明けたなと思いました。


帰り道にちょっと凧揚げが見たくなって
平城宮址へ寄り道しました。
案の定何組かのパパと子供たちがいて…
パパは奮闘してました。
一年に一度だろうから、ま、直ぐには上がらない(笑)
でも、みんなそのうちに上がり始め
子供たちの嬉しそうな顔。
笑顔をおすそ分けしてもらってパチリパチリと
写真に撮りました。

年始挨拶に出た帰り、平城宮址に寄る。凧揚げしている親子。




今年は「日本再定義が始まる」というYohの「予言」ですが…
かなり怪しい予言ですね。
(自分で茶化してどうだといわれそうですが。)

でも、一応続きで書いていきますが、

日本国家は既に再定義されているという事は
どういうことか。
それは数年来の「日本の社会のきしみ」の大きな部分を
説明する事実です。

日本国を定義すると言えば普通は
まず憲法というのが順序でしょう。

でも、まだ日本国憲法は再定義(改憲)されていませんよね。

では何が、日本国の再定義だったのか?
国民投票もしていないのに?

憶えていませんか?
新聞は国民に解りやすく報道してこなかったが、

『安保再定義』という言葉が
一時マスコミにも流れていたことを。

建前は日本は主権国家で、外国との条約は
その主権国家が主権を放棄せず
他律的に制限もされずに結ぶもの、
安保条約もそういうものとされています。

でも『安保再定義』の中身は…

一国行動主義(一国覇権主義ともいう)のアメリカの行う
戦略行動を能動的に支え一翼を担い戦うもの。
安倍前首相が「血の同盟」と言ったのは正確な表現でした。

「世界共同の」テロ対策への協力とかいった表現、
言葉のあやで隠されていますが、
今までとは違った覚悟が求められる内容が

安保再定義でした。
小泉・安倍政権はその路線上をするすると滑って
もう一歩で再定義の完成にこぎつけることに
成功するはずでした。

つまり「安保の実質的な新体制」安保再定義。
それに見合う憲法改変=国内体制の再定義。
だったわけです。

震源は安保、傾いたのは主権国家の背骨(憲法)。

民営化路線にしても、郵政民営化にしても
教育基本法改悪にしても
福祉や税の改悪にしても
全部がこの再定義に関わっている。

全貌はいまはまだ見えないが、
歴史はきっと明るみに出すだろう。
小泉とブッシュの闇協定を。

佐藤栄作総理時代の核密約が暴露されたように
歴史は決して暗黒ではない。

このように「闇で」再定義され、今もされつつある
日本国家の再定義に対して

もうひとつの再定義が必然的に起こってくるだろう。

それは国民による再定義だね。

日本再定義。日本人として
もう一度考え直してみよう。
これでいいのか?
わたしたちは何者なのか?
どうしたいのか?

国民の面倒を見る気のなくなった、
多国籍企業化した大企業や
合衆国の財界や政府にはやさしい国家、
誰のものなのかと問いたくなる国家を

いちど自分から遠ざけ相対化し、
疑問符を付けて
考え直してみる。

これが日本再定義。(日本再定義ではなく)

イタリア人はイタリア国家を軸に物を考えない傾向が強い。
地方の自立性が強いし、非政府的組織が元気だし
スローフード・スローライフ運動を生み出すような
カルチャーの奥深さがある。
金で計れない豊かさがあるように思う。
いまの日本人はイタリアに学ぶといいのかもしれない。

強い国家と国家主義に自分のアイデンティティを求めるより
一人ひとりの知性や情緒を生かしあい
人間関係と暮らしの再建から
日本社会を本当に自由な社会として再建する
全国民的コラボレーションがいまこそ必要じゃないか。

それをYohは日本再定義と言うわけです。

日本国憲法は国民生活を仕切る基本法としては
世界有数の優れた憲法と思う。

悲しいかな、半世紀の自民党政権はそれを台無しにすることばかり
してきたと思う。

深刻化する格差社会も
国際経済のグローバル化などが原因だというのは皮相で、
国民生活を優先に経済運営を出来ないという
官僚や政治家の暗愚の証明でしかない。

家庭経済、個人消費を、最終需要を大事にしない経済運営に未来はない。

国民は気づき始めているし、
行動も始まっている。

労働組合の組織率、構成員数が増加に転じたという。

社会的反撃が始まった。
それが成功するかどうかは未知だが。

これは企業拡大に伴う
従業員数の増大に比例しての増加ではない。
つまり自分の生活と生存とを賭けた
闘いの数字と読まねばならない。

だが、成功するならやる、しないならやらない、
という怯惰は
この数字を生み出さなかったはずだ。

絶望はかならず希望に接続する。

もしそれが誠実であるならば、
忍耐強く学ぶ知性にめぐまれるならば。

日本再定義には「元年」はない。
ひとりひとりが自分の日本に気づき
定義をし直していくのだから。

貴方の日本、二十一世紀の日本、
自分の理想の、あるべき姿と一体の日本の姿
見えていますか。

Yohの青春時代は
『三丁目の夕日』の時代
あのころの自分を発掘しながら
Yoh的再定義をしていくつもりです。
あのころも
三井三池炭鉱の合理化と閉山で
大阪の街には炭鉱離職者の家族が溢れ
釜ヶ崎の日雇い労働者の騒動がありました。

Yohの若い友人がこの正月の炊き出しボランティアで
釜ヶ崎に詰めています。
今まで社会的関心など弱かった友人ですが
自分で考えがあって行くのだと参加していきました。
ちょっとした感慨と感動があります。

しなやかで
つよい心
やさしくて
ひとにひらかれたこころ
水に似て
自由で純粋なこころ
にほんのことばに
たっぷりと盛られる
あたたかなこころ
そんなこころで再定義する日本に
戦争の立つ場所はない。

あけましておめでとうございます


 
           庭の山茶花が咲いています

 新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春の
 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)       大伴家持

 日本海側はゆきだそうですね。
 あたらしい年を清め予祝するように降りしきる雪のように
 吉事が重なっていって欲しい。

 年の初めにひとが願うことは古代人も現代人もちがいはないですね。

 我が家では「寝正月」になりそうですが、溜まった未読本を
 ゆっくり読んでみたいと、わくわくしております。

 皆さまにも希望に満ちた一年でありますように。



 昨年の正月は「今年の予言」というのを考えて初出勤時に
 同僚に公開しました。

 「今年は電子マネー元年になる」
 どうやらそれは予見どおりになったようです。

 さて今年はどういう「予言」を発表するかな?と
 考えているところです。
 大体見当は定まっているのですが。

 キーワードは『再定義』なんです。

 はっきり云うと「日本再定義」となりましょうか。

 日本国の再定義、というのじゃなく。
 日本再定義、というのがミソです。

 日本国の再定義は実はもうされているのです。

 日本国の再定義とは何でしょう。
 つまり
 「日本国家の再定義」って何でしょう。

 それが何かが分かれば
 それに対する
 もうひとつの「再定義」が何かも判然としてくるのでは…

2007年12月20日木曜日

庭にまた山茶花が咲く季節になった

  ひとり居れば山茶花ま向かいに日が薄れ   蛙逝

 去年は山茶花についてひとに教えられた。
 今年も同じように山茶花は咲いて
 同じように猿は出没し
 変わらずぼくはここに居る。

 時々遠くに居る友や、今では連絡が途絶え
 安否の不明な友に思いが廻る。

 父の晩年、いっとき手紙の遣り取りが増えた旧友がいた。
 父が死んでしばらくは葉書の便りが来ていたが、
 死亡の知らせは遠慮して出さなかった。

 分かっているのだ、相手のほうも。
 もう残りは二、三人だけだということを。
 何時それが途絶えてしまうかもしれないことも。

 だがそうと分かっていることと、事態直面とはまた別だ 。
 迷ったのだが、結局手紙は書かなかった。

 それから一、二度の便りの後、ふつりと途絶えた。

 寂しかったがそれでいいと自分に言い聞かせた。
 しばらくは相手の気持ちが思われてならなかった。

 コノ杯ヲ受ケテクレ 
 ドウゾナミナミ注ガセテオクレ、
 花ニ嵐ノ喩エモアルゾ、
 サヨナラダケガ人生ダ    という詩を思い出す。
 この詩自体は「人生すべからく飲むべし」
 というに過ぎないらしいが。
 花に嵐。一陣の風に吹き消されるいのち。
 昨日も一昨日も、そして今日も、
 どこかで理不尽な死を死んでいるひとがいる。

 唐突だが
 「もっと相関を、もっと弁証法を」という声が
 自分の内側から聞こえる。
 偶然と理不尽との向こうに
 合理的な理性的なものが潜む。

 帰納的思考が現状の追認と
 現実への屈服に終わらないためには
 もっと理性が必要だろう。

 自分の牙を研ぐとは、
 今の時代、野生的になることじゃない。

 冷静でしかも快活に不屈な精神は、
 きっと高度に理性的なはずだ。

 それこそが自分の牙となる。

 だとすれば、ものごとを相関的に、有機的に、
 総合的に等々に捉える眼力が
 鍛えられなくてはならないだろう。

 そう思って「ヘーゲル」をまた読み始めた。

 いまさらと笑う友人もいそうだが笑えばいい。



 薄ら日がゆっくり消えて行き、
 闇が訪れるまでの暫しの静寂。

 山茶花の赤が消え残った熾火のように
 懐かしい。
  
 その静かなひとときの物思いだった。




 




 
 

2007年12月7日金曜日

鞍馬山の山陰に暮らした頃の懐かしい人に会った


 【廃校の旧黒田小学校芹生分教場の遠景】

先月の晴れたある日に出かけました。
車にツレと地元で知り合いの市会議員Mさんとが乗って同行しました。

わが地域は野生動物の被害が多く、特に最近「お猿さん」が暴れまくっておりまして、対策に苦慮してるんです。
議会で取り上げて対策を進めたいMさんが「美山とか京北とかは電気柵とかもあるって聞くし一度見に行ってみたい」と話すのを聞きYohの耳がぴくっと動いたのでした。

何を隠そう実はYohは今は京都市に吸収された旧京北町の片隅で13年暮らしていたのです。
「土地勘あるからつれて案内してあげてもいいよ」と申し出ての「視察」と」なりました。
目的は十分に果たせてYohの面目も立ちました(やれやれ)
でも生半なことでは解決は難しいのが野生動物対策。
びっくりしたのは
猪の行動力(被害)とアライグマ被害の広がりの大きさ。


北山杉の中川地域から細野へ入り周山へ、




そして弓削から山国(これも地名です)へ。





桜で著名な常照皇寺。












その傍を走って黒田へ。



あちこちにネット・フェンスが張られています。
被害はどこにもあるのですね。

帰路を貴船方面へ変更したので、予定していなかった
昔の住所に向かうことになったのです。

まるで呼ばれているように向かっていくのです。
途中の集落灰屋では旧友が声を上げて気がついてくれ
思わずの再会。お茶を呼ばれながら1時間ほど話し込み
また来るからねと約束。

そしていよいよ旧住所の芹生の里へ。
住んでいたころすでに高齢化が始まっていたから
もう人家は無いかも…
懐かしい家に軽トラックが…
思わず二人を車に待たせてずかずか入ってしまう。
おお~という返事の声がして元気な顔が笑っていました。
勧められて二人を呼びいれジューヤクやドクダミの自家製のお茶を淹れてもらった。いやお互い頭に白いものがいっぱいになってきてるが元気で何よりですと喜び合い。

話は一気に熊や猿、カモシカなど北山の獣たちに移って
時間がたってしまった。
   

  季節はずれですがキツリフネ。







ぼくらは以前の住処を見に行った。
公孫樹の大木はすっかり葉を落としていたが大欅はまだはらはら落葉を続けていた。
Mさんは「まるで宮澤賢治の世界みたいですね…」と言った。
見るとスチールの赤い郵便受けが錆だらけになりながら残っていて、僕らの後二度住む方が入ったのに、何故か僕の書いた表札がそのままだった。
国村 洋とまだ読むことができたし、
粋がって書いたラテン語の詩句も読める…

Hic Amor, Haec Patria…ウェルギリゥスの詩のかけら。
ここに愛、ここに祖国 という言葉だ。

三十半ばで此処に流れ着いたYohは
この山里でいのちと愛と自然に恵まれ再生を得た。
そんな土地だから…
この郵便受けの自分の名前を見て
涙がこみ上げてきて困った。

区長に聞くと三ヶ月前に住人が去ったのだそうで…
また住み~やと言ってくれた。
心がふわふわと動きそうになっていた。

………

あれから半月余。
ぼくらはまたあの山の分教場跡と結ばれたみたいだ。

今日区長は話をまとめるからおいでと
電話の向こうで言ってくれた。

歌舞伎十八番「菅原伝習」の寺子屋の段の舞台。芹生の里。
ぼくらは通うことになりそうだ。
アトリエや子供の合宿場所には最高のトポス。
神佑天助のごとき時の巡り。
金輪際を一回り回ってしまったのかな。

2007年12月6日木曜日

MIHO MUSEUMで 直筆の信長の書状をみました

信長の肖像とされるものを見てどんな感想を抱かれるでしょうか。

比叡山僧侶や加賀の一向宗徒を殲滅した残酷無比な戦国武将と見えるか。

どうもそういう風には見えないかなとわたしなどは思います。

でもまぎれもなくこれは彼の肖像らしいですから、意外な感じがあります。

ところが彼自身の書状を展示しているので、引き寄せられるように
見入りました。
なんともまるで女性のような水茎くっきりな繊細さもある筆なのです。


ただ大胆不敵な性格と戦略的思考に長けた知力だけで天下布武はできなかったのでしょう。
感じやすく鋭く物を見抜く感受性や吸い込むような魅力もあったのかもしれませんね。
少なくとも武将のイメージには遠い感じの筆遣いでした。
興味津々で覗き込んでいる人がいっぱいいました。


もうひとりの直筆にもであって感激。
大好きなタイプのひと。でも友人だったら
付き合い方がちょっと難しそうなひと。でも
やっぱり友達であることが嬉しいと思うひと。

明恵上人。
道元禅師や親鸞上人と同時代。

三人とも情熱的なのは鎌倉時代人だからでしょうか。

でも明恵さんは狂熱的な噴出もあるひとでした。

有名な明恵さんの夢日記。
『夢記』の断簡が展示にあったのです。

現代語の読みも添えられたありましたが
とつこうつ、どうにかだどり訓んでみました。
博物館での楽しみのひとつです。

でも
夢で仏に出会っているときの明恵さんの気持ちって
どんなんだったのでしょうかね。
実感して知りたくなりますね。

不思議なおかたです。

そういえば奈良女子大におられた?岡潔さんも
「夕べ夢枕に普賢菩薩がたたれ…」と数学の講義の最中に
話されたりしたそうで、天才肌のひと、(明恵さんもそうだと思います)にはそういうことはあるのかもしれません。

昔見た「樂毅論」での藤三娘(光明皇后)の雄渾な男勝りな、しかし優美さも感じた筆遣いからも想像はさまざまに羽ばたいたけれど、

歴史がこのように具体的に感性に訴えて迫ってくるのは
物という対象がそれにかかわった人間の行跡として見えてくるとき、
いきなり物はまったく違った光芒を放つものなんだと思います。

信長が本当はどんな人だったか。
明恵さんは何故来世より現世により良く生きることを
選んだのか、信仰はかれにとってどんな意味があったのか。

その晩はいつまでもいろいろ思って胸の中がざわざわしていました。
今という時機を生きる歴史の中の自分はどんな意味や無意味を背負っているのだろう。残り少ない旅路をそんなことを考えながら歩いていくのだなと思いながら…。


ブログを検索すると同じものを見た人の感想がヒットしました。

<< 織田信長の直筆書状のひとつを、
初めて間近に見ることができた。
季節の挨拶の短い手紙。
ふわり、丸くやわらかな筆さばきで、
荒々しい武将の風を全く感じさせない。
むしろ貴族的とさえ思うような字だった。 >>

やっぱり、同じような印象なんだ…

2007年12月2日日曜日

MIHO MUSEUM 晩秋の美術館で古典美を堪能


滋賀県の信楽というと…たいていの人は「ああ、陶器のタヌキ…}と、反応しますね。
関西人でGnomonの年齢以上の老人なら
 「マメダの置物(オキモン)でっしゃろ」
  続けて大概の人が
 「雨~のショボショボ降る晩にマメダが徳利提げて
  酒買いに~」と唄う

マメダは豆田ではなくて、関西流の略語です。

マクドナルドがマクドになるように
豆ダヌキがマメダなんです。

もう少し物を知る人は紫香楽宮址がありますね、と言います。

でもMIHO美術館がありますねという人はまずいない。
美保でも美穂でも三保でもないMIHOだそうです。
名前からしてすでに思わせぶりなんです。

ウエブ検索でも「MIHO美術館」か「MIHO MUSEUM」で出てきます。

MIHO MUSEUM

すごい山の中の美術館です。

東海道線石山駅からバスがありますが、
ぼくは木津川市の自宅から和束町を抜けて
ドライブして行きます。
今回はちょうど一時間ばかりで着きました。

仕掛けとして陶淵明の桃花源(桃源郷)を
リアライゼーションしていますね。

車はエントランスハウス前のパーキングエリアで
止めなければなりません。
ここで現世とのお別れです(笑)

電気自動車がやってきます。
ゴルフ場のカートの親みたいな乗り合い自動車で、
制服の若い女性が一人で運行しています。(わたしは乙姫と呼んどります)

両サイドが桜や躑躅などが植え込まれている上り坂を行きます。
春夏は鶯がしきりに鳴いているのですが、今回は聞けませんでした。

2,3分でトンネルですが、これが仙境への通路ですね。
金属のパネルが貼られたトンネルの壁は輝きがあるグレーで
タイムトンネルを潜る感覚が味わえます。

トンネルを出て渓に懸かった釣り橋を渡り到着。
四周の山は紅葉しています。
すっかり都会からも世俗からも切り離されて
半ば中国風半ばモダーンの美術館に入ります。

       

え?一応「個人情報保護」ということで(笑)
左はぼくのツレで、右側の二人は古くからの友人。
友人はどちらもMIHOは初めてなのです。

       




だいたい感じは分かりますかね。
たしかグラン・ルーブルの設計者のデザインで
山に溶け込むように開放的な建築です。
略歴がありますね。
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I.M.ペイ氏の略歴
1917年、中国・広東州で生まれる。
1940年、マサチューセッツ工科大学卒業。
1948年~55年、Webb & Knapp.Inc.のディレクター。
1955年、I.M.Pei & Partnersを設立。

主な作品
ジョン・ハンコック・タワー(1976年)
ワシントン・ナショナルギャラリー東館(1978年)
ボストン美術館西館(1980年)
モートン・H・メイヤーソン・シンフォニーセンター(1989年)
滋賀・カリヨン塔(1990年)
香港・中國銀行(1991年)
グラン・ルーブル(1993年)
ロックン・ロール・ホール・アンド・フェーム(1995年)
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現在は開館10周年記念特別展Ⅲ「MIHOコレクション 大いなる時を超えて」の展示なのです。
普段は出ていない所蔵品も見られるかとやってきたのです。

期待通りでした。堪能しました。

同行の友人は茶道の稽古が長い人なので
紹鴎の使っていた品など興味深そうでした。
そして乾山のデザインの現代性にため息。

古代ガラスの不思議な色や

三千年前のエジプト人の感性がそっくり活き活きと
現れてくる小品。
アラバスター石の河馬の像の上に
水に縁のある蛙などが線描されている
その見事な力に溢れた線
すごいデッサン家がここにいるじゃないか。

海外では知られてもいるのか。
中国語や韓国語、それに英語やフランス語が
ざわざわしている雰囲気も今回は経験した。

景徳鎮の磁器を見ている中国人の観光客の横顔が
気になった。
バチカン美術館で天正少年使節が携えた伊達政宗の書状を
覗き込んでいた日本人の自分がそれにダブって見えてくる。

物が時空を横切ってギラリと光って人間を照射する瞬間。
そういう瞬間が今の彼に起こっているかもしれないな。

名品ばかり見ていると高ぶってきて疲れる。
それを寄る年波と我はいふなり…

ここへくる楽しみがあるのです。
エントランスが2Fになっているので、順路は2階から1階へとなっていて、移動するとき吹き抜けの上から下を見下ろすと、ちょうど全体が目に入るように古代モザイク画が配置されているのです。

      


これがそうなんですが、わたしにはこの展示が面白いのです。
一種の謎解きで愉しんでいます。
毎回何かを発見?して一歩一歩解釈していく楽しみ。

      


(黄色のローマ字はわたしが読んで入れました)
今回はこのモザイクの年代はまだ判定できないが
デュオニソスとアリアドネとエロースが描かれてあることは
読み取れた。
少し古代ギリシャ文字が読めるようになった、嬉しい。
でもまだ全部は無理。次回はもう少し行ければいいが。

サチュロスも描かれている。これはデュオニソスの子分の妖精だから付属的なものだ。
何故バッカス(バッコス)=デュオニソスと
アリアドネが一緒なんだい?
アリアドネならテーセウスとで物語になるはずで…
アリアドネの糸車でテーセウスがミノタウロスの迷宮から
脱出する話は知っている。

なんでもこのアリアドネは大地の女神という性格があり
アテナイやクレタ島などで信仰されたという。
テーセウスの物語の最後で死ぬが、死なないで復活して
デュオニソスと結婚したとするストーリーもあるらしい。

それなら分かる。両者の間に愛を現すエロース(クーピッド)がいるのはそのせいだ。

右角の顔は「PAN」と書いてあるようだ。
パンフルートのパンは妖精の一種。半獣半人だったな。
夫婦でいるデュオニソスとアリアドネ。
取り巻いているサチュロスやパーン。
バッカナーレ(デュオニソス祭)の感じがするが
左の老人が何なのか?

全体として農事と関係がありそうだ。
農村の領主層の屋敷に描かれていたものだろうか。

デュオニソスとアリアドネは
対のものであり
調べているとガンダーラの仏教遺跡にも見られたらしい。

原始仏教に入り混じっているギリシャ神話の要素!
面白いな。



デュオニソスの膝に乗っているのがアリアドネ。仏教寺院の装飾に付いていたものだそうです。
酒宴の群像の遠い起源にアリアドネがいたのか。

祭りとは神と人の共食(共飲)だそうで、
バッカナーレは古代というより原始の祭りのイメージ。
神仏との交感のあわいに生じる陶酔とカタルシスの
記号としての女性(にょしょう)
アリアドネが小野の小町や和泉式部に重なって
見え始めたのでわたしは夢心地に近づいています。

このように
MIHO MUSEUMという場所は
世界救世教の分派らしい教団の宗教的領域に
運営されているので静謐は保たれています。

謎解きが終わるまで何度かまだ訪れるでしょう。

ここは有機栽培の素材で作られた食事もできる。
というか、それしかないのです(笑)が
パンもおいしい。サラダも取れたての野菜。

デートには最高の場所ですね。
三十年ばかり遅いけれど(笑)

もうすこしギリシャ文字を覚えてまた
挑戦しにきます。
たぶんツレと一緒。

 
      
マンネリズムで写っております(^^)