2011年7月18日月曜日
ジブリの新作アニメ 「コクリコ坂から」
昭和38年(1963年)は歴史の中にぼんやり浮かんでいるわけですが、
私的には鮮烈な特別な年であった。
そのS38に時機を設定したアニメ「コクリコ坂から」が出来たというので
ネット予約をして翌日のオープンの日に
近くのWBイオンシネマシアターへ行って見てきた。
舞台は横浜。時代は東京オリンピックの前年。
主人公たちは高校三年生。
旧制中学校時代からの鉄筋コンクリート建物の校舎。
木造のそれより古い洋館風の建物(に入っているのは
個性的なクラブやサークルの部室)がでてくる。
懐かしすぎる風景。
自分の通った高校もよく似た雰囲気だったから
まるで主人公達が昔の自分たちのように感じられて
いつの間にか画面の中に入り込んでいるような気分で
目を瞠っていた。
青春は何時の時代でも同じ青春。
でも時代によってかたちは違っている。
ジブリのアニメとしては
息継ぎ的な作品と思うのだけれど
懐かしさをかき立てて
思い出のシャンパンの泡に包んでくれたので
ぼくには100点の出来。
ガリ版印刷なんて知らない世代のほうが多い昨今。
ガリ切りでペンだこできながらも ビラを作っていたことを
思い出させてくれた「コクリコ坂から」には
しばしの幸せをもらった。
物語の中では
海が輝き 風が光ってた。
信号旗がはためき
少女の瞳の中を 空が流れていった。
暑い夏の贈り物
あの熱い青春の記憶
揺さぶり起こしてくれた佳作「コクリコ坂から」
美味しい紅茶と白いケーキのような
甘く薫る初恋にも
出会えるアニメだ。
2011年7月1日金曜日
近くの町、井手町議会は全会一致で「原発脱却」意見書を採択しました。
日本共産党の谷田議員が議会運営委員会で提案した内容をもとに
保守系の副議長が提案したものです。
この過酷事故によるおびただしい放射性物質の汚染により、福島第一原子力発電所から半径20キロ圏内の「警戒区域」、ならびに半径20キロ圏外の「計画的避難区域」に指定された住民は、住み慣れた家、職場を追われ、故郷に帰れる見通しもなく、苦痛な避難生活を送っている。
本町でも、隣県の福井県に14基の 原子力発電所が立地しており、この過酷事故を決して他人事と片づけることはできない。原子力発電所は、多重防護による対策が取られているから過酷事故は起 きず絶対に安全だという「安全神話」が完全に崩壊したことにより、福島第一原子力発電所の事故発生以来、日々住民は原子力発電所事故に対し不安と危険を覚 えている。
よって、井手町議会は、福島第一原子力発電所の過酷事故を教訓に、子孫にこのような不安と危険を残さないため、国においてエネルギー政策の抜本的な転換を図り、期限を定めて原子力発電から脱却することを強く求める。
また、その期限に至るまで、このような過酷事故による危険を二度と起こさないため、原子力発電所の安全確保に十二分な措置を新たにとるよう、国に対し次のとおり要望する。
記
1 期限を定めて原子力発電から脱却し、代替エネルギーに転換する新たなエネルギー政策を定めること
2 原子力発電所の安全を確保するため、30年を超え、高経年化している原子力発電所の運転の延長を認めないこと
3 原子力発電所にかかる緊急時計画区域(EPZ)を始めとする安全基準の抜本的な見直しを図ること
4 原子力安全・保安院は、より一層原子力発電所の安全の確保を図るため、原子力利用を推進する経済産業省からの分離・独立ならびに権限強化を行うこと
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
2011年6月26日日曜日
白村江敗戦の国難から平城京が出来た、だから日本人は偉い…という漫談。
白村江敗戦の国難から平城京が出来た
(日米戦争の敗戦という国難から大発展したのと同じとおもっているのか?)
という珍説をのべた。
国難というショックと危機意識が
国内対立を棚上げし
有無を言わさない大開発を可能にし
(投資チャンス)をもたらすという「経験則」で
勝手な想像をしているのだが
頭の中身が思わず露呈したのだろう。
しかし、むちゃくちゃな議論だよ。
藤原京だってそう言えないだろうに。
高安の烽火(とぶひ)が作られたような状況は
一過性のもので終わった。
当時の為政者は分かっていたはずだ。
大津京の建設や
壬申の乱を
白村江の敗戦と結びつけるのなら分かるが。
「国難が強い国を作る」云々は、
被災者そっちのけの「復興開発」商売への露払い。
思わず口に出た感じ。
村井宮城県知事も「日本人の美質」を盾にとって
震災復興という名前の財界・官僚主導の民活計画の推進を言う。
それを当然視しての番組作りである。
批判的な意見など出ない番組を平気で作るNHK。
それは結果として情報格差の震源地になることだ。
せめて当事者である住民の声を反映するくらいの
配慮を効かせる工夫は出来るはずだ。
そう言えば村井知事の企業参入での漁業再建計画には
圧倒的に漁業関係者は反対なのに、
(その当事者を無視して知事は「計画案」に固執して再考を拒否したが)、
NHKは賛成派もいるという報道をしていた。
結論が先にある報道は公共放送のすることではない。
復興へはさまざまな提言がなされている。
それらを総合的に議論する場をこそ
NHKは公共放送として企画する責務がある。
多数派だけでの政策づくりの旗振り役では
政権党に無批判になるよう国民を呉誘導し、
国民への正確な事実報道という中心的任務への責任を裏切ることになる。
こういう番組作りは止めるべきだ。
2011年6月23日木曜日
辛酉。 陪從せる仕丁仕女已上及び僧都已下に綿を賜うこと差有り。
賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差
巻の卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉。
陪從せる仕丁・仕女已上、及び僧都已下に綿を賜うこと 差有り。
十月己酉《十五》◆己酉。車駕幸飽浪宮。
十月辛亥《十七》◆辛亥。進幸由義宮。
十月癸丑《十九》◆癸丑。以從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲河内守。左中弁右兵衛督内匠頭並如故。
十月乙夘《廿一》◆乙夘。權建肆廛於龍華寺以西川上。而駆河内市人以居之。
陪從五位已上以私玩好交關其間。車駕臨之。以爲遊覽。
難波宮綿二万屯。塩卅石。施入龍華寺。
十月辛酉《廿七》◆辛酉。賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差。
十月壬戌《廿八》◆壬戌。授无位上村主刀自女從五位下。時年九十九。優高年也。
この十月二十七日の記事は称徳女帝が現在の大阪府八尾市である地に造営された由義宮(ゆげのみや)に滞在中の行動のひとつである。
注目されるのは左中弁右兵衛督内匠頭である藤原朝臣雄田麻呂に河内守を併任させたこと、龍華寺の西の川上に肆廛を權建(仮に建てる)して河内の市人を「駆」(追い入れる?)して居住させたこと、難波宮のニ万屯の綿(まわた)などを竜華寺に施入したこと。
これは此処を宮都とするに同じい行動である。
肆廛は文脈からみて「市場」である。市人(いちびと)に強制して居住させるのはここを東西の市(平城京)と同等な場とするための伏線でだから「權建」なのだろう。
無位無官の老婆にいきなり從五位下を与えている。宮殿に上れる身分の従五位下であり、上村主(かみのすぐり)は在地の豪族の圏内の人物だから、これも一種の利益誘導だ。
気風のいい主権者として自己を演出している。
道鏡への愛の発現という角度から見ると空恐ろしくもあるが…。
反対するものを意識しつつも強引に進めるという女帝の姿勢がはっきり見える気がする。
その一方で従う仕丁や仕女、また竜華寺の僧侶たちに物を下賜して周囲を固めているのがこの十月二十七日の記事なのである。
由義宮の比定地は説があるとしても八尾の市内のどこかで現在はここが有力か。
http://bit.ly/jFNSXB「由義神社は、由義宮を西ノ京に神語景雲三年(769)孝徳天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郎にまたがる広域の中心由緒 深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内五社の一社 である立派な旧社であったが、 中世度重なる兵火により消失した。」
この放送、団塊世代にはイイかも
ロック、フォーク、リズムアンドブルース、レゲエ、ラップ、ジャズ・・・。音楽が人びとの心に訴えかける力とそこにこめられたメッセージは時代を動かし、社会の変革に大きな役割を担ってきました。音楽は人びとの思考にインスピレーションを与え、精神を高揚させ、多くの人びとを団結させることができます。公民権運動やヴェトナム反戦から反アパルトヘイトまで、そして今も続く第三世界の貧困やエイズとの闘い、それらの運動は音楽と手を取り合ってきました。 |
五十嵐 正(いがらし ただし)
1958年石川県金沢市生まれ。金沢大学大学院教育学研究科音楽教育修士課程修了。
東京南青山にあった伝説の輸入レコード店「パイド・パイパー・ハウス」での
久しぶりに
NHKラジオ第二聞いてみよう。
スケジュール表は
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch03/1107.html
最近はLogitecのUSBラジオをPCにつないで予約自動録音できているので、
夕食後
見たくもないホームドラマなどに付き合わず(ツレの好きな番組とか)
手はPCで漢詩の漢字を調べたりしながら。
「21世紀から見る『資本論』~マルクスとその時代~」というのも面白そうだな。
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html
わたしの「自慢」は若さの馬鹿力で経済学部でもないのに
あの難しい資本論を三巻のうち第一巻だけですが
それで忍耐力だけは絶対に自信があった(笑)
ですが
年をとると気が短くなって…
確かに資本論の捉えている資本の本性は
今東京電力を見ていると変わらずにある。
「資本論の国」といわれたソ連が崩壊しても
マルクスも資本論も消え去らないのは
資本論が真理を捉えているからですね。
ソ連が「資本論に背いていた国」だっただけです。
で21世紀にマルクスの文章と資本論はどう読まれていくのか
ぼくには「こっくりさんと資本論」という
ちょっと面白い経験があるのですが
記憶があいまいになりかけているので
その話はまたいつか。
資本論を読んでもそこに世界の今が書いてある訳は無い。
でも資本論の論理を使えば
思考力を鍛えることのできる本のひとつとして
若い人にはお勧めできる一冊です。
若いころのがんばりを思い起こして
この放送も聴いてみようかと思います。 http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html
2011年6月20日月曜日
甲辰奉幣帛于住吉社
辛亥車駕幸平城宮
戊寅山背國相樂郡狛部宿祢奈賣一産三男
行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜
2011年6月19日日曜日
九月辛巳授正六位上後部高笠麻呂外從五位下
「続日本紀を読む心」
『続日本紀』巻廿
天平宝字元年(七五七)九月六日 辛巳《丙子朔六》
九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。
九月辛巳(六日)。 正六位上の後部の高笠麻呂に従五位下を授く。
本人は優秀な金工(金属工芸家)であった。
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高笠麻呂という金工(金属工芸技術者)がいた。奈良の平城京の左京六条二坊に居住し、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼会に使用された、表題の「裁文」を製作した。
「裁文」は大型の金銅透彫板で、最も長い部分が43.5センチの、雲を造形化したものである。たがねで細部を線刻し、全体に渡金していて、柄の片面の部分に「東大寺高笠麻呂作/天平勝宝四年四月九日」と二行に分けた銘があり、また、柄の部分に花喰鳥の流麗な線刻がある。http://bit.ly/k9V0WI
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五年たって従五位下を授けられたが、これは金工であった彼の作ったものへの褒美ではないだろう。通常の昇進とみなせよう。だが作品に署名を残しているほど自負は大きかったのだろうし周囲の評価もあったに違いない。
家系的には高麗系の技術職の家柄であったらしい。
高句麗系の官位に前部(ぜんほう)後方(こうほう)があるので
後方・高(麗)を姓としたのだろう。だから「しりとべ」といった読みは後からのものであろう。
当時どう読んだかは検討が要る。
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正倉院文書の天平十七年(745)に後部高多比、天平宝孝元年(757)に後部高笠麻呂、同五年に高麗の人後部高笠麻呂などの名が見える。姓氏禄に後部高は高麗国の人、後部高千金の後裔となっている。
そして、平安時代には坂上田村麿の征夷に、尻高氏は上野十四郷の加勢一千騎とともに従軍し、大嶽根山の戦いに大功を立てたと言い伝えられている。
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住居は朱雀大路を挟んで大安寺と薬師寺が向き合うその中点あたり当時の五条と六条の通りに挟まれた場所であった。今の八条町のあたりである。
住居がわかるのも面白いが文書が残されているのだろう。 http://bit.ly/iQ2tcG