2007年4月27日金曜日

小さな日溜まり


これが青汁の原料で有名?なケールの、その花です。

これは咲いてしまっていますが、花芽は菜の花よりもコクがあり
茹でて三杯酢などで食べるととても美味しいのですよ。
関西風人の好きな「お好み焼き」にもキャベツの変わりに
ケールの葉や茎、花芽を刻んで入れるとお代わりしたくなります♪



今日は小休止のような一日。
会社のデスクの上で新聞からはみ出していたチラシに目が止まった。
         
あれ、これは… 阿修羅じゃないか、興福寺の。
見たことないでしょう? この角度の写真。
ぼくは、中学生の頃、このような角度も含めて、
じっくり見せて戴いた。

中学校には美術鑑賞クラブという鑑賞専門のクラブがあり
ぼくは部員だった。かなり高度な?鑑賞力のある先輩が多かった。
部誌に『四天王寺再建非再建論争を論ず』なんて書いている人もいたし。ぼくもボリンガーの「抽象と感情移入」などを読んで、分からぬままで議論に首をつっこむ真似などをしていた。

顧問の先生が足立という京都美術大学(現京都芸大)卒の方で
情熱的な先生だった。(今もお元気だ)
終いには先輩たちは脱乾漆法の高30センチほどの仏像を造り始めた。
       
部室には日本の古典書籍が揃っていた。初めて日本書紀や続日本紀を原文の漢文で「見た」のもこの部室だった。

先生の伝で法華寺や秋篠寺や当麻寺はじめ、たくさんの寺を回った。
住職たちはみな優しくしてくださり、部屋へ上げていただいて絵巻物を拝見できたり、本堂の中を「懐中電灯」で仏様のお顔をじっくり観察?させてもらえたり、今思えばのんびりした時代。
国宝の仏に触らせてくれたのだから…考えられないね。
         
そして大好きになった浄瑠璃寺の建物と仏たちの傍へ縁あって棲む事ができている。人生七曲しても生きていればお日様のあたる道にもでるもの。


22日まで、ボランティアしてました。春の不調を堪えながらがんばってました(^^;)
合併にともなう市長選挙と市会議員選挙。
ぼくらの地域は新市の周辺部になるから、予算がしっかり公平に使われるかは大問題。
だからみんなが分かっていても発言を怯えている同和予算の組み方などではっきりものを言ってきた議員に市会へ出てもらうため、思い切って応援を買って出た。

50人いた議員が26人に減る。35人立候補で9人落ちる。数十票から数票で当落が分かれるだろうという激戦だった。
村というものは保守的で、区長会という行政の代行事務もする半ばは公的な自治機関で特定候補を地域代表に推薦を決定するようなことをするのだ。(厳密に言えば公選法違反じゃないのかな)

だから住民になって十数年過ぎたぼくは、もう村人だから、
あえて他の候補を推して選挙の活動で働きかけるのは勇気がいるのだ。
         

それでも事実は雄弁で、何人かは地域の代表は君の推す候補がいい、票を入れるよと言ってくれた。
他の地域にも選挙カーの運転手で入ったが、個人的にはおじいさんやおばあさんが手を振ってくれたり、家の物陰から小さく手を振ってくれたり、次第に空気が変わっていくのを感じた。

政策をきちんと言う選挙をする候補だったからだ。コミュニティーバスの本数の増加(JR駅前行きだけでなく市役所、病院への路線を追加させる)と料金の引き下げ(旧町内は他町のより高い)をするなど。

全体としては投票日前は落ちるかもしれない、というほどの気持ちにさせられた。
他候補が「あそこは大丈夫、だからうちへ票を」と大宣伝を掛けていたからだ。いわゆる『大丈夫論』が広がったのだった。
最後はこれだけがんばったんだから、悪いはずがない…という精神主義になった。自分でも自分が可笑しくて笑った。

市長選挙では、合併の推進の中心だった前町長が市長に決まった。
だが住民投票条例を作って合併の是非を問えと集めた1万を越える捺印署名と同数の票を市民派市長候補が集めた。批判票は厳然とあることを示した。

開票が大幅に遅れ、市会候補の結果が確定したのは午前三時半。

ぼくは選挙事務所で待ちながらこっくりこっくり。我慢できない眠さだった(笑)PCでNHKのインターネット用速報をモニターしていたのに。待ちくたびれた耳に突然電話が鳴り響き、開票所から結果が届いて、目が覚めた。

ぼくが推したのは共産党の4候補。
町政で一番しっかりやっていたからだ。
今便りになるのは地方政治ではここしかないな、と結論しての選択だった。勇気も要ったけれど。

予想外の結果がでたのだった。
4人の候補者のうち一人は第二位の高位当選。
ぼくの地域の女性候補も十一番目という成績。ヨカッタ!!
後の二人もは19,22番目となった。
当落ぎりぎりはいなかったのだ。
町政時代何かと言うとぼくの推した候補(町会議員だった)に辛く当たっていた女性候補(前町会議員)は落選。(^^)

で、お定まりの「ばんざ~い」「ばんざ~い」
気持ちよかったぁ! 
議員さんにはその朝から仕事が待っていた…
疲れを取り、エンジン全開でいけるコンディションを作ってね。
先は長い、仕事も多い。身体に気をつけてね。
そう思い小さな身体の、女性議員になった彼女に感謝したぼくでした。

さあ、日常に戻ってがんばろう。
今日はこうして日溜まりのような一日をもらったのだから。

2007年4月25日水曜日

ちょっと違う角度から。 昨日のエントリを考える

 昨日は学力テストのことを関連記事として書いた。

 なぜ書く気になったのだろう…と振り返ると、
 いくつかのことがあるように思うのでした。

 40何年か前にも文部省(当時)が「全国一律の学テ」を
 企てました。そのときも「上から」でした。
 父兄や学校の現場からのものでも、受験産業の関与でもなく。

 背景にあったのは高度成長路線に必要な「直ぐ役立つ」労働力、
 人材を大量に作れという財界三団体のチームプレーでした。
 そのもう一つ背後にはケネディー・ライシャワー路線と呼ばれた
 アメリカの対日政策の変更がありました。

 アメリカの政府はアイゼンハワーが来日を中止しなければならない
 ほどの日本人の対米意識を親米的にする必要を感じ知日派
 ライシャワー博士を大使に任命していたのです。
 学生運動のない日本の大学、教授陣と学生を作り出すために。
 20年かかってそれは実現しています。

 60年代には安保全学連の元幹部まで含めアメリカ留学が
 急増しています。財界の「人作り政策」といわれた企画の
 小中高生徒への「学テ」はその一端でした。

 そのころから「文部省のお役人」の耳がアメリカや財界の声だけ
 聞こえる耳だったのは確かなようです。
 だから、またか…と思うのです。考えないお役人の企画は
 多分役には立たない。だからそれほどテスト自体は
 気にしないでもいいのかもしれない。問題はその心理的波紋の方。

 偏差値の統計学的意味やその限界も理解できない人までが
 偏差値が…という社会です。「学テ」が復活してくることで
 いっそう「競争原理という悪魔」が野放しになるでしょう。

 都市以外で地域社会が辺境部から崩壊してきている日本で
 それを日々生み出している魔法の言葉が「競争原理」「市場原理」
 教育と言うレアな人間性を育てる場所に
 ヘンな「原理主義」は要らないと思うんだけどな。
 
 苦労のともなう地域社会の再創出が鍵なのだと思うが
 誰もがそのことを気づくような場面がまだないのだ。
 痛ましい事態でも経験しなければ…震災後のボランティアみたいに。 

2007年4月24日火曜日

ありがとう








ありがとう。もう友達。いつも一緒だよ…

実はついこの間に亡くなった池田晶子さんという哲学者(対話的哲学ライターとぼくは名づけていますが)の「14歳からの哲学」を読み始めたばかり。

ちょっと頭が哲学風に「言葉まみれ」になりかけている。
それで、「ありがとう」という主題なんだけれども…

哲学的な「ありがとう論」も有り得る気がする(笑)。

だって、「ありがとう」と言ったり、思ったりするとき

「ありがとう」な自分や、「ありがとうの相手」、がいるのだから。

そして、そのときの自分や、そのときの相手が、
「なぜ」ありがとうって言える場面にいるのか、
問うことは無意味じゃないもの。

そう問い、答えが分かれば、「ありがとう」の中味が
気持ちだけじゃない…って分かったりするから。

それが「思う」から「考える」への飛躍、哲学なんだと
池田さんは言っている。
大人になるってことなんだ、それが。
ただ思うだけじゃなく、
考える(校=かんがえる)ことを
身につけることなんだ。

学校(学び、考える(=校)場所)へ行くのはそのためか。

「ありがとう」って、気持ちだよな。
だから、「ほんの気持ちです」といってお礼の品を渡すよ。

感謝する気持ちが、「ありがとう」なんか?
気持ちだな、まずもって「ありがとう」の気持ちだ。

そして気持ちだから、「ありがとう」という「思い」なんだ。
思う自分。…考える自分。どう違うのだ、同じなんか?

「ありがとう」は、気持ち。
でも「ありがとう」は言葉。

声にもなる言葉。
「アリガトウ」

「ありがとう」と言葉で言う前に
声に出して言う前に、
アリガトウと呟いている自分がいる。
思っている自分がいる。
でなけりゃ
それは、嘘言葉。
「アリガトウ」という嘘。

言葉はひと(他者)への架け橋。
他者や世界への窓。
ぼくは15歳でゆめみた。
「こころの窓」
「言葉でできた橋」。
                 


<人が人に壁になるのではなく、人は互いに
世界に向かって開かれている窓になってほしい>
甘い幼い詩人の魂に映った苦い諍い。

……

嘘を吐く世界で「ありがとう」も嘘に変わるなら
詩人は生きていけない。
自分のなかにも嘘が生えてくるから。

「アリガトウ」と言えなくなった分だけ
「ありがとう」は身体いっぱいに溢れて

感謝しながら泣いていることだってあるさ。

「ありがとう」「アリガトウ」が渡す
こころの架け橋が渡れなくて

立ちすくんで更けた夜もあった。

「世の中を憂(う)しと痩(や)さしと思えども」
鳥ではない人間の身では飛び立つこともかなわぬ願い。

……

知人に「有り難う御座います」と
鞄などにシールを貼り
持ち歩く人がいる。
「ありがとう」おじさんになっている。
溢れるほど「アリガトウ」が涌いてくるのだろうか?
紙の上にある「ありがとう」


ぼくは「ありがとう」が言えなかった。
一番大事な別れに
「アリガトウ」と声にならなかった。

大事な大事な人に分かれるのに
二度と顔を見ることができないのに
溢れるものにさえぎられて
「アリガトウ」が言えなかった。

いつまでもそのことを忘れられずにいる。
肝心のときに言葉はバラバラになって
地面に散らばってしまったと。

「すみません」とは言えるのに
「ありがとう」は気軽に言えない。
そんなことが多い、ぼくはそんなやつ。

ぼくは最後のそのときに
眼差しだけでいいから
世界に「ありがとう」と
そっと言葉で返したい。
              

自分にはいろいろあったけれど
自分が一部分でいた世界は
やっぱり美しい場所だったと
最後のことばに残しておきたい
滅多にいえないぼくだから

ありがとう
みんながいるから
世界は人生はすてきだった

と。

全国学力テストって生徒のためじゃないでしょ

文部省やその代行業者が「生徒のため」という時ほど眉唾はありませんよ(笑)

国家というのは「送りオオカミ」的お節介の結晶体で
一種のUFO(共同幻想)ですね。

なぜ「公教育という子育て」は「全国一律」でないといけないのかな。
地域格差が拡大していく社会で一律のテストでなにが分かるのか…。
結果が出ると、「うちは遅れている!→大変だからもっと勉強させよう」、といった、格差からくる過剰不安反応でいっそう教育が歪むだけ。

考える力のないお母さんや先生が生徒をきっと地獄まで連れて行くことのなるね。痛ましい結果が目に見えます。

家族、学校、地域社会が助け合える環境がない社会では、学力テストの資料的意味はない。
文科省は、自分たちのこれからの教育施策を正当化する数字や事実を集めたがっているのだ、と思います。

TVで「サンプリングより全数検査のほうが正確なのは統計学の常識」、と記者会見で大臣が言っていたが笑止千万。
考古学者の吉村教授がコメントしてたように、事実は全く逆である。

全数検査よりサンプリングによる抜き取り調査のほうが正確であるのが「統計学の常識」なのだ。あべこべじゃないか(爆笑)
文科省って学問の常識も持ち合わせない人が責任者らしい。
中学生でも知っている常識の無い人が何を言うか、と言っておきたい。

昔、推測統計学(推計学)の日本での草分けだった増山元三郎さん(2005年逝去)の一般向けの「推計学の話」を読んだ。(増山さんは学者馬鹿ではなかった。サリドマイド薬過では統計学者として資料批判で発言され、学者の社会的な責任を果たされた立派な方だった)

  推計学の話 増山元三郎 朝日新聞社 1949

これは絶版だろうが、名著だと思う。小学6年生にもよく分かる本だったが、後になって内容の高度さが分かってびっくりしたからだ。

『池に棲む魚の数の推計を二度網を投げて調べる方法』を、数十個の碁石で実験しながら学んだ。
いまでも森に住む動物の生息数の推定などに使われている。

この本にサンプルを何度かとって調べるほうが全数に当たって調べるよりなぜ良いかが書かれていた。
小中学生でも分かる論理だった。

この論理教えてあげようか、文科省の大臣に。

テストだ統計だという前に、
本当の学力が数字で測れるものかどうか。
量れるものは何か。
どう活用できるのか。
広く国民にわかる議論をして欲しいね。

「常識」をしっかり身に着けてからね。


     実用に関係して統計的思考を見せるコラムなら
     『くもりのち晴れ』がお勧めですね。
     この方の「入学試験とクリーンルーム」は
     科学的思考で試験制度をチクリと刺す一読の価値あるコラム。

-------------- 一部引用します --------------------------
……
入試センター試験が終わりました。試験問題が新聞に出ていましたが、どれもなかなか難しい。時間をかければともかく、これ全部を2日でやるのはまず無理。ある大学の先生に、受験生はできるのですかと聞くと、パターンで覚えているのですよ、との答え。まるで将棋のコンピュータプログラムと同じです。将棋のプログラムでは、序盤、中盤は膨大な過去の実戦パターンを参照して、局面に応じて指す手を選択し、終盤はコンピュータ得意の腕力で読み切るのです。近年、急速に力をつけ、プロをもおびやかす存在になっています。チェスはすでにコンピュータがプロの世界チャンピオンに勝つこともあります。

 こんな難しい試験に受かって入学してきたはずの学生の学力はどうか。ある先生は、平方根がわからない学生がいると、また別の先生は、マイナスがわからないのがいるといわれる。

 昨年、琉球大学での学生の追跡調査が論議を呼びました。入試センター試験の結果と入学後の学業成績には相関がないというのです[1]。同じような結果が拓殖大学などからも報告されています。どの大学も、大卒の学力が身につけられる学生を入学させようと、○×式試験以外に推薦、AO、小論文、面接などを組み合わせていろいろ苦心しています。卒業時成績に一番相関が高いのは大学1年目の成績という報告もあります。基礎が身についていなければ何年在学してもムダというのです。
……
   この方がまじめなのは、[1]のようにコラム末尾に引用した論文やデータを記して、論拠を出しています。大臣もぜひ見習いたまえ。

2007年4月23日月曜日

空から参らむ 、羽賜べ若王子…



八尾市の恩智川の菜の花色の夕景色

熊野へ参らむと思へども
徒歩(かち)より参れば道遠し
すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子
             梁塵秘抄』




世界遺産熊野古道が注目を集めているが、
熊野巡礼の道は和歌山にだけあるのではない。

京都から摂津渡辺へ舟で下り上町台地を南下して
泉州を一路辿って和歌山市を海沿いに行く大辺路。
途中で山へ入る中辺路。
伊勢を経由する伊勢路も盛んだった。

熊野へ参るには
紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず
               『梁塵秘抄』

実は有名ではないが、京より淀川を渡り、
枚方辺りから南下して
生駒山系の切り立った山際に沿う街道、
東高野街道も熊野巡礼の古道であった。
河内の遍路道と言えよう。

ぼくの職場のある辺りの近くを通っている街道で、
その西には並行して今の街道、外環状線が走っている。
古来の街道であり、古代には繁栄した地域である。
街道沿いには古墳が多く、千塚という地名もあり
考古学上有名な群集墳のひとつである。



この古墳(心合寺山古墳)は先日桜の写真を撮った場所で、池は実は
古墳の周濠だったのだ。
Google Earthでみるとこんなにハッキリした
前方後円墳の幾何学的形をしているのだ(復元)



1は小学校 2は養護学校です。季節ごとに
養護学校の行事があるとき、賑やかに拡声器から
先生方の声や音楽や歌声がわ~んと響いてくるぼくの職場。
たんぽぽのような生徒たちの学校です。
煩いときもあるけれど、この感じ嫌いじゃないな。



工場の隣の民家を借りて事務所にしていますが、
二階の窓から運動場が見えるのです。
先生も生徒もみんな懸命にやっている様子が伝わってきます。

1の小学校の上に見える筋は「恩智川」です。
ぼくは八尾の「恩知らず川」と名づけています。
いえ、川が恩知らずじゃないんです。八尾市民が恩知らず…
名前は恩智(おんじ)なのにこの川はみんなに汚されて、
数年前の国の調査で日本一ダイオキシン濃度が高い川
と公表されたのです。それで祖先からずっと
川の恵みで暮らしてきたのに「恩知らず」なわけです。

数年経つけれど川がきれいになってきている形跡はまだない…
我々が奈良の大宇陀や明日香村で野菜を栽培してもらっているのも
こういう背景があるのです。
八尾市民よもっと自覚を!と叫びたい。

でも河内人は根はいいひとたちなんです。
この現状がここ数十年の日本の農業や工業の縮図、結論なんですね。
八尾に限ったことじゃなく…


梁塵秘抄をひも解くと
中世の遊女たちの「空に澄み昇る声」が聞こえます
聞えるように思います
空から参らむ、と謳うことが出来た遊女の自由な発想はいまも新鮮
澄んだその声がどんなだったか、想像をかき立てて止まないのです


でも空から参ることが簡単にできて
Google Earthって、ほんとうに便利ですね。
次は何処へいこうかなぁ…

2007年4月18日水曜日

安倍首相という男にあきれた

以下は、あきれて書いた、感情的な文だから、口当たり耳障り、宜しく有りませぬ。悪口雑言嫌いな方は、読み飛ばしてくださいね。

安倍首相の伊藤長崎市長狙撃への感想を聞いてあきれた。
政治家としての感覚がなっていない、あんなコメントしか出てこない人なんだ。普段から非核三原則なんか重んじていないのがこういう時に出てくる。

広島と長崎の二都市は日本の都市だが、核兵器のない世界と平和へのシンボルとなっている都市でもある。
二つの都市の市長は核兵器の廃絶を訴える役目を果たしてきている。

その市長選挙のさなかに非道にも銃撃して候補者を倒す事件が起きたのだ。その政治的意味は重いし、何が起きているのか世界の耳目を集める。

そのときの首相の発言が「真相の究明」を待つだとは。これでは返って政治的背景を忖度されるではないか。我々はこういう暴挙を許さないとはっきり何故言えなかったのか。

核廃絶の先頭に立つ以外の点では伊藤氏はむしろ保守系の人であるはず、自民党にも知己は多いだろう。安倍氏との接点はしらないが。

銃撃を受け重態が伝えられている時点で、選挙戦の最中に現職市長だった候補が銃撃で重態というだけで、これは政治的事件でもある。

これは真相云々以前に政治と暴力と言う問題が突きつけられる事態の発生だった。そのことを回避するような態度は逆に極めて政治的な計算になっていないか。

二代に渡って長崎市長が銃撃を受けた。それがまず事実なのだ。
それ以上の「真相」とはなになのか。

伊藤氏は死んだ。非業の死と言うほかない死であった。
ご家族の胸中を思うと怒りが収まらない。

市役所の係りは、軽い係争問題であり市長は知らなかったでしょう、と言っている。そういう性質の問題なのにいきなり市長を標的にした?
暗黒勢力を甘く見てはいけない。これは単純な怨恨で処理されるような問題だろうか。そうではない気がする。政治的な背景がきっとある。
しかし、マスコミが何故か個人的トラブルという容疑者本人の言い分を先に流し始めたのもおかしな事だ。

ともかく安倍という男の人間的器量が透けて見えたコメントだった。
撃たれた人の家族はどう思っただろう。

二十年前ならこんな言葉は直ぐに失脚への道を意味した。
政界も様変わりしたのだ。小物ばっかりが自己顕示を競っていると、ぼくにはそう見える。大差ない二大政党の時代の弊害が露呈したか。

こんなことを見てしまうと、美しい国とは銃撃を即座に非難することも出来ない見せ掛けだけの国家なのだ、と思えてくる。
この日本、まだまだ人々のこころに自由と民主主義の火が燃えていることを、お忘れにならないほうがいいですよ、安倍首相。ほんとうの美しい国は人々の心の中で燃えている火のことなのだ。

2007年4月17日火曜日

死なないでください、長崎市長、頑張ってください。

2007.04.17 22:47

貴方は生きるため
きっと今闘っていると思います。

卑劣な銃弾が貴方を貫いて貴方が倒れたと
テレビから流れて信じられなかった。

小泉首相の前でアメリカと日本政府の核軍拡とそれへの事実上の支持を公然と批判した原爆記念日の貴方の演説はりっぱでした。政治的立場を越えて深い敬意を感じました。あなたは事実を認めることの出来る勇気の人だ。もしやあの演説のとき貴方は漠然と今日の日を予感しなかっただろうか。金銭トラブルだと言う報道は多分マヌーバーであろうと思います。貴方の継続的な活躍を阻止したい暗黒の勢力の手が伸びたのだ。
だからきっと生還を、果たしてください。

祈りとともに憤りの中に沈んでいきそうです。
日本が今戦争する国家へと傾いていく、その最初のテロル。
そんな予感がしてなりません。
本島前市長が生還したように、どうか心肺停止から再び
あなたのその勇気ある心臓がもう一度拍動を打ちますように!どうか。

酒どころの話

 あっさりした甘みのある酒「呉春」池田の酒である。

下戸が酒の話を少しするのだ。

 西国街道は山崎街道とも言って京都の大山崎から摂津へ西に向かう古代からの幹線道路だった。
この街道の北側には北摂の山が迫っていて箕面の勝尾寺などの名刹がある。猪名川に出る辺りの在所が池田である。ここは京都の松尾大社がそうであるように渡来系の人々も多く住んでいたせいか酒郷(造り酒屋の町)である。
 私事になるがぼくのツレアイの父は早くに亡くなったが、酒を愛した人であった。それで半ばは冗談だが、幾分かは本気で「お前ひとりくらいは池田の酒屋へ嫁にやってもいいがなぁ」と言っていたそうだ。実際農家なので4人姉妹の半分が農家に嫁いでいった。変り種の三女ならまぁ酒屋へ嫁に貰ろうてもらえば酒には困らん…という冗談では有ったが、その気になれば話がないわけでもない、そういう家だった。その三女が下戸もいいとこのぼくと暮らしている。こういうわけで、話から知って下戸のぼくも池田が酒郷であると心得ていた。
 今では摂津の酒どころといえば灘郷である。京の伏見と並ぶ関西の造り酒屋ゾーンであることはご存知だろう。その灘の酒は、北摂池田の人々が商品の出荷港まで含めた繁栄の拠点として開いたものであることは、だがあまり知られていない。
 日本酒の歴史に詳しくはないが、中世には池田の酒は銘酒として知られていたようで、その証拠に池田の酒が陸路鎌倉街道を運ばれて行ったと伝えられている。酒樽二つを一駄と数える慣わしはここから来ているという。
 さて、ツレアイの父が宵の熱燗の酔いがまわるとき三女を嫁にやってもいいと思ったその酒が、さてどの銘柄、どの酒造家のものかは定かではないが、さぞや好い心地になってのことであろう。ぼくにすれば上戸なんてそんなものかと思うばかりだが。
 鎌倉街道を揺られて行った酒樽は当然のことながら、鎌倉の上級武士たちの酒宴の席に出されたであろう。源頼朝の手にしている酒盃に注がれた献上の酒が池田の酒であった、と想像を広げる。賎(しず)や、しず、しずの苧環くりかへし…静御前が歌い舞う、その席に並んでいた人々が含んだ酒もそうだったのだと。

江戸時代になると繁栄は灘に奪われて衰微したが、京都御所の酒造りの秘伝を伝えられたという池田の酒は、その品格と味をなかなか失わなかったものと見える。あわやぼくがツレアイを逃がす機会になったかもしれぬほどに。

 箕面、池田、豊中、伊丹など近在の寺や旧家に、最近になって人気の出ている江戸時代の画家、伊藤若沖の描いた絵がかなり分布しているのは、案外この辺りの裕福な人々の上品な遊楽の文化に池田の美味い酒が一役買っていたからかもしれないと、思うのだ。若沖にしても度々の滞在や長逗留しての制作に惹かれるだけの魅力があっただおろうから、こんな想像も涌いてくるのだった。


 若冲の奇想の背後に奇想の羽根を広げるに必要な自由な空気を漂わせる町衆の気風があるのは見落とせない視点ではないだろうか。

2007年4月14日土曜日

石鹸玉(しゃぼんだま)は春の季語なんだ



行きたい方へそれからのしやぼん玉
                黛まどか

                               
日のあとを追つて行きけり石鹸玉
                佐藤和枝




 なんだか俳句づいてしまってるけど(笑)

 黛まどかさんの自作の句がメルマガに書いてあったので、
 え、確か…と思い探すと、やはりバックナンバーにもう一つ
 「石鹸玉」の句があった。佐藤和枝さんという俳人の作。

 どちらの俳句も、群がりになって作られたしゃぼん玉が
 風に乗ってゆっくりとお互いに離れていく動きを見て作られている。

 「それからの武蔵」という題の小説がある。
 「それからのしゃぼん玉」とは上手に言えたものだ。

 日のあとを追っていくように思う心。

 それぞれが行きたい方へ行こうとしているように思う心。

 しゃぼん玉は、春風に乗って、心あるかのように

 自由に飛んでいく。

 春の移ろい易さとしゃぼん玉の儚い危うさとは

 池塘春草の夢そのものだが、儚くても、あくまでも明るく

 どこまでも気ままなのは、幼い幸せに似ている気がする。


   不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

    空に吸われし十五の心 
    … 啄木も自分がしゃぼん玉になって空をを見ていたのかな。

      教室の窓より遁げて
      ただ一人
      かの城址に寝に行きしかな …で、寝転んで心は空に…
 

 佐藤和枝さんのほかの句に

     公園の時計が十時桃の花

     初さくら湯気のやふなる匂ひかな
 
 

2007年4月12日木曜日

星とピアノといわし雲 [My first love]

 ぼくは19年生まれの昭和二桁世代だ。
零歳児のぼくの頭上にB29が飛来して焼夷弾を落とし込んだ。
 街は燃え、崩れ落ち、人々は死んでいった。焼け跡、闇市、パンパンガールといった戦後の風景や風俗を覚えているわけではない。
ただ記憶のどこかに時代の色、匂い、空気が残っている。

 茶色い戦争ありました…有名な中原中也の詩の一節。中也らしい鋭さで捉えた戦争の色、茶色。泥と赤錆が入り混じった茶色がかった残骸を夕日が赤く染めている。築港の辺りの風景は終戦直後から50年代半ばまであまり変わらなかった。高度成長経済が始まる前のほとびたような時間のよどみ。
 信じられないかもしれないが、大阪という大都会でも少年たちは膝や肘に繕い痕や当て布(接ぎ当て)をした服やズボンで、学校へ通ったり遊んだりしていた。それが普通だった。

 五年生になった春の一学期。ぼくは何時ものように講堂の明るく日が差し込む長椅子に座りに行った。昼休み、友達から離れて、本を開くためだった。
 いじめられっ子は抜け出せて上級生として落ち着きを取り戻した頃だ。星の本ばかり読みあさり始めていた。図書館にはもう読んでいない天体関係の本はなかった。
 大学生の教養課程位が読む膨張宇宙論の概説などを手に入れたので、よほど真剣にならないと理解できないと子供心にも見当がついたから、静かな講堂で読むことにしていたのだ。ハッブルの説。ガモフのビッグバン説…。順を追って力学抜きで書いてあるので大体の所はわかるのだった。

 すっかり本に引き込まれていて講堂に人がいるのに気がついていなかったから、鳴り響いたピアノの音に不意をつかれてびくっと身をおこした。後ろ姿に長い三つ編みが見えた。
轟くようにやってきた音の洪水は読書を押し流し、激しくうねってぼくを飲み込んでしまった。
 びっくりしたまま呆然と聞いているぼくをはぐらかすように突然ピアノの音が止み、ばたんという音がして、その子は立ち上がって出て行った。
 出て行くときぼくに気づいてちらと目をぼくに向けたがそのまま通り過ぎて出て行ってしまった。
 その子が見たのは口を開けたまま目を瞠っているへんな男の子だった。

 たぶん一目惚れしたんだ。それからは何をしていても、勉強の本の前でも、ドッジボールに喚声を上げているときも、三つ編みの先っぽが鼻先に揺れていた…。
 
 気がつくとその子は直ぐ近所の子だった。お寺さんの家の子で、母親は「○○式ドレスメーカー学園」のような名の洋裁学校を経営していた。今思えば、だからその子は少女雑誌から抜け出してきたような姿をしていたのだ。
 学校の前に在った市営プールが米軍から市に返還され、泳げるようになった日、その子の水着の艶やかな水色のグラディエーションがぼくを震撼させた。プールサイドですれ違っただけなのに心臓は早鐘を撞いていて目が眩むばかりだった。
 だが今思えば不思議だが、その子は取り巻きのいるような子ではなかった。目立たない子だったのだ。女の子同士のありがちな噂も聞こえてくることはなかった。それがかえって神秘的に見えた気がする。
 
 六年生の夏の林間学級で高野山へ行ったが、他校生もたくさん来ていて、NHK主催の音楽コンクールが開かれた。その子がピアノで出場したのだが、予選落ちだった。そう上手ではなかったのだろう。
 だがぼくは体ごと応援して真っ赤な顔になっていた。先生がお前どうかしたか、具合悪いのかと聞くほどに。いいえ暑いだけです、とかすれ声で言って変な顔をされた。

 この片想いはそのままで続き、中学三年を終えるまで変わらなかった。中学では夏休みの地域連絡の責任者に二人が指名され、教員室で指示を受けて一緒に校門を出たことがあった。そのとき交わした言葉も記憶にはない。学校から与えられた必要なことだけを話し、「夏休み何事もみんなに起きませんように」と言って別れただけだったように記憶している。
 話はただそれだけのことだった。なにも他にない。星のことに夢中だった少年とピアノが大好きだった少女のすれ違っただけの片想いのできごと。
 終りは突然やってきた。ラブレターを書いて無思慮にもポストではなくその子の家の郵便受けに投じたからだ。数日を経ないで先方の母親から母に手紙の件が伝わった。
 母に問われたことに動転してしまった。その夜自分が無限小になった感覚のまま朝が来た。相手の気持ちなど分からなかったが、もうお終いだった。

 高校は別々の学校に進んだ。その子はやはり音楽教育で知られた女子高だったし、ぼくは公立の普通校へ進んだ。時は1960年の春。国を揺るがす政治の季節だった。5月末、長い長い、白熱の真剣な議論の中から生徒たちは国会解散、岸首相退陣を求めて6月4日の国民統一行動日のデモに全員で参加すると決めた。
 そのことを高校の職員会議に知らせ許可するよう求めた。先生たちも長時間の大議論の末、考えられないような結論が出た。生徒たちの参加決定には反対だ。が、自由の校風の成果としての生徒諸君の意思を尊重し、同行して諸君らを我々が守る。我々も共に行く。
 生徒代表であったぼくらは、喚声を上げて総会の会場で待機していた生徒たちの所へなだれ込んだ。ドラマのような融合だった。夜が来ていた。男子生徒が女子生徒全員を自宅へエスコートするため、分担が即座に決められ、三年生による実行点検組が作られ、電話の前に生徒名簿が広げ置かれた。

 6月4日、中之島公園へ向かう人で環状線も一杯になり、路面電車もデモ隊が多くて遅れていた。
 ぼくは先輩に自治会のメッセージを先に主催者の国民会議議長団に届け、高校生代表の発言を確保するよう先触れをしてきてくれと頼まれ、タクシーで先着するため、昼日中に街にひとり飛び出した。
 自分が不良になった気分だった。勉強の時間帯に一人で街へ…。
 そのときばったりとその子と出逢ったのだった。デモ隊が溢れる昼下がりの街を帰宅させるのは拙い、と判断した女子高は早くも帰宅を急がせたのだろう。
 頭に白く長い鉢巻(民主主義を!国会解散!と書いてあった)を靡かせて走ってきたぼくは、びっくりして立ち止まった。
 なぜ立ち止まったのだろう。その子もびっくりしたようにぼくを瞠めていた。一瞬の間があって、少年は駆け出した。頭の中で「遅刻は絶対ダメ」と先輩が叫んでいた。すれ違うとき、なぜかぼくは片手をひらひらさせた。さようなら、を言ったみたいに…。
 これがその子と逢った最後の機会だった。

 何年か過ぎて、在日朝鮮人の高校生とフォークダンスで交流するイベントをしたとき、その子と仲良しだった子がチマ・チョゴリの姿で傍へ来て、「あなた、あの子のこと好きだったでしょう」と言って、意味ありげに、にっこりと笑った。
 そのとき初めて、ぼくは気づいた。あの子はずっと前から知っていたんだ、ぼくがあの子を好きだったことを。最後の出逢いの一瞬に、お互いが目顔で言ったのは、本当はさようならなんかじゃ、なかったんだ、ということを。
 マイムマイムの流れる、いわし雲の空の下で、酸っぱいような、甘いような、隠れて泣きたいような気持ちの泡立ちが、わーっとオルガンの音色みたいに湧きあがって、やがて消えていくのだった。

……

 そのひと? ええ、ぼくにとっては、透明な樹脂に封入された花のように、今も小学校の講堂でピアノ弾いてるんです。ぼくはやっぱり星を探して本の頁を指を舐めながらめくっているんです、きっと永遠に…。ええ、ぼくにとっては…そのひとは…