2007年12月20日木曜日

庭にまた山茶花が咲く季節になった

  ひとり居れば山茶花ま向かいに日が薄れ   蛙逝

 去年は山茶花についてひとに教えられた。
 今年も同じように山茶花は咲いて
 同じように猿は出没し
 変わらずぼくはここに居る。

 時々遠くに居る友や、今では連絡が途絶え
 安否の不明な友に思いが廻る。

 父の晩年、いっとき手紙の遣り取りが増えた旧友がいた。
 父が死んでしばらくは葉書の便りが来ていたが、
 死亡の知らせは遠慮して出さなかった。

 分かっているのだ、相手のほうも。
 もう残りは二、三人だけだということを。
 何時それが途絶えてしまうかもしれないことも。

 だがそうと分かっていることと、事態直面とはまた別だ 。
 迷ったのだが、結局手紙は書かなかった。

 それから一、二度の便りの後、ふつりと途絶えた。

 寂しかったがそれでいいと自分に言い聞かせた。
 しばらくは相手の気持ちが思われてならなかった。

 コノ杯ヲ受ケテクレ 
 ドウゾナミナミ注ガセテオクレ、
 花ニ嵐ノ喩エモアルゾ、
 サヨナラダケガ人生ダ    という詩を思い出す。
 この詩自体は「人生すべからく飲むべし」
 というに過ぎないらしいが。
 花に嵐。一陣の風に吹き消されるいのち。
 昨日も一昨日も、そして今日も、
 どこかで理不尽な死を死んでいるひとがいる。

 唐突だが
 「もっと相関を、もっと弁証法を」という声が
 自分の内側から聞こえる。
 偶然と理不尽との向こうに
 合理的な理性的なものが潜む。

 帰納的思考が現状の追認と
 現実への屈服に終わらないためには
 もっと理性が必要だろう。

 自分の牙を研ぐとは、
 今の時代、野生的になることじゃない。

 冷静でしかも快活に不屈な精神は、
 きっと高度に理性的なはずだ。

 それこそが自分の牙となる。

 だとすれば、ものごとを相関的に、有機的に、
 総合的に等々に捉える眼力が
 鍛えられなくてはならないだろう。

 そう思って「ヘーゲル」をまた読み始めた。

 いまさらと笑う友人もいそうだが笑えばいい。



 薄ら日がゆっくり消えて行き、
 闇が訪れるまでの暫しの静寂。

 山茶花の赤が消え残った熾火のように
 懐かしい。
  
 その静かなひとときの物思いだった。




 




 
 

2007年12月7日金曜日

鞍馬山の山陰に暮らした頃の懐かしい人に会った


 【廃校の旧黒田小学校芹生分教場の遠景】

先月の晴れたある日に出かけました。
車にツレと地元で知り合いの市会議員Mさんとが乗って同行しました。

わが地域は野生動物の被害が多く、特に最近「お猿さん」が暴れまくっておりまして、対策に苦慮してるんです。
議会で取り上げて対策を進めたいMさんが「美山とか京北とかは電気柵とかもあるって聞くし一度見に行ってみたい」と話すのを聞きYohの耳がぴくっと動いたのでした。

何を隠そう実はYohは今は京都市に吸収された旧京北町の片隅で13年暮らしていたのです。
「土地勘あるからつれて案内してあげてもいいよ」と申し出ての「視察」と」なりました。
目的は十分に果たせてYohの面目も立ちました(やれやれ)
でも生半なことでは解決は難しいのが野生動物対策。
びっくりしたのは
猪の行動力(被害)とアライグマ被害の広がりの大きさ。


北山杉の中川地域から細野へ入り周山へ、




そして弓削から山国(これも地名です)へ。





桜で著名な常照皇寺。












その傍を走って黒田へ。



あちこちにネット・フェンスが張られています。
被害はどこにもあるのですね。

帰路を貴船方面へ変更したので、予定していなかった
昔の住所に向かうことになったのです。

まるで呼ばれているように向かっていくのです。
途中の集落灰屋では旧友が声を上げて気がついてくれ
思わずの再会。お茶を呼ばれながら1時間ほど話し込み
また来るからねと約束。

そしていよいよ旧住所の芹生の里へ。
住んでいたころすでに高齢化が始まっていたから
もう人家は無いかも…
懐かしい家に軽トラックが…
思わず二人を車に待たせてずかずか入ってしまう。
おお~という返事の声がして元気な顔が笑っていました。
勧められて二人を呼びいれジューヤクやドクダミの自家製のお茶を淹れてもらった。いやお互い頭に白いものがいっぱいになってきてるが元気で何よりですと喜び合い。

話は一気に熊や猿、カモシカなど北山の獣たちに移って
時間がたってしまった。
   

  季節はずれですがキツリフネ。







ぼくらは以前の住処を見に行った。
公孫樹の大木はすっかり葉を落としていたが大欅はまだはらはら落葉を続けていた。
Mさんは「まるで宮澤賢治の世界みたいですね…」と言った。
見るとスチールの赤い郵便受けが錆だらけになりながら残っていて、僕らの後二度住む方が入ったのに、何故か僕の書いた表札がそのままだった。
国村 洋とまだ読むことができたし、
粋がって書いたラテン語の詩句も読める…

Hic Amor, Haec Patria…ウェルギリゥスの詩のかけら。
ここに愛、ここに祖国 という言葉だ。

三十半ばで此処に流れ着いたYohは
この山里でいのちと愛と自然に恵まれ再生を得た。
そんな土地だから…
この郵便受けの自分の名前を見て
涙がこみ上げてきて困った。

区長に聞くと三ヶ月前に住人が去ったのだそうで…
また住み~やと言ってくれた。
心がふわふわと動きそうになっていた。

………

あれから半月余。
ぼくらはまたあの山の分教場跡と結ばれたみたいだ。

今日区長は話をまとめるからおいでと
電話の向こうで言ってくれた。

歌舞伎十八番「菅原伝習」の寺子屋の段の舞台。芹生の里。
ぼくらは通うことになりそうだ。
アトリエや子供の合宿場所には最高のトポス。
神佑天助のごとき時の巡り。
金輪際を一回り回ってしまったのかな。

2007年12月6日木曜日

MIHO MUSEUMで 直筆の信長の書状をみました

信長の肖像とされるものを見てどんな感想を抱かれるでしょうか。

比叡山僧侶や加賀の一向宗徒を殲滅した残酷無比な戦国武将と見えるか。

どうもそういう風には見えないかなとわたしなどは思います。

でもまぎれもなくこれは彼の肖像らしいですから、意外な感じがあります。

ところが彼自身の書状を展示しているので、引き寄せられるように
見入りました。
なんともまるで女性のような水茎くっきりな繊細さもある筆なのです。


ただ大胆不敵な性格と戦略的思考に長けた知力だけで天下布武はできなかったのでしょう。
感じやすく鋭く物を見抜く感受性や吸い込むような魅力もあったのかもしれませんね。
少なくとも武将のイメージには遠い感じの筆遣いでした。
興味津々で覗き込んでいる人がいっぱいいました。


もうひとりの直筆にもであって感激。
大好きなタイプのひと。でも友人だったら
付き合い方がちょっと難しそうなひと。でも
やっぱり友達であることが嬉しいと思うひと。

明恵上人。
道元禅師や親鸞上人と同時代。

三人とも情熱的なのは鎌倉時代人だからでしょうか。

でも明恵さんは狂熱的な噴出もあるひとでした。

有名な明恵さんの夢日記。
『夢記』の断簡が展示にあったのです。

現代語の読みも添えられたありましたが
とつこうつ、どうにかだどり訓んでみました。
博物館での楽しみのひとつです。

でも
夢で仏に出会っているときの明恵さんの気持ちって
どんなんだったのでしょうかね。
実感して知りたくなりますね。

不思議なおかたです。

そういえば奈良女子大におられた?岡潔さんも
「夕べ夢枕に普賢菩薩がたたれ…」と数学の講義の最中に
話されたりしたそうで、天才肌のひと、(明恵さんもそうだと思います)にはそういうことはあるのかもしれません。

昔見た「樂毅論」での藤三娘(光明皇后)の雄渾な男勝りな、しかし優美さも感じた筆遣いからも想像はさまざまに羽ばたいたけれど、

歴史がこのように具体的に感性に訴えて迫ってくるのは
物という対象がそれにかかわった人間の行跡として見えてくるとき、
いきなり物はまったく違った光芒を放つものなんだと思います。

信長が本当はどんな人だったか。
明恵さんは何故来世より現世により良く生きることを
選んだのか、信仰はかれにとってどんな意味があったのか。

その晩はいつまでもいろいろ思って胸の中がざわざわしていました。
今という時機を生きる歴史の中の自分はどんな意味や無意味を背負っているのだろう。残り少ない旅路をそんなことを考えながら歩いていくのだなと思いながら…。


ブログを検索すると同じものを見た人の感想がヒットしました。

<< 織田信長の直筆書状のひとつを、
初めて間近に見ることができた。
季節の挨拶の短い手紙。
ふわり、丸くやわらかな筆さばきで、
荒々しい武将の風を全く感じさせない。
むしろ貴族的とさえ思うような字だった。 >>

やっぱり、同じような印象なんだ…

2007年12月2日日曜日

MIHO MUSEUM 晩秋の美術館で古典美を堪能


滋賀県の信楽というと…たいていの人は「ああ、陶器のタヌキ…}と、反応しますね。
関西人でGnomonの年齢以上の老人なら
 「マメダの置物(オキモン)でっしゃろ」
  続けて大概の人が
 「雨~のショボショボ降る晩にマメダが徳利提げて
  酒買いに~」と唄う

マメダは豆田ではなくて、関西流の略語です。

マクドナルドがマクドになるように
豆ダヌキがマメダなんです。

もう少し物を知る人は紫香楽宮址がありますね、と言います。

でもMIHO美術館がありますねという人はまずいない。
美保でも美穂でも三保でもないMIHOだそうです。
名前からしてすでに思わせぶりなんです。

ウエブ検索でも「MIHO美術館」か「MIHO MUSEUM」で出てきます。

MIHO MUSEUM

すごい山の中の美術館です。

東海道線石山駅からバスがありますが、
ぼくは木津川市の自宅から和束町を抜けて
ドライブして行きます。
今回はちょうど一時間ばかりで着きました。

仕掛けとして陶淵明の桃花源(桃源郷)を
リアライゼーションしていますね。

車はエントランスハウス前のパーキングエリアで
止めなければなりません。
ここで現世とのお別れです(笑)

電気自動車がやってきます。
ゴルフ場のカートの親みたいな乗り合い自動車で、
制服の若い女性が一人で運行しています。(わたしは乙姫と呼んどります)

両サイドが桜や躑躅などが植え込まれている上り坂を行きます。
春夏は鶯がしきりに鳴いているのですが、今回は聞けませんでした。

2,3分でトンネルですが、これが仙境への通路ですね。
金属のパネルが貼られたトンネルの壁は輝きがあるグレーで
タイムトンネルを潜る感覚が味わえます。

トンネルを出て渓に懸かった釣り橋を渡り到着。
四周の山は紅葉しています。
すっかり都会からも世俗からも切り離されて
半ば中国風半ばモダーンの美術館に入ります。

       

え?一応「個人情報保護」ということで(笑)
左はぼくのツレで、右側の二人は古くからの友人。
友人はどちらもMIHOは初めてなのです。

       




だいたい感じは分かりますかね。
たしかグラン・ルーブルの設計者のデザインで
山に溶け込むように開放的な建築です。
略歴がありますね。
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I.M.ペイ氏の略歴
1917年、中国・広東州で生まれる。
1940年、マサチューセッツ工科大学卒業。
1948年~55年、Webb & Knapp.Inc.のディレクター。
1955年、I.M.Pei & Partnersを設立。

主な作品
ジョン・ハンコック・タワー(1976年)
ワシントン・ナショナルギャラリー東館(1978年)
ボストン美術館西館(1980年)
モートン・H・メイヤーソン・シンフォニーセンター(1989年)
滋賀・カリヨン塔(1990年)
香港・中國銀行(1991年)
グラン・ルーブル(1993年)
ロックン・ロール・ホール・アンド・フェーム(1995年)
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現在は開館10周年記念特別展Ⅲ「MIHOコレクション 大いなる時を超えて」の展示なのです。
普段は出ていない所蔵品も見られるかとやってきたのです。

期待通りでした。堪能しました。

同行の友人は茶道の稽古が長い人なので
紹鴎の使っていた品など興味深そうでした。
そして乾山のデザインの現代性にため息。

古代ガラスの不思議な色や

三千年前のエジプト人の感性がそっくり活き活きと
現れてくる小品。
アラバスター石の河馬の像の上に
水に縁のある蛙などが線描されている
その見事な力に溢れた線
すごいデッサン家がここにいるじゃないか。

海外では知られてもいるのか。
中国語や韓国語、それに英語やフランス語が
ざわざわしている雰囲気も今回は経験した。

景徳鎮の磁器を見ている中国人の観光客の横顔が
気になった。
バチカン美術館で天正少年使節が携えた伊達政宗の書状を
覗き込んでいた日本人の自分がそれにダブって見えてくる。

物が時空を横切ってギラリと光って人間を照射する瞬間。
そういう瞬間が今の彼に起こっているかもしれないな。

名品ばかり見ていると高ぶってきて疲れる。
それを寄る年波と我はいふなり…

ここへくる楽しみがあるのです。
エントランスが2Fになっているので、順路は2階から1階へとなっていて、移動するとき吹き抜けの上から下を見下ろすと、ちょうど全体が目に入るように古代モザイク画が配置されているのです。

      


これがそうなんですが、わたしにはこの展示が面白いのです。
一種の謎解きで愉しんでいます。
毎回何かを発見?して一歩一歩解釈していく楽しみ。

      


(黄色のローマ字はわたしが読んで入れました)
今回はこのモザイクの年代はまだ判定できないが
デュオニソスとアリアドネとエロースが描かれてあることは
読み取れた。
少し古代ギリシャ文字が読めるようになった、嬉しい。
でもまだ全部は無理。次回はもう少し行ければいいが。

サチュロスも描かれている。これはデュオニソスの子分の妖精だから付属的なものだ。
何故バッカス(バッコス)=デュオニソスと
アリアドネが一緒なんだい?
アリアドネならテーセウスとで物語になるはずで…
アリアドネの糸車でテーセウスがミノタウロスの迷宮から
脱出する話は知っている。

なんでもこのアリアドネは大地の女神という性格があり
アテナイやクレタ島などで信仰されたという。
テーセウスの物語の最後で死ぬが、死なないで復活して
デュオニソスと結婚したとするストーリーもあるらしい。

それなら分かる。両者の間に愛を現すエロース(クーピッド)がいるのはそのせいだ。

右角の顔は「PAN」と書いてあるようだ。
パンフルートのパンは妖精の一種。半獣半人だったな。
夫婦でいるデュオニソスとアリアドネ。
取り巻いているサチュロスやパーン。
バッカナーレ(デュオニソス祭)の感じがするが
左の老人が何なのか?

全体として農事と関係がありそうだ。
農村の領主層の屋敷に描かれていたものだろうか。

デュオニソスとアリアドネは
対のものであり
調べているとガンダーラの仏教遺跡にも見られたらしい。

原始仏教に入り混じっているギリシャ神話の要素!
面白いな。



デュオニソスの膝に乗っているのがアリアドネ。仏教寺院の装飾に付いていたものだそうです。
酒宴の群像の遠い起源にアリアドネがいたのか。

祭りとは神と人の共食(共飲)だそうで、
バッカナーレは古代というより原始の祭りのイメージ。
神仏との交感のあわいに生じる陶酔とカタルシスの
記号としての女性(にょしょう)
アリアドネが小野の小町や和泉式部に重なって
見え始めたのでわたしは夢心地に近づいています。

このように
MIHO MUSEUMという場所は
世界救世教の分派らしい教団の宗教的領域に
運営されているので静謐は保たれています。

謎解きが終わるまで何度かまだ訪れるでしょう。

ここは有機栽培の素材で作られた食事もできる。
というか、それしかないのです(笑)が
パンもおいしい。サラダも取れたての野菜。

デートには最高の場所ですね。
三十年ばかり遅いけれど(笑)

もうすこしギリシャ文字を覚えてまた
挑戦しにきます。
たぶんツレと一緒。

 
      
マンネリズムで写っております(^^)

2007年11月14日水曜日

他所で見つけたJottit.comを試す

なんとも素っ気ないが、それが好感になる。
Jottitドットcomはそんなサービスだ。

ネット上のメモ帳がそのまま自分のWebサイトになる。そんな感じ。

文字を体裁付けるのは、マークダウン記法という、
HTMLのタグに似たもっと簡略な記述法。

強調文字は*を付けて書く。たとえば

これは*最高です

これは最高です
のように表示される。

これは*最高*です
とすれば
これは最高です

表示される。

Wikiがこのような記法だそうだが
葉書一枚か便箋一枚にまとめられるルールで
ページをレイアウトできたら、確かに便利だね。



![[写真A]]{http:// *********/*****/***.jpg}

写真は上のように記述するのだ。ただしサイズの指定はないみたいだ。



面白いのは、http://jottit.comで
いきなり自分のサイト名を求められ、作成するのだが、
幾らでも作れそうなこと。

すべてhttp://*****.jottit.comという形のようだが。



いまhttp://ahona.jottit.comを作ったとして、
次々に作るページは
http://ahona.jottit.com/*****などの形になるんだろうか?

もし、新しいサイトをhttp://sonna.ahona.jottit.comとしたら
それでも作成できるのだろうか。

やってみよう。

2007年11月13日火曜日

朋アリ遠方ヨリり来ル。亦楽シカラズヤ。

<< Gnomon君へ

君のブログ見ました。

いきなり

『日時計 みたいに… 暮らせたら…』の

エントリーの題に「月下美人をみてきました」
などとでてきたので、

はじめは「これは違うぞ」と思ったのですが、
アーカイブなどを見ていってようやく

「ああやっぱり彼か」と納得できました。

まだまだ知らない顔があるんだなと、妙に納得した次第です。

昨日は突然の連絡にもかかわらず、うまく会えてよかったですね。

おかげさまで、久しぶりに「ふるさと」に帰ってきたような、安らいだ気分になりました。

これまでの人生で、さまざまな出会いと人脈ができ、
それぞれに自分にとってかけがいのない財産ではあるものの、
私にとっては、やはり一番くつろげる「場」であると再確認しました。

よろしければ、またお会いしませんか?  >>


先ほどメールが来ていた。上のはその一節だ。
読んでいて心がぬくもってくるのが分かる。

十数年会っていなかった。
近くにいても忙しかったり自分のことで精一杯だったり…

ふと思い出してくれて、電話をくれた。
高校以来の古い友人だからもう数十年の間柄。
変わっていない絆が話していて実感に変わっていく。

「戦友」というものがどういうものか分からないが、
その類のものだろうか。
今では三人の孫がいる「爺っちゃ」

奈良で落ち合って数時間。
時が豊穣な一夜だった。

奈良の共通の友人も加わって三人の噺は
歩いていても酒食の席でも切れ目がなかった(笑)

ここのところなんだか暗かった気持ちに
一条の光が差し込んできた。

「ぼくのほうこそ、会えて嬉しかった」
心からそう言っている自分がいたのだから
確かにぼくは動かされたのだと思う。

彼の乾いた明るい良く響く笑い声に。
高校生だった頃と変わらないその声に。

さあ、返事を書こう。

数少なくてもこのような朋友があることを
ぼくがもっともっと大事にしてこなければ
ならなかったのだ。
そのことに気づいたと、書こう。

ここ京都府南部の山の中の暗がりで
ひとつ点った灯りのように
今夜のぼくは単純に幸せなのです。

2007年11月9日金曜日

月下美人を見てきました







親戚の家で次々と月下美人が咲いているというので
見に行きましたがその晩は開ききらず…もう寒くなってきているからなんだろうな。

で、
翌朝1時間あまりの道を再訪。
咲いておりました。
初めて見たので新鮮で感激しました。



月下の美人という名にふさわしい凛とした風情は
さすがだなと思いました。
花の中を覗いてみるとまるで小宇宙でした。
白く明るんだ広がりに黄色い小さな星が浮かんでおりました。
きれいだなぁと暫し無心になりました。










でも
この花の蕾はエイリアンの触手みたいな凄みのある濃い赤みを帯びた不思議な形です。
折りたたみ式の人工衛星がアンテナを広げていくのを見ているような
不思議な感情が湧いていました。

2007年7月23日月曜日

貴男もあたしも買われたいのち…




自分の感情をどう表現するか。
もやもやした不鮮明なところのある気持ち
画像検索でキーワードを替えながらやっていて
この画像のグロな感じが近いかなと思って
もらってきた…  気分悪い人いたらごめんなさい ⇒




選挙もたけなわ(たけなわってどう書くんだったっけ…酣か)

昨夕は丸善で人に会うので京都へ。
この書店、京都丸善は梶井基次郎が小説「檸檬」で
爆弾みたいにレモンを置いた…その書店だったね。

選挙の街頭演説にぶつかって歩けないほど、
ゆっくり通りながら観察。ものすごい人だ。
動員されてきてる人もいるのだろうが、サラリーマンや
学生も立ち止まって聞いてるらしい。みな真剣に聞いている。
こんどの選挙の特徴のようだ。

投票率は上がる。自民党は減り、公明党は維持または減。
でも民主党が圧勝できるか?
京都らしく共産党がすごく元気な女性候補だ。
自民・民主・共産の2議席争い。

今朝はまた朝から赤城大臣の政治資金問題。
あらたな局面になっていると報道。
あきらかに政治資金規正法違反。
だがこの件ではよく読むと罰則規定がない。
上手く抜いてあったんだね。予想してたみたいに。
コメンテータも言っていたが、他の自公民の政治家も?
と疑わしくなってくる。

完全国営で一切金のかからない選挙は出来るだろうに。
と、ぼくら素人は思うが、そんなモンじゃないそうだ。

政治に金が要るのは他の入用があるからだと。
法案通す国会対策とか、イロイロと…
昔は自民・公明・社会・民社の国対委員がマージャンしながら
お金が動いたりしてたとか。

企業・団体の政治献金の禁止が徹底しない限り
幾ら政治資金規正法の細目をいじっても事態は変わらない。

年に一度同窓会の二次会でカラオケに行くが
ぼくはかろうじて1,2曲の持ち歌がありますが
そのひとつが「カスバの女」…
この記事のタイトルがその一節なんですね。

お金で縛られたらもうお終い。
体は縛られても心は別よ…と言いたいけれど…

花の都パリのムーランルージュの踊り子だった…
酒場の女
失恋したら外人部隊に身を投じて
人生を捨てた男
恋してみても一夜の火花…

どうせ「買われたいのち」のふたりだから
という負け犬同士の引かれ歌だけど
ぼくには近しい感情なもので…

でも赤城君の場合は、ちょっと不細工すぎないかい。

男らしくしろとは言わない。
こっちも「男らしさ」なんてないから。

出処進退は何で決めるのかね?
お金の疑惑に答えられない君と庇い続けるABちゃんと、
オノレ・ドーミエのカリカチュールになっちゃてます。

政府の統計でこの11年間で900人近くが餓死している。
診断書に他の病気が併記されたのは統計に入れないので実数は
もっともっと多いと研究者がコメント。
これは自然現象や高齢化じゃないと見るべきだ。
リストラ。非正規雇用増大。賃金水準の低下。
ネットカフェ難民の発生。
社会が格差固定化社会になってきているからだ。
それに加えて権利意識の喪失。
「世間に迷惑をかけてはいけない…」
これは美談ではない。悲劇だ。無知と政治の無責任との。
バブル以上と言われる多国籍企業中心の利益増大の影にある事実。

ヒルズ族など勝ち組はいいが
大多数の国民はこういう現実をうすうす感じているから
不安なのに、年金までがめちゃくちゃだった。

一票しかない。悔しいけれどそれが平等、民主主義。
この一票、どこへもっていこうか。

金で汚れていない党や人へ入れよう。そうしよう。
心では「買われたいのち~」と哀愁に身を浸しながらも
せめて政治は金で買われていないところを選びたい。

ジョナサンの万引き…



ドイツの話らしいのですが…

TVで 『万引きカモメ』を報じていた。

映像で見るとなるほど、お店の棚から咥えて

のこのこ外へポテトチップスの袋を持っていく。


なんでも、毎回同じチーズ味の袋だそうで…(笑)


どうやら仲間のところで袋を破って食べるらしく

カモメのボスだろうというのですが…

なかなか楽しいというか面白いニュースです


「カモメのジョナサン」という本を思い出しました。


五木寛之さんの訳だったですね。


万引きの代金私が代わって払うわ…という人も出てきたそうで

人情は共通という感じで愉快ですね。


ぼくは丹後半島ではカモメにポテトチップスを狙われて

怖いくらいだった経験があります。

カモメはポテトチップスが好きなんだろうか?


2007年7月18日水曜日


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黒田三郎 【くろだ さぶろう】

大正8年2月26日~昭和55年1月8日。
市民の日常と生活感覚を、平易な言葉で書いた詩が多い。「ひとりの女に」は戦後を代表する恋愛詩集との評価が高い。

代表詩集

* 「ひとりの女に」 昭和29年
* 「失われた墓碑銘」 昭和30年
* 「小さなユリと」 昭和35年
* 「もっと高く」 昭和39年

代表作品

* 賭け
* 夕方の三十分
* 秋の日の午後三時
* 死のなかに

--- 余計な一言 ---

何も付け加えなくてもいいだろう、この詩は。
黒田三郎が亡くなったときぼくの中でも
何かが静かに立ち去っていったように思う。

戦後詩(現代詩)は難解と言われるが
黒田三郎の詩に韜晦はない。
が、その詩精神には揺るぎはない。
紛れもなく強靭な批評性があっての作品ばかりなのだ。
戦後日本の代表的現代詩人のひとりだ。

若い日のYohはこんな兄貴がいたらいいなと憬れたものだ。

代表作の詩集「ひとりの女に」は
戦後を代表する恋愛詩集と言われるし
ぼくもそう思っている。

この作品は最愛の恋人(妻)を亡くした後のやもめ暮らしで
愛娘との勝手の分らない家庭の仕事と勤めの掛け持ち
まだ癒えない痛みを酒に薄めて奮闘する自画像なのだ。

よくある様な、見た様な光景。

でもここに出現する不思議な輝きと静けさに
人生ってまじめにやっていくものなんだ……と感じますね。

ただの呑べぇに見えてもこういう暮しなのかもしれないと、
立ち飲みのサラリーマンを横目でみて通る、今夕のぼく。