2011年10月15日土曜日

蝦夷地域の統合へのステップ

文武元年(六九七)十月壬午《甲子朔十九》  
冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。

陸奥の蝦夷、方物を貢す。

文武元年(六九七)十二月庚辰《癸亥朔十八》 
十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。

越後の蝦狄に物を賜うこと、各々差有り。

文武二年(六九八)六月壬寅《十四》     
壬寅。越後國蝦狄獻方物。

越後國の蝦狄、方物を献ず。

文武二年(六九八)十月己酉《廿三》     
己酉。陸奥蝦夷獻方物。

陸奥の蝦夷、方物を獻ず。

文武三年(六九九)四月己酉《乙酉朔廿五》
夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。
越後の蝦狄一百六人に爵を賜うこと差有り。


和銅三年(七一〇)正月丁夘《十六》
丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。
奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。
隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。

天皇、重閣門に御して、文武百官并びに隼人、蝦夷に宴を賜う。
諸々の方樂を奏す。
從五位已上に衣一襲を賜う。



和銅三年(七一〇)四月辛丑《廿一》
辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。

陸奥の蝦夷等、君姓を賜わり編戸を同にせんことを請う。之を許す。

天平宝字元年(七五七)三月乙亥《廿七》
乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。

勅。今自り以後、藤原部の姓を改めて久須波良部と爲し、君子部は吉美侯部と爲す。


神亀元年(七二四)二月壬子《廿二》
壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。
(中略)從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。 

2011年9月27日火曜日

顔淵死す


272  顏淵死、門人欲厚葬之。
子曰、不可。
門人厚葬之。
子曰、回也、視予猶父也、予不得視猶子也。
非我也、夫二三子也。

272
顔淵死す、門人之を厚く葬らんと欲す。
子曰く、不可。
門人之を厚く葬る。
子曰く、
回や、予(われ)を視ること猶父にするがごとし。
予、子にするがごとくに視ることを得ざりし。
(ああ)我(の為す)に非らざるなり、
夫(か)のニ三子(の為)せるなり。

最も将来を嘱望していた顔回が死んだ。
孔子の気持ちを忖度して門人たちは盛大に葬儀をしたいと申し出たが
孔子は「不可(いけない)」と答えた。
だが門人たちは準備をして盛大に葬儀を執り行った。
孔子はそのことを悔やんで言った。
回はわたしをまるで父親にするように親身に見守り仕えてくれた。
わたしはわが子にするように回をしめやかに送ってやれなかった…
私が願ったのはこんな葬儀ではなかった、
あの弟子たちときたらなにもわかってくれなかったのだなぁ…

2011年8月4日木曜日

三年

冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。

遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。

記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。

白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。

この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。

同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。

賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。

白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。

王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異

2011年7月18日月曜日

ジブリの新作アニメ 「コクリコ坂から」 

 昭和レトロという言い方がすっかり当たり前になった現在の日本では
昭和38年(1963年)は歴史の中にぼんやり浮かんでいるわけですが、
私的には鮮烈な特別な年であった。

そのS38に時機を設定したアニメ「コクリコ坂から」が出来たというので
ネット予約をして翌日のオープンの日に
近くのWBイオンシネマシアターへ行って見てきた。

舞台は横浜。時代は東京オリンピックの前年。
主人公たちは高校三年生。

旧制中学校時代からの鉄筋コンクリート建物の校舎。
木造のそれより古い洋館風の建物(に入っているのは
個性的なクラブやサークルの部室)がでてくる。

懐かしすぎる風景。

自分の通った高校もよく似た雰囲気だったから
まるで主人公達が昔の自分たちのように感じられて
いつの間にか画面の中に入り込んでいるような気分で
目を瞠っていた。

青春は何時の時代でも同じ青春。
でも時代によってかたちは違っている。

ジブリのアニメとしては
息継ぎ的な作品と思うのだけれど
懐かしさをかき立てて
思い出のシャンパンの泡に包んでくれたので
ぼくには100点の出来。

ガリ版印刷なんて知らない世代のほうが多い昨今。
ガリ切りでペンだこできながらも ビラを作っていたことを
思い出させてくれた「コクリコ坂から」には
しばしの幸せをもらった。

物語の中では
海が輝き 風が光ってた。
信号旗がはためき
少女の瞳の中を 空が流れていった。

暑い夏の贈り物
あの熱い青春の記憶
揺さぶり起こしてくれた佳作「コクリコ坂から」

美味しい紅茶と白いケーキのような
甘く薫る初恋にも
出会えるアニメだ。

2011年7月1日金曜日

近くの町、井手町議会は全会一致で「原発脱却」意見書を採択しました。

井手町で「原発脱却」決議が全会一致で採択されました。
日本共産党の谷田議員が議会運営委員会で提案した内容をもとに
保守系の副議長が提案したものです。

原子力発電からの脱却を求める意見書
 福島第一原子力発電所は、平成23年3月11日に発生した東日本大震災により、1号機、2号機、3号機がメルトダウンを起こし、現在その収束の道筋さえ見えない深刻な事態に陥っている。
 この過酷事故によるおびただしい放射性物質の汚染により、福島第一原子力発電所から半径20キロ圏内の「警戒区域」、ならびに半径20キロ圏外の「計画的避難区域」に指定された住民は、住み慣れた家、職場を追われ、故郷に帰れる見通しもなく、苦痛な避難生活を送っている。
 本町でも、隣県の福井県に14基の 原子力発電所が立地しており、この過酷事故を決して他人事と片づけることはできない。原子力発電所は、多重防護による対策が取られているから過酷事故は起 きず絶対に安全だという「安全神話」が完全に崩壊したことにより、福島第一原子力発電所の事故発生以来、日々住民は原子力発電所事故に対し不安と危険を覚 えている。
 よって、井手町議会は、福島第一原子力発電所の過酷事故を教訓に、子孫にこのような不安と危険を残さないため、国においてエネルギー政策の抜本的な転換を図り、期限を定めて原子力発電から脱却することを強く求める。
 また、その期限に至るまで、このような過酷事故による危険を二度と起こさないため、原子力発電所の安全確保に十二分な措置を新たにとるよう、国に対し次のとおり要望する。
               記
1 期限を定めて原子力発電から脱却し、代替エネルギーに転換する新たなエネルギー政策を定めること
2 原子力発電所の安全を確保するため、30年を超え、高経年化している原子力発電所の運転の延長を認めないこと
3 原子力発電所にかかる緊急時計画区域(EPZ)を始めとする安全基準の抜本的な見直しを図ること
4 原子力安全・保安院は、より一層原子力発電所の安全の確保を図るため、原子力利用を推進する経済産業省からの分離・独立ならびに権限強化を行うこと
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
平成23年6月29日
京都府綴喜郡井手町議会

2011年6月26日日曜日

白村江敗戦の国難から平城京が出来た、だから日本人は偉い…という漫談。

さきほどNHK日曜討論での五百旗部発言はあきれた。

白村江敗戦の国難から平城京が出来た
(日米戦争の敗戦という国難から大発展したのと同じとおもっているのか?)
という珍説をのべた。

国難というショックと危機意識が
国内対立を棚上げし
有無を言わさない大開発を可能にし
(投資チャンス)をもたらすという「経験則」で
勝手な想像をしているのだが
頭の中身が思わず露呈したのだろう。

しかし、むちゃくちゃな議論だよ。
藤原京だってそう言えないだろうに。
高安の烽火(とぶひ)が作られたような状況は
一過性のもので終わった。
当時の為政者は分かっていたはずだ。


大津京の建設や
壬申の乱を
白村江の敗戦と結びつけるのなら分かるが。

「国難が強い国を作る」云々は、
被災者そっちのけの「復興開発」商売への露払い。
思わず口に出た感じ。

村井宮城県知事も「日本人の美質」を盾にとって
震災復興という名前の財界・官僚主導の民活計画の推進を言う。

それを当然視しての番組作りである。

批判的な意見など出ない番組を平気で作るNHK。
それは結果として情報格差の震源地になることだ。
せめて当事者である住民の声を反映するくらいの
配慮を効かせる工夫は出来るはずだ。

そう言えば村井知事の企業参入での漁業再建計画には
圧倒的に漁業関係者は反対なのに、
(その当事者を無視して知事は「計画案」に固執して再考を拒否したが)、
NHKは賛成派もいるという報道をしていた。

結論が先にある報道は公共放送のすることではない。

復興へはさまざまな提言がなされている。
それらを総合的に議論する場をこそ
NHKは公共放送として企画する責務がある。

多数派だけでの政策づくりの旗振り役では
政権党に無批判になるよう国民を呉誘導し、
国民への正確な事実報道という中心的任務への責任を裏切ることになる。

こういう番組作りは止めるべきだ。

2011年6月23日木曜日

辛酉。 陪從せる仕丁仕女已上及び僧都已下に綿を賜うこと差有り。


巻卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉
賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差

巻の卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉。
陪從せる仕丁・仕女已上、及び僧都已下に綿を賜うこと 差有り。


十月己酉《十五》◆己酉。車駕幸飽浪宮。
十月辛亥《十七》◆辛亥。進幸由義宮。
十月癸丑《十九》◆癸丑。以從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲河内守。左中弁右兵衛督内匠頭並如故。
十月乙夘《廿一》◆乙夘。權建肆廛於龍華寺以西川上。而駆河内市人以居之。
陪從五位已上以私玩好交關其間。車駕臨之。以爲遊覽。
難波宮綿二万屯。塩卅石。施入龍華寺。

十月辛酉《廿七》◆辛酉。賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差。

十月壬戌《廿八》◆壬戌。授无位上村主刀自女從五位下。時年九十九。優高年也。

この十月二十七日の記事は称徳女帝が現在の大阪府八尾市である地に造営された由義宮(ゆげのみや)に滞在中の行動のひとつである。
注目されるのは左中弁右兵衛督内匠頭である藤原朝臣雄田麻呂に河内守を併任させたこと、龍華寺の西の川上に肆廛を權建(仮に建てる)して河内の市人を「駆」(追い入れる?)して居住させたこと、難波宮のニ万屯の綿(まわた)などを竜華寺に施入したこと。

これは此処を宮都とするに同じい行動である。

肆廛は文脈からみて「市場」である。市人(いちびと)に強制して居住させるのはここを東西の市(平城京)と同等な場とするための伏線でだから「權建」なのだろう。

無位無官の老婆にいきなり從五位下を与えている。宮殿に上れる身分の従五位下であり、上村主(かみのすぐり)は在地の豪族の圏内の人物だから、これも一種の利益誘導だ。
気風のいい主権者として自己を演出している。

道鏡への愛の発現という角度から見ると空恐ろしくもあるが…。

反対するものを意識しつつも強引に進めるという女帝の姿勢がはっきり見える気がする。
その一方で従う仕丁や仕女、また竜華寺の僧侶たちに物を下賜して周囲を固めているのがこの十月二十七日の記事なのである。
ryugejiato.jpg

由義宮の比定地は説があるとしても八尾の市内のどこかで現在はここが有力か。

http://bit.ly/jFNSXB
「由義神社は、由義宮を西ノ京に神語景雲三年(769)孝徳天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郎にまたがる広域の中心由緒 深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内五社の一社 である立派な旧社であったが、 中世度重なる兵火により消失した。」

この放送、団塊世代にはイイかも

音楽が世界を動かす
ロック、フォーク、リズムアンドブルース、レゲエ、ラップ、ジャズ・・・。音楽が人びとの心に訴えかける力とそこにこめられたメッセージは時代を動かし、社会の変革に大きな役割を担ってきました。音楽は人びとの思考にインスピレーションを与え、精神を高揚させ、多くの人びとを団結させることができます。公民権運動やヴェトナム反戦から反アパルトヘイトまで、そして今も続く第三世界の貧困やエイズとの闘い、それらの運動は音楽と手を取り合ってきました。 


本講座はアメリカとイギリスのアーティストたちを中心に、
20世紀の音楽がいかにして政治やさまざまな運動と関わり、
社会の中で大きな役割を果たしてきたかを振り返ります。
講師は金沢出身の五十嵐氏。 
五十嵐 正(いがらし ただし) 
1958年石川県金沢市生まれ。金沢大学大学院教育学研究科音楽教育修士課程修了。
フリーのライターとして国内外での取材、音楽雑誌の記事執筆。
アメリカのフォーク、ロックの分野に詳しい。 
東京南青山にあった伝説の輸入レコード店「パイド・パイパー・ハウス」での
勤務経験もあり。ミュージック・マガジン誌で
「五十嵐正のフォーキー・トーキー Folkie Talkie」連載中。 

久しぶりに 
NHKラジオ第二聞いてみよう。 
スケジュール表は 
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch03/1107.html 

最近はLogitecのUSBラジオをPCにつないで予約自動録音できているので、
好きなときに聞くことが出来ます。 
夕食後 
見たくもないホームドラマなどに付き合わず(ツレの好きな番組とか)
イヤフォンでゆったり聞くのがいいのです。 
手はPCで漢詩の漢字を調べたりしながら。 

21世紀から見る『資本論』~マルクスとその時代~」というのも面白そうだな。 
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html

わたしの「自慢」は若さの馬鹿力で経済学部でもないのに 
あの難しい資本論を三巻のうち第一巻だけですが
二回読み通した(笑)こと。 

それで忍耐力だけは絶対に自信があった(笑) 
ですが 
年をとると気が短くなって… 

確かに資本論の捉えている資本の本性は 
今東京電力を見ていると変わらずにある。 
「資本論の国」といわれたソ連が崩壊しても 
マルクスも資本論も消え去らないのは 
資本論が真理を捉えているからですね。 

ソ連が「資本論に背いていた国」だっただけです。 

で21世紀にマルクスの文章と資本論はどう読まれていくのか
興味深いですね、わたしには、ですが。 


ぼくには「こっくりさんと資本論」という 
ちょっと面白い経験があるのですが 
記憶があいまいになりかけているので 
その話はまたいつか。 

資本論を読んでもそこに世界の今が書いてある訳は無い。 
でも資本論の論理を使えば
随分と世界は見通しよく見えてくると思います。 

思考力を鍛えることのできる本のひとつとして 
若い人にはお勧めできる一冊です。 

若いころのがんばりを思い起こして 
この放送も聴いてみようかと思います。 http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html

2011年6月20日月曜日

甲辰奉幣帛于住吉社

巻三 慶雲元年(704年)七月廿一日 甲辰。
奉幣帛于住吉社。

巻の三、慶雲元年(704年)七月廿一日 甲辰(きのえたつ、こうしん)
住吉社に幣帛を奉ず。

〇 これだけではその意味は判らない。
手がかりは月日だが…
この年の春は旱魃で雨が降っていないので、諸社に遣使して幣帛を奉げている。
住吉社は航海の神であるがもともと水神だから関連があるのかもしれない。
しかし降雨を祈念するならその旨を記すのが普通だろう。
むしろ一般的に国土の平安を有力な神に祈念したとみるのが穏当かもしれない。

遣唐使等に関連しての住吉社の記事はあるが単独で目的を書かない記事は此処だけだ。
住吉社の続日本紀での初出の記事だが、
他の神社と並んでではなく単独で記されているのは此処だけのようだ。

<住吉社と朝廷との関係、紀記ではどうかと気になったので書いておく>

辛亥車駕幸平城宮

巻四 和銅二年八月
辛亥。車駕幸平城宮。免從駕京畿兵衛戸雜徭。

巻の四 和銅二年(709年)八月廿八日 辛亥(かのと い、しんがい)
車駕、平城宮に幸す。駕に從える京畿の兵衛は(その)戸の雜徭を免ず。

阿閉皇女が即位してなった元明天皇の行動記録である。

車駕は天皇のことを指している。
行幸するときはこういう表現になる。
乗り物を指すのではなく乗っている天皇を指す。
したがってこれは「天皇平城宮に幸す」という意味だ。

新京の平城宮はまさに建設の最中にある。
前年岡田離宮や春日離宮に行幸した際も物の下賜と免除を行っている。
行幸に従うため近畿の各地から動員された兵衛たちに戸ごとの雑徭を免除したのである。

平城宮の建設に関わる負担は大きかった。
それでも新京は着々と建設されていく。
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