2007年4月17日火曜日

死なないでください、長崎市長、頑張ってください。

2007.04.17 22:47

貴方は生きるため
きっと今闘っていると思います。

卑劣な銃弾が貴方を貫いて貴方が倒れたと
テレビから流れて信じられなかった。

小泉首相の前でアメリカと日本政府の核軍拡とそれへの事実上の支持を公然と批判した原爆記念日の貴方の演説はりっぱでした。政治的立場を越えて深い敬意を感じました。あなたは事実を認めることの出来る勇気の人だ。もしやあの演説のとき貴方は漠然と今日の日を予感しなかっただろうか。金銭トラブルだと言う報道は多分マヌーバーであろうと思います。貴方の継続的な活躍を阻止したい暗黒の勢力の手が伸びたのだ。
だからきっと生還を、果たしてください。

祈りとともに憤りの中に沈んでいきそうです。
日本が今戦争する国家へと傾いていく、その最初のテロル。
そんな予感がしてなりません。
本島前市長が生還したように、どうか心肺停止から再び
あなたのその勇気ある心臓がもう一度拍動を打ちますように!どうか。

酒どころの話

 あっさりした甘みのある酒「呉春」池田の酒である。

下戸が酒の話を少しするのだ。

 西国街道は山崎街道とも言って京都の大山崎から摂津へ西に向かう古代からの幹線道路だった。
この街道の北側には北摂の山が迫っていて箕面の勝尾寺などの名刹がある。猪名川に出る辺りの在所が池田である。ここは京都の松尾大社がそうであるように渡来系の人々も多く住んでいたせいか酒郷(造り酒屋の町)である。
 私事になるがぼくのツレアイの父は早くに亡くなったが、酒を愛した人であった。それで半ばは冗談だが、幾分かは本気で「お前ひとりくらいは池田の酒屋へ嫁にやってもいいがなぁ」と言っていたそうだ。実際農家なので4人姉妹の半分が農家に嫁いでいった。変り種の三女ならまぁ酒屋へ嫁に貰ろうてもらえば酒には困らん…という冗談では有ったが、その気になれば話がないわけでもない、そういう家だった。その三女が下戸もいいとこのぼくと暮らしている。こういうわけで、話から知って下戸のぼくも池田が酒郷であると心得ていた。
 今では摂津の酒どころといえば灘郷である。京の伏見と並ぶ関西の造り酒屋ゾーンであることはご存知だろう。その灘の酒は、北摂池田の人々が商品の出荷港まで含めた繁栄の拠点として開いたものであることは、だがあまり知られていない。
 日本酒の歴史に詳しくはないが、中世には池田の酒は銘酒として知られていたようで、その証拠に池田の酒が陸路鎌倉街道を運ばれて行ったと伝えられている。酒樽二つを一駄と数える慣わしはここから来ているという。
 さて、ツレアイの父が宵の熱燗の酔いがまわるとき三女を嫁にやってもいいと思ったその酒が、さてどの銘柄、どの酒造家のものかは定かではないが、さぞや好い心地になってのことであろう。ぼくにすれば上戸なんてそんなものかと思うばかりだが。
 鎌倉街道を揺られて行った酒樽は当然のことながら、鎌倉の上級武士たちの酒宴の席に出されたであろう。源頼朝の手にしている酒盃に注がれた献上の酒が池田の酒であった、と想像を広げる。賎(しず)や、しず、しずの苧環くりかへし…静御前が歌い舞う、その席に並んでいた人々が含んだ酒もそうだったのだと。

江戸時代になると繁栄は灘に奪われて衰微したが、京都御所の酒造りの秘伝を伝えられたという池田の酒は、その品格と味をなかなか失わなかったものと見える。あわやぼくがツレアイを逃がす機会になったかもしれぬほどに。

 箕面、池田、豊中、伊丹など近在の寺や旧家に、最近になって人気の出ている江戸時代の画家、伊藤若沖の描いた絵がかなり分布しているのは、案外この辺りの裕福な人々の上品な遊楽の文化に池田の美味い酒が一役買っていたからかもしれないと、思うのだ。若沖にしても度々の滞在や長逗留しての制作に惹かれるだけの魅力があっただおろうから、こんな想像も涌いてくるのだった。


 若冲の奇想の背後に奇想の羽根を広げるに必要な自由な空気を漂わせる町衆の気風があるのは見落とせない視点ではないだろうか。

2007年4月14日土曜日

石鹸玉(しゃぼんだま)は春の季語なんだ



行きたい方へそれからのしやぼん玉
                黛まどか

                               
日のあとを追つて行きけり石鹸玉
                佐藤和枝




 なんだか俳句づいてしまってるけど(笑)

 黛まどかさんの自作の句がメルマガに書いてあったので、
 え、確か…と思い探すと、やはりバックナンバーにもう一つ
 「石鹸玉」の句があった。佐藤和枝さんという俳人の作。

 どちらの俳句も、群がりになって作られたしゃぼん玉が
 風に乗ってゆっくりとお互いに離れていく動きを見て作られている。

 「それからの武蔵」という題の小説がある。
 「それからのしゃぼん玉」とは上手に言えたものだ。

 日のあとを追っていくように思う心。

 それぞれが行きたい方へ行こうとしているように思う心。

 しゃぼん玉は、春風に乗って、心あるかのように

 自由に飛んでいく。

 春の移ろい易さとしゃぼん玉の儚い危うさとは

 池塘春草の夢そのものだが、儚くても、あくまでも明るく

 どこまでも気ままなのは、幼い幸せに似ている気がする。


   不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

    空に吸われし十五の心 
    … 啄木も自分がしゃぼん玉になって空をを見ていたのかな。

      教室の窓より遁げて
      ただ一人
      かの城址に寝に行きしかな …で、寝転んで心は空に…
 

 佐藤和枝さんのほかの句に

     公園の時計が十時桃の花

     初さくら湯気のやふなる匂ひかな
 
 

2007年4月12日木曜日

星とピアノといわし雲 [My first love]

 ぼくは19年生まれの昭和二桁世代だ。
零歳児のぼくの頭上にB29が飛来して焼夷弾を落とし込んだ。
 街は燃え、崩れ落ち、人々は死んでいった。焼け跡、闇市、パンパンガールといった戦後の風景や風俗を覚えているわけではない。
ただ記憶のどこかに時代の色、匂い、空気が残っている。

 茶色い戦争ありました…有名な中原中也の詩の一節。中也らしい鋭さで捉えた戦争の色、茶色。泥と赤錆が入り混じった茶色がかった残骸を夕日が赤く染めている。築港の辺りの風景は終戦直後から50年代半ばまであまり変わらなかった。高度成長経済が始まる前のほとびたような時間のよどみ。
 信じられないかもしれないが、大阪という大都会でも少年たちは膝や肘に繕い痕や当て布(接ぎ当て)をした服やズボンで、学校へ通ったり遊んだりしていた。それが普通だった。

 五年生になった春の一学期。ぼくは何時ものように講堂の明るく日が差し込む長椅子に座りに行った。昼休み、友達から離れて、本を開くためだった。
 いじめられっ子は抜け出せて上級生として落ち着きを取り戻した頃だ。星の本ばかり読みあさり始めていた。図書館にはもう読んでいない天体関係の本はなかった。
 大学生の教養課程位が読む膨張宇宙論の概説などを手に入れたので、よほど真剣にならないと理解できないと子供心にも見当がついたから、静かな講堂で読むことにしていたのだ。ハッブルの説。ガモフのビッグバン説…。順を追って力学抜きで書いてあるので大体の所はわかるのだった。

 すっかり本に引き込まれていて講堂に人がいるのに気がついていなかったから、鳴り響いたピアノの音に不意をつかれてびくっと身をおこした。後ろ姿に長い三つ編みが見えた。
轟くようにやってきた音の洪水は読書を押し流し、激しくうねってぼくを飲み込んでしまった。
 びっくりしたまま呆然と聞いているぼくをはぐらかすように突然ピアノの音が止み、ばたんという音がして、その子は立ち上がって出て行った。
 出て行くときぼくに気づいてちらと目をぼくに向けたがそのまま通り過ぎて出て行ってしまった。
 その子が見たのは口を開けたまま目を瞠っているへんな男の子だった。

 たぶん一目惚れしたんだ。それからは何をしていても、勉強の本の前でも、ドッジボールに喚声を上げているときも、三つ編みの先っぽが鼻先に揺れていた…。
 
 気がつくとその子は直ぐ近所の子だった。お寺さんの家の子で、母親は「○○式ドレスメーカー学園」のような名の洋裁学校を経営していた。今思えば、だからその子は少女雑誌から抜け出してきたような姿をしていたのだ。
 学校の前に在った市営プールが米軍から市に返還され、泳げるようになった日、その子の水着の艶やかな水色のグラディエーションがぼくを震撼させた。プールサイドですれ違っただけなのに心臓は早鐘を撞いていて目が眩むばかりだった。
 だが今思えば不思議だが、その子は取り巻きのいるような子ではなかった。目立たない子だったのだ。女の子同士のありがちな噂も聞こえてくることはなかった。それがかえって神秘的に見えた気がする。
 
 六年生の夏の林間学級で高野山へ行ったが、他校生もたくさん来ていて、NHK主催の音楽コンクールが開かれた。その子がピアノで出場したのだが、予選落ちだった。そう上手ではなかったのだろう。
 だがぼくは体ごと応援して真っ赤な顔になっていた。先生がお前どうかしたか、具合悪いのかと聞くほどに。いいえ暑いだけです、とかすれ声で言って変な顔をされた。

 この片想いはそのままで続き、中学三年を終えるまで変わらなかった。中学では夏休みの地域連絡の責任者に二人が指名され、教員室で指示を受けて一緒に校門を出たことがあった。そのとき交わした言葉も記憶にはない。学校から与えられた必要なことだけを話し、「夏休み何事もみんなに起きませんように」と言って別れただけだったように記憶している。
 話はただそれだけのことだった。なにも他にない。星のことに夢中だった少年とピアノが大好きだった少女のすれ違っただけの片想いのできごと。
 終りは突然やってきた。ラブレターを書いて無思慮にもポストではなくその子の家の郵便受けに投じたからだ。数日を経ないで先方の母親から母に手紙の件が伝わった。
 母に問われたことに動転してしまった。その夜自分が無限小になった感覚のまま朝が来た。相手の気持ちなど分からなかったが、もうお終いだった。

 高校は別々の学校に進んだ。その子はやはり音楽教育で知られた女子高だったし、ぼくは公立の普通校へ進んだ。時は1960年の春。国を揺るがす政治の季節だった。5月末、長い長い、白熱の真剣な議論の中から生徒たちは国会解散、岸首相退陣を求めて6月4日の国民統一行動日のデモに全員で参加すると決めた。
 そのことを高校の職員会議に知らせ許可するよう求めた。先生たちも長時間の大議論の末、考えられないような結論が出た。生徒たちの参加決定には反対だ。が、自由の校風の成果としての生徒諸君の意思を尊重し、同行して諸君らを我々が守る。我々も共に行く。
 生徒代表であったぼくらは、喚声を上げて総会の会場で待機していた生徒たちの所へなだれ込んだ。ドラマのような融合だった。夜が来ていた。男子生徒が女子生徒全員を自宅へエスコートするため、分担が即座に決められ、三年生による実行点検組が作られ、電話の前に生徒名簿が広げ置かれた。

 6月4日、中之島公園へ向かう人で環状線も一杯になり、路面電車もデモ隊が多くて遅れていた。
 ぼくは先輩に自治会のメッセージを先に主催者の国民会議議長団に届け、高校生代表の発言を確保するよう先触れをしてきてくれと頼まれ、タクシーで先着するため、昼日中に街にひとり飛び出した。
 自分が不良になった気分だった。勉強の時間帯に一人で街へ…。
 そのときばったりとその子と出逢ったのだった。デモ隊が溢れる昼下がりの街を帰宅させるのは拙い、と判断した女子高は早くも帰宅を急がせたのだろう。
 頭に白く長い鉢巻(民主主義を!国会解散!と書いてあった)を靡かせて走ってきたぼくは、びっくりして立ち止まった。
 なぜ立ち止まったのだろう。その子もびっくりしたようにぼくを瞠めていた。一瞬の間があって、少年は駆け出した。頭の中で「遅刻は絶対ダメ」と先輩が叫んでいた。すれ違うとき、なぜかぼくは片手をひらひらさせた。さようなら、を言ったみたいに…。
 これがその子と逢った最後の機会だった。

 何年か過ぎて、在日朝鮮人の高校生とフォークダンスで交流するイベントをしたとき、その子と仲良しだった子がチマ・チョゴリの姿で傍へ来て、「あなた、あの子のこと好きだったでしょう」と言って、意味ありげに、にっこりと笑った。
 そのとき初めて、ぼくは気づいた。あの子はずっと前から知っていたんだ、ぼくがあの子を好きだったことを。最後の出逢いの一瞬に、お互いが目顔で言ったのは、本当はさようならなんかじゃ、なかったんだ、ということを。
 マイムマイムの流れる、いわし雲の空の下で、酸っぱいような、甘いような、隠れて泣きたいような気持ちの泡立ちが、わーっとオルガンの音色みたいに湧きあがって、やがて消えていくのだった。

……

 そのひと? ええ、ぼくにとっては、透明な樹脂に封入された花のように、今も小学校の講堂でピアノ弾いてるんです。ぼくはやっぱり星を探して本の頁を指を舐めながらめくっているんです、きっと永遠に…。ええ、ぼくにとっては…そのひとは…
 
          

2007年4月11日水曜日

ヘビイチゴ ツバメ 芍薬 よもぎ 
いぬのふぐり たんぽぽ つめくさ
ははこぐさ  君子蘭 

2007年4月10日火曜日

沖縄には桜がない?ほんとうかな…


会社に以前お世話になった農業経済学者のIさんから久しぶりに電話が入っていた。

この方は大学を定年で辞してからご夫婦で沖縄へ移られたのです。
どちらも体が弱く、冬の冷えを避けようと暖かい沖縄を「ついの棲家」に選ばれたのでした。

移住後も農業関係の団体と関わって元気な老後を過ごされていたはず。
それがちょっと元気がない電話だったよと、同僚が言うので、

よく聞くと、奥様がすこし健康がすぐれないらしい。
それで先生もいろいろと疲れも溜まり、
元気がなくなってきているらしい。

その時同僚が
「沖縄には桜がないんですね、桜が見たいなぁと仰っていました」
というのです。

本当なんだろうか。桜って南の方にはないのか…      







とりあえず懐かしい大学の桜の写真
撮ってきて送ってあげよう。
昼の休み時間に車を飛ばして桜狩。
大学の建物をバックに一枚。
川岸の桜並木をパチリ。










           
戻ってきて車のドアをロックしたとき耳に鳥の声が…

――あ、つばめ。

振り仰ぐと電線につばめがいる。

  飛んだ…

           

近くの民家の二階の屋根へさーと消えていった。

  帰ってきたんだ。


まもなく我が家にもつばめが到着するだろう。

季節は一巡した
…去年の今頃はまだ俊一さんは元気だったんだ。

6月にふたり相次いで亡くなったのだった。
今またふたり村に入院中の年寄りが居る。

つばめが帰ってくるのは嬉しいが、すこし淋しい。
歳々年々ひと同じからず…


家に帰る途中夕日がきれいだった。
夕焼けた壁に自分の影が映っていた
これもこの夕暮れの欠片なのだ。
          
川の面を桜の花びらが流れていったが、
あれは無常を見ていたんだ
かといって、たじろぐことはないが。

          




いっぱい見たので
花の色は
今夜の夢の中でも流れていくだろう。


          
 

2007年4月8日日曜日

ケンブリッジの大学にも桜が咲いている カム川辺

Cherry blossom tree in full bloom, Garden house hotel, Cambridge, England







↑クリックすればフルサイズで見られます。
たまたま他の写真を検索中にイギリス人の写真ブログで今ケンブリッジの大学の構内に桜が咲いていることを知った。

Reggie Thompson という方の写真である。いい写真が多いブログだ。

Reggie Thompson's photography blog

どんな経緯でここに桜が植えられているのだろうか。日本人とも縁のありそうなケンブリッジだから何かの縁がありそうだ。


Google Map

2007年4月7日土曜日

『缶蹴り』した空き地を想う


2005年03月14日(月)

少年時代には空き地が身近にあった。

近所の誰もが通ったり焚き火をしたり
物を干していたりした。
勝手に穴を掘ったりしても、それを放置しても
いつの間にか大人が元にもどしていたりする。

決して無所有ではない。
だが誰のものでもなく誰のものでもある場所は
「土地」というものの一面をぼくらに実体験させていた。

明確な管理人が居ない分
誰もが自由に「アクセス」できるが
その分幾分かの「責任」や「分担」を
子供心にも感じていたようだ。

そして当時は駅前などの公共空間でさえ
何かそうした性格を共有させられていた
そう感じるのだが。

広場はどこも生活空間として同質であるとみなされ
駅前や百貨店前の広場といった空間も
空き地的性格を保有していたのではないか。

そうした公共空間には
香具師や「傷痍軍人」や「浮浪者」もが出入りし
リヤカーを引いてきた農民夫婦が腰を下ろして
休みながら辺りを眺めていたりした。

子供にとっては、それは自分の家の近くの
空き地の延長と拡大として連続したものであった。

舗装された広場は
「焼き芋」はできなくても
「缶けり」には広くて好かった。
追い払われることはしばしばっだったにしても。

空き地をもつ少年であった自分達には
どこか香具師や浮浪者に似た性質が
いつのまにか潜んでいたのではなかったか。

街場の人間の浮動的な、
出入りの多い時間と空間への愛着。
今もある。

すくなくとも自分には
空き地の魔力に魅入られていた時代があった。


空き地から見る夕陽の凄さと魅惑が
いまもぼくを
夕陽を見に出かける人間でいさせている。

鬼も十八、番茶も出花

2006年11月25日(土)



『美人さん志望』というストレートでちょっとユーモラスなタイトルのブログを自分の参加しているSNSで読んでいる。なぜ女性達は美人志向なのだろう、多分リクツじゃないのだろう。

 それで思い出したのは「鬼も十八」という諺だ。

 中学生三年生の時英語の先生がなぜか嫌いで、英語も嫌いになった。
英語なんか嫌だ~、俺は南米へ行ってタイル職人になって綺麗な大通りを造るんだ。という変な考えにとりつかれた。

スペイン語の教本を買ってきたり、スペイン語で受験できる高校があるか調べようとしたり、頭が変調きたしておったのだった。

 スペイン語の教科書の発音と文字を終えて、次に進むと最初の頁の下の方に、
 暗記用の例文、スペインの諺が出ていた。
 もう思い出せない例文だが、直訳の文は今も憶えている。

 『醜い十五歳は無い』という文だった。

 そして、そのスペイン語の文に添えられていた、日本の諺の
『鬼も十八番茶も出花』に相当する、と。

 この諺を知ったのはこうしてだった。
 スペインでは自分と同年齢の15歳が
 花の盛りなんだ、と変に納得した記憶がある。

 スペインの諺は純粋に少女が乙女に変貌するその瞬間の
 ぱ~っと明るく輝き出る若さをダイレクトに認識して表現したもの。
 一方の日本の諺は「十七」とする出典もあるが、
 いずれにしても「嫁入り時」「適齢期」「時期を外さない」年齢を言っている。

 鬼のように怖いものでも女なら「その時期」には嫁に貰われていく。
 それは番茶に湯を注いでちょうど良い頃合いに飲むのといっしょだ、
 というのである。

 十七、八は昔の嫁入り時分。女らしい色気もある年頃。

 美よりは嫁に出せる女ぶりにアクセントがある。

 「娘十八」になっている地方もあると聞く。
 鬼とお茶を並べられては迷惑な茶の産地だろうか。


 女性をモデルにスケッチをしたりすれば、解ってくることなのだが、
 女性に限らず自然の生み出した造形は精妙で、
 それに気付くと表面的な均整など取るに足りない。 
 疑う人は「ロダンの言葉」を読むべきだ。

 画家や彫刻家にとっては美人というものはない。

 いのちの輝きがどうそこに現れているか、
 それがその人の固有の性格として
 はっきりと浮き出てきているか、なのだ。

 ときには化粧というものが、その自分固有の性格美を覆い隠してしまうのを
 気付かない女性がいる。
 惜しいことだが、それに気付づかせるのは化粧や痩身術の知識ではない。
 むしろ芸術や文学が与える「美的経験」の豊富さだろう。



 関西には歌心の伝統が曾てはあった。

 高校生の頃のことである、年上の知人宅にいるとき、
 ある女性が和歌のみを書いたラブレターを玄関先の生け花の傍に置いて小走りで去った。

自分のことではないのにぼくは「なんと美しいしぐさなんだろう」と感じた。

 十年も経ってから民俗学者の宮本常一先生の本で、
 世間師の話の中で、歌による交歓が西国一円には色濃く残っていたことを知る。
 ぼくはその伝統の最後の光芒を見ていたのだと知らされた。


 美しいと言うことは形から始まるのは否めないが、最後に心を動かすのは立ち振る舞いの美、では無いだろうか。

 そしてその美は、先立つ経験に根ざした、人への優しさから出るもののように思う。

 衣食足って礼節を未だ知らず、錦繍を纏って厚顔改まらずの世相に真の美人であるのは至難のこと。






 そうとすれば、『美人さん、志望』という志は、

 まことに雄大な勇敢なチャレンジなのかも知れないと、思え始めるのである。

僕のうさぎ跳び

2006年11月30日(木)

ぼくの『波乱万丈うさぎ跳び人生』(自称)は、どこからがスタートだったのだろう。

ウサギのイメージは、人によって違う。
嫌いという人もいる。
-あの赤い目がねぇ~とか、
理由があるようだ。
-ぼくを、嫌わないで…



今ではピーター・ザ・ラビットとか、
ディズニーのアニメでお馴染みの
不思議の国のアリスでの
懐中時計をもったウサギとか、
よく知られた兎公たちがいる。

ピーター・ラビットや
野鼠のプリムローズなど
イギリスからやってきた
野生の仲間たちは、ぼくも大好きだ。

でも、ぼくの夢の中を跳ね回っている
ウサギは、どうやら別のウサギのようだ。

記憶をまさぐってみると、
こいつはディズニーのカートゥーンかもしれない。
ちょっとのろまで鈍い人のいいベアと
ずる賢い口達者のキツネとに

いつもいつも追われているウサギ…

こいつの名前を知りたくて
探しているのだが、まだ分からない。

ウサギはいつも危機一発で
逃げおおせて野茨の茂みに飛び込む
そして勝ち誇ったようにベアとフォックスに
尻を向けてばかにするのがパターンだ。

ファニー・アニマル・コミックのジャンルに
数えられるのだろうが、日本で読みふけっていた
それは1950年代の半ば過ぎだろう。
悪名高いコミックス・コードが登場して
急速に多様さを失っていったアメリカンコミック。
その端境期にであった「わる知恵の闘い」にみちた
ウサギと野生の仲間たち。

天性のトリック・スターであるこいつ。
いつもやってきてぼくの夢見の平安を壊す。

うさぎ跳びを、忘れるな!
弱いウサギのわるさ振りが夢で繰り返される

ぼくのうさぎ跳び人生が始まったのは
どうやら、こいつが夢に顔をだした
あの頃からだったに違いない。


実人生では、いつもいつも追われているぼく
夢の中では 追いかける。

待っていろ、ぼくはお前を
捕らまえるからな、
逃がすものか。
追っかける僕は、やっぱり
うさぎ跳び…
耳まで伸びて
ぴんと立っているのだ。



市内のネット・カフェで書いている…
仕事には「息抜き」が必要と称して、コーヒー代プラスちょっとで済むからと言い訳を自分にし、一時間をちょっとオーバー。イインカイ、オイ。…そろそろもどろ。


あるサイトでカバラ占いをやってみた。やっぱり波乱万丈のうさぎ跳び人生らしい、ほんとかよ~。
『…
あなたは、感受性への憧れから、必然的に音楽や絵画、文芸などなど、芸術などを通じて、メッセージを与えたいと思うようになります。

強い感受性は、あなた自身にもいろいろな葛藤(かっとう)やストレスになってしまう諸刃(もろは)の剣です。でも、怖い思いをしたり、愛する者を失ったり、友人に裏切られてしまったり、精神的な試練が多いのもあなたの宿命なのです。… あなたの運命の本質は、ある意味では「忍耐」でもあります。強烈な痛みに、心を閉ざしてしまえば、あなたの宿命もまた停止してしまいます。強く優しくなることがあなたの真の宿命なのです。

あなたは、性格的にとても挑戦的ですので、運命は波乱万丈となりやすい傾向があります。楽な選択肢があっても、わざわざ困難の道を選んで、茨の人生を歩んでしまいます。

ねっ、うさぎは茨の道だって決まってるんだ、やれやれ。