2010年12月6日月曜日

自販機

自販機を抱かんと堕つ流星群


そらと惚け白衣に入る冬の蝶

2010年12月4日土曜日

初対面なのに旧友といえる不思議


 ドイツから友人がやって来た。
 普段ぼくの参加している小さなSNSでぼくの書く雑文によくコメントをくれる方で、調子が出ないと長期に「欠席」状態になるぼくにも、変わらないペースで接してくれるありがたい知り合いだなのだが、突然の来日で驚きました。 
 学会での講演を果たした後を思い立って各地のSNSの知り合いを訪ねて歩くという嬉しい計画を実行したわけ。
 それで東大寺と興福寺を一緒に散歩した。

 奥さんはフランス人で、同じ大学でのなれ初めと聞き、自分と同じとわかり一層親近感?が湧いた。
ご本人は四国の出身で日本人だが、東大寺が初めてであった。しかしこちらも、恥ずかしいことに正倉院の建物が公開されていることを知らなかった。こちらはこれが初めて。二人を案内したお蔭で正倉院を初めて見た(笑)のでした。

お互いに思っていたより話しやすいという感想を持ったようで、ぼくも彼ももういちど会いたいという気持ちで別れた。

次に帰国するときは是非また奈良へも立ち寄って欲しいものだ。
マックス・ウェーバーの研究などを専門としている社会学者らしいのだが
そういう方面の話がまったくできなかったのが少し心残りだし、ぜひまた話せる日があることを望む。

東大寺も工夫していこうとしているのか大仏殿の庭でミニコンサートをしていた。
「千の風になって」をバイオリンなど合奏で奏でていたが、聞いている人がほとんどいないのは可哀そうだった。印象は悪くなかったから。



2010年11月28日日曜日

去る者来る者あり我が行くは冬日射す道



村の清っさんが逝かれた。
老いてなお働きづめに働いていた。
この一年病に倒れ二度目の入院で
ついに帰らなかった。
その姿に静かな追悼の懐いを抱いた。

思えば芝田くん、森岡くん、と
続いて旧知の友を失った一年余。

年年歳歳華相似たり、歳歳年年人同じからず。

ネット上の友人がドイツから帰国していて
会えるかもしれない。
初対面だが旧知ともいえる不思議な感じで
再会のような感じが伴う。

ここのところ膝の調子が良くて痛みが引いてきて
回数もへっているので
試しに団地のある丘へ歩いてみた。
ざっと一万歩の距離だが、無事に往復できた。
リュックに折り畳みの傘を入れたぐらいで荷物なしだった。
タオルを忘れて出かけたので、
出る汗が拭えず帰り道少し寒かったが風邪をひきはしなかった。
週に2回くらいの日程で晴れた日を選んで続けようかと思う。
目標を持たないとやらない口実はいくらでも見つかるものだ。

頼まれてしたことは上手くいったのに
同じことを
自分のためにやると上手くいかない、
何だこれは、と自問中。
ドメインを買って、
GoogleのAppsサービスとBlogger(Blog)を登録し
独自ドメインでBlogをアクセスするようにセットすることが
他人のは上手く動いているのに自分のが動かない。
2つを比較しても同じようにセットアップしているはずなんだが。

自分用の勉強ノートをと考えて作ろうとしているのに
出鼻が挫けた感じで面白くないことになった。
日をおいて再度頭を整理してみよう、いやはや。

一海先生たちの論語講座には行けない事情があるので
自前で論語読みをして気を紛らわす?ことにしている。

色々な論語という名のついた本から選んで比較しながら読むと面白かろうと。

岩波文庫、ちくま文庫、中公文庫などを岩波文庫と比べ読みしている。

貝塚茂樹の中公文庫と宮崎市定の岩波現代文庫が面白い。

要は孔子とその時代への想像力の働かせ方で違いが出てくる。

道徳手本的、教訓的な読み方は寧ろ邪道と思って読めば面白いところも
たくさんあるのが論語という本の値打ちらしい。

有朋自遠方来、不亦楽乎。
誰でも知っていそうなこの一文でも
いくつかの読み方があるらしい。

確かに漢文の勉強にはなるのだと実感。
でも疑問も持つし、その解決がなかなか自力だけでは心もとない。
例えば上の有朋…でも
有朋を朋有りと読むか「有朋(とも)」と読むかという問題がある。
何故「有朋(とも)」と読めるかの説明がない。
まだ自分では見つからないので、自分の判断ができない。

中国語として眺めれば
有…来。 来る有り。と思う。
何が?の答えになる部分が「朋自遠方」で
有朋来。 朋来る有り。
漢文としては
朋来。朋来る。と 有朋来。朋来る有り。
どう違うか?有が付くのは思いがけずとか新たなる出現の感じがあるという。
意外性というべきか。
で、
自遠方。遠方より。
朋遠方より来る有り。 思いがけず朋が遠くからやって来た。
朋有り。と読んでもいいが、
その有りには現前の感じがあることを意識しなくてはいけない。
朋が有(い)る、(目の前に)、遠くから来てくれたんだ!
だから不亦楽乎。また楽しからずや。なのだ。
思いがけずの朋と過ごす楽しさは一入だろうという意味なのだ。

とまあ自分ではこう読めるのだが、
自遠方来を貝塚茂樹氏は遠きより方(ならび)来ると読む。
遠方という使い方、自遠方という使い方が当時のものではないというのだ。
いまは判断できずにそういうものか、と思うばかりだ。

最小の簡明な表現の漢文という形式の難しさと
意外な分かりやすさとを体験している。

道遠く日は暮れかかっていてもまだ足は動く。
何処へと聞かれても答えられない一人旅。
ゆっくり行こうと自分に言い聞かせながら
道に延びる自分の影を踏んで行く。



.



2010年11月4日木曜日

為有 李商隠   漢詩ノォト 

為有     李商隠

為 有 雲 屏 無 限 嬌

鳳 城 寒 尽 怕 春 宵

無 端 嫁 得 金 龜 婿

辜 負 香 衾 事 早 朝


wèi yǒu yún bǐng wú xiàn jiāo

fēng chéng hán jǐn pà chūn xiāo

wú duān jià dé jīn guī xù

gū fù xiāng qīn shì zǎo cháo



雲屏(うんぺい) 

雲母を散らしたあでやかな屏風。

実は美人をいう間接の表現。

嬌(きょう)     

女性のコケットリー。愛嬌。

鳳城(ほうじょう) 

鳳凰の来る城(まち)=都、京城。

具体的には長安。九重ともいう。

寒尽きて      

冬がおわっって。

春宵を怕る     

夜の短いことを怕(おそ)る。困るなぁという気分。

端なくも       

思いがけなく。

金亀         

高官にのみ与えられた金の亀形の帯留め。

香衾(こうきん)   

香を焚き込めたいい匂いのする掛布団。

辜負(こふ)     

そむくこと。背にして。

事(こと)とする   

もっぱらにすること。


  雲屏に無限の嬌あるが為に

  鳳城に寒尽きて、春宵を怕る。

  端なくも金亀の婿に 嫁するを得たるも

  香衾を辜負して、早朝を事とせんとは。



女の器量が十分に備わっているせいで

花の都に春が来たのに夜の短さを憂えねばならぬ。

思いもかけず金亀を帯びる身分の高官の妻となったが

なんということか

夫は香しいベッドを顧みず早朝に出仕してしまうなんて



閨怨詩の一種といえようか。

うら若い女性の孤独と哀怨の風情を詠う。

当て外れな状況として孤独な閨(ねや)を描写する。

道具立ては貴重な装身具の金亀や香衾。

季節は春情の季節、春の夜。

宵は夕方でなく夜をいう字。

春宵の交歓と早朝の出仕の対比が趣向としてあるか。

鳳城は典故がある。杜甫の詩などにもでてくる。

春の長安の悩ましい夜の風情を詠っているのだが

李商隠は一筋縄ではいかない詩人で

この詩も政治的暗喩をもっているというひともあるらしい。

晩唐の詩は繊細華麗あるいは優艶。退廃と散逸に近づいているようだ。すこし難解な詩風。

本を並べて参照しながら作詞したことから李商隠は獺祭魚と綽名された。獺(カワウソ)がとった魚を岩に並べ神祭りしてから食べるように見える習性を獺祭魚と言い、書物に埋没する人士を獺祭の人というようになった。最初の獺祭魚が李商隠である。子規が獺祭書屋主人と号したところから9月19日の正岡子規の命日を獺祭忌という。日本の獺祭魚詩人は正岡子規だ。


2010年10月31日日曜日

温家宝氏が微妙な立場にあると見える

ここのところの色々の情報からみて
温家宝氏に向けて礫が飛んでいるように見えるが。

中国社会の発展する勢いの様々な矛盾にとんだ局面の一つだろうが
どうなっていくのか。

『燕山夜話』という本を古本屋で今日買った。
昔一度読んだ本だがすっかり忘れてこんな本だったかいな、という調子だった。

毎日新聞社の出したものだった。
当時は日本人にとって「読んでみたい本」だった。

『海瑞罷官』とこの『燕山夜話』とが「文革」(プロレタリア文化大革命)の口火だったからだ。

この本の終わりに追加で桃文元の「批判論文」が収められている。

「三か村」と言われた北京の三人の文筆家はその後失脚し死に追いやられた。

今読み返してみると
「批判論文」というものの拙劣に驚く。
終始一貫これ「難癖とねつ造」だけで出来ていると感じる。

学術論文としてなら到底通用しないだろう代物だ。
これが文化を看板にしながら最初から最後まで政治闘争だったことの証となっている。
政治論文がこれで良いという訳はない。

だが政治論文が政治的道具であることは紛れもないことだし
目標を批判することに機能があることも事実だ。
機能が優先され事実や真実が踏みにじられていても通用したのはなぜか。

論文外の権威の体系が作り出している文脈がそれを正当化していったからだ。


今回の中国の動きをあの頃と単純に重ねるわけにはいかないが
<政治的文脈>が貫徹するか
論争で決着がついてゆくか。

今の中国指導部の理論的政策的能力と組織運営の実力がここで見えてきそうだ。
党と政府と軍という体系の中で何が問題解決の決め手となっていくか、そこに着目して
経過を見つめることになろう。








2010年10月28日木曜日

夜道を帰る


          愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼、
          やかましいシンバル。 コリント書13:1


ぼくらは毎日大抵は
銅鑼やシンバルなのかもしれない。

自分ではやかましさに気が付かない。
わわしさに紛れている。

騒ぎながら楽しみにふけり、
虚しさを膨らませている。
それが何処ではじけているのか
知らないままだ。

風刺画そのものの我が人生を
秋風がはたはたはたと鳴らせて通る。

ぼくに一つだけ残っているもの。
この不思議なぬくもり。

これは
愛だろうか。
それとも
心惜しみ、執着の熾火なのか。

冷たい雨が履物を濡らす。
森が不意に投げた一瞥が撥ねて
眼鏡が曇る。

一夜で死んだ
たくさんの虫たちの骸。
穴の空いた栗の実。

無原罪のサンタマリアの膝の上で
息絶えたキリスト。
サンピエトロのピエタをみて
涙が止まらなかったあの頃
30歳の自分。

不信心者の信仰は
ただ愛だけ。

それなのに
曇り空の夕焼けのように
あっという間に
薄れて。

ぼくは途方に暮れて
起ち尽くす
森はずれの曲り道で。

濡れ靴が重い。
立ち止まって目を閉じて
見えない夜空を想い見る
万星渦巻くゴッホの糸杉の夜空を。

まだ道は
続いている
空までも。
ぼくは歩き続ける
小さなハートのままで。


*

2010年10月20日水曜日

無題  あるいは 66=33+33

熱帯夜に身を起こして

方形の薄闇 窓の方をみた


脇の下を伝う汗を感じながら

また目をとじると

大きな大きな夜空から

沈黙が下りてくる


何かが立ち去った

気配に

目を覚まし

それが何かを

言い当てるために

わたしはこうして 目をとじた


ことばでは言えず

足ではたどり着けない

場所へ

今さっき立ち去ったもの

それを

わたしは煙のように 追う



行かないでくれ!

と 叫んだ あの夜が

もういちど

深淵から漏れ出したように

あたりに広がってくる


みずの みずいろ

そらの そらいろ

彷徨うて 行くよ


と歌った

むかしのぼくの影が

駆け上った空

どこに

その透明な蝶は 舞うのか



泣くわたしのからだから

抜け出した百千の貴女のキスが

群舞する空は

どこ


裸足のくるぶしに

蛍ほどの灯り曳いて

亡者の貴女は

いまも居る

群星の映る水のそば


いつしか庭石に

腰を下ろして歌っている



33 たす 33

それは わたし


いちど死んで

同じだけ

もういちど生きた


立ち去ったのは

それは

わたし


残されたのは

ゼロ


66 たす ゼロ

ゼロになった

わたし



汗にまみれた

裸のこころ


生まれたばかりの

しろねずみ………




*


2010年10月15日金曜日

訃報が重なるものだ

この17日に歌人河野裕子を偲ぶ会が京都であることになっているが、
同日に葬儀があると知らせが入る。
弟の家で嫁の母が亡くなったのだ。そちらへ行くことになった。
そういうめぐり合わせと思うほかない。
いつか裕子さんのことを聞けることもあろう。

弟のところでは彼の義母さんは静かに逝かれたとのこと。
この厳しい夏に力を出し切って乗り越えたが燃え尽きるように亡くなった。
ほかにもそのように亡くなっていく人があることだろう。



河野裕子さんが亡くなった。
八月の十二日のことだった。

またひとつ、ぼくとこの世界を繋ぎ止めている糸が切れて
また一入ぼくの影は軽くなる。

 ――去年だったか一昨年だったか、
    正月の宮中歌会始めの詠進歌選者として顔を見せていたのを
    安堵と戸惑いをもって眺めたのを思い出す。

訃報を知って以来ずっと考え続けているのだ。
ひとに割り振られたいのちのふしぎを。

ひとりの死の乗り越えがたい大きさを
とぼとぼと孤独に越え振り向けば
もう三十年の歳月が風になって流れていた。

いままた裕子さん、貴女も死んで
ぼくの地球はまた少し小さく狭く軽くなったのだ。

ひとのブログには
11月号の文芸春秋に娘の紅さんが
最後の日々をも歌を作り続けた母との日々を綴っていると
書いている。

http://www.bunshun.jp/mag/bungeishunju/index.htm
月刊雑誌を読まないぼくでも書店の店頭で見かけるが
今月号は「医療の常識を疑え ―安心立命のための最新医学大辞典」
という特集であった。

その特集の中に

アガワのガハハで乗り切る更年期障害
阿川佐和子 間壁さよ子(神田第二クリニック院長)

逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅
とが
挟まって収められてるのだという。

なんということだ。



NHKの論説委員が放送で子規の命日を語り末期の目で写実を続けた子規の回天のことばを取り上げたあと河野裕子の最後の日々に読まれた歌にそれを踏まえた一首があることにふれていた。




http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/61911.html
悟るというのを平気で死ねることと思ってきたが
本当は悟るというのは平気で生きていくことができるということだと。

子規は偉いひとだ。

詩人というものはどうかすると
まるであの世があるみたいに向こう側からこちらを見てしまう。

あの世などあらざるゆゑにこの世には檜扇(ひあふぎ)水仙朱く咲くなり

ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく

貴女は万物と息を合わせ息づくひとだった。

逝ってしまったのだね。

貴女とぼくの共通の「もちもの」
死者の記憶。

里子さんが死んで二十五年、と添え書きして

死の後(のち)もつづく約束 女子大の坂の勾配がゆるく目に来る

約束はとても悲しい 私だけが守って果たしてそれからが無い

約束の時間のあらぬこの世には昼の陽が射し梅が咲きをり

約束を守って貴女は歌詠みの道を歩き通した。
そして逝った。

ぼくは貴女を悲しまない。
生ききった貴女は
みごとな生きている言葉の花園を残したのだから。

さようならも言わずに置こう。

京大病院への通院の帰りに立ち寄る
三月書房。

貴女も何度も立ち寄った書店で
貴女の六年前の歌集「庭」を買った。

それをゆっくりゆっくり、読んでいく。

貴女の中に生きていた かわのさとこや
貴女たちの青春からの

こだまを

歌集の中に探して
ぼくは さまようことにしよう。

夕日に肩を照らされて
暮れかかる奈良に帰り着いたことに気付く。

ぼくの地球はたしかに
すこしく軽くなりはした。

だが気づいたのだ。
ぼくの 思い出の世界は
以前より重くなったと。

2010年8月19日木曜日

裕子さんが逝った

 
裕子さんが逝った。

振り向けば喪ひしものばかりなり 茜おもたく空みたしゆく  /河野裕子