2010年10月15日金曜日




河野裕子さんが亡くなった。
八月の十二日のことだった。

またひとつ、ぼくとこの世界を繋ぎ止めている糸が切れて
また一入ぼくの影は軽くなる。

 ――去年だったか一昨年だったか、
    正月の宮中歌会始めの詠進歌選者として顔を見せていたのを
    安堵と戸惑いをもって眺めたのを思い出す。

訃報を知って以来ずっと考え続けているのだ。
ひとに割り振られたいのちのふしぎを。

ひとりの死の乗り越えがたい大きさを
とぼとぼと孤独に越え振り向けば
もう三十年の歳月が風になって流れていた。

いままた裕子さん、貴女も死んで
ぼくの地球はまた少し小さく狭く軽くなったのだ。

ひとのブログには
11月号の文芸春秋に娘の紅さんが
最後の日々をも歌を作り続けた母との日々を綴っていると
書いている。

http://www.bunshun.jp/mag/bungeishunju/index.htm
月刊雑誌を読まないぼくでも書店の店頭で見かけるが
今月号は「医療の常識を疑え ―安心立命のための最新医学大辞典」
という特集であった。

その特集の中に

アガワのガハハで乗り切る更年期障害
阿川佐和子 間壁さよ子(神田第二クリニック院長)

逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅
とが
挟まって収められてるのだという。

なんということだ。



NHKの論説委員が放送で子規の命日を語り末期の目で写実を続けた子規の回天のことばを取り上げたあと河野裕子の最後の日々に読まれた歌にそれを踏まえた一首があることにふれていた。




http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/61911.html
悟るというのを平気で死ねることと思ってきたが
本当は悟るというのは平気で生きていくことができるということだと。

子規は偉いひとだ。

詩人というものはどうかすると
まるであの世があるみたいに向こう側からこちらを見てしまう。

あの世などあらざるゆゑにこの世には檜扇(ひあふぎ)水仙朱く咲くなり

ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく

貴女は万物と息を合わせ息づくひとだった。

逝ってしまったのだね。

貴女とぼくの共通の「もちもの」
死者の記憶。

里子さんが死んで二十五年、と添え書きして

死の後(のち)もつづく約束 女子大の坂の勾配がゆるく目に来る

約束はとても悲しい 私だけが守って果たしてそれからが無い

約束の時間のあらぬこの世には昼の陽が射し梅が咲きをり

約束を守って貴女は歌詠みの道を歩き通した。
そして逝った。

ぼくは貴女を悲しまない。
生ききった貴女は
みごとな生きている言葉の花園を残したのだから。

さようならも言わずに置こう。

京大病院への通院の帰りに立ち寄る
三月書房。

貴女も何度も立ち寄った書店で
貴女の六年前の歌集「庭」を買った。

それをゆっくりゆっくり、読んでいく。

貴女の中に生きていた かわのさとこや
貴女たちの青春からの

こだまを

歌集の中に探して
ぼくは さまようことにしよう。

夕日に肩を照らされて
暮れかかる奈良に帰り着いたことに気付く。

ぼくの地球はたしかに
すこしく軽くなりはした。

だが気づいたのだ。
ぼくの 思い出の世界は
以前より重くなったと。

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