温家宝氏に向けて礫が飛んでいるように見えるが。
中国社会の発展する勢いの様々な矛盾にとんだ局面の一つだろうが
どうなっていくのか。
『燕山夜話』という本を古本屋で今日買った。
昔一度読んだ本だがすっかり忘れてこんな本だったかいな、という調子だった。
毎日新聞社の出したものだった。
当時は日本人にとって「読んでみたい本」だった。
『海瑞罷官』とこの『燕山夜話』とが「文革」(プロレタリア文化大革命)の口火だったからだ。
この本の終わりに追加で桃文元の「批判論文」が収められている。
「三か村」と言われた北京の三人の文筆家はその後失脚し死に追いやられた。
今読み返してみると
「批判論文」というものの拙劣に驚く。
終始一貫これ「難癖とねつ造」だけで出来ていると感じる。
学術論文としてなら到底通用しないだろう代物だ。
これが文化を看板にしながら最初から最後まで政治闘争だったことの証となっている。
政治論文がこれで良いという訳はない。
だが政治論文が政治的道具であることは紛れもないことだし
目標を批判することに機能があることも事実だ。
機能が優先され事実や真実が踏みにじられていても通用したのはなぜか。
論文外の権威の体系が作り出している文脈がそれを正当化していったからだ。
今回の中国の動きをあの頃と単純に重ねるわけにはいかないが
<政治的文脈>が貫徹するか
論争で決着がついてゆくか。
今の中国指導部の理論的政策的能力と組織運営の実力がここで見えてきそうだ。
党と政府と軍という体系の中で何が問題解決の決め手となっていくか、そこに着目して
経過を見つめることになろう。
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