2009年7月22日水曜日

石見銀山遺跡への旅 

三月の旅でした。
古い友人たちとともに山陰の谷間へ
日本史だけでなく世界の近世に大きな影響をもたらした銀山
石見銀山遺跡を訪れました。

早春の花と接待に篤い心根に出会った旅でした。

もう一度訪ねたいとの思いが残っています。

タイトルか下の画像をクリックするとスライドへジャンプします。

2009年1月27日火曜日

熱海から熱海桜の開花頼り。春立ちぬ…

我が村の梅の枝が花を開いてくれるのは何時だろう。
早朝の道で薄闇の中のしろいひと群れから香ってくるとき
胸が熱くなる。
夜も香る梅花の気高さ。
どんな孤独の内に閉ざされてもこの香りは
訪れてくれそう、
道真伝説もさもあらんと思う。


 ひとりごち夜更けの梅の薫りたつ   蛙逝 
 2004年02月27日(金)作

★小川蛙逝 おがわあせい★

筆者の句作などの雅号。小川は文人小川芋銭から蛙逝は俳人長谷川素逝に因んでつけた。いずれも幼少期の終わりに縁があった。文芸への愛着の芽生えに出逢った古人である。

自分や周りの物事が動くとき…

「いろんなことが少しずつ動き出してきたよう」
という実感を、たびたび感じられる時間。

皆さんもそういう経験があ りますか。
ぼくも同様の感じをもった時機がありました。

これは、『人生の開花』の指標じゃないかなと思ったりします。


 道元という人の正法眼蔵という本に『有時』という章があって、

 時間と人生(存在・人間存在・有)を語っていますが、

「有時に經歴の功あり。

 いはゆる今日より明日に經歴す、
 今日より昨日に經歴す、
 昨日より今日に經歴す。

 今日より今日に經歴す、
 明日より明日に經歴す。

 經歴はそれ時の功なるがゆゑに。」

 と言っています。

 難しいですが、

 時は一方方向に流れているように見えるが、
 人生は過去現在未来に分裂した物ではない、
 そう思える間は本当の人生になっていない、
 自分が本当に時間の主体になった幸せなときは、
 自分の一歩一歩が時間とともに開かれてゆくのだ、
 というように語っているように思います。

 今の実感が、未来を開いていく自分自体の力の充実を、
 示しているように思えています。

 自分の力で未来へと自分を開いていく、
 それをこそ真実の『自由』と呼ぶのではないか。

 『自由』へと生成する時間を生きる自らに祝福を!
   

2009年1月24日土曜日

ブログを再開

長く休んでしまっていたこのブログを
再開しよう。
参加しているSNSも偶にしか
訪れられていないが、
努めてキーボードに向かうことにする。
これは自分への促しとして書いておこう。

昨年末から自宅のPCやルーターの調子が悪く、手こずっていた。

こまめなデータバックアップをしないナマクラがたたり
不調のPCの大掃除がやっかいであっちこっちと手作業で
まだ調子が戻らない。フリーズに近いほど長く画面が止まる。

ルーターに至っては古い物だから仕方がないが
熱を持つと動作が変になる。しかし一番の原因は
ACアダプターが断線すれすれの状態だった。
繋がらなくなるのは電源落ちだったわけで、
別の電源に変えたらとたんに様子は良くなった。
これに気づくまでほぼ半月ぐずぐずした不調に
うっとうしい気分だった。気づいても己の不覚に
腹が立ち年齢相応以下の老化かと嫌になった。

年あけてから中国語を諦めるか継続か
ずいぶん考えたが
諦めが付かないので継続を決心。
せめて数百語くらいは覚えることを目指そう。
本当は会話より
易しいテキストを読めるようになりたい。
でもそのためにも会話からだ。

幸い耳には違和感があった中国語の音声が
最近は耳に衝かないようになった。
これだけでも進歩と思おう。
先の長いことだけど。

この一年漢文の読解力は進歩したと思う。
しかし文法知識などにかなり偏りがあるはずで
漢語語法を一度概括的に見直し
出来てないこと知らないことを補いたいと思う。
続日本紀は佳境に入った。
現在、奈良麻呂の変に差し掛かっている。
古代国家とは何かが見えてくるか?
自分の理解力が問われてくるのだが
講義中はついて行くので精一杯だ。
帰りはどっと疲れるが気分は悪くない。
自分が不調でも力をもらって帰れる。

今年一年ブログも書き続けられるよう
願っている。




2008年9月17日水曜日

京都の町を歩いてきました

 10日に京へ出かけました。
久しぶりに二人での遠出です。

植物園に開園時間ちょうどに着きましたが、駐車場のどこに止めるかでちょっと思案して時間を使いました。この日はよく晴れて、暑くなりそうだったので日陰になる場所を確保しました。

昼からの予定のうち一番楽しみなのは、画廊「ヒル・ゲート」の企画展。
それまで、まず植物園でゆっくり歩き、体をほぐすつもりです。
いま走れと言われたら、嫌だ。と言うでしょう。
この夏の消耗はまだどこかに残っている感じがある。
ゆっくりでいい。今日は散歩気分でうろつくのです。

温室の建物の中へ入っていく。(200円払う)














これは係りのひとが落ちたのを集めて水盤に入れて訪れた者に見てもらえるようにして通路の傍らに置いてあるものです。志が感じられる。これが此処の特質だ。気持ちが明るくなる。
ここはじっとりと汗ばんだけれど気持ちよく歩けた。

持ってきたカメラには通販で手に入れたばかりの中古品のマクロレンズを付けた。
杖代わりの一脚をネジ込んでカメラを固定し花を写してみた。
ぼくのよく震える腕も少しは固定されてくれたか、以前よりアップが上手く写せるみたいで嬉しくなった。














例によってGoogleのWebPicasaで
大きいサイズのスライドショウを見るには
URL: http://gataro.co.cc/shokubutuen.html を
クリックしてください。
















































































2008年8月6日水曜日

今日は8月6日 

1997年の8月の広島平和記念公園





去年の子供たちの平和宣言もあった。
8月だけではない内容だから
夏だけの思想にはしたくないものだが。






今日の広島2008平和記念式典のストリーミングもある。
時間帯限定で流れるらしい。
http://www.stickam.jp/profile/hiroshima2008
7:45~9:00の間がライブらしい。
保存された動画はいくつかに分割されているようだ。

2008年8月1日金曜日

思い出というには昏い記憶だけれど

もう三十年を越えてしまった
長い時間の向こうに君はいる
思いっきり童顔の娘顔のままで
こちらはあっという間に老いさらばえたが
君は相も変らぬくぐもった声で挨拶をよこすのか。
熱帯夜の続いたやり過ごしにくいこの季節に
どうしても君を呼び出してしまうぼくだ。

君の親友だった河野裕子に
どんなに冷たいまなざしで
ぼくは詰られたことか。

それは彼女にとって君が
友人以上の存在だったことを
示していたから、
返す言葉は何もなかったさ。

彼女の歌集を開くと
あのころの青春の色も形も
そこにある。

特にあのころ出したばかりの歌集
『森のように獣のやうに』には
君たちの匂いが立ち込めているみたいだ。
とりわけ次の作などに印象が深い。


逆立ちしておまへがおれを眺めてた
           たつた一度きりのあの夏のこと



真昼間のまばゆき闇の彼方より
            天打ち返し郭公鳴ける



いまだ暗き夏の真昼を耳閉ざし
            魚のごとくに漂ひゐたり



振り向けば喪ひしものばかりなり 
            茜おもたく空みたしゆく



横たはる獣のごとき地の熱に
            耳あててゐたり陽がおちるまで



あはれ常に鏡の裡よりのぞきゐる
            暗く澄みたるひとつの顔あり



森のやうに獣のやうにわれは生く
            群青の空耳研ぐばかり



命日を挟んで数日は
ぼくは眠れない夜を過ごすだろう
老いを自覚せざるを得ない身にも
夜明けまで
ただただ思うだけの時間もある
明けやすい季節だから
苦痛ではない
まして
かつて愛した者への問い…
いやいや、問うているのは
あちらなのだが


(次に置くのは 拙い詩だが 
 ぼくの夜の幻想みたいなものだ)




夢幻の球のなかで
      ―亡妻幻影―



どれほどの量で
愛していた
と言うのか

どんな仕方で
愛していた
と言うのか
君を

失ったあとでは
それは
もう不確かで
わらわらと崩れ
溶けてゆく
石鹸と同じ

悲しみより
大きい
喪失があり
道は
消えていた
そこから先には
君も
ぼくも
居ない
世界が見えた

八月の
大都市で
時間が
氷結した

愛なんぞ
最初っから
無かったんだ
ぼくは
幻覚から
覚めようと
自分を掻き毟り

不眠の赤錆を
ぼろぼろ
溢している
輪郭のない
影であった

後何分早く
着いていれば
救急車は
「間に合った」のか
何故あの時
あのことに
気付かなかったのか
とか思う

もしも もしも
ならば ならば ならば

自分を狙撃する
無数の弾丸に
自分から
身を投げても

流れない
夜の川が
果てしなく
夏の日々を
延びていただけ

あの八月

三十年過ぎても
今も
体の中に潜み
眠るぼくの夢を
囲み縁どる
夏の闇

輝きと
沈黙とは
いつでも
ふたつとも
君のもので

物食う音に
似た
ぼくの呻きと
乾き崩れた
悔恨の
歯ぎしりの
鉛色とは

紛れもなく
やはり
ぼくのものだ

いのちの季節
八月に
死と
永訣を
学んだ
ぼくと君とが

いまは
ひとつ
小さな球になり
転がって
映し出す
今夜の
このときの
沈黙と
輝く闇

深夜
やって来て
ぼくに
煙草を
吹きかけて
君が
笑うのだ

あのころの
童顔の残る
表情のままで

僕の背後で
ぱしゃりと
一匹の
アマゴが
跳ねた

君は口に
毟りとった
栢の実を
含んで
ふっ
と吐いた

夜明けまで
このまま

立ち昇るまま
煙のまま

球体のまま
ぼくらのままで

三十年の
隔たりのままで

来るはずのない
「二人の朝」まで

……

2008年7月30日水曜日

夏の気配のしていた頃

初夏の印象から
少し前にはもうじき夏だと
楽しみにしていたが
この暑さと異常な集中豪雨

すっかり
夏の季候の被害者の気分だが
季節の移ろいに咎はない。

picasaに上げておいた
初夏のスナップを見てみた。
まだ使いこなせていないが
あのころはもっと
よく分かっていないままで
試しにシャッター切っていたのが
よく分かる。

そしてそれでもと言うみたいに
そこにも季節は映り込んでいるのだった。











2008年7月26日土曜日

ちょっと旅気分。 リスボンへ…


暑いと気をそらしたくなる。
エアコンはコンセントから外してあり(スイッチを無意識に入れないように)
もはら扇風機をたまに回す。体を馴らし運転しているのだ。
まだまだ暑くなりそうだし。

涼しい体験の想い出をまさぐると、
かっと暑いマドリードから到着した
リスボンの街を吹いていた風。
気持ち良かったな。
気温が低いわけじゃないが
湿った海風だったのか、
気持ちがほっとした記憶。

ひと夜だけの滞在だったが、思い出にくっきり刻まれた旅。
だらだらと皆で登って行ったアルファマの街角。
誇り高さと貧しさと希望と悔恨が入り混じったような
深い深い目の色の年配の女が歌う
FADOの哀しい調べ。
へんな味のワイン。
小さな足の小さな靴。

サラザール独裁があっけなく崩壊したのは
完璧な計画どうりのクーデタと民衆の支持だった。

戒厳の兵士の銃口にひとつひとつ娘たちが差していった赤いバラ。
それを新聞は「薔薇の革命」と名付けた。1974年のこと。




それから3年、
次々独立する旧植民地から引き揚げる無一文の入植者たちで
失業者があふれ、民主化が作り出したのは貧困かと言われ始めていた。

広場はそうした人々が持ち物を売る違法な露店でいっぱいだった。
当時西ヨーロッパ一「戦闘的」といわれた共産党が新聞を売っている横で
ぼくは「アルプスの少女ハイジ」のポルトガル語版の絵本を買った。
(家族が読んだ古 本なのだ.)

ついでにその「戦闘的な新聞」も買った。
一面には米軍はベトナムから引き上げよ(と書いてあるらしい)
と見出しが躍っている。
当時はヨーロッ パではどこでも見られたスローガンだった。
やがて最大時60万人居た米兵は一人もベトナムからいなくなった。
翌年サイゴンが解放されたのは4月30日だっ た。

日本はベトナム景気で潤い海外旅行はどんどん行きやすくなり、
ぼくでも出かけられたのであるから、皮肉なことだが。

思い出せないのが
そのとき何を食べたのか
と言うこと。ぼくらしいわい。

で、ネットでリスボンをキーに
あちらこちら覗き見していて見つけたブログ。

「りすぼんうまいもの日記」
http://lisboeta.exblog.jp/

これは<みっけもん>
住んで働いているが故の
プラス
主婦の観察眼故の
面白さがある。

何食べたのか-追跡はどこへやら
読みふける。

文章が上手い。
ウイットやユーモアも利いている。
他者への想像力もある。
開高建ばりの文体に近づいている箇所もあるな。
美味なコラムみたいに読める。

マークして時々見に行こう。
このわたし本人はいま
淡白に素麺をすすっております(笑)

リスボンの夜景、夜風、物の匂い。
流れていく記憶の情景。
その流れていく感じ
ちょっと涼感に似てるかな。
風鈴みたいな。

これもひとつの削夏法。
じぶんでそよそよ。

  

2008年7月22日火曜日

暑さのなか堪えている-人も草木も虫も-


 
雷一つ屋根越しに蝶庭へ落つ  蛙逝
(らいひとつ やねごしにちょう にわへおつ   あせい)


<夏の日の良さと辛さと我に在りて、
 ふたつながらに我を捨て置く
 暑さのままに。>

羽虫が空中でいっぱい
飛びかってる。
雨が近いのか。

蜘蛛は中空に糸を飛ばし
住い替えの支度を試みる。

無心というなら
この風景こそ無心。

自分の内なる
扉が開いたので
風を入れる気で
家の窓も
開け放つ。

熱気と虫と草いきれが
部屋に入ってくる。

いのちの
おおきな流体が
流れ込む。

飛び込んできて
あわただしく出て行った
蝶を
目で追いながら

人間と言うものは
なんて孤独なんだろう

物言わず飛びまわる
虫たちのなんという
華やかな
賑わいだ

人は饒舌なだけ
孤独の影は
色濃いのだ
と思った。


雷が遠くで鳴った。
屋根から飛び降りるかのように
下ってきた蝶が稲妻に見えた。