2007年4月2日月曜日

想い出の中の風景たち

2007.04.02 02:46

   長谷川素逝さんは、大阪生まれで三重県育ち

   京大国文科をでて教鞭をとったのも三重県の津だった。

   将来を嘱望された人だったが、結核で早世した。

   40歳、昭和21年10月10日に亡くなった。

           

  木蓮の白い色が空間を埋めるように浮かんでいる

  鳥が飛び立ち翔けていく。

  揺れる枝がまるで光を放つようにみえる。白い眩めき。

            
           

  そのまま絵を見ているような句。

  湯上りの濡れた髪のままで夕日の差す戸外へ出てきた

  子供らのさんざめきの声。谷間は全て夕日に染まっている。

  ここは温泉の湧く山里なのだ。



  二つとも三重県で詠まれた句だ。

  自然への透徹した観察があり、落ち葉の句に優れたものが

  多かったので落ち葉の詩人と呼ぶひともいた。



  玉のごとき大秋日和賜りし  という一句を

  よく晴れた秋の日の朝に生まれた赤子に贈った。

  贈られた赤子がじつはぼくである。


  戦時下で物のない時代、造幣局の肝いりでの句会は

  膳にでるものが豊かだった。若い素逝さんも空腹を抱え

  句会に来ていたのだろうと思う。父とは仲のいい師と弟子

  だったと聞いている。


  中学生になり授業で俳句に触れ家の本箱にあった素逝さんの

  『砲車』という句集を開いたのが長じた赤子と素逝さんとの

  再会だった。既に故人となっておられたが。


  素逝さんがどのように俳句の指導をしたかを、その後

  父から聞く機会があり、それが今も俳句を読むときの

  価値観になっている気がする。ぼくは私的な孫弟子かな。

  これからも時々思い出してはこの方の俳句を読み返すだろう。

2007年3月31日土曜日

PICASAでスライド、YouTubeで公開、ブログに貼り付け

            



これはSlide.comのほうです。


 

Soba nudle

お蕎麦の記憶 2004年 大宰府の蕎麦屋さんで食べたときのスナップ

いいお蕎麦を食べたくなった。
Posted by Picasa

2007年3月29日木曜日

とうとうこの里にも桜の便りが

2007.03.29













 この里にも桜の花という春の便りがとどきました。― 嬉 ―
 
 咲いた桜のスライドショウ(2,3枚だけど…)

           


  それに昨日は見えなかったのに、村中で春の気配がたっている。

  鴬は嬉しそうに唄っているし、草は突然立ち上がったみたいに

  ローゼットからぴんと立った葉に変わっている。

  タンポポやスミレも身を真っ直ぐに空に向かって伸ばしている。

  灰色がかったさびしそうな空の色もなんだか薄れてきたみたいだ。

春の宵は柔らかですね

2007.03.29 13:21



 千金の価値というが、
 本当につくづく頷ける歳(年齢)になった。

 ぼくは与謝蕪村の春の句に好きなものが多い。

 一番ぴったり来る蕪村の解説(研究)は

  


 与謝蕪村の小さな世界

  著者の他の本

  蕪村の細やかな季節感に触れると
  成熟した江戸時代の町人文化の凄味さえ感じる。

 それに比べられたら困るけれど、

         

 所用で妻が実家へ去んだ夕べ、

 手持ち無沙汰で台所で手酌で呑む厨酒も

 春の宵に似合う気がします。

 

朝霧の中をでかけた

2007.03.28 23:20








朝7時、辺りは深い霧に包まれて濡れていた。

自分だけが浮遊して白い空間を流されている気分。

鴬がさかんに鳴いて、まるで桃源郷への細路を辿る

樵のような陶然とした心地だ。




今朝は母の通院の日。マイカー出勤の車の群れに遭遇。

遅刻しそうであせり、桃源郷の気分もどこへやら。


                

    「これ何?」

    「前に作ったんよ、帯の古きれやったかな…」
    「桜のころやからな…」

           

    「これもかいな… イソギンチャク見たいやけど…(笑)」

    「…」「決め込み人形習う前にな、習うていたんや」

    母は多くの趣味をチョットだけ齧るのだ。

    深入りしない。ただ踊りだけは続いている。
    よほど好きなんだろうな。
    八十過ぎて藤娘やったんだったものな…(汗)

    その昔からの元気さが戻ってきたようでうれしい。
    検査値もみな正常値だ。範囲内に収まった。
    脚が腫れ気味だが腎臓は正常に機能してる。
    クレアチニンが普通値だ。有り難いことだ。
    (頭髪も少し伸びて本人はとっても嬉しいのだ)

           

    母を残して八尾へ走った。
    朝の霧の光景を思い出して、帰宅の路は
    久しぶりに生駒山を越えることにしようときめた。
    道から桜やエニシダやゆきやなぎが見られるだろう。
    お目当ては、辛夷と白木蓮だ。

           

     


    思い通りいっぱい花が見られた。
    母のこと、花咲く山道。光は輝かなくても
    偏在するものだ。今日は身の内が感謝と言う光に
    充たされた一日だった。






























































 
    ありがとう、ありがとう。
    そう黙語しながら走り続けた。


       

花の写真をスライドに。  Slideというサイト。




        








2007年3月28日水曜日

MySpaceのミュージックVIDEOを貼り付けてみる


tamurapan:「お前ぶただな〜送らぬ手紙〜」PV





何もかも一人でやっているらしい、
田村さんという
シンガーソングライターのこれから出るアルバムの
収録されている歌だそうです。
ちょっと 気に入りました。
MySpaceでの最初の私のFriendになりました。
ありがとう。

HP:http://www12.plala.or.jp/vitality/tamurapan/

回転木馬



最良の半分…か

2007.03.28 01:13

 出あったのは、最初は1963年か… 途方もない時間だな。
 
 いまではそこはもう、霞んで青みがかった空気の中に沈んでいる。

          

 同じ学校に学ぶことになった同学年。

 同じ大阪から来ていたこと。

 それだけのことだった。まさか十数年後に、共に暮らすとは。

 ……

 それが今では、…なんだろう?

 背中みたいなものだ。 良く見えないのに、リアルに存在して

 普段は意識などしないが、痒かったりすると、俄然意識する。

 まぁそんな存在。

 それを世間では、ベターハーフ、最良の半分、 なんて云う。



 背中のない腹、 なんて無いから、 まことに真理。

 皴のより始めた腹にしてみれば、

 なぁ、背中よ、背の君よ。長旅もあと少し。

 今しばらくは、我慢しあって行こうよ。

 前方の穴だか出口だか解らぬものに行き着くまでは

 お互い倒れぬよう支えあうより仕方あるまい。



 なぁ背の君よ。人生と言う惨劇への
 
 怖れも哀しみも もう

 やっと尽きてしまったようだね。


 

2007年3月27日火曜日

韓流ブームの基盤-珍説を一つ

2006.11.06 23:22
キムチ鍋の季節がやってきた。鍋物は好きな人も多い。なにより昔から鍋物は「鍋を囲む」という言い方に現れているように、団欒のイメージだからだ。一人で夕餉に鍋物をこしらえても、立ち昇る湯気の向こうに、人はそこにいない親しい人を、面影に見ている…そんな風に思える。
 秋冬の夕餉の定番。キムチ鍋は辛いけれど美味いし体はぽかぽかするし、一時流行にまでなり、いまでは日本の鍋物の一つとして定着している。


在日コリアンの多い大阪、しかも鶴橋に近い土地で育ったぼくには深い感慨がある。貧困と差別にまみれながらも元気に育っていった幼い友らは、近づくとキムチの匂いがしたのだ。
 それがまた差別の種でもあったから、キムチ鍋が日本人のポピュラーな鍋料理の地位をもつ日など想像を絶することであった。

今日本人の消費する漬け物でキムチが一番多いと言う事実はぼくを驚かせる。多くの人も「え、そうなの」と思うに違いない。キムチがここまで日本人の味覚に馴染むようになったのはなぜだろうか。

高校生の頃、自宅へ仲良しだった在日の友人からもらったキムチを持って帰り、夕食に食べると「もう、匂いきついよ」と家族に言われ、翌朝冷蔵庫を開けると消えている。暫くしてまた貰う。美味しかった、と言ったからだ。(実際、キムチの古漬けは家庭の味が染みた絶品)冷蔵庫の品に匂いが移るから駄目、と入れて貰えなかった。関西人はもともと納豆でもくさいからと食べない人が多い。
それなのに、漬け物消費のトップがキムチとは。

ぼくは日本人の肉消費がキムチ普及の原動力と思う。
もともと騎馬民族系統の文化がある朝鮮半島だ。焼き肉にキムチが合うのは自然だ。焼き肉の味を覚えるとき一緒にキムチの味にも馴染んでいったのだろう。すぐき等の漬け物をもち熟れ寿司ももつ国民がキムチを美味いと感じるのは自然だ。こうしてキムチは今では大量消費されているし、体に良いという知識もあいまって人気は衰えない。

突然巻き起こったかのような韓流ブームも、根っこはキムチ・焼き肉・韓国料理に接して親しんだ基盤が出来ていたから、というのは穿ちすぎであろうか。

韓流ブームは去るかも知れない。でも韓国文化への関心は消えることはないだろう、というのがぼくの観測だ。
同じ釜のメシを喰った仲というレベルでの珍説ではあるが。

いまの若い世代が感性のレベルでぼくらをとっくに越えて進んでいるのを感じるとき鼓舞され感情が高ぶってくる。

仕事場のある八尾市にキムチ屋さんがあって、夏場は水キムチ(ムルキムチという)が並ぶ日がある。日保ちがしないので毎日は置いていない。あれば買ってきて水キムチ味の韓国風冷麺を作り楽しむ。
暑気払いには最高の涼しい味だ。そんなときは、食べながら幼い友を想い出す。オモニの手作りキムチを運んでくれた友は今どうしているかと。


--今夜も宵から寝言、Zzzz…