2006.10.24 22:03
私は経済にとても疎いのですが、
貧困に喘ぐ諸国の発展にどんな仕組みが必要なんだろう?
と、いつも思っていましたので、
アメリカの研究者(女性)の書いた、(かなり分厚かった)
グラミン銀行の研究レポートを読んだことがあります。
あまり理解出来なかったのですが、
そのルールや実績には強い印象を与えられ、すこし興奮した記憶があります。
日本の頼母子講や信用金庫に似ているところもあります。
とりわけ、
地域で生きがんばる女性達への信頼と
国の未来への強い希望が胸を打ちました。
このような方法がどれだけ貧困克服に実際に役立っているのか、
天災や戦争やグローバル化が成果を一呑みにして台無しにしないか…
確信はありませんが、希望ではあります。
世界に広がり始めたグラミン銀行型や他のタイプのマイクロファイナンスが、
私たちのような名も無い市民の無数の預金にリンク出来れば、
素敵なことが起こるのじゃないかな。
経済音痴としてはそんなことを考えたりもします。
現実のグローバル資本主義の厳しさを知らないだけかもしれませんが…
2007年3月27日火曜日
カザニエ ( casanier? ) が好き
カザニエ、(あるいはカザニエーか?)という,フランス語らしき単語が純正の仏語かどうかは、知らない。確か堀田善衛氏の本で出会った言葉のように思うが、心に掛かって忘れられない言葉。
家居(カザニエ)。
自分がぼんやりと感じていたものを言い当てたことばだった。
「ひきこもり」ということが言われ始めるずっと前のことだった。
いまでは閉じこもる若者は「ヒキコモリ」と書くのかも知れないが。
本当は引き籠もるとは、そうネガティブとは限らない行為、
ではないかとも思うのだが。
カザニエとは「家居」とか「隠居」と訳せるのだろうが、
これらの日本語には特有の癖がありもうひとつ腑に落ちない。
給料で暮らすのが普通の社会では、暇人、失業者、道楽など、
ロクデナシのイメージに繋がっているようだ。
括弧つきにして、家居(カザニエ)と書くと、
なにか新しいライフスタイルみたいに見える。
都会でも田舎でも、家居(カザニエ)の好さは、
自分のペースで暮らすという事に尽きよう。
だれにも気兼ねなく家で静かに暮らすことを、
家居(カザニエ)とぼくは一人でそう決めて使っている。
そういう目で眺めると、カザニエであるひとは、
まわりにもいるものだ。
うらやむべき暮らしをしているかに見えるひとたち。
世間から距離をとって、その限りでは「ひきこもり」して、
自分の暮らしをもう一度自分の手に取り戻した人たちだ。
問題はその「隠居暮らし」が、言葉どおりで、
自己完結した遊興や趣味三昧で終わるのかどうかだ。
確かに、趣味悠々…も悪くはない。
でも、それは自分の世界ではないように思う。
自分は世界の一部分であることから逃れようがない、
……静かに暮らしたいし、それを願うが、
世界に餓えで苦しむ子供がいても
我が暮らしのみ見つめて 充実した人生と、
納得できるほどぼくの視野は狭くないみたいだ…
でも、何が出来るというのか。
そう思いながらも、 時だけが過ぎる日々であるのだけれど。
一人居して静かであることは、
自分を越えることにも顔を向けるためには、
必要な条件であるのだ。
家居(カザニエ)でおれる時を願うのは、
自分にそれが要るからだ。
…自分らしい自分を、いつも維持したいのだ。
モンテーニュのように自分を種に人間を省察するより
ネットで繋がり、自立した思考を確保しながら
人間一般でない、生身の人類の一人、であることを実感したい。
そう思う。
気力や静謐は田園の暮らしで養いながら、
参加者であり、俯瞰的観察者でもありたい。
森陰の一軒家からネットに向けて綴るこの日記も
その世界に開いた窓のつもりで続けている。
家居(カザニエ)。
自分がぼんやりと感じていたものを言い当てたことばだった。
「ひきこもり」ということが言われ始めるずっと前のことだった。
いまでは閉じこもる若者は「ヒキコモリ」と書くのかも知れないが。
本当は引き籠もるとは、そうネガティブとは限らない行為、
ではないかとも思うのだが。
カザニエとは「家居」とか「隠居」と訳せるのだろうが、
これらの日本語には特有の癖がありもうひとつ腑に落ちない。
給料で暮らすのが普通の社会では、暇人、失業者、道楽など、
ロクデナシのイメージに繋がっているようだ。
括弧つきにして、家居(カザニエ)と書くと、
なにか新しいライフスタイルみたいに見える。
都会でも田舎でも、家居(カザニエ)の好さは、
自分のペースで暮らすという事に尽きよう。
だれにも気兼ねなく家で静かに暮らすことを、
家居(カザニエ)とぼくは一人でそう決めて使っている。
そういう目で眺めると、カザニエであるひとは、
まわりにもいるものだ。
うらやむべき暮らしをしているかに見えるひとたち。
世間から距離をとって、その限りでは「ひきこもり」して、
自分の暮らしをもう一度自分の手に取り戻した人たちだ。
問題はその「隠居暮らし」が、言葉どおりで、
自己完結した遊興や趣味三昧で終わるのかどうかだ。
確かに、趣味悠々…も悪くはない。
でも、それは自分の世界ではないように思う。
自分は世界の一部分であることから逃れようがない、
……静かに暮らしたいし、それを願うが、
世界に餓えで苦しむ子供がいても
我が暮らしのみ見つめて 充実した人生と、
納得できるほどぼくの視野は狭くないみたいだ…
でも、何が出来るというのか。
そう思いながらも、 時だけが過ぎる日々であるのだけれど。
一人居して静かであることは、
自分を越えることにも顔を向けるためには、
必要な条件であるのだ。
家居(カザニエ)でおれる時を願うのは、
自分にそれが要るからだ。
…自分らしい自分を、いつも維持したいのだ。
モンテーニュのように自分を種に人間を省察するより
ネットで繋がり、自立した思考を確保しながら
人間一般でない、生身の人類の一人、であることを実感したい。
そう思う。
気力や静謐は田園の暮らしで養いながら、
参加者であり、俯瞰的観察者でもありたい。
森陰の一軒家からネットに向けて綴るこの日記も
その世界に開いた窓のつもりで続けている。
ミラノ 『三つの都市』より
2006.11.26 00:35
ミラノ
石と霧のあいだで、ぼくは
休暇を楽しむ。大聖堂の
広場に来てほっとする。星の
かわりに
夜ごと、ことばに灯がともる。
生きることほど、
人生の疲れを癒してくれるものは、ない。
訳:須賀敦子
『ウンベルト・サバ詩集』みすず書房
ウンベルト・サバの詩集をベッドサイドに置き、気が向くと読んでいる。
というより、サバの詩の日本語訳を通して今は亡き須賀敦子さんの文章を読んでいる、
たぶんそうだ。
『コルシア書店の仲間たち』という一冊が、ぼくに稀有な文体に出会う
幸運を授けてくれたのだった。
あまりに短い作家人生だった。
普通の生活者である眼差しがそのまま深い人生への
啓示的洞察になっているような文章。
いや。もっと普通にフツーなひとの文章なのに、
読んでいるうちになんだか大変静かで不動の場所へ導かれていく、
そんな文体だった。
いっぺんで好きになった。
こんなことは過去一度だけしかない。
その一度も文章に対してではなかった。
そのひとも詩人で、あっという間に生涯を終えたが。
本をゆっくり読む。落ち着いて、物として本を手でしっかり持って、
読む。お茶を飲んだり、鼻を掻いたりしながら、
生きている実感を触りながら本を読む、
それが喜びなんだと、思い出させてくれたひと。須賀敦子さん。
大作家には数えられないであろうひと。
でも、この詩人が言うように、
人生そのものほどに生きる疲れを癒してくれるものは、ほかにない。
須賀敦子さんはそのようなことばで、本を書いたのだ。
ウンベルト・サバ詩集
ウンベルト・サバ詩集
Amazaoの書評: ウンベルト・サバはイタリアを代表する詩人であるが、その名前や作品は広く一般には知られていない気がする。
サバの生まれはイタリア東北部のトリエステという港町。昔の繁栄やオーストリア支配下の頃の栄華は既になく、本文の中のトリエステの街は、何処となく寂しい感じがぬぐえない。サバの詩もそれに添うように何処となく寂しさを感じさせるが、決して陰鬱ではなく、愛する人を謳ったもの、トリエステの街並みを謳ったものとさまざま。強風の吹くトリエステの街を、そこに暮らす人々を、サバの心象が言葉となって、美しく時にせつなく、たんたんと謳われてゆく。
須賀敦子さんの訳もまた、この作品のよさを一層引き立たせている。
拾い読みをしたり、何度も読み返したくなる詩集です。
2006.11.26 00:35
ミラノ
石と霧のあいだで、ぼくは
休暇を楽しむ。大聖堂の
広場に来てほっとする。星の
かわりに
夜ごと、ことばに灯がともる。
生きることほど、
人生の疲れを癒してくれるものは、ない。
訳:須賀敦子
『ウンベルト・サバ詩集』みすず書房
ウンベルト・サバの詩集をベッドサイドに置き、気が向くと読んでいる。
というより、サバの詩の日本語訳を通して今は亡き須賀敦子さんの文章を読んでいる、
たぶんそうだ。
『コルシア書店の仲間たち』という一冊が、ぼくに稀有な文体に出会う
幸運を授けてくれたのだった。
あまりに短い作家人生だった。
普通の生活者である眼差しがそのまま深い人生への
啓示的洞察になっているような文章。
いや。もっと普通にフツーなひとの文章なのに、
読んでいるうちになんだか大変静かで不動の場所へ導かれていく、
そんな文体だった。
いっぺんで好きになった。
こんなことは過去一度だけしかない。
その一度も文章に対してではなかった。
そのひとも詩人で、あっという間に生涯を終えたが。
本をゆっくり読む。落ち着いて、物として本を手でしっかり持って、
読む。お茶を飲んだり、鼻を掻いたりしながら、
生きている実感を触りながら本を読む、
それが喜びなんだと、思い出させてくれたひと。須賀敦子さん。
大作家には数えられないであろうひと。
でも、この詩人が言うように、
人生そのものほどに生きる疲れを癒してくれるものは、ほかにない。
須賀敦子さんはそのようなことばで、本を書いたのだ。
ウンベルト・サバ詩集
ウンベルト・サバ詩集
Amazaoの書評: ウンベルト・サバはイタリアを代表する詩人であるが、その名前や作品は広く一般には知られていない気がする。
サバの生まれはイタリア東北部のトリエステという港町。昔の繁栄やオーストリア支配下の頃の栄華は既になく、本文の中のトリエステの街は、何処となく寂しい感じがぬぐえない。サバの詩もそれに添うように何処となく寂しさを感じさせるが、決して陰鬱ではなく、愛する人を謳ったもの、トリエステの街並みを謳ったものとさまざま。強風の吹くトリエステの街を、そこに暮らす人々を、サバの心象が言葉となって、美しく時にせつなく、たんたんと謳われてゆく。
須賀敦子さんの訳もまた、この作品のよさを一層引き立たせている。
拾い読みをしたり、何度も読み返したくなる詩集です。
2007年3月20日火曜日
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