2008年4月17日木曜日

佛隆寺の桜を見てきました



 吉野の桜を見に走り出したのが平日なのに車の列、列 。

 で橋の手前で左へ折れ突き当たりを右折。
 あれ、比曾寺! 
 前日水野先生が神仏習合時代の寺院の話から廃仏毀釈の話になって
 触れられた寺じゃないか。名前が比曾寺(桧蘇寺とも)と変わった名だったので 覚えていたが此処にあったのか。

 後藤又兵衛の旧宅跡とかいう場所にある又兵衛桜を見てから佛隆寺へ行った。
 この日まで名前は知らなかった。 というか桜狩りの風情を楽しむ習慣がないので有名な桜は知らないのだ(><;)

 山寺でしたが、とても気に入りました。
 桜もですが、山の中腹に鎮まっている古寺の様子に好感が湧いたのだった。
 神仏習合の真言密教系で白岩神社という社が傍にある。その鳥居前に 巨木の切り株があった。終に力尽きた樹を危険なため切り倒したものだろう。 これほどの樹を好んで切るはずはない。惜しい事をしたものだ。

 山門を入ろうとすると赤外線センサーでピロロローンと鳴った。
 山門を入るのに100円入れるよう促されたのだ。
 ミスマッチが可笑しい。

 境内に石碑があり「大和茶発祥伝承地」と刻んである。
 標高はどれくらいか。200メートル以上はあるだろう。
 茶畑にはいい立地ではある。通風もよさそうだ。
 
 この写真スライドは今日初めて知って登録した「フォト蔵」というサイト。
 スライドの写真の右上肩のボックスをクリックするとそのサイトへ飛ぶ。 そこで写真をクリックすると拡大表示も見られ、大中小のサイズでダウンロードもできる。

 1ギガの容量が無料で使えるのは便利だ。友人とのデジカメ写真のやり取りの経由場所にもなるだろう。メールでは少し辛い容量のデータなんだから。 ひとまとめにして一度でアップロードできたのは便利で使いやすさに感心した。
 youtubeなどとはまた一味違うな。

 とりあえず佛隆寺の写真だけアップ。
 又兵衛桜はまた後で。

 

2008年4月11日金曜日

雨天に書を繙き校(かむがへ)る




天平時代の出来事を知ったり覚えても得になるものはない。
昔も今も変わらず争いごとが多いな、とか分かる程度(笑)
しょうもない事と言われても仕方ない。
だが人々は古代史の講演会とか現地見学会とかに
わんさと押しかけている。
いや揶揄してるのではなく、
そのエネルギーの出所がいぶかしいのだ。
何故なんだろう。

歴史はロマンだって言う人が多いけれど、はたしてそうか?
ロマンって言葉の使い方がへんじゃないか。

「単独飛行」氏はロマンは休息であるが時には中毒であると言っている。
ロマンについてのぼくの定義とは異なるが
ロマンを言う人の心情を言い当てている気もする。

脱出と憧れが衝動になり、ついには中毒に至る。
それも情熱のかたちだから、とやかくは言えない。

でも五月蠅いのだけは勘弁してほしい。
講演などはおとなしく聴こうや、
と言いたい。



巻十四。天平十三年。
夏四月辛丑。遣従四位上巨勢朝臣奈弖麻呂従四位下藤原朝臣仲麻呂従五位下民忌寸大楫外従五位下陽候史眞身等撿挍河内与攝津相爭河堤所。

五月乙卯。天皇幸河南観挍獵。

夏、四月辛丑(かのとうし)。従四位上ノ巨勢朝臣(こせのあそん)奈弖麻呂(なてまろ)、従四位下ノ藤原朝臣仲麻呂(なかまろ)、従五位下ノ民忌寸(たみのいみき)大楫(おおかじ)、外従五位下ノ陽候史(やこのふひと)眞身(まみ)等ヲ遣リテ、河内ト攝津ノ河堤(かわのつつみ)ヲ相ヒ爭フ所ヲ撿挍(しらべただ)セシム。

五月乙卯(きのとう)。天皇河南ニ幸シテ挍獵ヲ観(みそなは)ス。

天平十三年は九年の疫病の大流行、恭仁京遷都の計画の進行、広嗣の乱、その最中の天皇の長期行幸など、波乱に富んだ出来事の後、比較的穏やかに新都造営が進んでいるように見える日々だ。

先生が居て即いて読んで行けるのはありがたいことだ。
例えば、
通常は続日本紀は年始めの朝儀の記事は記さないのだ。通例が通例通りでなかったら廃朝と記すのだ。書いてなければ元日の朝儀は行われている。といった指摘。普通の歴史の本には書いてないと思うこういう指摘を随所で入れてくださる。
ものすごく大事な贈り物をもらっている気がして幸せになる。
そして自分の知恵にそれが成っていくように希望がわく。

旧暦の夏四月の廿二日(この年の四月辛丑)といえば
まもなく梅雨の長雨が降り始めるころか。
摂津職と河内国守が対立しているのを収めたという記事だ。
梅雨前に決着させたという事か。
河堤の争いとあるのは何だろうか。単なる土地の境界の争いではないと思うが、どうか。
帰属は則ち責任の所在だから、堤防の補修の責任がどちらにあるかを争っていたのではないか。
決壊を恐れる住民が騒ぎ補修の必要が明らかになったが
摂津か河内かの帰属で揉めたのではないだろうか。

摂津と河内の境界を流れる川といえば淀川か大和川だ。
その堤の帰属と補修責任を国界を明らかにして決着する仕事が
この日終わったのだ。

これをこの日4人が出かけて現地視察し裁定して帰ってきたと
解釈しては大間違い(なのだそう)だ。

続日本紀の記事は文書資料を基にして編集して書かれている。
この記事の元になった文書の日付が辛丑(廿二日)なのだ。
だから何もかも済んで文書に4人の署名が入って提出された紙に
天平十三年五月辛丑とあった。(ひょっとすると五月廿二日とあったかも。もう何年かすると五月廿二日辛丑と書くようになるらしい)
4人名前があるが、実際に現地へ出かけたのは後の二人。民忌寸と陽候史だろう。二人の姓からして渡来系の官人だろう。民忌寸も陽候史も田籍と田丁を管理するなど記録や計数に明るい官僚たちだ。

川の堤の帰属や境界を記録したものが当時の政府や国郡官衙に保管されていたかどうかは、知らない。何で裁定したのだろう。住民の古老の記憶を尋ねたりはしなかったか。

また上司二人は藤原仲麻呂と巨勢奈弖麻呂だ。仲麻呂は将来反乱者となる運命にあるがこのときは少壮官人として颯爽と仕事に腕をふるっていたことだろう。

五月には聖武天皇が河南に行幸して猟を観覧している。

これは我が家に間近い場所についての記事だ。
川とは今の木津川。昔の泉川のこと。今も川岸から近くに泉川中学校があるのはその追憶からだ。
北岸の宮殿(まだ未完だった)から出て川を渉り

挍獵を観た。挍獵とは矢来様の囲いを仕掛けて、其処へ勢子が獲物の獣を追い込むやり方の猟である。

この短い記事から立ち上がってくる情景がある。

当時は新都造営の槌音高い日々。
川の南岸に街区を切るため切り開かれた広い空間が出来ていて
まだ建物は建っていない。

そこに杭を打ち細柱を立て囲いを作って猟場としたのだろう。

小高い丘か仮作りの台の上から天皇は観たのだ。
観には見下ろすという意味があるから、そう読んで良いだろう。

この記事の少し前に実は日本初の「生類憐れみ」の詔が出されている。馬牛を殺してはならないとし違反への罰則も厳しく定めた。
それなのにここでは猟がされ、天皇が出御してそれを観ているのは矛盾のようだが、家畜は人間のために働いているのに殺したり食べたりしてはならないというのであり、野生の鳥獣虫魚はそうではないとされていたらしい。

それと造都に関わる祭儀としての猟という面も考慮した方が良いのかもしれない。地主神への鎮めと祈願はどうであったのだろうか。


加茂町の田園風景の向こうにうっすら霞んで記事の情景が見えてきそうな気がする。それは根拠のない空想なんだけれど。

自分の立っているあたりを
佐保へ帰って行く家持も通っていったかと
思ってみたりする。

単調な実務的記事や記録の集まりの続日本紀が
読みようで活き活きと動き出す。

それを案内してくださる先生がいること。
ありがたい、本心からそう思う。

まだリタイア出来ない身の上だから
何時脱落するか分からない。仕事がどう動くかで決まるもの。
でもこれから長いつきあいの本に六国史が成りそうな予感がある。
ツレアイは笑って見ている。様子模様眺めらしい。
挫折を予見しているのかもしれない。

書いてみて何が楽しいのか自分でもよく分かってきた。
この楽しさを大事にしていこう。
 

2008年4月10日木曜日

甲乙丙丁

甲乙。丙丁。戊己。庚辛。壬癸。
ふう~。やっと書けるようになった~。

読むほうもできるようになりましょう。

きのえ(甲)きのと(乙)… みずのえ(壬)みずのと(癸)

癸午(みずのと・うま)というように読めるなら合格。
60種類あるのだから丸暗記はちょっときつい(笑)。
子丑寅…は書けるはずだったが(><;)
最後の猪を失念…出てこない(><;)  亥だった。
やれやれ。

連日こんな具合でブログのマイページにくるまでに自滅。
疲れて寝る毎日。ロートルは奮戦しながら消えてゆくか?

でもネットを使いながらの自学自修はドキドキすることがあって
楽しいですね。
大伴家持の署名が残っているのを写真で見ることができるなんて
ネットの凄さを実感します。



奈良時代の「太政官符」は数通しか残っていないが、
そのうちの2通だったか3通だったかが大伴家持の署名のもの、
というのも面白い。
これは律令制が壊れていって式部省の文書などが神祇官の家だった
卜部(吉田)家に私有されたことが幸いして保存され残存できたわけだ。
が、その中でも式部省にいた家持の署名があるものが大事にされたのかもしれない。
万葉集の歌人としての名がそうさせたのかどうか。

上の写真の大伴宿祢という字は他の書記役の役人の手で
家持という署名がご本人の手です。

モニターに拡大で見ていると横からツレアイが
「クセのありそうな人やね。だれ?」って、おい家持じゃないかぁ。
「いや、どういう人がらかって意味よ」
ぼく「……」(そんなことわかるものか。俄か歴史マニアのぼくに <笑>)

でも真筆は感動だな、いつも。
前にもMIHO美術館で明恵上人の筆跡を見た時も心動いた。
字がへたくそな自分らしい憬れもあるのだけれど。
筆で書かれた文字はたくさんの物思いを喚起する。


そのうちに、そのうちに、つれあいに
「コレハネ、ソモソモ…」なんどと蘊蓄を垂れる日がくる
かどうかはワカランけれど、
日暮れて道猶遠しされどこの道を歩む遅々として進まざれども
楽しみは必ず至れり…と信じて進もう。


[余談]
このごろは教えるものも教えられるものもネット活用らしく
ゼミの後先を先生とブログで質疑応答しているのもある。

「人と環境」を歴史学に組み入れて研究していくという
ユニークな研究者北條勝貴さんの試み。

来るべき書物

学生の質問が面白くて全部読んじゃった(^^)
この頃の学生って先生に
占いの仕方まで聞くのかい?とか。面白いですよ。
ためにもなったです。

 

2008年3月17日月曜日

後期高齢者医療制度の中止・撤回求める

2008.03.17 00:28
 さすが日本共産党の議員だ。小池氏は肝心な点をついて質問を通じて後記高齢者医療制度の本当の狙いを浮き彫りにしている。

問題は医療費を節約するために75歳以上の人間を
差別医療へ囲い込むことだ。

これが4月から実施されるのに知らない人がいっぱいいる。

年金と言い国保と言い政府のやっていることは許しがたい。
あれこれ言うまでもない。

関心のある人はこの国会のビデオを見て考えてほしい。

「改革」路線が何であるかをこういう事例を通して国民が理解し

反撃に出る日は来るのだろうか?

来させ4なければならない。

使い捨てられてたまるか!
 
人間だもの。年取っても人間だもの。








 



     



      

2008年2月6日水曜日

美ら海の島キューバ  Cuba  Si! 


南海、南国、トロピカル…
むかし、Cuba Si! Nixon No! とガーファンクルが歌っていたが
こんなCuba Si!も あるのだね。

ナツメロ風のキューバ観光案内にも見えるけど。
ちょっと癒されました。
甘苦い濃いカリビアン・コーヒーとサルサと笑顔と有機農業の国キューバへ。
行って見たいなと、思う。

チェ・ゲバラの精悍な記念碑の彫像がちらと見えた。
紛れも無く現代の現実のキューバなのだった。

Turismo para vivir  いのちへの旅と
Cultura para sentir  異文化への感動を

そんな感じのコピーかな、最後は。

2008年1月23日水曜日

チェーザレ。 駆け抜けていけ、時の疾風に吹かれながら…


← イサベラ・デステ

今日は新しい府条例に基づく食品等の自主回収報告義務についての説明会の案内が来ていたので、隣の藤井寺市まで出かけた。
大ホールに50人ばかり参加者が集った。
説明は府の若い女性の幹部がパワーポイントを使いこなして一人で画面を使って行った。(美人だな、と周りで言っていた)。
内容は良く解ったし質問をして余計腑に落ちた。勉強になったし、府の取り組みの姿勢に好感が持てた。陰で保険所や府の担当部局は苦労しているのだろうな。なにしろO-157以来ずーっと色々続いてるから。今は「吉兆」など目白押しにあるからね。ご苦労様と言いたい。

終わってから書店に回り、仕事関係の資料になるものをあさってから、コンピュータ関係の棚へ近寄ってふと右手を見るとコミックの棚で…

ん?「チェーザレ」……あのチェーザレ?
ボルジア家の悪名高きチェーザレがコミックに?

然り!なんとぉ~ホントだ。へ~面白そう!

買ってしまった4巻一度に。へへへ。楽しみぃ~

でも
惣領冬実…シラン、全く知らん。
でも絵はいけてるやんか。




チェーザレ 1―破壊の創造者 (1) (KCデラックス)チェーザレ 1―破壊の創造者 (1) (KCデラックス)

近代政治学の発端になったと言われるのが
誰でも知っているほど有名な本
「君主論」
韓非子と並んで有名な?マキァベッルリの書いた本
「君主論」
そのモデルと言われるのが枢機卿チェーザレ・ボルジア。

ぼくなどチェーザレ=毒殺と陰謀みたいなイメージだが
近代的な権力の創出や統一国家を意識的に目指した最初の政治家でもあった。だからこそ、マキァベッルリは彼をモデルに著述をしたと言われる。
手段は目的で正当化されるという意見ばかり一人歩きして、マキァベッルリと「君主論」は誤解されている。
本当は近代国家や主権を実践的に捉えようとした歴史的業績なのだ。
けっして悪人のバイブル。野心家のマニュアル。では決してない。


コミックの『チェーザレ』だが、読み始めると
魅惑的な情景の中にリアルに時代と人物が動き出した。

もうじきロレンツォ・メディチが出てくるのかとわくわく。

サボナローラも
ダビンチも
ラファエッロも出てくるし
ミケランジェロだって
出てくるかもしれない。
堪らんねこれは。

最近7,8年、コミックのコーナーなんて立ち止まることは無かった。
だのに、向こうからお呼びだったんだな。


昔、29歳の妻がコミック好きで、
何時も何か持っていた。

「ナンだ?その、枕みたいな厚さは!」
「これ?…ハイこれよ」
「……」
『花とゆめ』??
「けっこう面白ぇヨ!読んでみたら」
かくて、
嵌ったのですね。
女流コミックにも面白いのがあると知り。


萩尾望都の「ポーの一族」は
2.3年は読むと泣きました。
妻の本棚から借りて読んだら面白くて面白くて。

でもまもなく妻は永遠に居なくなり、
まるでメリーベル自身みたいに、
この宇宙のどこにも存在しなくなってしまったので。
でも、泣くと分っているのに読んで、
やっぱり泣くのでした。

ポーの一族 (1) (小学館文庫)ポーの一族 (1) (小学館文庫)


同じ作者の「11人いる」は逆に吼えました。
どうして女の作者にこんな良いSFコミックが書けるんだぁ!
と差別丸出しで吼えながら読み終えました。


ぼくは一度しか日本の外へ出ていないのですが
その行き先はイタリアでした。
人生でアッシージの聖堂を訪ねて感嘆できたことが
自分の無常の幸せかと思うYohには
(ルネッサンスという時代は1200年代から始まる感じですが、)
ハイルネッサンスといわれるチェーザレ・ボルジアの生きた時代は迷宮のような妖しい魅惑に満ちています。

コミックに入り込んで
イマジネーションを爆発的に発動しながら
堪能することにしましょう。
何度も読み返すかもしれない。
そんな気がしています。


そういえば、もしイサベラ・デステが出てくるなら
どんな女性に描かれているんだろう。

それを想像するだけでわくわくする。
実に見事な人物。そして美しい完璧さ。

塩野ななみ氏と違って
歴史上のドラマは
個人の力量や人徳や知力などの役割よりも
時代のうねりを生み出す社会的背景の動向を重視する
Yohはそういう人間ですが、
個人の性質や力量の効果の大きさも理解できます。

イサベラ・デステがいなかったら
イタリアの情勢はかなり違っただろう。
それほど彼女の知性と胆力と美貌が
歴史を彩った度合は大きい。
エステ家の動きのない時代史なんて書けない。

きっとコミックにもご登場だろう。
楽しみだな。

ポーの一族とマザーグース

ポーの一族の構成と伏線について

2008年1月21日月曜日

報告、ドキドキ・ワクワクの月曜日



月曜日。今日は『読む会』の日でした。
一応、(一応でしかないのが心許ないが)
予習と疑問点のメモを作って臨みました。

最近は月曜日が近づくと「どきどき」「わくわく」して落ち着かなくなります。
当日はもっとそうなります。

毎回が、「ふ~ん、学問ってそういうことなんか~」体験の、

連続連打。

だから1クール2時間で2回を一度にやるのですが、終わると完全にぐったり、
放心状態です。

日本書紀や続日本紀のテキストを読むのですが
読み3分解説7分といった感じです。
解説も本文の解説よりは関連事項や関係論文や学会裏話(面白い)など漫談的な進行で迷走かと思うくらい。

でもでも、笑っているうちに回らない頭が知らぬうちにクルクル回転しているのですね。終わると頭は爆発しそうに。

だいたいYohはもと美術系青年でそれも泥まみれコースでしたから、机に2時間座って講義を聴くなんてことが慣れていない。

最初は面食らうだけでした。
脈絡も無く並んでいるように見える続日本紀の記事を現代訳で読んでみても誰が正五位下に任じられたとか、日食があったとか、宴をしたとかが頭を通り過ぎるだけなのでした。

ところが…先生の漫談の向こうに読み方のヒントが見えてくるのです。

そのことが、ど~んと胸に応え、感動してしまいました。

歴史の資料として書紀や続紀を読むということはどういうことか、それを笑い話にしながら話してくださっているのです。

例えば郡というのは国―郡―里という制度の単位ですが古くは評と書いてコオリ(コフリ)と読んでいたがいつか郡に変わったらしいとされていた。それについては郡評論争という討論が一時あって、最後に京都大の岸教授が木簡の変遷から論証して大宝律令以後郡と表記されるようになったことが確定したという。

学会の裏話なども入っての経過説明を聞くだけで、歴史的事実の究明は忍耐と創意が要る手続き厳密な過程なのだと分かってくる。

目からうろこが何枚も何枚も落ちていくのでした。
そうだったのか、の連続。

嬉しかったのは予習して気がついた事柄を先生が解説で触れられ、自分の解釈が間違っていないことが分かったこと。

欽明天皇の即位前紀の天皇幼時の夢の条の性質が「説話」風の「語りもの」の形式に近いなと思っていたら、実際そういう解釈を先生も話された。

会社で言えば「総務」に当たるような「治部省」に出された秦氏の上申書のような文書に記されていた先祖の由緒語りを続紀の編者が採用して記事としたのだろう、と説明されていた。

書紀や続紀の内容がどこから得られた資料なのかを示唆されている訳だ。
これはどうも先生のライフワークの一部のようだ。
学位論文の中味に繋がっているらしい。
いつかじっくり聞いてみたい内容だ。

文字の話も面白く刺激的だった。

欽明天皇という呼び名は漢風諡号といって平安初期に淡海三船によって作られたらしい。日本書紀の記述には無かったもので、今漢風諡号も書いてあるのは後世に入れられたものだ。
アメクニオシハラキヒロニハというのが和風諡号だ。

これを元興寺の露盤銘にある記事ではアマクニ云々と記されているが、その字はマを末としてある。
ところがこれはアメ云々とあった元来の表記はメを米という字で記していたが、書かれた字がすこし崩して書かれていたので、書写するとき誤って末字と読んだらしい。それでメ(米)がマ(末)となってしまったと。

米と末は活字で見ると印象がかけ離れたものだが、行書体を崩して書く人の書体で見ると実に良く似ている。
このような例は他にもあると、別の例も示された。

また胸がドキドキしてきた。
じつはYohは古事記を愛読していた時期があり、そのときに同じような気づきをして、年来の疑問として持ち続けているのだ。

紀記の天皇系譜については歴史家は実在性の強い主な系譜に注意を集中するので、Yohが気づいた点については読んだことが無い。

専門家に聞くには論拠が弱い思いつきかと感じていたが、今日のこの話はそれと同じじゃないか!

Yohの気づいたのは系譜じゃなくて、系譜に紛れ込んでいるが実際は神話の断片じゃないかというものだが、
その論拠が漢字の表記の書写の間違い(似た字を取り違えた)からだと想定したのだった。

このドキドキはまだ続いている。
先生に聞いてみようか、どうか。

欽明紀の即位前紀の形式上の破綻も注意したいところと思っている。
こんなところにも二王朝並立とか内乱とか言われるこの時代の解らなさが顔をだしている気がするからだ。

即位のとき「年若干」だった、ということは、一体何歳だったのか。
先行する秦氏の条の「幼時」という表記と手白香皇后との譲り合いの「未ダ政治ヲ閑(なら)ハ」ないのは幼いからという件と併せて読めば、やはり手白香皇后が称制ないし即位していたと見たほうが良いように思える。

本当に知りたいことにたどり着くためには長い修練と洞察の年月が必要なのだろうな。

Yohにその時間が与えられるか、どうか。
そうだ。手段として、戦術として、「長生き」を自分の課題とするか、自信ないけど。

ま、がんばろう。
 
 

2008年1月17日木曜日

ひと、ひとに 会う。一期の華の薫るかな。

雖會師不學徒如向市人
雖習讀不復只如計隣財

 タトヒ師ニ會フト雖ヘドモ
 學バザレバ徒ニ市人ニ向クガ如シ
 タトヒ讀ムヲ習フト雖ヘドモ
 復マザレバ只隣財ヲ計フルガ如シ 
             實語教(編者未詳・江戸時代)


滅多に出会えない機会が与えられて師とするべき人に出会っても、その機会を学びの機会と出来るかどうかだ。
今の自分は多分そういう機会を得たのだと思う。そのことを忘れないようにしたい。

SNSの仲間に漢文エディターという便利なフリーツールの存在も教えていただいた。
一歩一歩と形が出来ていく。
早く対訳本の続日本紀を入手したいものだ。
古い版だが日本書紀のほうは岩波書店の日本古典文学大系を持っているので当面はそれを使っていこうと思う。吉川弘文館の六国史日本書紀もあるので差し当たりこれで十分と思う。続日本紀の読解の参考は平凡社の現代語訳(直木先生監訳)が手元にある。

でも年表とか地図とか、欲しくなって来そうだ。
目に付いたので立ち寄った八尾市内の書店で『奈良時代MAP』というのを買った。奈良市内の現在の地図をトレーシングペーパーに印刷してあり下に奈良時代の分かっている情報が透けて見えるように印刷されたページがある。
長屋王の屋敷跡。藤原の仲麻呂邸のほうが広いのには驚いた。倍は広いのだ。
一時の仲麻呂の権勢を示すものだろう。
身分の低い人の住所のほうが情報が多いのか、見ていると面白い。
絵師(画師)が結構居る。息長姓の絵師など。

宮都の研究はまだまだこれからの様子だ。
木簡の研究も終わったわけでは無いだろうし。

そういえば何かの検索のついでに木簡データベースというのに行き当たったことがあった気がする。もう一度当たってみよう。
なにしろ同時代の資料だからね。興味がある。

2008年1月13日日曜日

六十の手習いで続紀天平十年に挑戦中

自分が住居に選んだ土地に昔短期間であっても
都が置かれたことの理由を以前から知りたかった。
朝日カルチャーセンターの広告に惹かれて申し込んで
一ヶ月余り出たが年末で全講座が閉鎖になった。
近鉄奈良駅周辺では成り立たないらしい。
西大寺駅周辺では便利がいいので可能だろうが
近鉄がカルチャー講座を開いている。
と言うことで撤退となった。

それはいいのだが、
二階に上がって梯子が無くなった感じになるじゃないか。

そう思う人たちが講師に要望して自主講座として続くことに。
ありがたや。

でも、観測が甘かった。内容が充実し、かなり努力しないと
ついていけないかも… (汗)

講座は『日本書紀と続日本紀を読む会』と名前がついた。
読むのだから簡単だよ、と思っていたら、
白文(返り点や句読点を付けていない漢文)を読むんだ。
と、思い返せば高校以来、白文など見てもいないよ。

日本書紀は欽明紀から、続紀は天平十年元旦から、と決まった。
で、1月7日に行って来たんです。
初日なので講師の水野柳太郎先生の漫談風の独演でしたが
話されている内容は、済んでみるとかなり濃い内容です。

終わってへとへとです。
昼の休憩時に先生が何故かYohに
「こんな話でいいですか」と問われたので、困って
「私は…素養がありませんので…」と誤魔化し。(汗+汗)

吉川弘文館刊の黒板勝美編「六国史」が種本らしい。
それに小学館の原文と読み下しと現代訳のついたの。

現代訳は参考程度に考えること
当然でしょうね、訳者の私見が入るからね。

漢文は上古の訓読に拘らず普通の漢文式に読んでよい
当時の読み方に拘っても返って意味が分からなくなることも多い。
こう言われて、なるほどと腑に落ちた。自分はそういう逆の和臭の強い読み方に傾いていたので読めなかった面があるな。

文字通り六十の手習い。
がんばれば一年でかなり読みこなせるようになる、との先生の励ましを真に受けてがんばろう。

少し進めば続紀は「藤原広継の乱」のところだし、
面白い話も聞けるだろう。
欽明紀の方も継体・安閑・宣化の王朝並立説などを廻る話がでるだろう。

まずは読めなくては話にならない。
毎週一度はかなりキツイ課題だ。予習も復習も要りそうだ。
気合を入れてがんばらなくては。
でも、仕事上の課題が多すぎる年明け。どうなることか。
やるしかないな。


先生のお勧めは白文を紙に手書きで写すことだそう。
そうすれば漢文に馴染み区切りやリズムが感じられるようになると。
さっそくやっているのだけれど、字の下手さに我ながらあきれ果て、
意欲低下。いやいや、続けなければだめだ。

探すと国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに六国史が印影版で入っている。
早速JPEG2000のプラグインを入れてブラウズする。
汚い版で活字が潰れていたりして読めない字がある。
でも電子テキストでは外字になって表示できない字も
印影では見えるので併用するのが便利。


半日かけて欽明紀全文と天平十年聖武紀全文を
テキストで入手。
MS wordで縦書きの横置き用紙A4で白文にして印字。

書き写しながら読んでいる。現代訳と対照して
自己採点は60点かな。まあまあの出だしとしょう。

1時間半講義で30分質疑か読み方指南。

次回が楽しみになってきた。

年内に先生に「よくできました」と
桜の判子もらえますように。
がんばるぞ。

伝説の綯い混ざる 『コマンダンテ チェ・ゲバラ』

アルゼンチン生まれのチェ・ゲバラはキューバ革命に参加し司令官(コマンダンテ)と呼ばれるようになった。彼はボリビアで部隊を率いてゲリラ活動中CIA に指揮された政府軍に捕らわれ裁判の機会も与えられず撃ち殺された。ボリビアの「虐げられた民衆の利益のために」闘った彼だが、実は十分な支持を得られなかったためゲリラの基本、「民衆に匿われ守られながら彼らとともに闘う」原則が守れなかった。そのため追い詰められた結果の捕縛と銃殺という悲劇になった。
Youtubeで見つけたひとつの動画はこの事件をバックにチリの(これもピノチェット将軍のクーデターで虐殺されてしまったミュージシャン)ビクトル・ハラ作の歌が流れるもの。最後の シーンに民衆が立ち上がっていく姿を映像にしているが、これは願望が伝説を生み出していく一例だ。
         
伝説化された映像の中でチェ・ゲバラは不死鳥になり永遠化される。

 しかし、それから20年以上たった現在。動画は未来を予見していたことが分かる。

 孤立して敗北した英雄は時間を経て民衆の中に帰ってくる。
 民衆自身が立ち上がり世界を変えようとする時、回想の中に帰ってくるのだ。


         
 あれほど農民から孤立してしまったゲバラだったが
 いまや先住民も含めて国民的な広がりで運動が起こってきた。

 いまや先住民は沈黙の隷従者ではない。
 帽子を冠った先住民たちが国の政治を動かしている。
 モラレス大統領は南米初の先住民出身の大統領なのである。


 彼の後ろにはゲバラの顔が浮かんでいる。
 彼を支持する人々の中にはチェ・ゲバラの像を掲げる者もいるからだ。

         

 見たまえ、デモ隊の先頭にゲバラがいる。
 彼の顔が幕に描かれている。
 彼は彼が身をささげた人々の中へ帰ってきたのだ。


 揺れ動く中南米。
 マスコミは希望的観測でベネズエラやボリビアの政権は
 ポピュリズムの失敗として終わるだろうと論じている。
 果たしてそうか。

 南米諸国民が国境を越えて見せているかって無い団結の姿を
 軽く見るようでは 政治的感覚は鈍いと言わなくてはなるまい。

 未来は常に明るいとは言えない。
 しかし明るい未来は常に民衆の参加で作られる。
 それを信じるか信じたくないかの違いなのだ。

 
 『コマンダンテ チェ・ゲバーラ』の歌の一節を口ずさんでいた
 亡き友の若々しい声が耳の底によみがえってくる、老いたぼくの耳に。

 ビクトル・ハラの詩と文章をスペイン語辞書を片手に
 とつこつと読んでいた横顔も浮かんでくる、しろい項も。

 なんだか今年あたりは
 フィデル・カストロがその生涯を閉じる予感がする。

 だがモラレスやチャベスたちは生きていく、民衆とともに。
 多くの間違いや失敗をしながら。
 そのツケを自ら支払いながら、ひとは生きる、民衆も。

 「時代は心を変える」と友が歌っていた、キューバの歌を。
 希望を持てる心へと変えるのだと。時よ進め、時よ移れ。

 時間だけは長く経った。
 ぼくはまだいる、ここに。
 そして
 希望は、まだここに、 ある。確かに ある。

 《ぼくはゲバラ崇拝者ではない。
 ただ中南米の人々にとって過去ではないことに注意したいのだ。》