天平時代の出来事を知ったり覚えても得になるものはない。
昔も今も変わらず争いごとが多いな、とか分かる程度(笑)
しょうもない事と言われても仕方ない。
だが人々は古代史の講演会とか現地見学会とかに
わんさと押しかけている。
いや揶揄してるのではなく、
そのエネルギーの出所がいぶかしいのだ。
何故なんだろう。
歴史はロマンだって言う人が多いけれど、はたしてそうか?
ロマンって言葉の使い方がへんじゃないか。
「単独飛行」氏はロマンは休息であるが時には中毒であると言っている。
ロマンについてのぼくの定義とは異なるが
ロマンを言う人の心情を言い当てている気もする。
脱出と憧れが衝動になり、ついには中毒に至る。
それも情熱のかたちだから、とやかくは言えない。
でも五月蠅いのだけは勘弁してほしい。
講演などはおとなしく聴こうや、
と言いたい。
巻十四。天平十三年。
夏四月辛丑。遣従四位上巨勢朝臣奈弖麻呂従四位下藤原朝臣仲麻呂従五位下民忌寸大楫外従五位下陽候史眞身等撿挍河内与攝津相爭河堤所。
五月乙卯。天皇幸河南観挍獵。
夏、四月辛丑(かのとうし)。従四位上ノ巨勢朝臣(こせのあそん)奈弖麻呂(なてまろ)、従四位下ノ藤原朝臣仲麻呂(なかまろ)、従五位下ノ民忌寸(たみのいみき)大楫(おおかじ)、外従五位下ノ陽候史(やこのふひと)眞身(まみ)等ヲ遣リテ、河内ト攝津ノ河堤(かわのつつみ)ヲ相ヒ爭フ所ヲ撿挍(しらべただ)セシム。
五月乙卯(きのとう)。天皇河南ニ幸シテ挍獵ヲ観(みそなは)ス。
天平十三年は九年の疫病の大流行、恭仁京遷都の計画の進行、広嗣の乱、その最中の天皇の長期行幸など、波乱に富んだ出来事の後、比較的穏やかに新都造営が進んでいるように見える日々だ。
先生が居て即いて読んで行けるのはありがたいことだ。
例えば、
通常は続日本紀は年始めの朝儀の記事は記さないのだ。通例が通例通りでなかったら廃朝と記すのだ。書いてなければ元日の朝儀は行われている。といった指摘。普通の歴史の本には書いてないと思うこういう指摘を随所で入れてくださる。
ものすごく大事な贈り物をもらっている気がして幸せになる。
そして自分の知恵にそれが成っていくように希望がわく。
旧暦の夏四月の廿二日(この年の四月辛丑)といえば
まもなく梅雨の長雨が降り始めるころか。
摂津職と河内国守が対立しているのを収めたという記事だ。
梅雨前に決着させたという事か。
河堤の争いとあるのは何だろうか。単なる土地の境界の争いではないと思うが、どうか。
帰属は則ち責任の所在だから、堤防の補修の責任がどちらにあるかを争っていたのではないか。
決壊を恐れる住民が騒ぎ補修の必要が明らかになったが
摂津か河内かの帰属で揉めたのではないだろうか。
摂津と河内の境界を流れる川といえば淀川か大和川だ。
その堤の帰属と補修責任を国界を明らかにして決着する仕事が
この日終わったのだ。
これをこの日4人が出かけて現地視察し裁定して帰ってきたと
解釈しては大間違い(なのだそう)だ。
続日本紀の記事は文書資料を基にして編集して書かれている。
この記事の元になった文書の日付が辛丑(廿二日)なのだ。
だから何もかも済んで文書に4人の署名が入って提出された紙に
天平十三年五月辛丑とあった。(ひょっとすると五月廿二日とあったかも。もう何年かすると五月廿二日辛丑と書くようになるらしい)
4人名前があるが、実際に現地へ出かけたのは後の二人。民忌寸と陽候史だろう。二人の姓からして渡来系の官人だろう。民忌寸も陽候史も田籍と田丁を管理するなど記録や計数に明るい官僚たちだ。
川の堤の帰属や境界を記録したものが当時の政府や国郡官衙に保管されていたかどうかは、知らない。何で裁定したのだろう。住民の古老の記憶を尋ねたりはしなかったか。
また上司二人は藤原仲麻呂と巨勢奈弖麻呂だ。仲麻呂は将来反乱者となる運命にあるがこのときは少壮官人として颯爽と仕事に腕をふるっていたことだろう。
五月には聖武天皇が河南に行幸して猟を観覧している。
これは我が家に間近い場所についての記事だ。
川とは今の木津川。昔の泉川のこと。今も川岸から近くに泉川中学校があるのはその追憶からだ。
北岸の宮殿(まだ未完だった)から出て川を渉り
挍獵を観た。挍獵とは矢来様の囲いを仕掛けて、其処へ勢子が獲物の獣を追い込むやり方の猟である。
この短い記事から立ち上がってくる情景がある。
当時は新都造営の槌音高い日々。
川の南岸に街区を切るため切り開かれた広い空間が出来ていて
まだ建物は建っていない。
そこに杭を打ち細柱を立て囲いを作って猟場としたのだろう。
小高い丘か仮作りの台の上から天皇は観たのだ。
観には見下ろすという意味があるから、そう読んで良いだろう。
この記事の少し前に実は日本初の「生類憐れみ」の詔が出されている。馬牛を殺してはならないとし違反への罰則も厳しく定めた。
それなのにここでは猟がされ、天皇が出御してそれを観ているのは矛盾のようだが、家畜は人間のために働いているのに殺したり食べたりしてはならないというのであり、野生の鳥獣虫魚はそうではないとされていたらしい。
それと造都に関わる祭儀としての猟という面も考慮した方が良いのかもしれない。地主神への鎮めと祈願はどうであったのだろうか。
加茂町の田園風景の向こうにうっすら霞んで記事の情景が見えてきそうな気がする。それは根拠のない空想なんだけれど。
自分の立っているあたりを
佐保へ帰って行く家持も通っていったかと
思ってみたりする。
単調な実務的記事や記録の集まりの続日本紀が
読みようで活き活きと動き出す。
それを案内してくださる先生がいること。
ありがたい、本心からそう思う。
まだリタイア出来ない身の上だから
何時脱落するか分からない。仕事がどう動くかで決まるもの。
でもこれから長いつきあいの本に六国史が成りそうな予感がある。
ツレアイは笑って見ている。様子模様眺めらしい。
挫折を予見しているのかもしれない。
書いてみて何が楽しいのか自分でもよく分かってきた。
この楽しさを大事にしていこう。