2006年11月25日(土)
『美人さん志望』というストレートでちょっとユーモラスなタイトルのブログを自分の参加しているSNSで読んでいる。なぜ女性達は美人志向なのだろう、多分リクツじゃないのだろう。
それで思い出したのは「鬼も十八」という諺だ。
中学生三年生の時英語の先生がなぜか嫌いで、英語も嫌いになった。
英語なんか嫌だ~、俺は南米へ行ってタイル職人になって綺麗な大通りを造るんだ。という変な考えにとりつかれた。
スペイン語の教本を買ってきたり、スペイン語で受験できる高校があるか調べようとしたり、頭が変調きたしておったのだった。
スペイン語の教科書の発音と文字を終えて、次に進むと最初の頁の下の方に、
暗記用の例文、スペインの諺が出ていた。
もう思い出せない例文だが、直訳の文は今も憶えている。
『醜い十五歳は無い』という文だった。
そして、そのスペイン語の文に添えられていた、日本の諺の
『鬼も十八番茶も出花』に相当する、と。
この諺を知ったのはこうしてだった。
スペインでは自分と同年齢の15歳が
花の盛りなんだ、と変に納得した記憶がある。
スペインの諺は純粋に少女が乙女に変貌するその瞬間の
ぱ~っと明るく輝き出る若さをダイレクトに認識して表現したもの。
一方の日本の諺は「十七」とする出典もあるが、
いずれにしても「嫁入り時」「適齢期」「時期を外さない」年齢を言っている。
鬼のように怖いものでも女なら「その時期」には嫁に貰われていく。
それは番茶に湯を注いでちょうど良い頃合いに飲むのといっしょだ、
というのである。
十七、八は昔の嫁入り時分。女らしい色気もある年頃。
美よりは嫁に出せる女ぶりにアクセントがある。
「娘十八」になっている地方もあると聞く。
鬼とお茶を並べられては迷惑な茶の産地だろうか。
女性をモデルにスケッチをしたりすれば、解ってくることなのだが、
女性に限らず自然の生み出した造形は精妙で、
それに気付くと表面的な均整など取るに足りない。
疑う人は「ロダンの言葉」を読むべきだ。
画家や彫刻家にとっては美人というものはない。
いのちの輝きがどうそこに現れているか、
それがその人の固有の性格として
はっきりと浮き出てきているか、なのだ。
ときには化粧というものが、その自分固有の性格美を覆い隠してしまうのを
気付かない女性がいる。
惜しいことだが、それに気付づかせるのは化粧や痩身術の知識ではない。
むしろ芸術や文学が与える「美的経験」の豊富さだろう。
関西には歌心の伝統が曾てはあった。
高校生の頃のことである、年上の知人宅にいるとき、
ある女性が和歌のみを書いたラブレターを玄関先の生け花の傍に置いて小走りで去った。
自分のことではないのにぼくは「なんと美しいしぐさなんだろう」と感じた。
十年も経ってから民俗学者の宮本常一先生の本で、
世間師の話の中で、歌による交歓が西国一円には色濃く残っていたことを知る。
ぼくはその伝統の最後の光芒を見ていたのだと知らされた。
美しいと言うことは形から始まるのは否めないが、最後に心を動かすのは立ち振る舞いの美、では無いだろうか。
そしてその美は、先立つ経験に根ざした、人への優しさから出るもののように思う。
衣食足って礼節を未だ知らず、錦繍を纏って厚顔改まらずの世相に真の美人であるのは至難のこと。
そうとすれば、『美人さん、志望』という志は、
まことに雄大な勇敢なチャレンジなのかも知れないと、思え始めるのである。