2007年4月8日日曜日

ケンブリッジの大学にも桜が咲いている カム川辺

Cherry blossom tree in full bloom, Garden house hotel, Cambridge, England







↑クリックすればフルサイズで見られます。
たまたま他の写真を検索中にイギリス人の写真ブログで今ケンブリッジの大学の構内に桜が咲いていることを知った。

Reggie Thompson という方の写真である。いい写真が多いブログだ。

Reggie Thompson's photography blog

どんな経緯でここに桜が植えられているのだろうか。日本人とも縁のありそうなケンブリッジだから何かの縁がありそうだ。


Google Map

2007年4月7日土曜日

『缶蹴り』した空き地を想う


2005年03月14日(月)

少年時代には空き地が身近にあった。

近所の誰もが通ったり焚き火をしたり
物を干していたりした。
勝手に穴を掘ったりしても、それを放置しても
いつの間にか大人が元にもどしていたりする。

決して無所有ではない。
だが誰のものでもなく誰のものでもある場所は
「土地」というものの一面をぼくらに実体験させていた。

明確な管理人が居ない分
誰もが自由に「アクセス」できるが
その分幾分かの「責任」や「分担」を
子供心にも感じていたようだ。

そして当時は駅前などの公共空間でさえ
何かそうした性格を共有させられていた
そう感じるのだが。

広場はどこも生活空間として同質であるとみなされ
駅前や百貨店前の広場といった空間も
空き地的性格を保有していたのではないか。

そうした公共空間には
香具師や「傷痍軍人」や「浮浪者」もが出入りし
リヤカーを引いてきた農民夫婦が腰を下ろして
休みながら辺りを眺めていたりした。

子供にとっては、それは自分の家の近くの
空き地の延長と拡大として連続したものであった。

舗装された広場は
「焼き芋」はできなくても
「缶けり」には広くて好かった。
追い払われることはしばしばっだったにしても。

空き地をもつ少年であった自分達には
どこか香具師や浮浪者に似た性質が
いつのまにか潜んでいたのではなかったか。

街場の人間の浮動的な、
出入りの多い時間と空間への愛着。
今もある。

すくなくとも自分には
空き地の魔力に魅入られていた時代があった。


空き地から見る夕陽の凄さと魅惑が
いまもぼくを
夕陽を見に出かける人間でいさせている。

鬼も十八、番茶も出花

2006年11月25日(土)



『美人さん志望』というストレートでちょっとユーモラスなタイトルのブログを自分の参加しているSNSで読んでいる。なぜ女性達は美人志向なのだろう、多分リクツじゃないのだろう。

 それで思い出したのは「鬼も十八」という諺だ。

 中学生三年生の時英語の先生がなぜか嫌いで、英語も嫌いになった。
英語なんか嫌だ~、俺は南米へ行ってタイル職人になって綺麗な大通りを造るんだ。という変な考えにとりつかれた。

スペイン語の教本を買ってきたり、スペイン語で受験できる高校があるか調べようとしたり、頭が変調きたしておったのだった。

 スペイン語の教科書の発音と文字を終えて、次に進むと最初の頁の下の方に、
 暗記用の例文、スペインの諺が出ていた。
 もう思い出せない例文だが、直訳の文は今も憶えている。

 『醜い十五歳は無い』という文だった。

 そして、そのスペイン語の文に添えられていた、日本の諺の
『鬼も十八番茶も出花』に相当する、と。

 この諺を知ったのはこうしてだった。
 スペインでは自分と同年齢の15歳が
 花の盛りなんだ、と変に納得した記憶がある。

 スペインの諺は純粋に少女が乙女に変貌するその瞬間の
 ぱ~っと明るく輝き出る若さをダイレクトに認識して表現したもの。
 一方の日本の諺は「十七」とする出典もあるが、
 いずれにしても「嫁入り時」「適齢期」「時期を外さない」年齢を言っている。

 鬼のように怖いものでも女なら「その時期」には嫁に貰われていく。
 それは番茶に湯を注いでちょうど良い頃合いに飲むのといっしょだ、
 というのである。

 十七、八は昔の嫁入り時分。女らしい色気もある年頃。

 美よりは嫁に出せる女ぶりにアクセントがある。

 「娘十八」になっている地方もあると聞く。
 鬼とお茶を並べられては迷惑な茶の産地だろうか。


 女性をモデルにスケッチをしたりすれば、解ってくることなのだが、
 女性に限らず自然の生み出した造形は精妙で、
 それに気付くと表面的な均整など取るに足りない。 
 疑う人は「ロダンの言葉」を読むべきだ。

 画家や彫刻家にとっては美人というものはない。

 いのちの輝きがどうそこに現れているか、
 それがその人の固有の性格として
 はっきりと浮き出てきているか、なのだ。

 ときには化粧というものが、その自分固有の性格美を覆い隠してしまうのを
 気付かない女性がいる。
 惜しいことだが、それに気付づかせるのは化粧や痩身術の知識ではない。
 むしろ芸術や文学が与える「美的経験」の豊富さだろう。



 関西には歌心の伝統が曾てはあった。

 高校生の頃のことである、年上の知人宅にいるとき、
 ある女性が和歌のみを書いたラブレターを玄関先の生け花の傍に置いて小走りで去った。

自分のことではないのにぼくは「なんと美しいしぐさなんだろう」と感じた。

 十年も経ってから民俗学者の宮本常一先生の本で、
 世間師の話の中で、歌による交歓が西国一円には色濃く残っていたことを知る。
 ぼくはその伝統の最後の光芒を見ていたのだと知らされた。


 美しいと言うことは形から始まるのは否めないが、最後に心を動かすのは立ち振る舞いの美、では無いだろうか。

 そしてその美は、先立つ経験に根ざした、人への優しさから出るもののように思う。

 衣食足って礼節を未だ知らず、錦繍を纏って厚顔改まらずの世相に真の美人であるのは至難のこと。






 そうとすれば、『美人さん、志望』という志は、

 まことに雄大な勇敢なチャレンジなのかも知れないと、思え始めるのである。

僕のうさぎ跳び

2006年11月30日(木)

ぼくの『波乱万丈うさぎ跳び人生』(自称)は、どこからがスタートだったのだろう。

ウサギのイメージは、人によって違う。
嫌いという人もいる。
-あの赤い目がねぇ~とか、
理由があるようだ。
-ぼくを、嫌わないで…



今ではピーター・ザ・ラビットとか、
ディズニーのアニメでお馴染みの
不思議の国のアリスでの
懐中時計をもったウサギとか、
よく知られた兎公たちがいる。

ピーター・ラビットや
野鼠のプリムローズなど
イギリスからやってきた
野生の仲間たちは、ぼくも大好きだ。

でも、ぼくの夢の中を跳ね回っている
ウサギは、どうやら別のウサギのようだ。

記憶をまさぐってみると、
こいつはディズニーのカートゥーンかもしれない。
ちょっとのろまで鈍い人のいいベアと
ずる賢い口達者のキツネとに

いつもいつも追われているウサギ…

こいつの名前を知りたくて
探しているのだが、まだ分からない。

ウサギはいつも危機一発で
逃げおおせて野茨の茂みに飛び込む
そして勝ち誇ったようにベアとフォックスに
尻を向けてばかにするのがパターンだ。

ファニー・アニマル・コミックのジャンルに
数えられるのだろうが、日本で読みふけっていた
それは1950年代の半ば過ぎだろう。
悪名高いコミックス・コードが登場して
急速に多様さを失っていったアメリカンコミック。
その端境期にであった「わる知恵の闘い」にみちた
ウサギと野生の仲間たち。

天性のトリック・スターであるこいつ。
いつもやってきてぼくの夢見の平安を壊す。

うさぎ跳びを、忘れるな!
弱いウサギのわるさ振りが夢で繰り返される

ぼくのうさぎ跳び人生が始まったのは
どうやら、こいつが夢に顔をだした
あの頃からだったに違いない。


実人生では、いつもいつも追われているぼく
夢の中では 追いかける。

待っていろ、ぼくはお前を
捕らまえるからな、
逃がすものか。
追っかける僕は、やっぱり
うさぎ跳び…
耳まで伸びて
ぴんと立っているのだ。



市内のネット・カフェで書いている…
仕事には「息抜き」が必要と称して、コーヒー代プラスちょっとで済むからと言い訳を自分にし、一時間をちょっとオーバー。イインカイ、オイ。…そろそろもどろ。


あるサイトでカバラ占いをやってみた。やっぱり波乱万丈のうさぎ跳び人生らしい、ほんとかよ~。
『…
あなたは、感受性への憧れから、必然的に音楽や絵画、文芸などなど、芸術などを通じて、メッセージを与えたいと思うようになります。

強い感受性は、あなた自身にもいろいろな葛藤(かっとう)やストレスになってしまう諸刃(もろは)の剣です。でも、怖い思いをしたり、愛する者を失ったり、友人に裏切られてしまったり、精神的な試練が多いのもあなたの宿命なのです。… あなたの運命の本質は、ある意味では「忍耐」でもあります。強烈な痛みに、心を閉ざしてしまえば、あなたの宿命もまた停止してしまいます。強く優しくなることがあなたの真の宿命なのです。

あなたは、性格的にとても挑戦的ですので、運命は波乱万丈となりやすい傾向があります。楽な選択肢があっても、わざわざ困難の道を選んで、茨の人生を歩んでしまいます。

ねっ、うさぎは茨の道だって決まってるんだ、やれやれ。

ワッハ上方の通行手形?

2006年12月13日


       島田神助の手形 ぐいっと誰より強く押してある(ふふふ)↑


 画廊へ同級生の個展を見に行った日のことだ。

 知り合いのアトリエが手がけた仕事を見物しに
 『ワッハ上方』へ立ち寄った。

 ジュンク堂書店に行くついでだった。実は隣がワッハ上方なのだ。
 ワッハ上方の中に吉本のお笑いタレントのひとたちの手形が
 床に埋め込みで並んでいると聞いたのだ。
 ひとつひとつ芸人さん達のところで手形の石膏型をとり、
 それを何度も型に起こして最終的にブロンズのプレートにし
 床に埋め込んでいる。なるほど、あるある。大助・花子、池乃めだか、
 いくよ・くるよ、島田神助など。
 彫刻家の仕事のエリアもいろいろな形に広がって裾野は広い。

 ★- でも、気付いたことがひとつ…
    島田神助の手形のあるプレートの左の縁の舗石が剔ったような
    痕跡がある…誰かがわざと加えた手の痕だ。
    たぶん「あ、神助のてがたやんか、
    持ってたら自慢できるし、高こう売れるやんか…」
    と思って手を出した痕だ。

    ひとを和ませる「手形」という手の跡と
    眉をひそめさせる、悪戯という手の痕と。

    二つのものを同時に見てしまった
    ワッハ上方の一時だった。

2007年4月4日水曜日

月齢カレンダーでは3日が満月

2007.04.03 01:19














西行が見た桜と満月?


今年は四月三日が旧暦の二月十五日。
満月の宵となる。

西行法師の終焉の地、弘川寺の桜は七分咲きとのこと。
歌に詠んだとおりに如月の満月の日に生涯を終えた西行。

生駒葛城山系の東面、西方浄土に向いた土地に庵をしつらえ
沈む夕日に日相観の日々。

桜越しに見る月は満月に至って仏道の悟りを現すと観じられ、
円月の下に大往生を願った。

歌をもって求道した西行法師は、日本の芸術家の雛形・理想型。
宿を借ろうとして江口の遊女妙さんには断られていますので、
ただの行い澄ました出家ではありませんでした。

自然を人生の鑑として生き、自然へと帰っていった詩人でしょう。



その最期の地に行って咲き、また散る花びらを眺めたい。
四月三日は晴れと予報がでた。黄砂に妨げられてもいい。

その場所で会えるように思うのだ。西行の精神、魂のとの邂逅。
ただの幻影かもしれないが…



―――――――――――写真は合成した創作(まがいもん)です――――――――
ふ~ん。こんなのもあるんだ。と面白がりで作ってみました。
貼り付けられるか試験にと、出来ました(^^)

『春が来たよ』  
画面をクリックすると拡大されます

これは pics.picturetrail.comというサービスサイトで作りました。

2007年4月3日火曜日



大きなスライドが作れるのだな。
YouTubeも真似をして欲しいものだ。

Divx系の動画サイトが画質と要領で
YouTubeに挑戦をすると聞いた。

面白くなりそうだ。

Macはスライドショーなど初めから付いているが

WEBアプリでさくさく作れてしまうと便利さは大きい。



旅のホテルなど出先でもスライドにしてアップロード

これは便利だろう。そのためにはPC画面で大きくしても

そこそこ見られる画質とかインターフェースが工夫が欲しい。

今日はこれを確かめられたのが◎だった。(^^)

月齢カレンダーでは3日が満月


西行が見た桜と満月?


今年は四月三日が旧暦の二月十五日。
満月の宵となる。

西行法師の終焉の地、弘川寺の桜は七分咲きとのこと。
歌に詠んだとおりに如月の満月の日に生涯を終えた西行。

生駒葛城山系の東面、西方浄土に向いた土地に庵をしつらえ
沈む夕日に日相観の日々。

桜越しに見る月は満月に至って仏道の悟りを現すと観じられ、
円月の下に大往生を願った。

歌をもって求道した西行法師は、日本の芸術家の雛形・理想型。
宿を借ろうとして江口の遊女妙さんには断られていますので、
ただの行い澄ました出家ではありませんでした。

自然を人生の鑑として生き、自然へと帰っていった詩人でしょう。



その最期の地に行って咲き、また散る花びらを眺めたい。
四月三日は晴れと予報がでた。黄砂に妨げられてもいい。

その場所で会えるように思うのだ。西行の精神、魂のとの邂逅。
ただの幻影かもしれないが…

2007年4月2日月曜日

想い出の中の風景たち

2007.04.02 02:46

   長谷川素逝さんは、大阪生まれで三重県育ち

   京大国文科をでて教鞭をとったのも三重県の津だった。

   将来を嘱望された人だったが、結核で早世した。

   40歳、昭和21年10月10日に亡くなった。

           

  木蓮の白い色が空間を埋めるように浮かんでいる

  鳥が飛び立ち翔けていく。

  揺れる枝がまるで光を放つようにみえる。白い眩めき。

            
           

  そのまま絵を見ているような句。

  湯上りの濡れた髪のままで夕日の差す戸外へ出てきた

  子供らのさんざめきの声。谷間は全て夕日に染まっている。

  ここは温泉の湧く山里なのだ。



  二つとも三重県で詠まれた句だ。

  自然への透徹した観察があり、落ち葉の句に優れたものが

  多かったので落ち葉の詩人と呼ぶひともいた。



  玉のごとき大秋日和賜りし  という一句を

  よく晴れた秋の日の朝に生まれた赤子に贈った。

  贈られた赤子がじつはぼくである。


  戦時下で物のない時代、造幣局の肝いりでの句会は

  膳にでるものが豊かだった。若い素逝さんも空腹を抱え

  句会に来ていたのだろうと思う。父とは仲のいい師と弟子

  だったと聞いている。


  中学生になり授業で俳句に触れ家の本箱にあった素逝さんの

  『砲車』という句集を開いたのが長じた赤子と素逝さんとの

  再会だった。既に故人となっておられたが。


  素逝さんがどのように俳句の指導をしたかを、その後

  父から聞く機会があり、それが今も俳句を読むときの

  価値観になっている気がする。ぼくは私的な孫弟子かな。

  これからも時々思い出してはこの方の俳句を読み返すだろう。