2010年12月29日水曜日

本年の仕事納めでした。

掃除して仕事終わって、
インスタント珈琲で一服して、
ちょっと時間あるのでPCに試しにUBUNTU10.10をインストールして、
Cromiumブラウザを試して、
西太后の通訳だった女性についての本、文庫本のスタックから探し出して、
時間が来たので八尾アリオへみんなで出かけて、
お寿司特別セットを前にお茶で乾杯(みんな帰りは車運転なので)
お疲れ様良い年を、で別れて、
妹夫婦のところへ肉持参で押しかけすき焼きして、
おしゃべりしてたら雷雨と強風に囲まれて
窓の戸ががたがた言うのにちょっと怯えたりして、
久しぶりに法隆寺の傍を通って、
奈良を走り抜けて、
猿にもイノシシにも出会わずに帰宅して、
ぼくの今日という日が終って、
一年分の出来事を思い返していた。

明日は海辺のホテルで
温泉でほとびたからだを横たえて
文庫本片手にごろ寝できるのだ、楽しみです。
寒いらしいからもう片手にはワインでも持って。

できればネット環境の整ったホテルであるといいのだが。


『レオニー』の感想をまだ書いてない。忘れないようにメモしておこう。



別々で夫婦周作を読んでいる


柿不作 薄れ日を背に帰る 村


老酒はらおちゅうで変換できて窓吹雪


寒き村 猿さえ見えず 歳暮れぬ

2010年12月20日月曜日

                          なみ
 聴けやヤマト 辺野古に寄せる冬の波濤



 地図の上
 朝鮮国にくろぐろと
 墨をぬりつつ秋風を聴く      啄木


 日本の力ずくの興起が朝鮮人の苦難の始まりだった。
 琉球もまたそれより早く国内植民地的状況に置かれた。

 時に諦めに傾く揺らぎを見せつつも
 沖縄のヤマトへの鬱勃とした憤りは消えてはいない。
 金でも力でも抑え込めないウチナーの魂にこころを寄せる。


 坂の上に黒雲見えて年の暮
 

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2010年12月13日月曜日

師走を感じる雨の日


夢に遭ひ師走に惑ふ女坂

冷たい雨が降ってきた。
京都女子大は東山の斜面を上がる道の先。
その坂道は登下校時、妙齢の女たちでいっぱいだから
女坂というらしい。
雨月物語で有名な江戸時代の大阪の作家
上田秋成はこの坂の大学への上がり口の寺で眠っている。

卒論を書きかけのガールフレンドとその寺を訪ねたことがあった。
寺から出ると女性ばかりのの濁流(失礼)に呑まれそうになった。
そのときのガールフレンドも今はこの世の人ではなくなった。


2010年12月9日木曜日

カスタムドメインでHPとBlogを合体する

ここはGoogleのBloggerというBlogサービスであり、無料だしそっけないスタイルが気持ちよくて使っているのだが、日記としてBlogを使うには十分なのだろうが、使いにくいこともある。
固定ページも持ちたいがトップページにタブで出しておけるのは10個だけとかいった制限や表などをいれたい時の使い方などが覚えにくい。
 Googleにはサイトとかドクスとかカレンダーといったサービスがありそれを利用すれば表などもワープロ風に編集作成して保存できるし、便利だ。

ぼくはGoogle Apps というサービスでサイトとメールを、BloggerでBlogを利用し、ワープロ感覚でホームページを作っていきたいのだ。

どうにか形が出来始めたが早くも疲れている(笑)困ったものだ。

形よく見栄え良く(?)する意欲が減退しているようだ、とほほな状況だ。



2010年12月7日火曜日

蘆舎の朝

蘆舎の朝猿聲を背に豆腐煮る     
-----我が家の如きを蘆舎といへり


大雪の窓叩き笑む皃昏し       
----大雪はタイセツと読む 皃はカオ。


冬硝子のっと躯に入る太き肢      
----躯をミと読みたい、ムクロではなく。
----肢はアシと読む。

氷雨滂沱手前自慢の驢馬の耳 




秋過ぎ故人を懐う

----亡き河野裕子を悼む。

失せひとの迹隠しいらぬ雪ほろろ

----河野里子もあらためて亡ぜし感あり。

鳳仙花ぱんと弾けて迹隠し

2010年12月6日月曜日

自販機

自販機を抱かんと堕つ流星群


そらと惚け白衣に入る冬の蝶

2010年12月4日土曜日

初対面なのに旧友といえる不思議


 ドイツから友人がやって来た。
 普段ぼくの参加している小さなSNSでぼくの書く雑文によくコメントをくれる方で、調子が出ないと長期に「欠席」状態になるぼくにも、変わらないペースで接してくれるありがたい知り合いだなのだが、突然の来日で驚きました。 
 学会での講演を果たした後を思い立って各地のSNSの知り合いを訪ねて歩くという嬉しい計画を実行したわけ。
 それで東大寺と興福寺を一緒に散歩した。

 奥さんはフランス人で、同じ大学でのなれ初めと聞き、自分と同じとわかり一層親近感?が湧いた。
ご本人は四国の出身で日本人だが、東大寺が初めてであった。しかしこちらも、恥ずかしいことに正倉院の建物が公開されていることを知らなかった。こちらはこれが初めて。二人を案内したお蔭で正倉院を初めて見た(笑)のでした。

お互いに思っていたより話しやすいという感想を持ったようで、ぼくも彼ももういちど会いたいという気持ちで別れた。

次に帰国するときは是非また奈良へも立ち寄って欲しいものだ。
マックス・ウェーバーの研究などを専門としている社会学者らしいのだが
そういう方面の話がまったくできなかったのが少し心残りだし、ぜひまた話せる日があることを望む。

東大寺も工夫していこうとしているのか大仏殿の庭でミニコンサートをしていた。
「千の風になって」をバイオリンなど合奏で奏でていたが、聞いている人がほとんどいないのは可哀そうだった。印象は悪くなかったから。



2010年11月28日日曜日

去る者来る者あり我が行くは冬日射す道



村の清っさんが逝かれた。
老いてなお働きづめに働いていた。
この一年病に倒れ二度目の入院で
ついに帰らなかった。
その姿に静かな追悼の懐いを抱いた。

思えば芝田くん、森岡くん、と
続いて旧知の友を失った一年余。

年年歳歳華相似たり、歳歳年年人同じからず。

ネット上の友人がドイツから帰国していて
会えるかもしれない。
初対面だが旧知ともいえる不思議な感じで
再会のような感じが伴う。

ここのところ膝の調子が良くて痛みが引いてきて
回数もへっているので
試しに団地のある丘へ歩いてみた。
ざっと一万歩の距離だが、無事に往復できた。
リュックに折り畳みの傘を入れたぐらいで荷物なしだった。
タオルを忘れて出かけたので、
出る汗が拭えず帰り道少し寒かったが風邪をひきはしなかった。
週に2回くらいの日程で晴れた日を選んで続けようかと思う。
目標を持たないとやらない口実はいくらでも見つかるものだ。

頼まれてしたことは上手くいったのに
同じことを
自分のためにやると上手くいかない、
何だこれは、と自問中。
ドメインを買って、
GoogleのAppsサービスとBlogger(Blog)を登録し
独自ドメインでBlogをアクセスするようにセットすることが
他人のは上手く動いているのに自分のが動かない。
2つを比較しても同じようにセットアップしているはずなんだが。

自分用の勉強ノートをと考えて作ろうとしているのに
出鼻が挫けた感じで面白くないことになった。
日をおいて再度頭を整理してみよう、いやはや。

一海先生たちの論語講座には行けない事情があるので
自前で論語読みをして気を紛らわす?ことにしている。

色々な論語という名のついた本から選んで比較しながら読むと面白かろうと。

岩波文庫、ちくま文庫、中公文庫などを岩波文庫と比べ読みしている。

貝塚茂樹の中公文庫と宮崎市定の岩波現代文庫が面白い。

要は孔子とその時代への想像力の働かせ方で違いが出てくる。

道徳手本的、教訓的な読み方は寧ろ邪道と思って読めば面白いところも
たくさんあるのが論語という本の値打ちらしい。

有朋自遠方来、不亦楽乎。
誰でも知っていそうなこの一文でも
いくつかの読み方があるらしい。

確かに漢文の勉強にはなるのだと実感。
でも疑問も持つし、その解決がなかなか自力だけでは心もとない。
例えば上の有朋…でも
有朋を朋有りと読むか「有朋(とも)」と読むかという問題がある。
何故「有朋(とも)」と読めるかの説明がない。
まだ自分では見つからないので、自分の判断ができない。

中国語として眺めれば
有…来。 来る有り。と思う。
何が?の答えになる部分が「朋自遠方」で
有朋来。 朋来る有り。
漢文としては
朋来。朋来る。と 有朋来。朋来る有り。
どう違うか?有が付くのは思いがけずとか新たなる出現の感じがあるという。
意外性というべきか。
で、
自遠方。遠方より。
朋遠方より来る有り。 思いがけず朋が遠くからやって来た。
朋有り。と読んでもいいが、
その有りには現前の感じがあることを意識しなくてはいけない。
朋が有(い)る、(目の前に)、遠くから来てくれたんだ!
だから不亦楽乎。また楽しからずや。なのだ。
思いがけずの朋と過ごす楽しさは一入だろうという意味なのだ。

とまあ自分ではこう読めるのだが、
自遠方来を貝塚茂樹氏は遠きより方(ならび)来ると読む。
遠方という使い方、自遠方という使い方が当時のものではないというのだ。
いまは判断できずにそういうものか、と思うばかりだ。

最小の簡明な表現の漢文という形式の難しさと
意外な分かりやすさとを体験している。

道遠く日は暮れかかっていてもまだ足は動く。
何処へと聞かれても答えられない一人旅。
ゆっくり行こうと自分に言い聞かせながら
道に延びる自分の影を踏んで行く。



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