2010年8月19日木曜日

裕子さんが逝った

 
裕子さんが逝った。

振り向けば喪ひしものばかりなり 茜おもたく空みたしゆく  /河野裕子

2010年5月25日火曜日

先週しんどくて休んだので、昨日は古代史講座に出かけた。

痛んだ膝も少し様子がいいので気分よく出たが、午前中はまだ雨も風もひとしきり降ってやるぞというように強い雨脚でした。

午前中の続日本紀ももう残りわずか。

今日は弓削道鏡が死にました。 って千年以上前の出来事だけど。



私の仕事場のある大阪府八尾市が道鏡の出身地。

今も弓削という土地があります。 ただ地名はユーゲと発音するのですが。

由義神社(ゆげじんじゃ)もあります。道鏡を祭ってるかは知りませんが。

女帝称徳天皇が死ぬまで愛し続けた男。

僧侶なのに天皇並みに鸞輿(らんよ)に乗ったが

彼女の死後東国に左遷された。

罪人扱いで「逓送」と書かれている。

正史に道鏡は、「弓削道鏡法師死ス」と録された。

逓送と言い、死すと言う。

罪人に近い書きようでよほど憎まれたものか。


礼をもって送られなかった寂しい死であった。


講義を聴き終えて街に出ると雨が上がっていた。




時はまさに遷都千三百年行事の最中。人出が多い。


むかしも今もひとは必死で幸せを探している。


ぼくは時々思う。
浄瑠璃寺の吉祥天のふっくらした頬とまあるい眉引きのやさしさ。
うっすら残る唇紅の赤さ。

でもぼくにはいつも、目は笑っているようには見えない。ぼくにはいつも微笑んでくれない。

子供のころからずっとそうだった。

あれは人生に悔悟を示さないぼくをじっと見据えてくる目なのかな…。

薄ら日が差している雨上がりの道路いっぱいツバメで溢れている。

ひらりひらり屋根の低い商店のひさし裏に出入りしてはにぎやかにチチチと鳴いている。

ぼくの顔に当たりそうなくらいに近く寄ってひらりとかわす。
つばめはこんな風だから雀より懐かしい野鳥なのかもしれない。

見ていていつか微笑んでいるぼくがいる。

目をおろすとばったり、またまた目が合った。これで二回目の胖猫(ふとねこ♪~)

じーっと見てやると顔を膨らませて?「アンだよ~」風に見下げる様子で、睨むのだ。

がそっちが下にいるから、どうしても見上げる動作になるので「見下げた」ふりにならない(笑)

にこにこした気分で見ていると伝わるのか、こんどもやはり気を取り直してのっそり起きてこちらへ。
尻尾をぴーんと立てて僕の右足にくっついて一廻り。

おまえ退屈なんだろ。

のら猫にしては色艶がいいし、完璧な胖猫(太猫)で過栄養。ついて来るわけでもないので飼い猫だろう。ともかくも「お知り合い」には入れて貰えたようだ(笑)

今日は朝の道でであった雨の中で草を食んでいた若い雄鹿も澄んだきれいな目をしていた。
ツバメの丸い目を間近に見たし、「チェシャ猫になり損ねました」みたいな猫の一癖ある目もみた。

動物のすぐ横をよぎるのってわくわくさせてくれる。
街中でこんな経験ができるのが奈良という土地のもつ魅力のひとつ。

お菓子を二人分二つだけ買い、パンも買って、
商店街を抜けて家路についた。

2010年3月16日火曜日

日本書紀と續日本紀を読む会を今日は欠席

月間の通信(発送時に同荷する)の作成が遅れていてそっち優先で今日は講座は欠席。
相変わらずひざは時々痛む。
資料を読んでいて風邪が引き金となって鬱を発症する率が意外と高いことに気づく。
こういう点に注意を払ってこなかったな。
免疫反応のひとつとしての鬱の発症。
自分の場合も少し身に覚えがあるような気がする。
もう少し資料を集めて読んでみたい。

調べる必要のある事項のメモ

駭機とは何か: 弩牙とあるがそれ以外に「トラバサミ」などの罠ではないか?
踏むという語との並存の例の解釈と説明として可能かどうか。

七夕: 七夕は七夜つまり第七夜えお意味するが、七夕詩というジャンルのもつ性格を知りたい。
隋唐の七夕詩宴と奈良-平安期の七夕詩宴の対照。

相撲(武)と詩宴(文)の七夕セット。何故場所を変えて行うのか。
詩宴は水辺(池)か曲水の宴だからか。

万葉集に120首以上も七夕の歌があることの意味。外来の「乞功てん」と和歌。

2010年3月8日月曜日

ぼろぼろになりながら 亦看る 梅花

 蝋梅の花が終わり続いて梅が咲いて…「お水取り」

 今日の古代史講座のお仲間のひとりは写真機をもって来たと帰りに言っていた。
 みななかなかに熱心に続けている対象があるようだ。

 もう一人のひとは桜を見ることを続けているそうで自費出版の写真集をくださった。

 ぼくは写真はいまいち上達しない。

 いつも「ちょっとピンボケ」だし、手ブレも多い。

でもたまに優しげな表情の子供たちやそっけなくしている野良猫の様子などが撮れると嬉しいので止められない。

最近はどこか具合の悪いことが多いのでカメラをもって出る癖が消えつつある。
ひざが痛いとか腰が痛いとかするとわずかな重さをわずらわしく負担に思う。困ったものだ。

外国へ移住の決まった親戚のちびさんたちを写真に収めておきたいので元気を出して撮りに行こう。
そう思ってカメラの電池を充電器に入れた。

2009年8月15日土曜日

サルナシ




サルナシのことを気にかけてからずいぶんな歳月になる。芹生(せりょう)という山里に暮していたときサルナシという実を知ったのだが、それが中国原産でニュージーランドで改良されたおなじみのキウィと同じ種のものだといったことではない。なぜこれをサルナシというのか?という疑問なのだ。それは説経節(平凡社東洋文庫)の中でサルナシのことを解説してあって「アイヌ語でサルナシをクチという」と書かれたあったことが発端だった。その真偽は確かめられずにいた。そのころはインターネットで検索エンジンであたるなんてできなかった。だから次のような疑問は疑問のまま残った。
「サルナシのことを別にコクワとも言う。シラクチヅルとも言う。このシラクチヅルはシラクチ+ヅルで、ヅルはヤマブドウをエビヅルと言うように弦性のもの(カヅラ)のことだ。そうするとシラクチ=サルナシということだろう。猿梨がシラクチなら、そしてアイヌ語でもクチが同じものを指すのなら、シラ=猿(サル)なのか?」というものであった

ここでマシラ=猿という辞書の知識が対照される。普通はマシ+ラと語源的分解がなされている。実際マシという用例もあるので、疑われたことはないようだ。だが、マ+シラがマシラになり、後に民間語源説(フォルクエティモロギー)でマシ+ラに再分解されたことも考えられる。シラが猿(サル)ではという疑念はタヅ対ツルの関係に似たものを想像させる。タヅとツルは同源の言葉が異なる変化を被ったあと再び同一の言語環境に並存する運命をたどったのではないか。そしてそれよりは弱い並存としてサル対シラが考えられないか?というのが自分の考えなのだった。

最近サルナシで検索を掛けたらサルナシはアイヌ語でマタタビのことを言うとでてきて、あれ、と思った。

サルナシもマタタビ科であれば、いつぞやのクチ=サルナシ説と平行するとも思える。
アイヌ文化のなかでサルナシをクチというのかサルナシというのか、ホントのことを知りたい。

ただそれとは独立に今昔物語にある「所謂岩見重太郎の狒狒退治譚の原型」である備中中山神社にかかわる説話で猿神の名がシロウゴロウ(だったと思ういま手元に原文がないが、シロウの部分は確かだと思う)という。ゴロウは色々に書かれるのだが御霊をゴリョウと読んだことからきている。これは豊富な実例がある。シロウの部分だが、自分はシラゴリョウないしシラゴロウが後半にひかれてシラからシロウに変化したのではと感じる。

もうひとつ例を挙げると猿の架けた橋という伝説があるが、その伝説の人物は名をやはりシラコと言ったとある。いま出典を思い出せないが。昔話集成のようなのに出ていたのだが。その人物は百済の国からきたことになっている。つまり異人である。ここでは猿と異人とは二つながらに一つの意味を担っている。シロないしシラという神秘なものと猿というもう身近なものの同一性を。
動物の種としての猿を完全にシラと一体に見る事ができるか、疑問だが、シラヤマとかオシラサマとかも関連するかもしれないと思う。マシではなくシラが山中の霊獣=神霊を呼ぶ語であったかと思ったりしているのだ。
キウィの仲間が語りかける原初の列島文化の化石…。

2009年7月22日水曜日

石見銀山遺跡への旅 

三月の旅でした。
古い友人たちとともに山陰の谷間へ
日本史だけでなく世界の近世に大きな影響をもたらした銀山
石見銀山遺跡を訪れました。

早春の花と接待に篤い心根に出会った旅でした。

もう一度訪ねたいとの思いが残っています。

タイトルか下の画像をクリックするとスライドへジャンプします。

2009年1月27日火曜日

熱海から熱海桜の開花頼り。春立ちぬ…

我が村の梅の枝が花を開いてくれるのは何時だろう。
早朝の道で薄闇の中のしろいひと群れから香ってくるとき
胸が熱くなる。
夜も香る梅花の気高さ。
どんな孤独の内に閉ざされてもこの香りは
訪れてくれそう、
道真伝説もさもあらんと思う。


 ひとりごち夜更けの梅の薫りたつ   蛙逝 
 2004年02月27日(金)作

★小川蛙逝 おがわあせい★

筆者の句作などの雅号。小川は文人小川芋銭から蛙逝は俳人長谷川素逝に因んでつけた。いずれも幼少期の終わりに縁があった。文芸への愛着の芽生えに出逢った古人である。

自分や周りの物事が動くとき…

「いろんなことが少しずつ動き出してきたよう」
という実感を、たびたび感じられる時間。

皆さんもそういう経験があ りますか。
ぼくも同様の感じをもった時機がありました。

これは、『人生の開花』の指標じゃないかなと思ったりします。


 道元という人の正法眼蔵という本に『有時』という章があって、

 時間と人生(存在・人間存在・有)を語っていますが、

「有時に經歴の功あり。

 いはゆる今日より明日に經歴す、
 今日より昨日に經歴す、
 昨日より今日に經歴す。

 今日より今日に經歴す、
 明日より明日に經歴す。

 經歴はそれ時の功なるがゆゑに。」

 と言っています。

 難しいですが、

 時は一方方向に流れているように見えるが、
 人生は過去現在未来に分裂した物ではない、
 そう思える間は本当の人生になっていない、
 自分が本当に時間の主体になった幸せなときは、
 自分の一歩一歩が時間とともに開かれてゆくのだ、
 というように語っているように思います。

 今の実感が、未来を開いていく自分自体の力の充実を、
 示しているように思えています。

 自分の力で未来へと自分を開いていく、
 それをこそ真実の『自由』と呼ぶのではないか。

 『自由』へと生成する時間を生きる自らに祝福を!
   

2009年1月24日土曜日

ブログを再開

長く休んでしまっていたこのブログを
再開しよう。
参加しているSNSも偶にしか
訪れられていないが、
努めてキーボードに向かうことにする。
これは自分への促しとして書いておこう。

昨年末から自宅のPCやルーターの調子が悪く、手こずっていた。

こまめなデータバックアップをしないナマクラがたたり
不調のPCの大掃除がやっかいであっちこっちと手作業で
まだ調子が戻らない。フリーズに近いほど長く画面が止まる。

ルーターに至っては古い物だから仕方がないが
熱を持つと動作が変になる。しかし一番の原因は
ACアダプターが断線すれすれの状態だった。
繋がらなくなるのは電源落ちだったわけで、
別の電源に変えたらとたんに様子は良くなった。
これに気づくまでほぼ半月ぐずぐずした不調に
うっとうしい気分だった。気づいても己の不覚に
腹が立ち年齢相応以下の老化かと嫌になった。

年あけてから中国語を諦めるか継続か
ずいぶん考えたが
諦めが付かないので継続を決心。
せめて数百語くらいは覚えることを目指そう。
本当は会話より
易しいテキストを読めるようになりたい。
でもそのためにも会話からだ。

幸い耳には違和感があった中国語の音声が
最近は耳に衝かないようになった。
これだけでも進歩と思おう。
先の長いことだけど。

この一年漢文の読解力は進歩したと思う。
しかし文法知識などにかなり偏りがあるはずで
漢語語法を一度概括的に見直し
出来てないこと知らないことを補いたいと思う。
続日本紀は佳境に入った。
現在、奈良麻呂の変に差し掛かっている。
古代国家とは何かが見えてくるか?
自分の理解力が問われてくるのだが
講義中はついて行くので精一杯だ。
帰りはどっと疲れるが気分は悪くない。
自分が不調でも力をもらって帰れる。

今年一年ブログも書き続けられるよう
願っている。




2008年9月17日水曜日

京都の町を歩いてきました

 10日に京へ出かけました。
久しぶりに二人での遠出です。

植物園に開園時間ちょうどに着きましたが、駐車場のどこに止めるかでちょっと思案して時間を使いました。この日はよく晴れて、暑くなりそうだったので日陰になる場所を確保しました。

昼からの予定のうち一番楽しみなのは、画廊「ヒル・ゲート」の企画展。
それまで、まず植物園でゆっくり歩き、体をほぐすつもりです。
いま走れと言われたら、嫌だ。と言うでしょう。
この夏の消耗はまだどこかに残っている感じがある。
ゆっくりでいい。今日は散歩気分でうろつくのです。

温室の建物の中へ入っていく。(200円払う)














これは係りのひとが落ちたのを集めて水盤に入れて訪れた者に見てもらえるようにして通路の傍らに置いてあるものです。志が感じられる。これが此処の特質だ。気持ちが明るくなる。
ここはじっとりと汗ばんだけれど気持ちよく歩けた。

持ってきたカメラには通販で手に入れたばかりの中古品のマクロレンズを付けた。
杖代わりの一脚をネジ込んでカメラを固定し花を写してみた。
ぼくのよく震える腕も少しは固定されてくれたか、以前よりアップが上手く写せるみたいで嬉しくなった。














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