『悪名』シリーズは今でもビデオで見られます…
大阪人でもあまり知らないが
河内は古代日本の先進地域だった。
五世紀の「河内政権」説はさておいて、
推古朝以降の時代からそれは著しいものがあった。
今では「かわち」というだけで、映画『悪名』での
勝新太郎と田宮二郎の「悪口と喧嘩」のイメージが
後をひいてか、「がらのわるさ」が強調されている。
実際、近世以降の河内は木綿栽培をバネにして
活発な商品化経済が起こった。
その土地の元気と活力が独特の土地柄、気風を生んだのも確か。
その一面は「八尾の朝吉」という(実在のモデルもあった)
河内のやんちゃな男衆のイメージの基となった。
それは小説家今東光氏の筆の冴えがあったからだ。
だが、一面が誇張されたのも事実。
どんよりと変化のない農村ではなく
目端の利く、利にさとく、機転の利く
商い感覚をもった農村人、
河内の男達はみな「頼もしい」「頭の切れが良い」
近代的なセンスを持った大阪人の源流のひとつなのだ。
それはとおく万葉時代、それより古くからの
この土地の先進的気風につながっている。
聖武天皇の時代には天皇が国政の難局を乗り切る方策として
東大寺造営をもって国家鎮護を祈るという一大プロジェクトが興された。
仏教の裾野の広がり無しに、古代日本のこの時期を解釈できない。
大仏造営に協力した僧行基(渡来人の子孫で、菩薩といわれた)と
巨大な信者集団が果たした役割は大きかった。
プロジェクトのリソースは河内からも出ている。
河内や和泉に広がる渡来人系、在地豪族系の仏教寺院や
その文化、生産力(技術者)の物心両面の協力なしには
大仏は完成しなかった。
「悪名」がでたついでになるが、古代史の断片。
「悪僧」の代表は戦前は、(今もか)
弓削道鏡という人物。河内で現在の八尾市の人。
称徳女帝を色仕掛けで籠絡し、国政を曲げ、帝位を窺った悪人-
ということになっている。
だが、称徳女帝の病を癒やした天分に充ちたヒーラーであった。
だから彼女は彼を熱愛する。そのために確かにもう少しで
古代国家の王権は僧侶が簒奪することになりかけただろう。
これは「皇親による継承」という古代天皇制の逸脱となる。
それで、クーデター的に道鏡は失脚していくのだった。
だが熱愛の二人が、河内の道鏡の郷で行宮(あんぐう)を
営んだころの段階でとどまって、我慢していれば、
どういう展開になったか。
河内は1960年代までは見通し遙かに水田や畑の続く平野だった。
だが遙か古代の河内は、寺院が建ち、
川には美しい大陸風の丹塗りの赤い橋が架けられ、
采女風の装束で豪族の娘たちが渡っていく風景がみられたのだ。
しなてるや 片足羽(カタシハ)川の さ丹(ニ)塗りの
大橋の上ゆ 紅(クレナヰ)の 赤裳(モ)裾引き
山藍もち 摺れる衣(キヌ)着て ただひとり
い渡らす児は 若草の 夫(ツマ)かあるらむ
橿(カシ)の実のひとりか寝(ヌ)らむ 問はまくの 欲しき
我妹(ワギモ)が 家の知らなく
万葉集 巻9-1742 高橋虫麻呂歌
反歌
大橋の頭(つめ)に家あらばま悲しく独りゆく子に宿貸さましを
同 巻9-1743 高橋虫麻呂歌
纐纈(コウケチ)染めという古代染色技法があった。
それは河内の在の渡来系の技術で、
纐纈(こうけつ)姓の方がいまでもいるのは、
一族の専門職をその姓としたからだ。
いま高安の里の高みからながめると、大阪城を取り巻く高層ビル群が
近代的群像となって、霞んで見えている。
古代の人々は逆に、難波津に船泊りするとき、
遠くに寺院の塔や大屋根が夕陽に輝いているのを見た。
生駒山の下に広がる河内の風景に、古代都市的風貌を感じて、
もうすぐ都に入れると胸を躍らせたに違いない。