振り返るほど美しき夏の悔い
蜩は夜明けを待たじ夏逝きぬ
蜩=かなかな
月下美人
月下美人今宵顕になりし無知
げっかびじん こよい あらわになりし むち
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迎え火を焚かず我あり薄闇に
むかえびをたかずわれありうすやみに
なごり坂だらだらだらり盆の闇
まごりざかだらだらだらりぼんのやみ
盆過ぎの身のおとろへて庭潦
ぼんすぎてみのおとろえてにわたずみ
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我が裡の胸走り火や星流る
流れいく星に後れて吐息かな
流れたる星に声あり夜の川
「胸走り火」は造語ではありません。
「胸走り」と「走り火」が合わさってできた近世の言葉だと思います。
辞書にもあります。
星流るゝ見合うて失せし君の顔
号泣のその余は知らじ天の川
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我を余所に蟻は列なす黙々と
夏の夜の鏡に光る眼に見入る
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客僧の食い残したる芋の端
芋は秋の季語ですが、俳句では里芋を指すことばです。
ここでは客僧は旅の僧でも他の寺に身を寄せる僧でもなく、
法事や法話に招かれた招待された僧侶を指しています。
接待する側はそれなりに気をつかっていろいろと出すのですが、
田舎のことゆえ不調法でもあり、また量の多さも度外れだったりで。
余す気の無い僧の方も持て余して詫びて箸を置くわけです。
そんな情景を詠んでみたつもりです。
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大蓮を大蓮と云う今日炎天下
おばつじを おおはすという きょうび えんてんか
路上にゐる汗に濡れたる黒頭
ろじょうにいる あせにぬれたる くろあたま
河内では今日(こんにち)を「きょうび」と云う。
東大阪市大蓮。昔は「おばつじ」と云った。いまは「おおはす」
漢字表記は変わらないが、呼び変えたのだ。
「おばつじ」は大蓮の正確な読み方から出ている。
元来は「おおはちす」と呼んだのであろう。
「おおはちす」が「おおはつし」さらに「おはつじ」と発音が変わっていった。
河内にはこういう音変化が多い。
矢作(やはぎ)が「やわぎ」さらに「やうぎ」「ようぎ」
今の「八尾木(やおぎ)地元は今もヨーギと呼ぶ」である。
八尾市の八尾は物部氏の一族である矢作(やはぎ)氏から来ている。
あ、これは自説ですが(笑)別の説もあります。
このオバツジは当麻寺の伝承に寄り添う言い伝えがあります。
当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織り上げた中将姫の伝説です。
「当麻曼荼羅」
その中将姫はこの「大蓮」の池の蓮が立派なのを知って通ってきて採り、
ついにあの曼荼羅を織り上げる祈願を果たしたという。
その話を教えてくれた友の所在を私は失ったままです。
夏の暑い日にこの思い出が蘇るのも不思議です。
名前が「おおはす」と変えられても私の思い出は変わりません。
汗だらけの黒い頭で私と一緒に西瓜に食らい付いた遠い日々の友の顔も失いません。
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沖へ曳く酷暑に舵の軋む音
抗うて進路は変えず日の盛
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