2011年12月23日金曜日

「東電値上げ要請 上乗せ「総原価」手つかず」 東京新聞

「東電料金値上げ 政府は抜本的支援策の検討を」 読売社説


読売新聞の政治姿勢は明確だね。原発推進、東電擁護。
さすが「正力松太郎」の息のかかった新聞だけのことはある。


八ツ場ダム続行

土建屋国家再スタート。

大臣と一緒に地元の政治屋万歳三唱。

民主党の公約違反だけじゃなく、こういう構造を変えられないことをこそ議論してくれないとね。
一方で公務員・官僚をひとくくりに経費削減の大合唱が税金の無駄使いを名目になされているのに、これはどうだというのだろう。

2011年11月27日日曜日

貴船もみじ灯篭 liveイベント情報: バチホリック BATI-HOLIC

貴船もみじ灯篭 liveイベント情報: バチホリック BATI-HOLIC: 和太鼓と唄と踊り 11月27日(日)PM5時30分〜 日本各地に伝わる和太鼓・踊り・唄及びそれらをもとに作曲。 京都を中心に全国各地、海外で演奏活動を行う。日本各地を旅し、 現地の人々に学び、 BATI-HOLICなりのアレンジを加えることで伝統を踏襲しつつ も現代社会に即...

2011年11月25日金曜日

古代中国の夜空に広がっていた星座の一端はこのようなものだったらしい。
古代史の背景として暦や天文の知識の水準がどうであったかという理解が必要と気づいて少し本を読んでみている。
謡曲「弱法師」の中に出てくる不思議な一節「彼の一行の加羅の旅云々」にある「いちぎゃう」こと一行は僧侶であっただけでなく高度な数学と天文知識をもち造暦の技術で唐代の改暦に名を残したという。一行暦がそれであると。
ふん。
「弱法師」では過罰的な旅路で一行を助けて夜空の天体が行く道を照らしたという伝説を既知のこととして地の謡いに使っているが、作者の元雅(だったと思う)はどこからその知識を得たのだろう。
芸能史にはこうした謎めいた事実がいっぱいある。
人生の変転に比して夜空の星はほとんど変わらないように思っていても、実際はそうではない。
本に載っているこうした星座は一般の農民たちなどには無関係のものだったのだろうか。
日本の近世の農民は星を謡うことが少なかったとは言えないが星座の名は少ない。せいぜい昴など。
「月は東にすばるは西にいとし殿御はまんなかに」などはよく知られた農民の歌だ。
占星術と一体になったそれ故に観測を必要とする暦学のあった中国ではその世界観から生み出された星座もあったのではないだろうか。
いろいろなことを思うのだが、今の自分にはまだ深く読み進むだけの学力がないので疑問は疑問のままになって残っていくばかりだ。
もっとも手の着かない疑問を持ったままでいるのもきらいではないのだけれど。

地球からわずか数百光年先の恒星が超新星爆発を起こして死ぬということが最近の研究で分かったという。その話が今夜深夜にNHKで放映されるという。
ぜひ見なくては。人類はどうなるのだろう。
今日爆発して光速で爆発が広がっても数百年先の話だけれど。
何らかの影響はあるのだろうな。
原発事故どころじゃない宇宙からの衝撃に無傷でいられるのだろうか人類は。
美しい星の世界は同時に荒々しい力の発現する場所でもある。
知りたい気持ちと身のすくむ恐ろしさとを一緒に感じる場所、宇宙。

2011年11月10日木曜日

原発事故現場の米国製ロボットは Roombaの兄弟で、改造された軍用ロボットだって知っている?

iRobotの最高経営責任者(CEO)で
スーパーギークのColin Angle氏が
「スター・ウォーズ」ファンなのは、
意外なことではない。

勇敢なR2-D2や
ヒト型ロボットのC-3POが賞賛される中で、
Angle氏は平凡な「MSE-6」に感心する

MSE-6は床の上を走り回って修理をしたり、
「デス・スター」で大勢のストームトルーパーを先導したりする小型の箱形ドロイドだ。

それはなぜか。Angle氏は、
「われわれはあのロボットを作れるからだ」と言う。

R2-D2やC-3POを崇拝するのではなく、
たとえありふれていて
美しくなく危険なものだったとしても
実際の問題を解決することに
ロボット業界が注力すれば
世界は今よりもずっとよい形になるかもしれない。

Angle氏は先週ボストンで開催のRoboBusinessカンファレンスで
開会のスピーチを行い、起業家やエンジニアに対して、
現実的になり、ビジネスの実際的知識を得るよう促した

そうしたアプローチが
iRobotによい結果をもたらした例は枚挙に暇がない。

同社は膨大な数の「Roomba」掃除機を販売したことに加え、

イラクで道端の爆弾から信管を取り除いたり
アフガニスタン洞窟内を捜索したりする
PackBot」ロボットも数多く配備している。

また同社エンジニアは、
2010年のメキシコ湾原油流出事故の後に
深海部の原油プルームを探したり、

福島原子力発電所で
部分的炉心溶融が発生した後に
調査を行ったりするために、
カスタマイズしたロボット
を提供した。

ニュースソースはhttp://japan.cnet.com/interview/35010207/
----------------------------------------------------------

お掃除ロボットで有名なメーカーは

同時進行でアフガンやイラクで
兵器として、兵器補助機械として、稼働中のロボットのメーカーでもある。

利潤のためには軍用も民生用も区別ない。

もういちど読んでおこう。
たとえありふれていて、
美しくなく、危険なものだったとしても、
実際の問題を解決することに
ロボット業界が注力すれば、
世界は今よりもずっとよい形になるかもしれない。

危険なものだとわかっていてそれを利潤の手段にする企業経営者に
世界は今よりもずっとよい形になる、などと言わせてはいけない。

IT化された兵器にあふれた世界で保たれている秩序を
「今よりずっと良い形」と思うのは悪魔的思考というほかない。

.

2011年11月9日水曜日

井上薫「聖徳太子『異名』論」のメモと感想

井上薫「聖徳太子『異名』論--なぜさまざまな名をもつのか」
                  (『歴史読本』1996年12月号)


『歴史読本』は、歴史ファンを対象とした一般雑誌。
玉石混淆の内容。
井上氏は「聖徳太子」「厩戸皇子」「東宮聖徳王」「上宮厩戸豊聡耳命」について触れている。、
中でも「厩戸皇子」について詳しく論じる。
まず家永三郎の研究の紹介。
古代の皇族の名は地名か氏族名にちなんだものが多いこと。
『文徳実録』に「先朝の制は、皇子の生れる毎に乳母の姓を以て之の名と為す」とある。厩戸皇子の場合も「厩戸部」に由来すると主張。
坂本太郎氏の反論。
厩戸部という部民はない。当時、馬の飼育にたずさわっていたのは馬飼部である。井上氏は、「厩戸」は氏族名ではないかとし、岸俊男の論文、
「日本における『戸』の源流」
                  (『日本歴史』197号、 1964年10月)
に支持をもとめる。
岸論文。
飛鳥戸・史戸・他戸・楯戸、その他、「戸(べ)」の字を含む17の氏族がある。それらは朝鮮からの渡来人系に限られており、大和・河内・和泉・摂津・播磨・豊前近江・美濃・越中・武蔵・常陸に分布。
定着は6世紀にさかのぼるといい、特に河内の高安郡と安宿郡に集中していることを明らかにした。
井上氏は、この論文を基にして、
(イ)厩戸氏の女性が太子の乳母をつとめた、
(ロ)厩戸氏が馬の飼育や調教などの技術で太子に仕え重く用いられた、
のどちらかであるとし、後者を重視します。敏達朝の官司制の進展に伴ったもので馬と関係が深かった皇子の名の「厩戸」は「うまやべ」なのだと言う。
その証拠の一つ。
天平神護元年(765)。
馬養造人上の言上によれば播磨国印南野に居た祖先の牟射志は、よく馬を養うことができ、厩戸皇子に仕えて馬の司に任じられたが庚午年籍の造籍の際、誤って馬飼部に入れられたという。改めることを許された。
井上氏はこれを太子の馬官が古来の伴造制の官司とは異なっていたことを示すとする。
他に挙げている証拠。
渡来人である司馬達等は、名から見て馬をつかさどる職掌であって、その子孫は鞍作氏となっている。鞍作氏は蘇我氏だけでなく上宮王家とも関係が深かった。こうした論点に基づいて
「厩戸」は「うまや(の)と」ではなく、「厩戸(うまやべ)氏」に由来する。
後にそれが忘れられた結果、「馬小屋の戸のところで生まれた」などという伝説が生まれた。
厩戸皇子が馬および渡来系氏族と関係が深いこと。
「厩戸」という名がその関連を示唆するものであるのは確かだろう。
「厩戸氏」という氏族が実際に存在したか。
用明天皇や上宮王家とその氏族が関わっていたか。
その記録は残っていない。以上は 聖徳太子研究の最前線 より要約したメモ
--------------------------------------------------------------------


しかし 厩戸を「うまやべ」と読めないかと気づいた私にとってはとても興味深い論考だ。大阪府八尾市にある穴太神社の社地は聖徳太子の生母の屋敷のあったところという伝承がある。河内高安も八尾市域だがそこに渡来系の人々の集住があったことも事実だ。重ね合わせると平群から高安にかけての渡来文化ベルトのようなものが見えるようだ。聖徳太子という名で知られた人物の文化的背景は河内につながっているのだ。

2011年11月5日土曜日

佐藤一斎の三学戒

三学戒

少にして学べば則ち壮にして為すこと有り

壮にして学べば則ち老いて衰えず


老にして学べば則ち死して朽ちず


晩学は不朽のためと言うのか。
いやいや
真理の側に身を置くことの矜恃を言うのだろうね。


少(わかもの)にして学ぶことは多かった。
壮(おとこざかり)において学ぶところが
疎かだったねぇ…ワタシ。
老(きわもの)となって猶学ぶことを取り返すのは
ワタシの場合は執心だろうね。
老いは際物だと思うからじたばたしてしまう。
それが「知って死ぬ」という衝動かなあ。


でも単純に楽しく嬉しいんだから、
それでよかろう。
傍迷惑は仕方があるまい…
面白がってくれる他人(ひと)には
ちょっとお裾分けするんだから良いだろう。


.

2011年10月15日土曜日

蝦夷地域の統合へのステップ

文武元年(六九七)十月壬午《甲子朔十九》  
冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。

陸奥の蝦夷、方物を貢す。

文武元年(六九七)十二月庚辰《癸亥朔十八》 
十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。

越後の蝦狄に物を賜うこと、各々差有り。

文武二年(六九八)六月壬寅《十四》     
壬寅。越後國蝦狄獻方物。

越後國の蝦狄、方物を献ず。

文武二年(六九八)十月己酉《廿三》     
己酉。陸奥蝦夷獻方物。

陸奥の蝦夷、方物を獻ず。

文武三年(六九九)四月己酉《乙酉朔廿五》
夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。
越後の蝦狄一百六人に爵を賜うこと差有り。


和銅三年(七一〇)正月丁夘《十六》
丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。
奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。
隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。

天皇、重閣門に御して、文武百官并びに隼人、蝦夷に宴を賜う。
諸々の方樂を奏す。
從五位已上に衣一襲を賜う。



和銅三年(七一〇)四月辛丑《廿一》
辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。

陸奥の蝦夷等、君姓を賜わり編戸を同にせんことを請う。之を許す。

天平宝字元年(七五七)三月乙亥《廿七》
乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。

勅。今自り以後、藤原部の姓を改めて久須波良部と爲し、君子部は吉美侯部と爲す。


神亀元年(七二四)二月壬子《廿二》
壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。
(中略)從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。 

2011年9月27日火曜日

顔淵死す


272  顏淵死、門人欲厚葬之。
子曰、不可。
門人厚葬之。
子曰、回也、視予猶父也、予不得視猶子也。
非我也、夫二三子也。

272
顔淵死す、門人之を厚く葬らんと欲す。
子曰く、不可。
門人之を厚く葬る。
子曰く、
回や、予(われ)を視ること猶父にするがごとし。
予、子にするがごとくに視ることを得ざりし。
(ああ)我(の為す)に非らざるなり、
夫(か)のニ三子(の為)せるなり。

最も将来を嘱望していた顔回が死んだ。
孔子の気持ちを忖度して門人たちは盛大に葬儀をしたいと申し出たが
孔子は「不可(いけない)」と答えた。
だが門人たちは準備をして盛大に葬儀を執り行った。
孔子はそのことを悔やんで言った。
回はわたしをまるで父親にするように親身に見守り仕えてくれた。
わたしはわが子にするように回をしめやかに送ってやれなかった…
私が願ったのはこんな葬儀ではなかった、
あの弟子たちときたらなにもわかってくれなかったのだなぁ…

2011年8月4日木曜日

三年

冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。

遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。

記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。

白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。

この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。

同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。

賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。

白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。

王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異