2011年6月26日日曜日

白村江敗戦の国難から平城京が出来た、だから日本人は偉い…という漫談。

さきほどNHK日曜討論での五百旗部発言はあきれた。

白村江敗戦の国難から平城京が出来た
(日米戦争の敗戦という国難から大発展したのと同じとおもっているのか?)
という珍説をのべた。

国難というショックと危機意識が
国内対立を棚上げし
有無を言わさない大開発を可能にし
(投資チャンス)をもたらすという「経験則」で
勝手な想像をしているのだが
頭の中身が思わず露呈したのだろう。

しかし、むちゃくちゃな議論だよ。
藤原京だってそう言えないだろうに。
高安の烽火(とぶひ)が作られたような状況は
一過性のもので終わった。
当時の為政者は分かっていたはずだ。


大津京の建設や
壬申の乱を
白村江の敗戦と結びつけるのなら分かるが。

「国難が強い国を作る」云々は、
被災者そっちのけの「復興開発」商売への露払い。
思わず口に出た感じ。

村井宮城県知事も「日本人の美質」を盾にとって
震災復興という名前の財界・官僚主導の民活計画の推進を言う。

それを当然視しての番組作りである。

批判的な意見など出ない番組を平気で作るNHK。
それは結果として情報格差の震源地になることだ。
せめて当事者である住民の声を反映するくらいの
配慮を効かせる工夫は出来るはずだ。

そう言えば村井知事の企業参入での漁業再建計画には
圧倒的に漁業関係者は反対なのに、
(その当事者を無視して知事は「計画案」に固執して再考を拒否したが)、
NHKは賛成派もいるという報道をしていた。

結論が先にある報道は公共放送のすることではない。

復興へはさまざまな提言がなされている。
それらを総合的に議論する場をこそ
NHKは公共放送として企画する責務がある。

多数派だけでの政策づくりの旗振り役では
政権党に無批判になるよう国民を呉誘導し、
国民への正確な事実報道という中心的任務への責任を裏切ることになる。

こういう番組作りは止めるべきだ。

2011年6月23日木曜日

辛酉。 陪從せる仕丁仕女已上及び僧都已下に綿を賜うこと差有り。


巻卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉
賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差

巻の卅 神護景雲三年(七六九)十月廿七日 辛酉。
陪從せる仕丁・仕女已上、及び僧都已下に綿を賜うこと 差有り。


十月己酉《十五》◆己酉。車駕幸飽浪宮。
十月辛亥《十七》◆辛亥。進幸由義宮。
十月癸丑《十九》◆癸丑。以從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲河内守。左中弁右兵衛督内匠頭並如故。
十月乙夘《廿一》◆乙夘。權建肆廛於龍華寺以西川上。而駆河内市人以居之。
陪從五位已上以私玩好交關其間。車駕臨之。以爲遊覽。
難波宮綿二万屯。塩卅石。施入龍華寺。

十月辛酉《廿七》◆辛酉。賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差。

十月壬戌《廿八》◆壬戌。授无位上村主刀自女從五位下。時年九十九。優高年也。

この十月二十七日の記事は称徳女帝が現在の大阪府八尾市である地に造営された由義宮(ゆげのみや)に滞在中の行動のひとつである。
注目されるのは左中弁右兵衛督内匠頭である藤原朝臣雄田麻呂に河内守を併任させたこと、龍華寺の西の川上に肆廛を權建(仮に建てる)して河内の市人を「駆」(追い入れる?)して居住させたこと、難波宮のニ万屯の綿(まわた)などを竜華寺に施入したこと。

これは此処を宮都とするに同じい行動である。

肆廛は文脈からみて「市場」である。市人(いちびと)に強制して居住させるのはここを東西の市(平城京)と同等な場とするための伏線でだから「權建」なのだろう。

無位無官の老婆にいきなり從五位下を与えている。宮殿に上れる身分の従五位下であり、上村主(かみのすぐり)は在地の豪族の圏内の人物だから、これも一種の利益誘導だ。
気風のいい主権者として自己を演出している。

道鏡への愛の発現という角度から見ると空恐ろしくもあるが…。

反対するものを意識しつつも強引に進めるという女帝の姿勢がはっきり見える気がする。
その一方で従う仕丁や仕女、また竜華寺の僧侶たちに物を下賜して周囲を固めているのがこの十月二十七日の記事なのである。
ryugejiato.jpg

由義宮の比定地は説があるとしても八尾の市内のどこかで現在はここが有力か。

http://bit.ly/jFNSXB
「由義神社は、由義宮を西ノ京に神語景雲三年(769)孝徳天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郎にまたがる広域の中心由緒 深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内五社の一社 である立派な旧社であったが、 中世度重なる兵火により消失した。」

この放送、団塊世代にはイイかも

音楽が世界を動かす
ロック、フォーク、リズムアンドブルース、レゲエ、ラップ、ジャズ・・・。音楽が人びとの心に訴えかける力とそこにこめられたメッセージは時代を動かし、社会の変革に大きな役割を担ってきました。音楽は人びとの思考にインスピレーションを与え、精神を高揚させ、多くの人びとを団結させることができます。公民権運動やヴェトナム反戦から反アパルトヘイトまで、そして今も続く第三世界の貧困やエイズとの闘い、それらの運動は音楽と手を取り合ってきました。 


本講座はアメリカとイギリスのアーティストたちを中心に、
20世紀の音楽がいかにして政治やさまざまな運動と関わり、
社会の中で大きな役割を果たしてきたかを振り返ります。
講師は金沢出身の五十嵐氏。 
五十嵐 正(いがらし ただし) 
1958年石川県金沢市生まれ。金沢大学大学院教育学研究科音楽教育修士課程修了。
フリーのライターとして国内外での取材、音楽雑誌の記事執筆。
アメリカのフォーク、ロックの分野に詳しい。 
東京南青山にあった伝説の輸入レコード店「パイド・パイパー・ハウス」での
勤務経験もあり。ミュージック・マガジン誌で
「五十嵐正のフォーキー・トーキー Folkie Talkie」連載中。 

久しぶりに 
NHKラジオ第二聞いてみよう。 
スケジュール表は 
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch03/1107.html 

最近はLogitecのUSBラジオをPCにつないで予約自動録音できているので、
好きなときに聞くことが出来ます。 
夕食後 
見たくもないホームドラマなどに付き合わず(ツレの好きな番組とか)
イヤフォンでゆったり聞くのがいいのです。 
手はPCで漢詩の漢字を調べたりしながら。 

21世紀から見る『資本論』~マルクスとその時代~」というのも面白そうだな。 
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html

わたしの「自慢」は若さの馬鹿力で経済学部でもないのに 
あの難しい資本論を三巻のうち第一巻だけですが
二回読み通した(笑)こと。 

それで忍耐力だけは絶対に自信があった(笑) 
ですが 
年をとると気が短くなって… 

確かに資本論の捉えている資本の本性は 
今東京電力を見ていると変わらずにある。 
「資本論の国」といわれたソ連が崩壊しても 
マルクスも資本論も消え去らないのは 
資本論が真理を捉えているからですね。 

ソ連が「資本論に背いていた国」だっただけです。 

で21世紀にマルクスの文章と資本論はどう読まれていくのか
興味深いですね、わたしには、ですが。 


ぼくには「こっくりさんと資本論」という 
ちょっと面白い経験があるのですが 
記憶があいまいになりかけているので 
その話はまたいつか。 

資本論を読んでもそこに世界の今が書いてある訳は無い。 
でも資本論の論理を使えば
随分と世界は見通しよく見えてくると思います。 

思考力を鍛えることのできる本のひとつとして 
若い人にはお勧めできる一冊です。 

若いころのがんばりを思い起こして 
この放送も聴いてみようかと思います。 http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch02/1107.html

2011年6月20日月曜日

甲辰奉幣帛于住吉社

巻三 慶雲元年(704年)七月廿一日 甲辰。
奉幣帛于住吉社。

巻の三、慶雲元年(704年)七月廿一日 甲辰(きのえたつ、こうしん)
住吉社に幣帛を奉ず。

〇 これだけではその意味は判らない。
手がかりは月日だが…
この年の春は旱魃で雨が降っていないので、諸社に遣使して幣帛を奉げている。
住吉社は航海の神であるがもともと水神だから関連があるのかもしれない。
しかし降雨を祈念するならその旨を記すのが普通だろう。
むしろ一般的に国土の平安を有力な神に祈念したとみるのが穏当かもしれない。

遣唐使等に関連しての住吉社の記事はあるが単独で目的を書かない記事は此処だけだ。
住吉社の続日本紀での初出の記事だが、
他の神社と並んでではなく単独で記されているのは此処だけのようだ。

<住吉社と朝廷との関係、紀記ではどうかと気になったので書いておく>

辛亥車駕幸平城宮

巻四 和銅二年八月
辛亥。車駕幸平城宮。免從駕京畿兵衛戸雜徭。

巻の四 和銅二年(709年)八月廿八日 辛亥(かのと い、しんがい)
車駕、平城宮に幸す。駕に從える京畿の兵衛は(その)戸の雜徭を免ず。

阿閉皇女が即位してなった元明天皇の行動記録である。

車駕は天皇のことを指している。
行幸するときはこういう表現になる。
乗り物を指すのではなく乗っている天皇を指す。
したがってこれは「天皇平城宮に幸す」という意味だ。

新京の平城宮はまさに建設の最中にある。
前年岡田離宮や春日離宮に行幸した際も物の下賜と免除を行っている。
行幸に従うため近畿の各地から動員された兵衛たちに戸ごとの雑徭を免除したのである。

平城宮の建設に関わる負担は大きかった。
それでも新京は着々と建設されていく。
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戊寅山背國相樂郡狛部宿祢奈賣一産三男

巻五 和銅四年(七一一)七月五日 戊寅
山背國相樂郡狛部宿祢奈賣一産三男。
賜絁二疋。綿二屯。布四端。稻二百束。乳母一人。



巻の五 和銅四年(771年)七月五日 戊寅(つちのえとら、ぼいん)
山背國の相樂(さがらか)郡の狛部宿祢(こまべのすくね)奈賣(奈売:なめ)が一(度)に三男を産めり。
絁(あしぎぬ)二疋、綿(わた)二屯、布(あさぬの)四端、稻二百束、乳母一人を賜う。

事実は簡単な内容である。

我が家の近所であるが、現在の木津川市山城町上狛の住人であろう。
当地は三角縁神獣鏡大量出土で有名な椿井大塚山古墳の所在地の近くである。
高麗系の人々の定住地で外交施設・高麗館(こまのむろつみ)があったところと言われている。

狛部宿祢(こまべのすくね)奈賣(奈売:なめ)が三つ子の男の子を産んだので
絁(あしぎぬ)二疋、
綿(まわた)二屯、

布(あさぬの)四端、
稻二百束を与え
それに乳母一人を付けてやった、という記事である。

絁は絹布の一種である。
布は普通は麻布を意味している。
どちらも交換性の高い貨幣としての価値もある。
実用とのみ考えるべきではない。

ここでは二疋(ひき)、二屯、四端という量に注目しておこう。
疋と端(反)は現在でも布の量の単位として受け継がれている。
綿の屯は嵩ではなく重さの単位だろう。

こうした官による恩賜の存在がもつ社会的意味は何だろうか。

救済的意味合いのものとは区別されるべきだろう。
珍しいゆえの吉兆慶事は、王化の成果として、公的に認知して

天下に帝王の徳を示す目的だろうか。

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行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜

巻廿三 天平宝字五年(七六一)五月

丙午 使散位外從五位下物部山背。正六位下曰佐若麻呂。行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜。

巻の廿三
天平宝字五年(761年)五月廿三日 丙午(ひのえうま)

散位外從五位下の物部山背(もののべのやましろ)、正六位下の曰佐若麻呂(おさのわかまろ)を使して
畿内の陂池(いけ)・堰堤(つつみ)・溝洫(うなで)の(それに)宜しき所を行視せしむ。

少し訓読の妥当性に不安があるが、意味は読み取れたように思う。

当時のトラフィックや農事のインフラの土木工事の適所を視察して選定することを二人が命じられ行くという記事だ。

記事の基になった史料は役所の発令の文書(その記録)である。まだこの日付の時点では二人は出動していないのである。

曰佐若麻呂は帰化人系の技術者かもしれない。すくなくとも二人の下に実務に詳しい技術職や事務職がいるのである。

それにしても、旧暦の五月末といえば今の暦で6・7月であるが適当な時季かどうか?
むしろ既設のものの点検と補修の要請を受けての発令ではないだろうかという気がする。

こういう記事の持つ意味の検討というのもひとつの研究のモチーフであるように感じた。

2011年6月19日日曜日

九月辛巳授正六位上後部高笠麻呂外從五位下

古き京で拾った恋は
 「続日本紀を読む心」

『続日本紀』巻廿

天平宝字元年(七五七)九月六日 辛巳《丙子朔六》

九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。

九月辛巳(六日)。 正六位上の後部の高笠麻呂に従五位下を授く。

本人は優秀な金工(金属工芸家)であった。

≪<

高笠麻呂という金工(金属工芸技術者)がいた。奈良の平城京の左京六条二坊に居住し、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼会に使用された、表題の「裁文」を製作した。

「裁文」は大型の金銅透彫板で、最も長い部分が43.5センチの、雲を造形化したものである。たがねで細部を線刻し、全体に渡金していて、柄の片面の部分に「東大寺高笠麻呂作/天平勝宝四年四月九日」と二行に分けた銘があり、また、柄の部分に花喰鳥の流麗な線刻がある。http://bit.ly/k9V0WI

>≫

五年たって従五位下を授けられたが、これは金工であった彼の作ったものへの褒美ではないだろう。通常の昇進とみなせよう。だが作品に署名を残しているほど自負は大きかったのだろうし周囲の評価もあったに違いない。

家系的には高麗系の技術職の家柄であったらしい。

高句麗系の官位に前部(ぜんほう)後方(こうほう)があるので

後方・高(麗)を姓としたのだろう。だから「しりとべ」といった読みは後からのものであろう。

当時どう読んだかは検討が要る。

≪<

正倉院文書の天平十七年(745)に後部高多比、天平宝孝元年(757)に後部高笠麻呂、同五年に高麗の人後部高笠麻呂などの名が見える。姓氏禄に後部高は高麗国の人、後部高千金の後裔となっている。

そして、平安時代には坂上田村麿の征夷に、尻高氏は上野十四郷の加勢一千騎とともに従軍し、大嶽根山の戦いに大功を立てたと言い伝えられている。

http://bit.ly/mnAXpb

>≫

住居は朱雀大路を挟んで大安寺と薬師寺が向き合うその中点あたり当時の五条と六条の通りに挟まれた場所であった。今の八条町のあたりである。

住居がわかるのも面白いが文書が残されているのだろう。 http://bit.ly/iQ2tcG

2011年6月18日土曜日

洛陽道  儲光羲

大道直如髪   大道 直きこと髪の如く 
春日佳氣多   春日 佳気多し
五陵貴公子   五陵の貴公子
雙雙嗚玉珂   双双 玉珂を鳴らす 


洛陽道は都洛陽の大通り。真っ直ぐ長い髪のように伸びている。
 春日(なぜか私の得たテキストでは春来とある)は佳気多し、とは
春の日のうららかであること、うきうきさせるものが多いこと。
ただ天気がいいというのではない。佳人を「よきひと」と読むのにおなじ。
五陵は場所。有閑の貴族子弟や遊侠の徒が集まる繁華な場所。
双双は擬音語。玉製の馬具『玉珂』が触れ合って立てる華麗な音である。  

大道|直|如髪
春日|佳気|多
五陵|貴公|子 (貴|公子か…?)
双双|鳴|玉珂 

詩経のなかに「綢直如髮」という表現がある。
絹糸と道ではずいぶん違うようにも思えるが、大道(ひろびろとした道)が長い髪をほどくように真っ直ぐ伸びているのだ。

大道は地、春日は天(時)、貴公子は人、そしてさんさんと鳴る玉の馬具は繁栄を象徴している。 どこか「祝祭性」の感じが漂う詩だ。

日常を切り取るかに見えて実は…多分に「越境」している。
こう解してよいのだろうと思う。

安史の乱が起こる前の太平楽然とした洛陽の風俗を抽象的に
ただ双双と鳴る玉珂に焦点を結んで切り取って見せた詩である。 

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子 

「みだれ髪」 この歌でも具体的な対象は櫛と髪。
二十という時春という時が輝きと色と重さをもっている。 
春と青春をともに掬い上げて残すところのない詩歌ふたつ。

2011年6月6日月曜日

ピノチェットはパブロ・ネルーダを毒殺したのか? 証言が出始めた

最近の新聞報道で詩人パブロ・ネルーダの死が毒殺であったという疑いが濃いことが当時の関係者の証言などから明らかになり始めた。
赤旗新聞 時事ドットコム スポニチ
 
合法的に選挙で誕生した南米初の社会主義政権、アジェンデ大統領の政府はピノチェットを頭目とするファシストによる軍のクーデタで崩壊し、直後の大量弾圧でビクトル・ハラなど有名芸術家を含む犠牲者がでた。
その最中にノーベル賞詩人ネルーダが死去したが、病死と報じられていた。当時私たちは心労と老齢によって力尽きたのだろうとその死を悼んだ。
当時の新聞記事

しかし、チリ共産党の幹部でもあったこの偉大な愛の詩人は
クーデタ勢力と闘うためメキシコへ脱出をしようとした矢先だったこと、
薬剤を注射された直後に意識不明になり死んだという証言が出てきた。
病気ではなかったのだ。

ようやく証言することが自分の身辺に危険を及ぼさない時代になったから出てきた証言だ。
これは実はアジェンデ大統領の死にもたれている疑問を追及する中で、さまざまのことが明らかになった中の事実のひとつなのだ。
最後まで闘おうとし続けた男に毒を注射して、抵抗を止めさせることしかできなかった者たち。
彼らの惨めさとともに稀有な魂をかくも野蛮な方法で奪い去ったことへの憤りが新たに沸いてきた。
私は彼の死やアジェンデ氏の死の真相が公式に明らかにされる日がきっと来ると信じている。

1976 年にイタリア滞在中に在所の町外れで行われていたPCIのウニタ祭りを見学したとき、イタリア語とスペイン語の対訳になったネルーダ詩集を見つけ記念に買 い持ち帰った。どちらの言葉も読めるわけではないが、眺めていると同じラテン語からの派生らしい似た詩句になっているのが見つかり面白かったものだ。

翻訳で読んでもネルーダのおおきなイマジネーションの広がりと土臭いような温もりのあることばは祖国と女への尽きない愛からほとばしるのだと察せられた。

か なり以前のことだが、イタリア映画に「郵便配達人」という若者を主人公にした作品があり、たまたま目にとまったので買ったDVDなのだが、それは政治犯と しての追及 をを逃れて、イタリアの片田舎の村はずれの一軒家に妻と二人身を潜めるネルーダに、自転車でその一軒家まで郵便を届ける無学な配達人の青年とネルーダの 友情 の物語だった。

時代の雰囲気やネルーダの詩人らしい振る舞いなど面白くまた美しいモノトーンの画面が心に残った。
ネルーダは言葉を残したし、言葉への愛を残した。
映画を見終わったとき私の中にも言葉への愛が生まれていた。

ネルーダの言葉

わたしの詩と生活は、山の奔流のように──「南部」のアンデスの奥に源を発して太平洋をめざして流れくだるチリの激流のように、ほとばしり流れた・・・・
わたしは苦しみ、たたかい、愛し、うたった。勝利も敗北もあじわい、パンの味も血の味も知った。詩人にとって、それ以上に望ましい何があろう?涙からくち づけにいたるまで孤独から人びととのひろい触れあいにいたるまで、すべてがわたしの詩のなかに生きている。わたしは詩のために生き、詩はたたかう勇気をわ たしに与えてくれた。
わたしは文学賞を──蝶のいのちのようにはかない賞をたくさんもらった。だがわたしはまた、もっとすばらしい賞をもらった のだ。ある人たちは、その賞をあざ笑ったりするが、その人たちの手にはとうてい入らないものだ。わたしは長いこと、言葉の羅列した迷路をさまよい、審美眼 をやしない、探求をくりかえすきびしい勉強をくぐりぬけて、やっと人民の詩人となった。こういうわたしのいちばんすばらしい賞は、わたしの本や、外国語に 訳された詩集や、わたしの作品の解説書よりももっとすばらしい。そのわたしの賞とはこういうものだ──ひとりの男が、ロタの炭坑、あるいは硝石坑や銅坑の 奥底から上がってくる。もっと正確にいえば、地獄からぬけだしてくる。ひどく骨の折れる仕事で顔はゆがみ、眼はほこりで赤く血走っている。男は草原のしる しがひび割れやたことなって刻まれているざらざらした手を、わたしにさしだして、燃えるような眼をしていう。「おら、ずっと前からあんたを知っていただ、 兄弟!」わたしの生活のなかの、こういう素朴な瞬間こそ、わたしのすばらしい賞なのだ。草原のなかに掘られた坑道の穴からでてる労働者にむかって、風が、 夜が、チリの星がささやいた。「きみは孤独じゃない。きみの不幸に想いをはせている詩人がいるのだ」と。──これこそ、わたしの月桂冠なのである。
一九四五年七月十五日、わたしはチリ共産党に入党した。


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