2011年6月19日日曜日

九月辛巳授正六位上後部高笠麻呂外從五位下

古き京で拾った恋は
 「続日本紀を読む心」

『続日本紀』巻廿

天平宝字元年(七五七)九月六日 辛巳《丙子朔六》

九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。

九月辛巳(六日)。 正六位上の後部の高笠麻呂に従五位下を授く。

本人は優秀な金工(金属工芸家)であった。

≪<

高笠麻呂という金工(金属工芸技術者)がいた。奈良の平城京の左京六条二坊に居住し、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼会に使用された、表題の「裁文」を製作した。

「裁文」は大型の金銅透彫板で、最も長い部分が43.5センチの、雲を造形化したものである。たがねで細部を線刻し、全体に渡金していて、柄の片面の部分に「東大寺高笠麻呂作/天平勝宝四年四月九日」と二行に分けた銘があり、また、柄の部分に花喰鳥の流麗な線刻がある。http://bit.ly/k9V0WI

>≫

五年たって従五位下を授けられたが、これは金工であった彼の作ったものへの褒美ではないだろう。通常の昇進とみなせよう。だが作品に署名を残しているほど自負は大きかったのだろうし周囲の評価もあったに違いない。

家系的には高麗系の技術職の家柄であったらしい。

高句麗系の官位に前部(ぜんほう)後方(こうほう)があるので

後方・高(麗)を姓としたのだろう。だから「しりとべ」といった読みは後からのものであろう。

当時どう読んだかは検討が要る。

≪<

正倉院文書の天平十七年(745)に後部高多比、天平宝孝元年(757)に後部高笠麻呂、同五年に高麗の人後部高笠麻呂などの名が見える。姓氏禄に後部高は高麗国の人、後部高千金の後裔となっている。

そして、平安時代には坂上田村麿の征夷に、尻高氏は上野十四郷の加勢一千騎とともに従軍し、大嶽根山の戦いに大功を立てたと言い伝えられている。

http://bit.ly/mnAXpb

>≫

住居は朱雀大路を挟んで大安寺と薬師寺が向き合うその中点あたり当時の五条と六条の通りに挟まれた場所であった。今の八条町のあたりである。

住居がわかるのも面白いが文書が残されているのだろう。 http://bit.ly/iQ2tcG

2011年6月18日土曜日

洛陽道  儲光羲

大道直如髪   大道 直きこと髪の如く 
春日佳氣多   春日 佳気多し
五陵貴公子   五陵の貴公子
雙雙嗚玉珂   双双 玉珂を鳴らす 


洛陽道は都洛陽の大通り。真っ直ぐ長い髪のように伸びている。
 春日(なぜか私の得たテキストでは春来とある)は佳気多し、とは
春の日のうららかであること、うきうきさせるものが多いこと。
ただ天気がいいというのではない。佳人を「よきひと」と読むのにおなじ。
五陵は場所。有閑の貴族子弟や遊侠の徒が集まる繁華な場所。
双双は擬音語。玉製の馬具『玉珂』が触れ合って立てる華麗な音である。  

大道|直|如髪
春日|佳気|多
五陵|貴公|子 (貴|公子か…?)
双双|鳴|玉珂 

詩経のなかに「綢直如髮」という表現がある。
絹糸と道ではずいぶん違うようにも思えるが、大道(ひろびろとした道)が長い髪をほどくように真っ直ぐ伸びているのだ。

大道は地、春日は天(時)、貴公子は人、そしてさんさんと鳴る玉の馬具は繁栄を象徴している。 どこか「祝祭性」の感じが漂う詩だ。

日常を切り取るかに見えて実は…多分に「越境」している。
こう解してよいのだろうと思う。

安史の乱が起こる前の太平楽然とした洛陽の風俗を抽象的に
ただ双双と鳴る玉珂に焦点を結んで切り取って見せた詩である。 

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子 

「みだれ髪」 この歌でも具体的な対象は櫛と髪。
二十という時春という時が輝きと色と重さをもっている。 
春と青春をともに掬い上げて残すところのない詩歌ふたつ。

2011年6月6日月曜日

ピノチェットはパブロ・ネルーダを毒殺したのか? 証言が出始めた

最近の新聞報道で詩人パブロ・ネルーダの死が毒殺であったという疑いが濃いことが当時の関係者の証言などから明らかになり始めた。
赤旗新聞 時事ドットコム スポニチ
 
合法的に選挙で誕生した南米初の社会主義政権、アジェンデ大統領の政府はピノチェットを頭目とするファシストによる軍のクーデタで崩壊し、直後の大量弾圧でビクトル・ハラなど有名芸術家を含む犠牲者がでた。
その最中にノーベル賞詩人ネルーダが死去したが、病死と報じられていた。当時私たちは心労と老齢によって力尽きたのだろうとその死を悼んだ。
当時の新聞記事

しかし、チリ共産党の幹部でもあったこの偉大な愛の詩人は
クーデタ勢力と闘うためメキシコへ脱出をしようとした矢先だったこと、
薬剤を注射された直後に意識不明になり死んだという証言が出てきた。
病気ではなかったのだ。

ようやく証言することが自分の身辺に危険を及ぼさない時代になったから出てきた証言だ。
これは実はアジェンデ大統領の死にもたれている疑問を追及する中で、さまざまのことが明らかになった中の事実のひとつなのだ。
最後まで闘おうとし続けた男に毒を注射して、抵抗を止めさせることしかできなかった者たち。
彼らの惨めさとともに稀有な魂をかくも野蛮な方法で奪い去ったことへの憤りが新たに沸いてきた。
私は彼の死やアジェンデ氏の死の真相が公式に明らかにされる日がきっと来ると信じている。

1976 年にイタリア滞在中に在所の町外れで行われていたPCIのウニタ祭りを見学したとき、イタリア語とスペイン語の対訳になったネルーダ詩集を見つけ記念に買 い持ち帰った。どちらの言葉も読めるわけではないが、眺めていると同じラテン語からの派生らしい似た詩句になっているのが見つかり面白かったものだ。

翻訳で読んでもネルーダのおおきなイマジネーションの広がりと土臭いような温もりのあることばは祖国と女への尽きない愛からほとばしるのだと察せられた。

か なり以前のことだが、イタリア映画に「郵便配達人」という若者を主人公にした作品があり、たまたま目にとまったので買ったDVDなのだが、それは政治犯と しての追及 をを逃れて、イタリアの片田舎の村はずれの一軒家に妻と二人身を潜めるネルーダに、自転車でその一軒家まで郵便を届ける無学な配達人の青年とネルーダの 友情 の物語だった。

時代の雰囲気やネルーダの詩人らしい振る舞いなど面白くまた美しいモノトーンの画面が心に残った。
ネルーダは言葉を残したし、言葉への愛を残した。
映画を見終わったとき私の中にも言葉への愛が生まれていた。

ネルーダの言葉

わたしの詩と生活は、山の奔流のように──「南部」のアンデスの奥に源を発して太平洋をめざして流れくだるチリの激流のように、ほとばしり流れた・・・・
わたしは苦しみ、たたかい、愛し、うたった。勝利も敗北もあじわい、パンの味も血の味も知った。詩人にとって、それ以上に望ましい何があろう?涙からくち づけにいたるまで孤独から人びととのひろい触れあいにいたるまで、すべてがわたしの詩のなかに生きている。わたしは詩のために生き、詩はたたかう勇気をわ たしに与えてくれた。
わたしは文学賞を──蝶のいのちのようにはかない賞をたくさんもらった。だがわたしはまた、もっとすばらしい賞をもらった のだ。ある人たちは、その賞をあざ笑ったりするが、その人たちの手にはとうてい入らないものだ。わたしは長いこと、言葉の羅列した迷路をさまよい、審美眼 をやしない、探求をくりかえすきびしい勉強をくぐりぬけて、やっと人民の詩人となった。こういうわたしのいちばんすばらしい賞は、わたしの本や、外国語に 訳された詩集や、わたしの作品の解説書よりももっとすばらしい。そのわたしの賞とはこういうものだ──ひとりの男が、ロタの炭坑、あるいは硝石坑や銅坑の 奥底から上がってくる。もっと正確にいえば、地獄からぬけだしてくる。ひどく骨の折れる仕事で顔はゆがみ、眼はほこりで赤く血走っている。男は草原のしる しがひび割れやたことなって刻まれているざらざらした手を、わたしにさしだして、燃えるような眼をしていう。「おら、ずっと前からあんたを知っていただ、 兄弟!」わたしの生活のなかの、こういう素朴な瞬間こそ、わたしのすばらしい賞なのだ。草原のなかに掘られた坑道の穴からでてる労働者にむかって、風が、 夜が、チリの星がささやいた。「きみは孤独じゃない。きみの不幸に想いをはせている詩人がいるのだ」と。──これこそ、わたしの月桂冠なのである。
一九四五年七月十五日、わたしはチリ共産党に入党した。


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2011年5月24日火曜日

嫦娥的舞蹈

今読んでいる李商隠の漢詩は
嫦娥を題材にした詩なのです。
最後の部分で
李商隠は嫦娥は悔やんでいるのかもしれない
と結んでいます。
その一句に
眉根を顰めた
中国美人の表情を思い浮かべます。
まして嫦娥は仙女
美人でないはずはありません。
何を悔いているというのでしょうか…

月に棲むという嫦娥。
 嫦娥は
夫を裏切った女。
 不老不死の仙薬を
西王母から得た夫の目を盗んで
持ち逃げして
飲んでしまったのですね。

いつまでも若く美しくありたい
そんな欲に惑わされて…

 月に見える影が
人に見えたり
兎に見えたり…
 でも
それが蟾蜍(ひきがえる)
に見えたら
天帝によって
姿を変えられた
嫦娥なのだという
伝説もあります。











嫦娥の涙。
ひとしずくの涙の訳は?

おとこには
ついぞ解らぬ哀しみなのかもしれません。



303 嫦娥 李商隱

雲母屏風燭影深 雲母の屏風 燭影深く
長河漸落曉星沈 長河 漸く落ち 曉星沈む
嫦娥應悔偸靈藥 嫦娥 應に悔ゆべし 靈藥偸みしことを
碧海青天夜夜心 碧海青天 夜夜の心 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


雲母を散らしたきらきら輝く屏風が燭台の蝋燭の灯に照らされている影深い夜中
夜空を横断する長大な銀河もようやく西のほうへ落ちかかり早暁を告げる金星ももはや沈んでいくころ
長い夜を過ごした天空の仙女.嫦娥はきっと悔やんでいるのにちがいあるまい、夫から霊薬を盗んで逃げ去ったことを
何処までもつづく青い海原に似た蒼穹に住んでも、ただ長いばかりの、夜という夜を過ごすよりない、その尽きない寂しさ…



吉井英勝氏ネットメディアで原発問題を語る

5月16日 自由報道協会主催
ほんま、このひと堅物を地でいくタイプだけど、それだけに貴重な一貫性がある。

2011年5月22日日曜日

蘆舎将崩壊乎?


今朝電脳が卒中。旧式の方だが常に文字通り座右にあって
漢詩の入力やウエブ閲覧に使い連絡のメールも大概はこの旧機を使っていた。
いきなりくるとやはり困る。

最近はドロップボックスなどを使うしメールもウェブメールだから損害は軽微で済んだ。

でも書きかけのメモなどは多分駄目だ。一度修理に出したものだし、あきらめ時なのだろう。

OSがXPでないと使えないアプリを使う習慣を維持するそのためだけに頑なに使い続けた。潮時だろう。

我が家全体が「蘆舎将崩壊乎?」と叫んでいる状況。
パソコンよ、お前もか。
幸いにもwindows7のXPモード(バーチャルマシン)で旧式ソフトを使用可能を確かめた矢先だった。乗り換えなさいって言われた気分になる。

旧機ではCPUが古いのでフルセグでTVもできなかった。
アナログ終了も近いし、新しい方のPCを座敷から運ぶとしよう。
こちらも同じソニー製VAIOの新しいといっても現行機種ではない。
型落ちを安く購入したVISTAマシンを「7」を購入しアップグレードしたもの。
だから付属のOffice2007などは使っていない。ピュアな「7」。

どうも2007が嫌で2003のOfficeを使っている。
ところがVISTAではよく「落ちた」。 「7」でもありうるから
XPモードにインストールしてXPでOffice2003を使っている。

機械は新しいのに人間もアプリも古いまま(笑殺)


余談。

ものが経年変化するのを一からげにエージングというそうだが
長寿もまたエージングだな。

工芸では態と古色を出させるために風雨に曝したり
日に当てることを枯らすという。
これもエージングだ。

しかし、枯らすには否定的なものは何もない。

アンチ(ティ)エージングなんて言葉があるように
エージングにはいい意味はあまりないのかも。

枯れ木に花咲くこともあるのが
人生の面白さなんだから

枯れ色のスイートも
美味しいのがあるのだから

アンティエージングは止め
素直に
「美しく」? 枯れましょう。 

2011年5月16日月曜日

フォローしている人の短歌

たましひのはんぶんきみにあげたからかはりにぬれるしろきあじさひ
 #jtanka  @sunajopon

たましいの半分だって。

半分だけ?

それは冗談だけど、とても感覚的な歌だから、

老いぼれには見えないところがあって…

パンケーキみたいなたましいを半分にわけて

そっと手渡しにくれるひと。

ぼくにもそんなひとがいたな。

そしていまも、いる。

通りにはあじさいが咲いていて

その大きな花のしろさが

ブラウスのしろさとダブってにじんで見える

ほんとうははんぶんあげたのは

雨傘のこと

ならんで歩く半分のスペース

肩半分はぬれながら行く

それがなんだかうれしくて


そんな風に読んでしまう。

素人の見当違いなんだろうけれど。

うちの紫陽花は文字通りの紫青

まだ咲くそぶりもない。



為有  李商隠

為 有 雲 屏 無 限 嬌
鳳 城 寒 尽 怕 春 宵
無 端 嫁 得 金 龜 婿
辜 負 香 衾 事 早 朝

wèi yǒu yún bǐng wú xiàn jiāo
fēng chéng hán jǐn pà chūn xiāo
wú duān jià dé jīn guī xù
gū fù xiāng qīn shì zǎo cháo

雲屏(うんぺい)  雲母を散らしたあでやかな屏風。
            実は美人をいう間接の表現。
嬌(きょう)     
女性のコケットリー。愛嬌。
鳳城(ほうじょう) 
鳳凰の来る城(まち)=都、京城。
            具体的には長安。九重ともいう。
寒尽きて      
冬がおわっって。
春宵を怕る     
夜の短いことを怕(おそ)る。

            困るなぁという気分。
端なくも       
思いがけなく。
金亀         
高官にのみ与えられた金の亀形の帯留め。
香衾(こうきん)   
香を焚き込めたいい匂いのする掛布団。
辜負(こふ)     
そむくこと。背にして。
事(こと)とする   もっぱらにすること。

  雲屏に無限の嬌あるが為に
  鳳城に寒尽きて、春宵を怕る。
  端なくも金亀の婿に 嫁するを得たるも
  香衾を辜負して、早朝を事とせんとは

   女の器量が十分に備わっているせいで
   花の都に春が来たのに夜の短さを憂えねばならぬ。
   思いもかけず金亀を帯びる身分の高官の妻となったが
   なんということか、夫は香しいベッドを顧みず早朝に出仕してしまうなんて

閨怨詩の一種といえようか。
うら若い女性の孤独と哀怨の風情を詠う。
当て外れな状況として孤独な閨(ねや)を描写する。
道具立ては貴重な装身具の金亀や香衾。
季節は春情の季節、春の夜。宵は夕方でなく夜をいう字。
春宵の交歓と早朝の出仕の対比が趣向としてあるか。
鳳城は典故がある。杜甫の詩などにもでてくる。

春の長安の悩ましい夜の風情を詠っているのだが
李商隠は一筋縄ではいかない詩人で
この詩も政治的暗喩をもっているというひともあるらしい。

晩唐の詩は繊細華麗あるいは優艶。
退廃と散逸に近づいているようだ。
すこし難解な詩風。

本を並べて参照しながら作詞したことから李商隠は獺祭魚と綽名された。
獺(カワウソ)がとった魚を岩に並べ神祭りしてから食べるように見える習性を獺祭魚と言い、
書物に埋没する人士を獺祭の人というようになった。
最初の獺祭魚が李商隠である。
子規が獺祭書屋主人と号したところから9月19日の正岡子規の命日を獺祭忌という。
日本の獺祭魚詩人は正岡子規だ。

2011年5月15日日曜日

孫に飴を買ってやる詩

 
一銭    陸游

萬事紛紛不足論
滿庭枯草閉柴門
一錢留得終羞澀
持買餦餭引福孫


万事に紛々論ずるに足らず
庭に枯草満ち柴門を閉ざす
一銭留め得て終(つい)に羞渋(しゅうじゅう)
(じ)して餦餭(あめ)を買って福孫を引(いざな)


紛々というのは紛糾、紛争の紛だろう。紛乱だ。

些細なことが一杯。雑駁にある日々。
実態は貧乏なので忙しいのだ。
手入れも出来ない庭には

いつか雑草が茂り見苦しく枯れている。
こんな暮らしで訪ねて来る人のあてもない。

それを隠者風に柴門を閉ざすなんて言ってもみるが
実際は手元に今日残ったのは僅かな銭。
それでも、飴くらいは買えるぞと

孫を呼んで連れ立つとしよう。

こんな風に解釈できるように思うがどうか。
誘う(引う)をどう読むかだが、
飴を買ってきたので
「おいで、飴があるよ」と部屋へ孫を呼び入れるとも読める。
でもいっしょに買いにいこうと誘うほうが
いっそう楽しみはあるはずで
道連れの会話の楽しさは部屋でより多いと
陸游も感じただろうと勝手に決めて読んでみた。
 

2011年5月14日土曜日

現代にも顔回はいるのさ

やれやれGoogleのBloggerが回復。 





 131 子曰、 賢哉、回也、 一箪食、一瓢飲、在陋巷、 人不堪其憂、回也不改其樂。 賢哉、回也。 


子曰く。
賢なるかな、 回や。
一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴょう)の飲、
陋巷に在り。
人はその憂いに耐えざるに、回やその楽しみを改めず。
賢なるかな、回や。 



故高田渡(フォーク ミュージシャン)を何故か思い出す。 










 


孔子の高弟というと 
何だか後光が差してるような感じで 
想像が先走るが、 
実際は質素で温和で考え深い人。 

それに下町に住んで(在陋巷) 
一食は一椀の粗食と一瓢の(ワングラスの)ドリンク。 
(瓢箪を半分に切った椀というのも質素そのもの、というか貧乏って事) 

一生アパート暮らしで 

歌と酒を愛し 

人生を洞察しながら 

こよなく愛した様子の 

高田渡が顔回に重なって見えてしまう。 

わたしにも街暮らしへの憧憬が 

どこかに生まれているのかもしれない。 


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