2011年5月9日月曜日

離島暮らしに似てきた

忙しい季節が終わって気抜けして
また出不精という悪い癖がもっどって来たようだ。

講座の類も休んだりしている。
体調はまあいいのだが
さまざまな事件の印象が強くて
それがじわーっと効いてきている感じだ。

毎年今の季節は
春から夏へと動いていく季節の凄さに圧倒されて
取り残されたーという思いをする。

たけのこを蹴って折り倒し
道を下っていくだけでもう疲れていく感じがある。

物凄くでっかい「春」という漢字を背負っているようなものだ。
なんだか酷く重いのだ。
ここは連休あたりでやっと春たけなわだ。
空中にいっせいに羽虫や蜂や蝶が舞い始めた。
にぎやかなしかしうっとおしい空。

たしか今「孫文の義士団」とかいう映画が掛かっているはずなんだが…
カンフー活劇だが時代の描写が見てみたいなと思う。

漢詩読みの師匠のことが
ずっと気になっていて
それで鬱々としていることもあるかもしれない。
はやくいい知らせが来ると良いが。

もうひとつ。
古い古い友人が突然
ケイタイにかけてきた。東京からだ。
もう交際は途絶えたように思っていた。
お互いに随分遠いところで暮らしているので
気心も知れなくなっているし、
まあそんなものか、向こうもそんなところだろう…
勝手にそう思っていたが
電話がかかって驚いたが…

それは彼の妻の逝去の知らせだった。
絶句に近かった。
知らせておきたい対象に私が入っているというのは
小さな驚きだった。
これだから人間商売はわからんことだらけなのだよ。

京都へでも集まってまた会おうかい…と彼は言う。
いいよと応える私がいる。
電話番号の相互確認。

去年は河野裕子さんが死んで、ことしは直以さんか。
ふたりとも自分の寿命を生ききったんだろうな。

娘と二人で居るとのことだが
寂しくなっただろうな

1961年の夏の彼の姿が
急に目に蘇ってくる

ちっとも何も変わってはおらんよ。
声といい口調といい
あのころのまんまだ、よ。ふふふ。

またその時がくれば会えばいいさ。


2011年3月16日水曜日

日本への同情、賞賛、そして原発の不安という感情

友人のBlogからの引用ですが…
アメリカでの報道の様子が垣間見えます。
人間同士の連帯はこのようにして生まれ育つということを…

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今日、JMM(Japan Mail Media)から配信された
冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)氏の報告を紹介します。
サイトのアドレスだけにしようとしたのですが、まだサイトには掲載されてないので、コピーしました。

紹介なので、コメントは要りません。

 「アメリカは週明けの月曜日を迎えました。これまでの各局も「ぶっ通し」の報道体制でしたが、各テレビ局のエース級のキャスターが日本に入り、現地からの報道を開始したために報道の視点がグッと近くなり、「人ごとではないが外国の惨事」というトーンから「現在進行形の<私たちの悲劇>」というニュアンスに変わっています。
一言で言えば、様々な意味で感情的になってきているように思います。

 NBCは朝の『トゥディ』というニュース番組のメイン・キャスターの一人、アン・カリーをはじめとして4名以上の記者が入っていますが、中でもアン・カリーは甚大な津波被害を受けた南三陸町から生中継を行い、被害の状況を詳しく伝えていました。彼女は、海軍軍人のお父様に帯同して幼少期を佐世保で育っており、お母様が日本人の日系二世ですが、日本語でコミュニケーションしながら、それを極めて的確な表現で伝えていました。

 それはNBCの『ナイトリー・ニュース』という夕方のニュースでしたが、キャスターのブライアン・ウィリアムスが「これだけの被害に見舞われても日本人が冷静だというのは驚き(サプライズ)ですよね」と呼びかけると、カリーは「私は日本で育ったので驚きません。でも、今回は、インタビューすると多くの人が微笑みながら応対してくれながら、目には涙を浮かべているんです。これは私には初めての経験です」
と述べていました。その後のウィリアムスの表情は崩れそうでした。

 カリーが南三陸町に取材に入ったのは、キャノン・パーディさんという行方不明の米国人を探すためでした。彼女はALTとしてこの地の中学校で英語を教えており、任期を終わって一旦帰国したものの、教え子達の卒業式に是非参列したいと日本に戻って、南三陸に着いたその日に津波に襲われていたのです。通信手段のないまま、アメリカの家族は消息が確認できずにいたのですが、カリーはツイッターを駆使して彼女を避難所で探し出したのでした。番組の中では、衛星回線を使ってアメリカの家族と無事を喜び合うパーディさんのドラマが紹介されていました。

 実はこうしたALTの被災者というのは何人もあるようで、各局が避難所などで取材をしていますが、「自分は一緒に被災した人たちの支援をしたい」と言うアメリカ人も多いようで、それに対して「本当は帰ってきて欲しいけど、きっとそう言うだろうと思っていました」という留守家族の声なども紹介されています。

 CNNは人気キャスターのアンダーソン・クーパー、医療評論家で全米で最も有名な脳外科医であるサンディ・グプタ、そして社会派の記者ソリダート・オブライエンが主として宮城県から福島県を精力的に取材しています。クーパーも「大地震、大津波、原発事故と三重の大災害に見舞われながら、これだけ礼節が保たれ平静だというのは驚嘆するしかないです」と述べ、特に「非常用給水に長蛇の列を作っていた人達が途中で水が無くなってしまって、今回はダメだとなった時にももらえなかった人が誰も叫んだり暴れたりしなかった」シーンは衝撃だったと言っていました。

 募金活動も力が入ってきています。14日の晩のCNNにはアメリカ赤十字のゲイル・マクガワンCEOが小野洋子氏(ジョン・レノン夫人のヨーコ・オノ)と一緒に出演して、日本向けの募金を募っていました。小野洋子氏は「私は日本で戦災にあって、東京が焼け野原になったのを経験していますが、日本人は何もかもを失っても団結して苦難を乗り越える人々だと思います。でも、そのためには支援も必要です」と訴えていました。

 こうした報道の結果、アメリカ人は、ある意味で、日本人の喪失感や苦闘を自分のことのように経験しようとし、経験しつつあるのですが、そうした感情的なリアクションは別の形でも出ています。それは原発問題に関する議論です。一言で言えば「これだけ用意周到でテクノロジーの進んだ日本でも問題が起きるのだから」という理屈で、「アメリカの原発も総見直しが必要」というエモーションがじわじわと増大しているのです。

 NBCのブライアン・ウィリアムスによれば日本は「ハイパー・プリペアード・カントリー」つまり「超用意周到な国」であるという表現を使い、今回の福島第一原子力発電所の事故に関しても極めて同情的でした。これほどの惨事にも関わらず、情報の錯綜に関する批判はあっても、事故を起こしたことへの批判はほとんどありません。そうした認識が、逆に「日本でもこうなったのだから」原発一般が心配だというムードになっているのです。アメリカの月曜日は、日本への同情、賞賛、そして原発一般への不安感という「感情論」に覆われていたと言えるでしょう。」

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向こうではこんな具合に見ているのか…

2011年3月8日火曜日

春は足だけみえているが…

2011年03月07日(月)



昨日は雨模様になって遊歩は止め
通行に邪魔な孟宗竹を切り除く。
悪戦苦闘。長大なうえに重い。
わが体重より重い。
ノコで切り道の脇に積んで終わったら汗だく。
朝日新聞朝刊の俳句短歌欄に
多分紙面のディレクターだろう、
永田河野夫婦の歌を取り上げたコラム。
一年たっていないのだ、と改めて思う。
何度でも立ち帰る思いでのけざやかに。

夕東風や ゆくへ危うき くらまみち

みずのいろ 不意にかはりぬ うめの傍

2011年03月04日(金)


新しい知人から葉書いただく。歌舞伎グルメとも云うべき方。
浄瑠璃のことなど教えてもらえそうな期待感で
温い気持ちになった。
飲み会で一緒になった友達のブログを「ちょっと見」したが、面白そう。
マーク付けて明日ゆっくり読んでみよう。
映画Facebookの感想も書いていたみたいだし。

眠気が襲ってきた、もういかん…

2011年03月02日(水)

何年ぶりだろうか、二日酔いで頭が痛む。
昨夜中学時分の男三人と夫婦一組で飲み会。
東大出の不動産屋と青汁屋とログハウスに住む隠居人と
歌舞伎グルメという取り合わせだった。
全く違った足取りで来たのだが、
意識の底にあるのは主権在民と人権と平和主義の教育だなぁ、
とあらためて感じた。
政治以前の感覚として。
無意識にそれで生きている。
良い夜だった。

梅が咲き菜の花が広がり、いいなぁ。春。春。春。

でも句ができないぞ。
頭がズキズキして。

2011年3月3日木曜日

春行 興に寄す


今日の詩

          春行寄興  李華

       宜陽城下草萋萋 
   
       澖水東流復向西
   
       芳樹無人花自落
    
       春山一路鳥空啼
    

宜陽城下 草萋萋
澗水東流し復た西に向う
芳樹 人無く 花自ずから落ち
春山一路 鳥空しく啼く

萋萋 せいせい
澖水 かんすい


宜陽城下は草がぼうぼうと茂り
谷川は東に流れ、また西に向かう
木々のかぐわしい花はそのままに散っていき、
春山に一路の道あり、人気ないあたり鳥が鳴いている。

春行寄興 題は「春のそぞろ歩きのうた」といった感じの題だろうか。
自落・空啼は対になっている。「自ずから落ちる」も
「空しく啼く」も人の介在なしに在る様子を表現している。
空しい山「空山」が人気ない山を云うのと同じこと。
萋も人手を予想しない生え方であろう。

関係の有無は知らないが
芭蕉の「行く春や鳥啼魚の目は泪」の句を憶いだした。

春が来たと実感できた日に読むにはこんな詩がいいかなと。
城下というのは中国語では「城壁の下」か「都城のあたり」だろう。
ここでは「町はずれ」と読めばいいのだろう。
居住区や商工区は城内だから、城下というのは郊外になるだろう。

宜陽の町はずれには春の草が生え出ている、という風景。

宜陽の城下(まちはずれ)
草ぼうぼう

澗水(たにがわ)流れて
東複た西

春山一路(はるの野のみちどこまでも)
無くして(ひとけなくして)

芳樹(はなぎにかくわしくさく)
花は自ずから落ち
空しく啼く(きくひともなくとりはなく)

意味はこのような組立だろう。

2011年2月26日土曜日

疲れたツレアイと外食

朝から「しんどい」(つらい)と言っていたが
月末の仕事があるのでツレアイは仕事に出る。

私も仕事を抱えていて同じく出る。

夕方に二人は統一地方選挙がらみの演説会に
参加を誘われていたのだ。
が危ぶみながら家を出たのだった。

案の定ツレアイは「行かれへん」と言ってきた。

年を重ねて老化が始まると
ちょっとした風邪でもこじらせると厄介だ。

一昨年のぼく
が同じ目に合っている。

ふたりで話し合って帰宅前に外食した。
帰宅後の家事を止めるためだ。


国道沿いのリンガーハットへ行く。
安易な選択だが
二人ともチャンポンや皿うどんは嫌いじゃない。

Yohは皿うどんセット(太麺皿うどん+餃子)。

ツレは普通の皿うどんセット。

う~太麺の皿うどんはNGだったぁ…
パリパリした歯触りととろ味のマッチングが崩れてる…
太い麺自体が不味かったんじゃないのだ。
取り合わせが好みじゃなかったんだ。

パリッとした皮とジューシーな具で
餃子が美味しかったので気落ちしないですんだ。

奈良ファミリーに立ち寄って野菜を買う
とツレがいうので寄る。

4Fで待つ間FONの電波がある場所に都合よく
ベンチがあり座ってAndroidでブラウザを使う。
え、まよさんのライブの日だよ。
間に合うかな~


帰り着いてPCに火を入れるも不調。焦る。

結局まだ使い慣れていないiPADに
急遽ニコ生アプリをダウンロードして
チャンネルをさがし、どうにか接続。
途中から入室。

兼六園が映っているじゃないか…

蓮蒸しというまよさんの声。


何度か画像が途切れる。
無線LANの調子が悪いのか?

まだ雪釣りのついた兼六園の松が頭に残った。

あの背景の空の青さ。
やっぱりもう、
春はそこまで来てる。

水曜日に会社へ向かう朝の路に花はなかったのに
その日の夕方村の道端に白梅が咲きそろっていた。

香気充ち薄闇に知る白き梅

激動の二十一世紀の一日を荘厳して白い梅の花
倒れた若者たちの傍へ往け。

2011年2月21日月曜日

人生はどこを切っても美しい 

先日、梅田で映画「シチリア・シチリア」という作品を見てきた。
ぼく好みの時間の流れ方の映像詩で心がざわついて、今もそれは消えていない。

「海の上のピアニスト」のジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品で監督の父親の人生を通してシシリーの町と時代と人生を描いている。

ぼくは自分が画集を持っているイタリアの戦後リアリズムの画家グトゥーゾが登場人物になっているというそれだけの興味で見に出かけたのだった。
映画館で美大の同級生のAさんにばったり出会った。
やっぱり見に来たんか、という顔をしていたが、ほんとうは上に言ったように内容の知識なしで出かけたのだ。Aさんの顔つきの理由は上映が始まって直ぐに気づいた。
主人公は極貧の家庭の子で、左翼化していく南イタリアの貧農の先頭に立って行くのだ。
PCIの党員になって市会議員にもなるという人生行路だ。その子がジュゼッペ監督なのだ。

映画全体は佳く出来ていて時代の動きも正確で年代記的性格も十分に備えた作品と言える。
ぼくにはこの映画にイタリア共産党の奥の深さと固有の弱点がちゃんと表現されているのに感心した。
映画自体は政治的主張はまったくない。むしろ突き放したような描き方があってそれがこの映画の美しい叙事詩的色彩を支えていると見た。

イタリアに滞在した折にしったことだが、ジュゼッペというと愛称はピーノときまっている。知り合った青年の呼び名がピーノで本名はジュゼッペだったからだ。
たぶん生まれた日取りにそれぞれ聖人が居てその名前が関係するのだったはずだ。
そんなことを思い出しながら映画を見ていた。

同時代の映像詩。
監督の父親が走り抜けた人生の同じ時間を
このぼくも友人たちとともに走り抜けてきた。
ナポリまでは行ったが
シチリアには渡らなかった。
シチリアにのこるギリシャ人が建てた神殿を見に行きたかったのだが
そのときは時間が許さなかった。
BAARIという町で生き苦悩し闘っていたひとりの男。
その男を知ることを通じてぼくは自分の30歳のころへ旅をしたようだ。

シチリアの青い空を胸に抱いたまま寒い街へ出た。
空には星ひとつ見えない大阪の夜だった。

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2011年2月12日土曜日

読游会の特別例会(月例200回!記念)

一海知義先生の漢詩講座で読游会200回記念の特別例会への参加の申し込みをしてきた。

あの「漢詩道場」「続漢詩道場」の「現場」に立ち会えるのである。

興奮せずにはいられないのだ。

それなりに自分でも予習して話が少しでも理解出来るようにしたいものだ。

ゼミ形式みたいなものらしいから報告者が居て追手門高校の先生の濱中さんという方の様だ。

河上肇の陸放翁鑑賞の詩を順に読み解く会だから予習は可能だ。

濱中先生のHPのリンクをたどり次の詩が何かは分かるはず。

さて、頑張ってみるとしよう。