2010年10月31日日曜日

温家宝氏が微妙な立場にあると見える

ここのところの色々の情報からみて
温家宝氏に向けて礫が飛んでいるように見えるが。

中国社会の発展する勢いの様々な矛盾にとんだ局面の一つだろうが
どうなっていくのか。

『燕山夜話』という本を古本屋で今日買った。
昔一度読んだ本だがすっかり忘れてこんな本だったかいな、という調子だった。

毎日新聞社の出したものだった。
当時は日本人にとって「読んでみたい本」だった。

『海瑞罷官』とこの『燕山夜話』とが「文革」(プロレタリア文化大革命)の口火だったからだ。

この本の終わりに追加で桃文元の「批判論文」が収められている。

「三か村」と言われた北京の三人の文筆家はその後失脚し死に追いやられた。

今読み返してみると
「批判論文」というものの拙劣に驚く。
終始一貫これ「難癖とねつ造」だけで出来ていると感じる。

学術論文としてなら到底通用しないだろう代物だ。
これが文化を看板にしながら最初から最後まで政治闘争だったことの証となっている。
政治論文がこれで良いという訳はない。

だが政治論文が政治的道具であることは紛れもないことだし
目標を批判することに機能があることも事実だ。
機能が優先され事実や真実が踏みにじられていても通用したのはなぜか。

論文外の権威の体系が作り出している文脈がそれを正当化していったからだ。


今回の中国の動きをあの頃と単純に重ねるわけにはいかないが
<政治的文脈>が貫徹するか
論争で決着がついてゆくか。

今の中国指導部の理論的政策的能力と組織運営の実力がここで見えてきそうだ。
党と政府と軍という体系の中で何が問題解決の決め手となっていくか、そこに着目して
経過を見つめることになろう。








2010年10月28日木曜日

夜道を帰る


          愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼、
          やかましいシンバル。 コリント書13:1


ぼくらは毎日大抵は
銅鑼やシンバルなのかもしれない。

自分ではやかましさに気が付かない。
わわしさに紛れている。

騒ぎながら楽しみにふけり、
虚しさを膨らませている。
それが何処ではじけているのか
知らないままだ。

風刺画そのものの我が人生を
秋風がはたはたはたと鳴らせて通る。

ぼくに一つだけ残っているもの。
この不思議なぬくもり。

これは
愛だろうか。
それとも
心惜しみ、執着の熾火なのか。

冷たい雨が履物を濡らす。
森が不意に投げた一瞥が撥ねて
眼鏡が曇る。

一夜で死んだ
たくさんの虫たちの骸。
穴の空いた栗の実。

無原罪のサンタマリアの膝の上で
息絶えたキリスト。
サンピエトロのピエタをみて
涙が止まらなかったあの頃
30歳の自分。

不信心者の信仰は
ただ愛だけ。

それなのに
曇り空の夕焼けのように
あっという間に
薄れて。

ぼくは途方に暮れて
起ち尽くす
森はずれの曲り道で。

濡れ靴が重い。
立ち止まって目を閉じて
見えない夜空を想い見る
万星渦巻くゴッホの糸杉の夜空を。

まだ道は
続いている
空までも。
ぼくは歩き続ける
小さなハートのままで。


*

2010年10月20日水曜日

無題  あるいは 66=33+33

熱帯夜に身を起こして

方形の薄闇 窓の方をみた


脇の下を伝う汗を感じながら

また目をとじると

大きな大きな夜空から

沈黙が下りてくる


何かが立ち去った

気配に

目を覚まし

それが何かを

言い当てるために

わたしはこうして 目をとじた


ことばでは言えず

足ではたどり着けない

場所へ

今さっき立ち去ったもの

それを

わたしは煙のように 追う



行かないでくれ!

と 叫んだ あの夜が

もういちど

深淵から漏れ出したように

あたりに広がってくる


みずの みずいろ

そらの そらいろ

彷徨うて 行くよ


と歌った

むかしのぼくの影が

駆け上った空

どこに

その透明な蝶は 舞うのか



泣くわたしのからだから

抜け出した百千の貴女のキスが

群舞する空は

どこ


裸足のくるぶしに

蛍ほどの灯り曳いて

亡者の貴女は

いまも居る

群星の映る水のそば


いつしか庭石に

腰を下ろして歌っている



33 たす 33

それは わたし


いちど死んで

同じだけ

もういちど生きた


立ち去ったのは

それは

わたし


残されたのは

ゼロ


66 たす ゼロ

ゼロになった

わたし



汗にまみれた

裸のこころ


生まれたばかりの

しろねずみ………




*


2010年10月15日金曜日

訃報が重なるものだ

この17日に歌人河野裕子を偲ぶ会が京都であることになっているが、
同日に葬儀があると知らせが入る。
弟の家で嫁の母が亡くなったのだ。そちらへ行くことになった。
そういうめぐり合わせと思うほかない。
いつか裕子さんのことを聞けることもあろう。

弟のところでは彼の義母さんは静かに逝かれたとのこと。
この厳しい夏に力を出し切って乗り越えたが燃え尽きるように亡くなった。
ほかにもそのように亡くなっていく人があることだろう。



河野裕子さんが亡くなった。
八月の十二日のことだった。

またひとつ、ぼくとこの世界を繋ぎ止めている糸が切れて
また一入ぼくの影は軽くなる。

 ――去年だったか一昨年だったか、
    正月の宮中歌会始めの詠進歌選者として顔を見せていたのを
    安堵と戸惑いをもって眺めたのを思い出す。

訃報を知って以来ずっと考え続けているのだ。
ひとに割り振られたいのちのふしぎを。

ひとりの死の乗り越えがたい大きさを
とぼとぼと孤独に越え振り向けば
もう三十年の歳月が風になって流れていた。

いままた裕子さん、貴女も死んで
ぼくの地球はまた少し小さく狭く軽くなったのだ。

ひとのブログには
11月号の文芸春秋に娘の紅さんが
最後の日々をも歌を作り続けた母との日々を綴っていると
書いている。

http://www.bunshun.jp/mag/bungeishunju/index.htm
月刊雑誌を読まないぼくでも書店の店頭で見かけるが
今月号は「医療の常識を疑え ―安心立命のための最新医学大辞典」
という特集であった。

その特集の中に

アガワのガハハで乗り切る更年期障害
阿川佐和子 間壁さよ子(神田第二クリニック院長)

逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅
とが
挟まって収められてるのだという。

なんということだ。



NHKの論説委員が放送で子規の命日を語り末期の目で写実を続けた子規の回天のことばを取り上げたあと河野裕子の最後の日々に読まれた歌にそれを踏まえた一首があることにふれていた。




http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/61911.html
悟るというのを平気で死ねることと思ってきたが
本当は悟るというのは平気で生きていくことができるということだと。

子規は偉いひとだ。

詩人というものはどうかすると
まるであの世があるみたいに向こう側からこちらを見てしまう。

あの世などあらざるゆゑにこの世には檜扇(ひあふぎ)水仙朱く咲くなり

ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく

貴女は万物と息を合わせ息づくひとだった。

逝ってしまったのだね。

貴女とぼくの共通の「もちもの」
死者の記憶。

里子さんが死んで二十五年、と添え書きして

死の後(のち)もつづく約束 女子大の坂の勾配がゆるく目に来る

約束はとても悲しい 私だけが守って果たしてそれからが無い

約束の時間のあらぬこの世には昼の陽が射し梅が咲きをり

約束を守って貴女は歌詠みの道を歩き通した。
そして逝った。

ぼくは貴女を悲しまない。
生ききった貴女は
みごとな生きている言葉の花園を残したのだから。

さようならも言わずに置こう。

京大病院への通院の帰りに立ち寄る
三月書房。

貴女も何度も立ち寄った書店で
貴女の六年前の歌集「庭」を買った。

それをゆっくりゆっくり、読んでいく。

貴女の中に生きていた かわのさとこや
貴女たちの青春からの

こだまを

歌集の中に探して
ぼくは さまようことにしよう。

夕日に肩を照らされて
暮れかかる奈良に帰り着いたことに気付く。

ぼくの地球はたしかに
すこしく軽くなりはした。

だが気づいたのだ。
ぼくの 思い出の世界は
以前より重くなったと。